比翼連理 突然だが、吸血鬼の死因でいちばん多いものをご存知だろうか。
この物語に登場する吸血鬼達は、不老ではあるが不死ではない。故に長い歴史を紐解けば死亡例もそれなりに存在しているし、長寿種族の不謹慎ジョークのネタとしても重宝されていた。
閑話休題。先ほどの問いの答えは単純で「自殺」である。
吸血鬼は老いを知らない。怪我も直ぐに治り、外敵と呼べる存在もほぼ居ない。故に、永い永い年月を生きることになり、そしてその永すぎる己の生に絶望したもの達が最期に選ぶのが、自死なのだ。
さて、ここに独りの吸血鬼がいる。彼はもう永い年月、本人が数えるのをやめて何百年経ったのか分からないほど、永い時を生きる男である。
彼は己の治める世界を、昨日と変わらずに維持するために日々同じような仕事を、ひたすら、ひたすら、ひたすら繰り返していた。
辛い、とは思わない。誰かがやらなければいけないことだからだ。
面倒臭い、とも思わない。なぜなら吸血鬼にしては、その男はあまりにも遊びがない、真面目な男だったからだ。
もう自分が半ば歯車になって、自分の領地とされる土地を管理することを受け入れて、気が遠くなるほど時は過ぎた。
別に独りと言っても、友が居ない訳では無い。同じ様に長生きをしている他種族の長や、死の概念そのものである死神やら、元々死体が蘇ったフランケンシュタインの怪物やら。その孤独を慰めようと思えば、相手がいない訳では無いのだ。
しかし。
ある意味、全く同じ視座を持つ生き物──自分と同じ種族、同胞である吸血鬼は、いつの間にか周りには居なくなっていた。それが自死か、それとも誰かに害されたのか、それは男には分からない。
ただ分かるのは、自分の世界は今後も広がりはしないだろうし、真の意味で孤独が満たされることはないのだろう、という事。
辛くは無い苦しくは無い、それが当然だからだ。だから、今日も同じような仕事をして、たまに気晴らしをして、そして同じような仕事を繰り返すだけだ。
そう男、クニミツと呼ばれる吸血鬼はずっとそう思っていたのだが。
その館は、男の領地とされる場所の中でも一際辺鄙に位置する、古びた、それでも格式の高さを感じさせる、大きな屋敷であり、男の城でもあった。クニミツはここで支配者の真似事をし始めてから、千年以上もここで一人で暮らしていた。
カタ、と食器とナイフが軽くぶつかる音が広い部屋に響く。来客が何人も席に着けそうな長いテーブルに、クニミツは一人座り、無言のまま丁寧に肉を切り分けて、それを口に運んでいく。クニミツが起きて、夜一番にすることは、こうして食事をする事だ。
吸血鬼は極論血だけ飲めば十分生きていけるため、こうして食事をすることはほぼ趣味のようなものだったが、かつての人間時代の癖が抜けず、ずっと同じことを繰り返している。
食事が終われば、次は執務の時間になる。
身支度を整えた後、食堂から廊下に出て、赤いカーペットを踏み締め、執務室に続く長い廊下を歩いていく。これが毎日のルーティンであり、何も変わらない日常と呼べるものだった。
突如クニミツは立ち止まる。
そのまま勢いよく振り返り素早く空中に手を伸ばした。ぱんっと音が響いたと思えば、その白手袋をまとった左手には小さなコウモリが握られていた。
キューキューと、クニミツの手の中で鳴き喚くその声は、離せ離せと言わんばかりの警戒音を出す。じたばたと自身の手の中で何とか藻掻く小さなコウモリを、クニミツはため息一つ吐いて、解放してやった。
「っ、はぁ! なんで気づくんだよアンタは! 絶対後ろを取ったって思ったのに」
そこには悔しそうな表情を浮かべて、クニミツを睨みつける、小柄な少年の形をしたものが、そこに居た。
シルクのシャツを纏い、赤ワイン色のベストに、短いズボンを履いた少年の姿だけなら随分と上品そうに見えるのに、少年が浮かべる表情は敵意と屈辱のみで構成されていた。
紛れもなく、この少年は「クニミツを害そうと、襲いかかってきた侵入者」なのである。
「何度同じ事を言わせる? まず屋敷に入ってきた時点で、俺はお前の位置を把握しているし、攻撃時も羽音が完全に消せていなかったぞ」
あれでは下級悪魔さえ倒せないだろうな、とピシャリと言い放てば、少年の表情は更に歪んでいく。全く懲りないものだ、と呆れ返りながら、クニミツは少年に背を向ける。
待てよ、まだ終わってない、と吠える少年に、背を向けたままこう返した?
