「兄さん、将軍の様子が変なの」
朝早くデスンの支度に向かったソランが血相を変えて兄のオチョクの元へ駆け寄って来た。
「何だって?」
朝の修練中だったオチョクは妹の囁きにぴたりと動きを止める。
「変って、どういうことだ?」
そばにいたキム校尉が訝しげに尋ねるが、ソランの言い様は的を得ず、良く分からない。
「とにかく変なのよ、将軍なのだけど、将軍では無いみたい」
まるで、子供のようだ、とソランは言う。
「子供だって?馬鹿言うな」
オチョクが笑った。
それでもあまりに彼女が青褪めているので、ただ事ではないのは確かなようだ。
ソランとキム校尉、オチョクの3人が確認の為にデスンの私室に向かう。
「将軍」
ソランが声をかけると、寝台に腰掛けたままのデスンがオチョク達を見て、ぱちぱちと大きな目を瞬かせた。
「将軍……?」
何とは言い難いが確かにデスンの様子は妙であった。
「何をしている、はやく着替えさせてくれ」
呆然と立ち尽くしている男たちを見て、むっとした口調でデスンが言う。
何時も部下の手を煩わすまいと何でも自分でしてしまうデスンが着替えをさせろと言っているのか?
戸惑いの表情を浮かべる兄妹だったが、キム校尉だけは目を見開き肩を震わせていた。
「わ、若様……?」
「キム校尉?」
キム校尉までおかしくなったか、とオチョクがぎょっとして振り返ると、彼はふらふらとデスンに近づき、その足元に跪いた。
「キム校尉」
恭しく腰を折る男にデスンは嬉しそうに顔を綻ばせると、ゆっくりと立ち上がり、おもむろに夜着を脱ぎ始めた。
何だか目のやり場に困る……。
デスンの着替えなど見慣れたはずの光景だが、言動があまりに普段と掛け離れているため、戸惑いを隠せない。
「若様こちらを」
上半身裸になって棒立ちになっているデスンにキム校尉は側に用意してある韓服を慣れた手つきで丁寧に着せていくではないか。
「キム校尉……これはどういう事です?」
オチョクが問いかけると、
「私にも分からないが、将軍はまるで昔に戻られたようだ」
「昔ですって?」
「ずっと昔だ。まだ幼い頃の様子によく似ている」
「幼い?」
「ああ、あの頃……若様はまだ奔放で屈託なくよく笑うお子だった」
キム校尉が懐かしそうに目を細めながら言う。
一頻り支度が整うと、デスンはにこりと笑い、
「オチョク、手合わせをしよう」
呆然とする男の手を取った。
恐れ多い主の手の温かさに我に返ったオチョクは見慣れないデスンの笑顔に顔を赤らめる。
「し、将軍……お手を」
「私に手を握られるのが嫌か?」
「とんでもない!わ、私などには勿体ない……」
恐縮しきりのオチョクにデスンは変な奴だなとくすくす笑う。
夢を見ているのではあるまいか。この場にいる誰もがそう思った。
デスンの無垢な笑顔などついぞ見た事が無く、キム校尉が言うように本当に子供に戻ったかのようだ。
「いかがした?」
ふらりと立ち寄ったトゥドゥル法師を捕まえ問い詰めても欲しい答えは返ってこなかった。
「ふむ……私も見た事がないが……ここの所将軍は心休まる日が無かった故、心が壊れかけているのやもしれぬな」
神妙な顔をして法師が言う。
「我々に出来る事はなかろう。ただ将軍が心穏やかに暮らせることができれば元に戻る事もあろうよ」
チョン・ギュンや、ホ・スン、イ・ウィミン、そして王室……彼を悩ませる理由は数多ある。
心労が極まってこのような現象が起きたとしても不思議ではないのかもしれない。
悩みの無かった子供の頃に心が逃げてしまったのだろうか。
キョン・デスンという男がいかに大きく重い荷を一人で背負って生きて来たか。皆言葉を失い悔し気に唇を噛んだ。
それからというもの取り巻きの男たちにとって、戸惑いと動揺の日々が始まる。
法師が言う「赤子返り」状態のデスンは情緒不安定になる事が多く、天真爛漫に笑う事もあれば、ふとした時にぼろぼろと泣き出す時もあった。
わたわたと主をあやす姿は子守りそのもので、特にキム校尉はせっせとデスンの世話を焼き、何だか嬉しそうですらあった。
ある夜、風が強く吹きすさび遠くで雷鳴が轟く中、デスンの私室の前で寝ずの番をしていたオチョクの背に控えめな声がかけられた。
「オチョク」
「将軍?」
怯えたような声音にオチョクが慌てて中に入ると、寝台の隅で身を縮めるデスンの姿が飛び込んで来る。
「どうなさいました」
「……オチョク、オチョク……」
怖い夢を見た、と消え入りそうな声に男は寝台に腰掛けると震える背を優しく撫でる。
「私がそばにおります」
「ああ……」
激しい雷の音に肩を跳ねさせ、デスンは増々オチョクにしがみつく。
真っすぐに伸びた凛とした背は今はとても儚げに感じられた。
敬愛と思慕の念をデスンに抱いているオチョクにとって、温かな身体がぴたりと寄り添うこの態勢はいささか戸惑いが大きい。
大きな瞳から溢れそうな涙が蝋燭の灯りを映し煌めていて不埒にもきれいだと思ってしまう。
「うう……」
ぎゅうとオチョクの上衣を握りしめるデスンをどさくさに紛れてそっと抱きしめ返す。
「将軍」
「オチョク……」
「ご安心ください。ずっとここにいますから」
男二人が寝転ぶには狭い寝台だが、デスンはオチョクから離れようとはしなかった。
風が戸を叩きやがて雨音が響き始めた。
以前のデスンに戻ってもらいたい反面、あまりに幼く純真な姿も惜しいと思ってしまう自分の業の深さにオチョクはそっと溜息を吐く。
しかしさあさあと静かな雨は次第にデスンの心を落ち着かせていったようで、やがて小さな寝息が胸に当たり始めた。
「俺は駄目な奴です」
デスンの身体が冷えないよう、上掛けを掛けながら男は呟いた。
「貴方様が苦しみにあえいでいるいるというのに、俺はそんな姿を愛らしいと思ってしまう」
デスンの手をとり、オチョクはその指先にそっと唇を落とした。
一生口にするつもりは無かった。してはいけないというのに。
その衝動を後悔する間もなく、オチョクも腕の中のぬくもりに誘われるように深く眠りに落ちてしまった。
翌朝、様子を見に来たソランとキム校尉が寄り添って眠る二人を見つけ、寝ずの番を放棄した事とおいそれと主君に触れた事に、若干の嫉みを含みつつ怒られるオチョクが目撃されるのはまた別の話。