家においでよ「うちに、来ます?」
「え?」
退庁間際、局長室に書類を渡しに来たドンジュがボソリと呟いたのをヨンは聞き逃しそうになって、思わず間の抜けた声を上げた。
「来ませんか?」
「ああ……そうだな」
お互い書類の端と端を持ったまま繰り返される問答は傍から見れば滑稽だろう。
人のパーソナルスペースには土足で上がり込むクセに自分の事となると干渉されるのを嫌がる男が誘っている。
幾度が瞬きを繰り返し、ヨンはドンジュの言葉を反芻した。
「家に来いって?」
言ったよな。
念のため確認すると、男は少し不服そうに頬を膨らませた。
「嫌ですか?」
「い、いや……別に」
外で食事をすることはあっても互いの家の行き来はしたことがなく、ヨンが驚くのも当然だ。
「釈然としない顔ですね」
「まあ、驚いてるよ正直。お前がそんなこと言い出すなんて」
書類を受け取り、トレイに乗せながら、ヨンが素直に頷いた。
「どういう風の吹き回しだ?悪いもんでも食べたのか?」
PCの電源を落とし、ハンガーからジャケットを外しながら冗談めいた眼を向けるヨンにドンジュは肩を竦めて、
「大事な人を誘いたいって思うのは当然では?」
「うぅ……」
しれっと言うものだから、ヨンは思わず視線をずらし、口ごもった。
「ずっと考えていたんですけど、なかなかタイミングがなくて。あなたもなかなか家に来たいって言わないから……」
「わかった、わかった!それ以上言わなくていい!」
何で自分が悪い感じになっているのか。それに恋人同士のような会話に(間違ってはないが)ヨンの頬が熱くなる。かあっと熱が走る感覚に、まだ何かを言わんとするドンジュを制し、ジャケットに袖を通す。
「まったく、何なんだ……」
ふうっと息を吐いて下唇を噛む。
ドンジュは恥ずかしげもなく、キョトンとした顔をしている。
「ほら、行くぞ」
「はいはい、行きましょ」
コートを着込み、二人は局長室を出た。
退庁時刻はとっくに過ぎているが、働く部下がまだ多く残っている。ヨンは彼らにねぎらいの声をかけながらも複雑な表情で部屋を後にした。
雑居ビルの外は冷たい風が吹いていて白い息が流れていく。
「何か買い込むのか?」
「宅配を頼んでます。もう置いてあるかな」
「準備がいいな。俺が断ると思わないのか」
「断らないでしょ?もし僕が誘われたとしても断るはずがない」
ドンジュが笑う。
人の心を見透かしたような言い草だ。強ち間違いでもないのが余計腹が立つ。
「むかつく」
「ふふっ」
宿舎までは遠くない。賑やかな雑踏を肩を並べ歩いていく。近況を報告しあっているうちに到着してしまった。
宿舎ということは顔見知りが住んでいる可能性があるということだ。
部下の部屋に行くのはおかしいことではない。食事に誘われただけ。
ヨンは階段を上っていくにつれ、手のひらに汗をかくのを感じる。
「驚いたんですけど」
「ああ」
「僕の隣、ソさんなんですよね」
「ああ……はぁっ!?」
「最初彼女にはすごく怪訝な顔されて、偶然だって言って納得してもらうの大変でした」
ドンジュが笑いながらヨンを振り返るが、
「局長?どうしました?」
ヨンの足は数段下で止まっていて、目を見開いたまま呆然とドンジュを見上げていた。
「ヘヨンが、隣だと?」
「ええ。あっ、別に彼女と何か交流があるわけじゃないですし、家に上げるのは局長が初めてですよ」
「外で、食うか」
踵を返して階段を降りようとするヨンをドンジュが慌ててその腕をつかんだ。
「急にどうしたんですか」
「聞いてないぞ」
「ソさんの事?言ってないですもん」
「出くわしたらどうするんだ」
「どうって、別に5局のチーム長の僕が局長のあなたを家に誘っただけの事。やましい事じゃない」
そこまで言って、ドンジュはヨンが何故固まっているかピンと来たらしい。ヨンの一段上まで戻り、耳元に顔を近づけ、
「もしかして、やましい事を想像してたんですか?」
くすりと笑う。
「このやろう……!」
大きな声も出せず、ヨンは顔を真っ赤にしながらドンジュの足を踏みつける。
「いたっ!なんですか、もう」
「知るか!」
「わーっ待って、話を聞いてください!ソさんは今5局の人たちとご飯を食べに行ってるはずだからいませんよ」
ドンジュの手を振り払い、いよいよ帰ろうとするヨンの背に声をかけた。
その瞬間ぴたりと止まる体に笑いを隠せない。