「犬死したいのか? 俺を倒したければ、もう数百年鍛錬を積んで出直してこい」
そのまま、男は靴音を鳴らしながら、再び歩き始める。執務室に入る前に、チラリと廊下の先を一瞥すれば、そこに少年の姿は無い。
クニミツは関心を失ったかのように、また国を回す歯車として、執務室へと足を踏み入れていた。
クニミツの目の前に現れるあの少年の名前を知らない。
何故かクニミツの命を狙い、度々攻撃を仕掛けてくるが、その度にクニミツにあしらわれ続けている、若い吸血鬼。
その程度のことしか、クニミツは分かっていないし、それ以上のことを知ろうとする為のアクションは今の所起こしていない。
命を狙われていると言っても本鬼は大した脅威として認識していないし、あの若い吸血鬼が自分を凌ぐ可能性が生まれるとしても、それは少なくとも数千年後の話だろう。
よって、クニミツとって彼は脅威ではなく、たまに屋敷に入り込んで悪さをする、イタズラ好き妖精と同じような存在だった。
変わり映えしない生活に、ほんの少し不確定な要素が絡み出しただけ、とクニミツは思っていたが、なにぶん命を狙われるのも久方ぶりなので、少しだけ楽しんでいる自分に気がつく度に、言い表しきれない感情を持て余すのだ。
「なぜ俺を倒したい?」
今日も今日とて返り討ちに合い、ぐったりと赤ワイン色のカーペットの上で転がる、若い吸血鬼に声をかけた。普段ならそのまま執務へ戻るのだが、真面目な男にも気まぐれという概念はあるのだ。
話しかけられたことに驚いたのか、小さな吸血鬼はぱちぱちとその琥珀色の瞳を瞬かせる。すぐに済ました表情を取り繕って、気だるそうに立ち上がった。
「俺より強い奴を倒したい、それに理由なんてないよ」
「血気盛んだな。俺の若い頃とてそこまで好戦的では無かったぞ」
「誰彼構わずこんなことしてる訳じゃないし。アンタを倒したいんだよ俺は」
「……。お前と過去に何かしらの因縁があるというのか?」
「さぁね。あったとしても覚えてないなら意味無いでしょ」
でも、と少年は強い光を宿した目でクニミツを睨みあげる。こんな目を向けられるのも久しぶりだな、とクニミツが悠々と構えていると、ちぇっ、と少年は吐き捨てて、勢いよくマントを翻した。
「今度こそ一撃入れてやる」
捨て台詞を一つ残して、次の瞬間には少年の姿は完全に消える。男の館は再び静寂が支配した。
クニミツは顎に手を添えて、考え込むような体勢になる。理由は無いと本鬼は言っていたが、とは言え何かが引っかかる、と思うのだが先程と同じく特に思い当たる節がある訳でない。
ただ、あの満月のように爛々と輝く瞳だけが、クニミツの脳内にぽっかりと浮かんでいた。
夢を見た気がする。
まだ己が若かりし頃、世界をひたすら放浪していた時期の色褪せた思い出がスライドショーのように頭を駆け巡る。
砂漠、森林、海辺、山岳、氷雪地帯。様々な場所を、クニミツは歩き回った。あの頃はひたすら時間をもてあましていたから、動かずにらいられなかったのだ。
結果的に友と呼べる存在にも出会えたので、意味はあったし、心を慰めるような大切な思い出も生まれた。しかし、なぜ今更になって? と思っていると、その風景の中に見覚えのないものが混じる。
古い城の中を自分が歩いている。その背景は霧がかったかのようにぼんやりとしていた。 この記憶はなんだ? と手を伸ばそうとした瞬間、突然目の前が真っ白になった。
「うたた寝とは珍しいじゃないか、領主様」
はっと、我に返れば、目の前には大柄の男が楽しそうに椅子に座って相対していた。その男の皮膚はツギハギだらけで、額には縫い痕がハッキリと残っている。
