目の前で繰り広げられる光景に、ヨンは丸い目をさらに大きく見開き、しばしそこから視線が離せなかった。
地方の税務署で働くファン・ドンジュもオ・ヨンも昔とは違い息を吐く間もなく仕事が押し寄せてくるので月に一度でも会えれば良い方だ。
金曜の夜、少し疲れた顔をしたドンジュがはるばるソウルへとやって来たのは勿論ヨンに会うためだった。
ずっと前から会いたいとメッセージを送ってはいたがなかなかタイミング合わずようやく約束を取りつけた。
ヨンが指定した店で待ち合わせをし、数か月にぶりに見るヨンは相変わらずでドンジュの顔を見るなり少し気難しそうに眉を寄せた。
「何です?」
「……少しやつれたか?」
「え?」
「疲れた顔をしてるな。無理しなくてもいいと言ったろ」
スタッフに案内され店の奥へと歩きながらヨンが言った。
「局長は僕に会いたくないんですか?」
「……そうは言ってない」
「僕はあなたに会いたくてたまらな……っ」
ドンジュが皆まで言う前にヨンが手荒く肩を小突く。
「ここを何処だと思ってる」
個室に通されたものの、公衆の面前であることは間違いない。
あわや告白めいたドンジュの台詞にヨンは頬が熱くなるのを感じながら、年下の恋人を睨みつけた。
「あはは」
乾いた笑い声にヨンは溜息を吐いて「ばかか」と呟く。
テーブルに次々と運び込まれたのは馴染みのある一般的なメニューばかりだった。
「ちゃんと食べてるのか」
食欲をそそる香りと鮮やかな品々にドンジュの目が輝いたように見える。
会計士から(末端の)国税庁職員、そして地方公務員へと給料は減少の一途を辿っているに違いない。
扱いに困るような高級料理より食べ慣れた食事の方がいいだろうとヨンは仕事の合間を縫ってかつての部下たちにお勧めの店を尋ねていた。
真っ先に返事を寄越したヘヨンが提案した店がここだったのだ。
リーズナブルでお腹いっぱい食べられますよ!と彼女らしい理由に思わず笑みが零れる。
5局の面々で飲みに行った時のヘヨンの酒癖の悪さに辟易したのが昨日の事の様で懐かしく思う。
焼酎を煽りながらドンジュを見遣ると、男は黙々と目の前の料理を口内に詰め込んでいる所だった。
「……ゆっくり食えよ」
あまり見た事の無い姿にヨンはしばし目を見開いてドンジュを見た。
「最近忙しくてろくな食事ができたなかったから」
ドンジュが言う。
5局にいた時もそうだった。何か大きな案件を抱えると寝食を忘れて没頭してしまう悪癖がある。
「お前、まだそんな生活してるのか」
「前より随分ましになりましたよ」
説教モードに入りそうなヨンを宥める素振りをしながらドンジュが笑った。
「周りに迷惑かけてないだろうな」
「大丈夫です、多分」
そう言いながらも箸を運ぶ手は止まることは無い。
「まったく」
「局長も食べて下さい」
「ああ」
幸福感のにじみ出ている食べっぷりに、ヨンはここへ連れてきて正解だと思いながら自分も少しずつ料理に箸をつけた。
しかし。
スプーン一杯にご飯を掬い、その上におかずをのせ頬張りながらスプーンに残った米粒をもすかさず拾うのをわすれない。
ふっくらと厚い唇が開き料理を招き入れ咀嚼する。忙しなく上下する喉や紅潮した頬。眉間に寄った皺。
ヨンはドンジュの仕種に魅入られたようにじっとその姿を見つめていた。
食事をしているだけなのだが、変な空気に飲み込まれそうになる。
食欲と性欲は密接な繋がりがある。どこかでそんな一説を目にした気がするとヨンは不意に思った。
相手を満足させてやりたいという思いが影響しているのだろうか。
真っ赤なチゲを掬い啜っているドンジュの唇はさらに赤く鮮やかだった。
ヨンはほぼ無意識で手を伸ばすと、ドンジュの襟元を掴みぐいと引き寄せた。
「うえっ!?」
カラン、とスプーンがテーブルに落ちる。
驚いてヨンを見る年下を他所に、ヨンはそのまま顔を寄せ、ドンジュの下唇を軽く甘噛みした。
「!」
ぱちくりと何度も目を瞬かせながらドンジュは無言だったが、ヨンの表情を見ると無邪気な顔から一転して悪戯めいた眼差しを向ける。
「局長」
「あ、い、いや……今のは、なかった事に」
「できるわけないでしょ」
「う……」
我に返ったヨンがあたふたと視線をさ迷わせていると、ドンジュが自分の服を掴んだままのヨンの手を握り返した。
しっとりと汗ばんでいて温かい無骨な指を絡めとる。
「何か刺激しちゃいました?」
「……」
ヨンが顔を真っ赤にしてふいと視線をドンジュから反らす。
酒豪のヨンにしては今日はまったく酒が進んでいないから酔っているわけではない。
「もう出ましょうか」
「ドンジュ?」
くすりと笑って声を潜めるドンジュにヨンが訝し気な顔をする。
「続きは局長の部屋がいいな」
「何……?」
「どんなに食べてもあなたに触れられない限り、僕は満足なんてできませんから」
親指でヨンの手を擽ると、びくりとその身体が跳ねる。
「局長、自分の顔すごくやらしくなってるの知ってる?」
「や……っ、な、んだと」
指先に口付けられ、ヨンは耐え切れずその手を振り払った。
「デザートはあなた、って表現超ダサいですけど、僕の今の心境です」
「バカみたいなこと言うな!」
ろくに食べてもいないヨンだったがすっくと立ちあがり個室を後にする。
羞恥に赤く染まる耳や首筋が堪らない、とドンジュは身体の奥が飢餓感に喘ぐのを感じた。
さっさと店を出てしまったヨンを慌てて追いかけると、すでに男はタクシーの中から窓の外を見ている。
自分から仕掛けたくせに、相手が乗ると怖気づいて逃げてしまう。
「可愛い人だな」
ドンジュは心の底から満足げな笑みを浮かべ、
「さ、行きましょ」
と無遠慮にヨンの隣に腰掛け気難しくも愛おしい想い人の代わりに行き先を告げた。