「だから、あなたを誘ったんです。きっと気にするだろうと思って」
「……」
ヨンは何も言わずそろりとドンジュを振り返る。
「すみません。からかいすぎました。寒いですから、早く入りましょ」
「……ああ」
一回り以上年下の男に振り回され、恥ずかしいやら情けないやら。ヨンはきまり悪げに目を伏せ、頷いた。
それでも帰らず自分の後をついてくる年上の男がたまらなくかわいいとドンジュは思う。
「さ、どうぞ」
ワンルームの質素な部屋に通され、ヨンは周囲を見回しながらコートとジャケットを脱ぐ。部屋の隅のデスクには車の模型。中央のテーブルにはジェンガで組まれた城のようなものがあった。
狂気すら感じるがそれほどの執着心と復讐心で生きているドンジュが心配にもなる。すべてがうまく解決した時、もしくは最悪の結果になった時、彼の心は無事でいられるのだろうか、と。
冷静な瞳の奥は深い闇のようだといつか感じたことがあった。
「ちゃんと生活できてるのか」
「ちゃんと生きてるでしょ?」
ドアノブに引っ掛かっていた宅配の袋をキッチンで広げながらドンジュが言った。
「空いてるところに座ってください」
「ん」
ヨンは崩れそうな城を避けるようにソファに腰掛けるが、今更になって胸がざわめくのを感じる。
居たたまれないというか、据わりが悪い気がする。要は緊張してきたのだ。
たかが部下の部屋にきただけなのに、ドンジュの心に入り込んだ気がして落ち着かない。
自分だけが知っている場所。憎からず思っている男の部屋。
「お酒は何にします?ウィスキーと焼酎、ビール……」
「焼酎」
「はい」
頼んだものをレンジで温めている間に、焼酎の瓶とショットグラスをテーブルに置いた。
すぐさまヨンが蓋を開け手酌で一気に煽る。
「局長、もしかして緊張してます?」
ドンジュの指摘にヨンが小さくむせた。口に手をあて咳き込む姿に眦が下がる。
「そんなわけない」
「顔、真っ赤ですけど」
「それはむせたからで」
「そんな緊張しないでください。取って食うわけじゃなし」
「だからしてないって言ってるだろ」
2杯目。食事が出るまでに一瓶空きそうだ。
「かわいいなあ」
ドンジュが温まった食事をテーブルに置き、自分にはウィスキーを注いだ。
「誰に言ってる」
「局長ですよ。オ・ヨン局長」
「はっ、目が腐ってるんじゃないのか」
3杯目。誰かが局長は酒が強いと言っていた。
だが、酔えない理由は他にあるようだ。ヨンの機嫌を損ねないように、口元に笑みを隠すと、
「ま、乾杯しましょ」
「ん」
乾杯。二人で口を揃える。
何にも邪魔されない穏やかな時間。
「局長」
「なんだ」
「僕は緊張してますよ?」
「なんだ、急に」
ちびちびと食事に箸を伸ばすヨンの手を取り、ドンジュが言った。
「5局を出た時からずっと」
「あなたに帰られないように引き留めるので必死だった」
箸を取り上げ、テーブルに置く。
「何だかんだ言いながらこうやってここにいてくれる」
「酔ったのか?」
二人の距離がぐんと近くなる。
焼酎を一瓶空けてもヨンの意識ははっきりしていた。そしてドンジュも素面同然のはず。
「ねえ、僕の部屋に来てどうです?」
「ドンジュ」
「正直なところ、僕はこのあとどうしてやろうかと考えています」
鼻がくっつきそうなほど近くなって、ドンジュは言った。
「どういう、意味……」
意味なんて。わからないほど初心な人間ではない。
ヨンはドンジュの胸を優しく押し返そうとするが、頑なに動かなかった。
「獲物を狩る虎の感情が分かる気がする」
一気に食らうのもいいが、弱らせたところをがぶりといくのも悪くない。
「食事、するんだろ」
ヨンが居心地が悪いのか目を伏せる。長い睫毛が透けて見え、色っぽい。
「ええ」
「なら、離れろ」
「ええ、でももう少し」
ドンジュが指先でヨンの頬に触れた。心地よい熱が伝う。
「ドンジュ」
ヨンの声は緊張と不安と羞恥に揺れていた。そこに少しの期待もあるのだろうか。
「緊張してます?」
さらに顔を近づけるとヨンの喉が鳴った。
「誰が……するか」
「ははっ、最高」
笑った勢いのままにドンジュはヨンに口づけた。
「このあと、どうします?」
精悍な眼差しにヨンはただ目を瞬かせることしかできない。
ドンジュの厚みのある真っ赤な唇がゆっくりと弧を描くのをぼんやりと見つめていた。