その姿は紛れもなく、クニミツの友のひとりであるフランケンシュタインのサダハルであった。
「懐かしい記憶でも見ていた可能性、八十パーセント」
「そうだな。若い頃の懐かしい夢を見ていた」
「ふむ。お前が執務時間外とは言え、うたた寝をした上に、夢まで見ているだなんて」
最近お前が何かと変わった同族に絡まれて居ることにも関係があるのか? と興味深そうにサダハルは自前の古びた羊皮紙の束を取り出し、ペンを構える。
クニミツは先程まで寝ていた一人がけの使い込まれた本革のソファに改めて腰掛ける。
「さぁな」と一言だけ返し、サイドに置いたテーブルの上に置かれた水差しを傾ければ、磨きあげられたグラスに赤い血が注がれる。それを一口、含んで喉を湿した。
「全く、ここら辺どころか、この世界でも屈指の者であるクニミツ相手に喧嘩を売るなんて、リョーマも命知らずだな」
まぁそのおかげで久方ぶりにお前の情報を更新できてるから助かるけれども、と古びた羊皮紙にサラサラと何かを書き込んでいく、サダハルだったが、クニミツは前項の発言が引っかかったらしい。
「『リョーマ』? そうかあの吸血鬼はそんな名を持っていたのか」
「襲ってくる相手の名前すら今まで知らなかったのか?」
最近アイツは、ここら辺に居を構えたからちょくちょく交流する機会があるんだよ、とサダハルは楽しげに語る。
「いつの間に? 少し前に領地を見回った時はそんな話は聞かなかったが」
「はは、長寿種らしい発言だね。少しとお前は言うが、直近お前が領地を視察してから、もう十年は経ってるよ」
たかが十年かと思うかもしれないが寿命があるものにとっては、されど十年だよ、と言われクニミツは少し内省をする。
確かに最近は平和なこともあってか、領地を見て回ることが疎かになっていたな、と考えていると、サダハルは見透かしたかのように、まぁ、と口を開いた。
「頻繁にみて回る必要が無いと無意識に判断してるんだ、それはお前の統治が上手くいっている証拠だと思うよ」
「しかしな、実際俺の命を狙うような危険鬼が領地内に居るのは」
「あぁ、それに関しては心配しなくていいよ。彼、本当にお前しか興味が無いらしく、基本は無害そのものだ」
モモやエイジなんて、遊び相手が増えたと言って良く連れ回している姿を見かけるぞ、と余程その光景が愉快だったのか、サダハルの口元に笑みが浮かぶ。
「万が一にもお前が倒されても困るし、リョーマのやつが居なくなっても、悲しむやつも出てきてしまったからな。本来、王殺しは大罪だが……判断はお前に任せる」
そろそろ彼に情の一つや二つ、湧いてきている頃だと思うけどね、とサダハルが分かった風に言う言葉を、クニミツは否定することができなかった。
リョーマという名の吸血鬼の襲撃が始まってから、それなりに経っていたが、相変わらずクニミツに対して決定的な一太刀を入れる事は出来ていなかった。
クニミツは久しぶりに領地を見て回る。片田舎の水車が回るような農業地帯から、ある程度発展した都市まで、規模の差はあれど相変わらずクニミツが収める土地に住む住民は、穏やかな表情で毎日を過ごしていた。
たまに住民に話しかければ、領主様だ領主様だとあっという間に囲まれ、その度に時間を取られたものだが、それはクニミツの手腕の証明でもある。故に邪険にせずに、相手にしているとそれなりに時間がかかった。
想定していたより時間は掛かったが、クニミツは何とか自身の館がある、土地へと戻ってきた。
特に館周辺の住民は大なり小なり長い付き合いがある、様子見るがてら挨拶をして回れば、みな一様に嬉しそうに相手をしてくれた。
