男には密かな楽しみがあった。
「よお、ソンシク」
大柄な体躯を屈ませ、イ・ジャンギルはニヤリと口元を綻ばせた。
漢城冷蔵の中庭にはどこからやって来たのか分からない野良猫が出入りしている。
にゃあ
傷一つなく磨かれた革靴にすり寄っているのは少し痩せた一匹の黒猫だった。
ジャンギルがつま先を動かせばたちまち逃げて行きそうだが恐る恐る様子を伺いながら、硬く艶を帯びたそこへ頬を擦り付けていた。
(ほんと、誰かさんにそっくりだな。)
ジャンギルはそっと指先で猫の額を擽った。
びくりと身を竦ませたが男が何もしてこない事がわかっているのか、逃げる事はしなかった。
ジャンギルがこの猫見つけた時は今よりももっと痩せこけていて警戒心の塊のような眼をしていた。一歩踏み出そうものなら数メートル先でもぴやっと飛び去る勢いだったのだ。
怯える眼と逆だった真っ黒な毛並みに、その時なぜだか小生意気な後輩が思い浮かび、それからというもの放っておけなくなっていた。
猫はどうやらビスケットは好みではないらしく、匂いを嗅いだだけでふんとそっぽを向いてしまう。ビスケットを目の敵にするあたりもそっくりだと無意識に笑ってしまい、その眼差しが酷く優しい事を知る者は誰もいない。
「ソンシク」
ジャンギルがそう呼ぶと、猫は待っていましたと言わんばかりに走り寄ってくる。
偶然その場に居合わせたユ・ジュンウォンは目を丸くしたあと口を歪めて、
「本物が怒り狂うな」
と笑った。
「だってそっくりだろ、あいつに」
ジャンギルは言う。気が小さいクセに先輩に楯突いたり、小言を言ってきたりする部下を思い浮かべた。
ここに入って来た頃は痩せっぽちで頼りなかった男は最近少しは使えるようになってきたらしい。
この猫のように気を許したかと思えば時に爪を立ててくるのが面白くて可愛いとさえ思ってしまっているので手に負えない。
「可愛いヤツだね」
手のひらに収まるほど小さな頭を撫でる。ガサガサだった毛並みも質の良いキャットフードのおかげで今や艶を増して滑らかだ。
ごろごろと喉を鳴らしはじめた黒い塊をこねくり回していると、
「先輩、野良猫にエサはやらないでくださいって言いましたよね!」
と威勢の良い声が投げかけられた。
「なんだ、お前も撫でてほしいのか?」
目を細め仁王立ちする本物のオ・ソンシクを見上げると、男はみるみる顔を赤らめて
「ば、からかわないでください!」
と肩を怒らせる。
「ちゃんとビスケットじゃなくてキャットフードをやってるぞ」
「そう言うことじゃなくて………」
ソンシクが猫を一瞥してわずかに眉を下げる。
分かっている。
愛おしい存在が増えるだけ別れが辛くなる事など百も承知だ。
ジャンギルが立ち上がると猫はソンシクの存在に驚いたらしく慌てて走り去って行った。
「怖がりなところはお前そっくりだ」
「僕のどこが………」
「そうやって強がるところもな」
「なっ……」
二の句が継げないソンシクをよそに、ジャンギルは毛を逆立てた部下に歩み寄ると、後頭部を引き寄せそのまま口付けをする。
「へ……?」
「俺にはお前だけで手一杯だよ」
ニヤニヤしながらソンシクを見るとそこには随分と呆けた顔があった。
この腕の中の大きな猫が怒り出す前に退散しよう。
ジャンギルはソンシクの柔らかな黒髪を指先に絡めながら笑った。