「久しぶりッスね領主様!」
「お前も元気そうだな、タケシ」
へへっ、と人懐っこそうな笑顔を浮かべる目の前の男は、モモと呼ばれる狼男だった。真名はタケシというのだが、何故か彼をその名で呼ぶものは、クニミツなど極小数の存在だけだし、そもそも何故モモと呼ばれるようになったのかも、本人含めて誰も覚えていない。
「最近どうだ? 変わったことは無いか」
「いや相変わらずッスよ〜って、言いたいんですけどね。多分アンタも知ってると思うんッスけど」
新顔がこの辺に増えたんッスよ、とモモに先導されるまま向かえば、ひらけた場所に出る。真ん中に歴史を感じさせる大きな大きな木があり、この辺りでは拝む対象として祀られているような大樹だ。少なくともクニミツがここに居を構えた時点で、この木はずっとこの土地に根ざし、住民たちを見守っていた。
「ほら、あそこ」
モモが指さした先には、見覚えのある少年がマントを敷物代わりにして、すやすやと安眠の旅に出ていた。
「あいつ、よくあそこで夜寝してるんッスよ。もうとっくに日常になっちゃいました」
「何も悪さはしてないんだな?」
「ぜーんぜん? だから普通に俺もエイジさんも色んな所に連れ出してます」
こないだは他のみんなも誘ってテーマパークに行ったんスよ、アンタも誘えばよかったッスね、と言ってモモは大樹に背を向けて、歩き出した。
「じゃあ俺はこの辺で! アイツに関しては好きにしちゃってください!」
そうして尻尾を揺らしながら元気よく来た道をもどるモモを見送った、クニミツは再度大樹の方へと近づく。
少年の足元まで来ても、少年のまぶたが開くことはない。寝息が聞こえなければ、まるで死んでいるのかと勘違いしそうになる。
……あの琥珀色の目が見れなくて、少し残念だと思う自分に少し驚きながらも、その幼い寝顔を見つめていたのだが、少年の覚醒の時は急にやってきた。
「……。ん、ん……。……ん」
眠たげに、その瞼が重々しく開く。最初はただ瞬きを繰り返していただけだが、目の前に立っている男が、何者なのかを認識したのか、その目が一気に丸くなる。
「警戒心が足りないんじゃないのか? 今の瞬間だけでも何回かお前を害せたぞ」
「な、な、な」
至近距離で告げられた言葉に、驚きで声も出ないのか、唇をわなわなと震わせたが次の瞬間バタバタとめちゃくちゃに暴れだした。反射的に両手首は抑えたものの、自由な二本の足がげしげしとクニミツの腹やら足やらを蹴るので、クニミツは、はぁとため息をついて、一言だけ発した。
「『動くな』」
クニミツの目が妖しく光る。その目を見た瞬間時が止まってしまったかのように、リョーマは動けなくなってしまった。吸血鬼の特殊能力の一つ、いわゆる「魔眼」と呼ばれるものだった。
借りてきた猫のように大人しくなってしまった、目の前の少年を、クニミツは呆れ顔で見ていた。
「全く、俺をどうにかしたいとのたまうなら、お前もその『目』を使いこなせるようになれ」
そう言いながらもクニミツはじっと少年の目を覗き込む。突然好奇の対象にされた少年は居心地が悪そうに、それでもまだ命じられたまま体も動かせないので、ただただクニミツを睨みつけてくるが、何処吹く風といった態度を崩さない。
「こうして至近距離で眺めてみると、金にも琥珀にも見える瞳をしているな。それに」
目の前の琥珀の瞳が揺れている。その琥珀が宿している色は、脅えでもなんでもなく、この屈辱にどうやって報いてやろうかという、反骨心が燃え盛っていた。
「俺への強い反骨心やら敵意やら、感情のゆらめきで、また違った色に見えることもあるしな」
満足いくまで眺めたクニミツは、一言「動いていいぞ」と告げれば、少年は糸の切れた人形のように崩れ落ちて、はぁ、と深く息を吸う。そして、再度強い憤怒にまみれたその瞳を向けてくるので、クニミツは知らず知らずのうちに、素直な感想を口にしていた。
「ああ、綺麗だな。手元に置いておきたいくらいだ」
美しいものを収集したいと言う欲求も、吸血鬼なら誰しも持ち合わせているものだ。クニミツは他の吸血鬼よりは、その欲求が薄いはずなのだが、思わず口に出してしまう程度には、この目のことを気に入っていた。
少年は呆気に取られたように固まってしまったが、その数秒後──不愉快そうに顔を顰めた。
「っ!」
クニミツは反射的に首を逸らした。クニミツの下にいたはずの少年はおらず、小さなコウモリがクニミツの喉を掻き切ろうとしてきたので、寸前に躱したのだ。
クニミツはそのまま大樹の枝の先を見る。そこには冷えた眼差しを向けながら、ブラブラと足を揺らす少年の姿があった。
「……目だけしか興味無いんだ」
つまらなさそうに呟かれた言葉に、クニミツが少しだけ困惑を滲ませた表情を浮かべれば、リョーマはそのまま立ち上がり、クニミツをその琥珀色の瞳で見下ろした。その琥珀の瞳が称える感情は何故だろうか、悲しみも怒りも入り交じったような色をしていた。
「今に見てろよ。アンタを全身標本にして飾るのは、俺の方」
一陣の風が吹いた刹那、少年の姿は消えていた。なにか琴線に触れるような一言を言ってしまったようだが、他者の感情の機微に弱いところがあるクニミツには察することができなかった。
また夢を見ていた。
古い城の中をゆっくりと歩く。瓦礫が辺りに散らばり、あちらこちらで白い煙が登り、ぼろぼろになった、かつて栄華を誇ったであろう王国の最期。
そんな全てが終わってしまった場所を自分は歩いている。そして、何かを見つけたのかゆっくりと「それ」に近づき、声をかける
『──、──?』
言葉は聞き取れない。目の前の何かに、一言二言、自分は声をかけた。すると目の前の何かは、息も絶え絶え、と言わんばかりの満身創痍のからだを必死に動かして、その小さな手をクニミツへと伸ばしてきた。
『──、まだ、しねない』
ああ、その目を見たことがある。風に吹かれれば一瞬で消えてしまいそうなのに、その最期の命の火を燃やして、美しく輝くその琥珀色の瞳。
その時の自分は、それを何よりも美しいと思った。思ったからこそ──。
「俺様を前にして、半宵に微睡むとはいい度胸してんじゃねぇか。あーん?」
……前にもこんなやり取りを別の相手としたな、とクニミツは、沈んでいた意識をすぐさま浮上させる。
改めて目の前を見れば、ラベンダーアッシュの髪色を持ち、頭の双方に羊の角のようなものを持つ男が、愉快そうにクニミツを見つめている。いわゆる「悪魔」と呼ばれる種族だ。
「悪い。最近どうにも眠りが浅くてな」
「はっ、老楽にはまだ早ぇんじゃねぇのか」
「そうは言っても、お互いそれなりに歳を食っただろう」
「馬鹿言え、この世界全体から見たら俺たちはまだまだ若造だろうよ」
そう言って、目の前の悪魔は徐に指を鳴らせば、そばに控えていた大男がしずしずと、サイドテーブルに置かれたグラスに赤いワインを注いでいく。男は大男への労いの言葉と共に、それに口をつけた。
「ったく、お前はずっとこんな辺鄙な場所にひきこもってルーチンワークなんかに勤しんでいるから、老いを意識しちまうんだろ。他の連中に任せて、最前線に戻って来たらどうだ」
「悪いが俺は世界の覇権なぞには興味は無い。お前たちで勝手にやっていろ」
クニミツはバッサリと男の言葉を切り捨てる。目の前の悪魔の存在を知るものなら、邪神にクニミツの死後の安らぎを祈ってしまうほどの態度だったが、悪魔である男はクニミツの、こう言った歯に衣着せぬ物言いを気に入っているため、あぁそうかよ、の一言だけ返した。
「まぁ、最近お前はお前なりに忙しいみたいだしな。小さなコウモリにご執心と聞いたが?」
「……どこまで知っている?」
低い声で、クニミツが静かに問えば、目の前の男は喉の奥で咬み殺すような笑いを漏らした。
「俺の目は全てを見透かすのさ。知ってるだろう」
「忙しいと聞いていたのだが、俺ごときの日常までご存知だとは、随分と暇を持て余しているんだな?」
「そうか? 下手すれば世界の均衡が大きく変わりかねねぇ事態だと思っているが」
分かっていないようだが、お前が一人消えただけで世界のバランスは大きく変化するんだ、と言って再び赤いワインを男は口にし、その彫刻のように整った体勢を、足を組み直すことで変えた。
「で? お前、いつまであの吸血鬼を自由にさせておくんだ? そろそろ他の者に示しがつかなく無くなってきた頃じゃねぇか?」
いくらなんでも、この国の長が自分の命を狙うものを放置し続けるなんて、回り回ってお前の地位を脅かすぞ、と耳に痛い言葉を言われ、クニミツは眉を顰める。
確かにその通りだ、この国の法では「他者を害することは立派な悪しき行為」だ。今までは自身に怪我を負うことが無かったため、悪戯として処理してきたが。
クニミツは自身の首元に巻かれた包帯を、そっと撫でる。これは少し前に吸血鬼の少年に付けられた傷だ。
あれから数百年経ったが、クニミツの想定上にあの少年が力をつけるのは早い。
ひょっとしたら近い未来、「万が一」があるかもしれない。そうなる前に、法に則ってあの少年を始末しなければいけない、しかし──。
「……。そうか、殺すのか」
小さく呟かれた、その言葉は短いものだったが、目の前の悪魔に何かを察しさせるのには十分すぎたらしい。悪魔は肩を竦めて見せた。
「惜しいか? そいつの魂が」
「……。罪には罰を。それだけだ」
「法に則って処罰するならそうだろうな。俺様が聞いてるのはお前の気持ちだ」
何事もすぐに白か黒かをハッキリさせられるはずのクニミツは動揺したように、身じろいだ。そして、しばらくなにか言葉を探しているのか、黙り込んでしまった。目の前の悪魔は気にした様子も見せずに、赤ワインを呷る。そうして、クニミツはポツリと、言葉を漏らした。
「殺したくは、ない」
「それが本音か?」
なら、やることは決まってんじゃねぇか、と目の前の悪魔は、ただ笑った。
「とっとと手篭めにするなり、なんなりしてアイツのすべてを物にすればいい。お前にはそれが許されているだろよ」
「……。本人の意思は尊重されるべきだと思うのだが」
「お優しいな領主様は」
さて、どうなるかな、とくつくつ笑う悪魔を前にして、クニミツは全く見事に焚き付けられてしまったなと、自身の空いたグラスに、朱い血を注いで、ふと窓の外を見る。
今日は雲ひとつない空に、今にも空から落ちてきそうな大きな満月が、この世界を照らしている。その月を眺めながら、クニミツは目を細めた。
それからまた暫く経った頃。
クニミツは屋敷の中でも、とりわけ大きな部屋の一つである、長年使われていない煌びやかな装飾が施された、ダンスホールの中心に立ち、目を閉じてただそこで待ち人を待っていた。
そろそろ、アイツがやってくる頃合いのはずだ、逃げも隠れもしない、と言わんばかりの態度で構えていると、突然正面の重厚な木の扉が開け放たれた。
クニミツが片目を開ける。そこには不敵な笑みを浮かべた侵入者がまっすぐ、クニミツのことを見ていた。
「こんなところで俺の事待ってたの?」
こないだ痛い目にあったから、ようやく脅威だって思ってくれたとどこか嬉しそうに口を開く少年に、クニミツもまた、薄い笑みを浮かべる。
その様子を見た少年は、何かを感じとったのか、途端に警戒を目に宿した。
「なんかヤな感じ。なにか企んでるでしょ」
「企んでいると言えば企んでいるな」
「馬鹿正直だね」
何? 俺の事そろそろ本気でどうにかする気になった? と問われたので、クニミツは自然な態度のまま、問われた事に対して口を開いた。
「予め宣言しておく。今回俺が勝ったら、お前を娶るぞ」
辺りが一瞬にして静まりかえる。
少年は、その言葉が飲み込めなかったのか、ぽかんとした顔で、クニミツを見つめていたが、やがて言葉の意味が頭に届いたのか、はぁと素っ頓狂な声を上げた。
「め、娶っ……なんでそうなるんだよ! 俺の事バカにしてる」
「月日というのは不思議なものだな。お前の相手をずっとしていたら、徐々にお前の事が愛おしく思える様になった。殺すのも殺されるのも惜しい」
だから、とクニミツはそこで言葉を区切り、ゆっくりと少年の元へと歩み寄る。
「俺が勝ったら、お前のことを好きにすると言っているんだ。嫌なら今すぐここを立ち去るんだな」
とはいえ、性懲りも無く俺の前に現れるのなら、その時は本気でお前の全てを奪わせてもらおう、と心底楽しそうに、獰猛な笑みを浮かべて見せた。
久方ぶりに闘争本能が刺激され、頭が痺れるような思いを味わう。なりふり構わず何かを手に入れたいと思うのは久方ぶりだった。
「面白いじゃん。じゃあ俺が勝ったら、アンタのこと好きにしていいんでしょ?」
俺の足元に跪かせて、爪先にキスさせてあげるよ、と少年もその瞳を妖しい光を宿して、クスクスと笑った。
こうして世界の均衡を変えてしまうほどの、戦いの火蓋が落とされた。まだ、クニミツの方が実力は上とはいえ、その差をひっくり返すことが出来るほど、数百年のうちに少年も力をつけていた。
苛烈で全てを燃やし尽くすほどの戦いだった。本気で相手をねじふせるためになりふり構わなかったせいで、屋敷とその周辺が更地になり、後世に語り継がれる程度には、何もかもを巻き込み火花を散らし合う。
結局、その結末を見届けていたのは、空から落ちてきそうなほど大きな青白い月だけだった。
「……へぇ、それが馴れ初めなんだ。意外だね」
「ああそうだ。……満足したか、セイイチ」
ああ、こんなに長時間ペラペラと話していたのはいつぶりだろうか、と思いつつクニミツがグラスを呷る。
長い馴れ初めという名の思い出話を聞かされたクニミツの前にいる男は、桔梗色の髪を揺らして、微笑んでみせる。
「いや、今のおしどり夫夫っぷりを見てるこっちとしては、そんな血生臭い馴れ初め話になるとは思わなくてね」
にしても、やっぱり背中を押したのは君なんだねケイゴ、と男は隣の席に座る男に視線をやる。その場の視線を一身に浴びた男、ケイゴは満足そうに頷いて、ティーカップに口をつけた。
「コイツは昔からこういう色事には疎いからな。こうして発破かけてやらないと動けないだろうなと思ってよ」
「……本当にそれだけかい?」
「おいおい、善意を疑うのは邪推ってもんだぜ、セイイチ」
「君が関わってると、何かあるんじゃないかって思っちゃうんだよね」
まぁ今回は純粋に善意の行動だと思っておくよ、とセイイチと呼ばれた魔法使いは、指先を振ってティーポットを動かし、それぞれの空いたカップに紅茶を注いだ。
「で? お前の愛しの王子様は今どこにいるんだ?」
「リョーマか? リョーマならずっとここにいるが」
「えっ、どこに?」
「ここだ」
そうしてクニミツが指さしたのは自身の膝の上だ。ケイゴはそのインサイトで、セイイチも第六感で、その付近を見通せば、小さなコウモリが丸くなってクニミツの膝の上で寝ていた。
「……。甘やかしてるね」
「いつの間にか膝の上に居るんだ。もう慣れたから気にしていないが」
そう言いつつ、クニミツがそのふわふわとした毛を撫でてやる。キュ、という声が聞こえたと思えば、次の刹那、小さな少年が膝の上に乗っかるように座っていた。
「……まだお茶会してんの? 早く終わらせて俺に構ってよ」
「全く、怖いもの知らずの上に独占欲も強いときたものだ」
セイイチが苦笑いをしながら、テーブルの中央にある山盛りに盛られたクッキーに手を伸ばす。
リョーマから、すかさず「それクニミツが焼いたんだから、味わって食べてよ」と小言が飛んできて、わかったわかった、とセイイチは真ん中にジャムが入ったクッキーをつまんだ。
「っていうか、アンタら当然のように同じテーブルに着いてるけど、仲悪いんじゃないの? ここで喧嘩しないでよ」
リョーマはクニミツの膝の上で、クニミツの左手を徐にとり、自身の頬に添えながら、ケイゴとセイイチの二人を見る。あぁ、とセイイチは意味ありげにケイゴの方に視線をやりながら、大丈夫だよと返す。
「永久中立国のここで揉めたら、それこそ、クニミツに殺されかねないからしないよ。それに俺個人としてはケイゴのこと嫌いじゃないし」
「そうさ、国の領地をかけて争っているとはいえ、こいつに対しての悪感情はない」
まぁ国に戻ったら、またいつも通りだけどなとケイゴが返せば、それはこっちのセリフなんだけどなぁ、とセイイチも笑う。とはいえその目は完全に笑っていないので、静かに導火線がパチパチと燃えていた。
その様子を見ていたリョーマはクニミツの首元に擦り寄りながら、やれやれと言いたげに首をすくめる。クニミツもリョーマの後頭部に手を回し、よしよしと撫でてやった。
「っていうか変だよね、アンタ達。国をかけて戦ってるのに、実際は殺し合いしてるんじゃなくて、なんか……棒と玉? を使ったなんかで戦ってるんだよね」
「ああ、そうだよ。庭球って言ってね。この世界で、どうしても争って決めなきゃいけない大きな決め事は、アレの強さで決着をつけるんだよ」
この世界が生まれたとされる時からの絶対のルールなんだよ、それは俺もケイゴもクニミツも君も、誰も逆らえないんだ、という。
「クニミツも庭球が異様に強くてね。それこそこの世界の中でも指折りの存在だよ。吸血鬼としても純粋に強いんだけどね」
「へぇ……。ねぇクニミツ、俺も庭球っていうのやりたいんだけど」
「いいだろう、今度教えてやる。お前は素質があると思うぞ」
隙あらば直ぐに距離を詰め、視線や仕草でお前が愛しいのだと言わんばかりの愛情表現をする二人を、セイイチとケイゴは見守るように眺めていた。
ふと、セイイチが、うーんと、唸りながら目の前に盛られたクッキーの山に手を伸ばしたので、ケイゴも気まぐれにチョコレートクッキーに手を伸ばした。
「……おめでたいんだけど、あの岩みたいに変わらなかった堅物が、ここまで変化したのは少し寂しい気がするなぁ」
「いいじゃねぇか。暇を持て余しすぎて腐られるより、よっぽどいい」
ここまで行くと別の意味で心配になるっていうのは分かるがな、とケイゴはそれでも満足気な表情を浮かべているので、じゃあ俺もそういうことにしておくよ、とセイイチは困ったように笑った。