「さることは、――なれば、――とも言えり。……ダンテ? 聞けりや?」
イサンの言葉に相槌のひとつ返していなかったせいか、彼が私の名を呼び、顔を覗き込んでくる。心配の色を浮かべているイサンの瞳と視線が交わり、ようやくぼうっとしていた思考が焦点を取り戻した。イサンの話の話をほとんど聞き流してしまっていた自分に気づき、慌てて彼に謝る。次に向かう区画について教えてほしいと、私から頼んだというのに。
〈ごめん。ちょっとぼんやりしちゃってた〉
「そは構わねど……そなた、安穏なりや? 些か疲弊せるようにも見ゆ。先の戦闘がためならむや?」
〈ああ、いや……そうじゃないんだけど〉
たしかに日中の業務で何度か時計を回したが、普段と変わらない程度だ。感じる苦痛に慣れることはないけれど、いまさら泣き言を言うつもりもない。業務のせいというよりも、昨晩ずっと気を張って集中していたから、今になってようやく気が緩んだのだろう。別にたいしたことはないよ、と続けたが、イサンは無言で私を見つめてくる。その視線の圧力に負けて、私は仕方なく理由を話した。
〈その……昨夜、LCE人格のあなたに一晩付き合わされちゃって〉
LCEに所属しているイサンは、たびたび自身に与えられたEGOの力で人を拐かし、仕事が終わるまで出ることの叶わない部屋に誘い込んで半ば強制的に作業させるのだ。昨夜はその犠牲者が私だった、というだけの話だ。
囚人の彼らと、鏡人格たちの行動や価値観はまったく違う。鏡人格がしたことについて、囚人たちに責任はない。とはいえ可能性のひとつではあるので、自分の人格が私に迷惑をかけたと知ったらイサンは気にするだろう。だから黙っているつもりだったのだが。
案の定イサンははっと息を呑み、驚いた様子で私を見つめてきた。なにかを言おうとしたらしい唇が震え、さあっと血の気の引いた顔が普段よりも青白くなる。なんだか様子が変だな、と声をかけようとしたところで、イサンが焦ったようにぐっと体を前のめりに寄せてきた。
「そっ、そは、合意なりや!?」
〈えっ、……い、いや、まあ、無理矢理といえば無理矢理かな、閉じ込められてたし……〉
彼の勢いに少し腰が引けた私の肩を逃がさぬとばかりにイサンが強く掴み、かと思えばはっとして労わるように私の背を撫でてくる。
「体は……体は安穏なりや? 痛むところやある?」
〈平気だよ。私は義体だし、気にしないで〉
頭脳労働を長時間するのはさすがに精神が疲れるが、肉体的には問題はない。徹夜での作業ではあったが、義体施術のおかげであまり眠る必要もないのだ。そのことはイサンのほうがよく知っているだろうに、彼はなぜだか傷ついたような表情を浮かべて視線を伏せた。
「そなたの身が義体なるは関係あらず、ダンテ。さることな言いそ。かの人格に手酷く扱われたりなどは……」
〈いや、丁寧で優しかったよ〉
イサン本人も含め、彼の人格は人のものを教えるのを好んでいることが多い。研究職のイサンも例外ではなく、作業を手伝うために呼ばれたはずなのに、仕事よりも彼に色々と教えてもらっていた時間のほうが長かったように思う。本当のところ、彼は他人の手など必要としていなくて、一晩話し相手が欲しいだけなんじゃないだろうかと疑っている。
〈その、本当に気にしないで。私は誘われて嬉しかったから〉
まだ心配そうな、思いつめた顔をしているイサンにそう声をかける。別に彼を慰めるための嘘というわけでもなかった。疑似餌での釣りを楽しんでいる節があるのはどうかと思うが、LCEのイサンと過ごすのは楽しいし、有意義でもある。騙されて一晩作業に付き合わされたというと酷く聞こえるかもしれないが、本当に気にしなくて構わないのだ。
私の言葉を聞いて、イサンはふと虚を突かれたように目を見開いた。掴んでいた私の肩を離し、力なくぶらんと投げ出すように手を下ろす。
「う、む、さりか……。そなたが良かれば、……私が口を出すべきことは無からん」
肩を落とし、なんだか先程よりもずっと落ち込んだように見える姿に戸惑う。どうしてそんなに寂しそうに笑うのだろう。
もしかして、イサンも同じように過ごしたかったのだろうか。彼は話すのが好きだし、記憶喪失の私にいろいろと物を教えることを楽しんでもくれているから、役割を取られたようで面白くないのかもしれない。それとも、LCEのイサンと同じく、彼も私に手伝ってほしいことがあったのだろうか。
〈あなたさえ良いなら、今夜はあなたと過ごそうか?〉
私がそう提案すると、イサンは弾かれたように顔を上げ、ひどく動揺した様子で私を見た。瞳を揺らし、目尻を赤く染めてきっぱりと首を左右に振る。
「なっ、……ならぬ! ダンテ、自身の身をおろそかにはなせそ。充分に心留むべし」
〈平気だよ、一週間起きてたこともあるくらいだから、二日寝ないくらいは全然〉
「さることにあらで、私は……」
〈でも私、記録を纏めるのも結構上手くなったし、もし手伝ってほしいことがあるなら力になれると思うけど〉
「されど、――うん?」
ふいにイサンが動きを止め、きょとんと瞳を丸くしてかすかに首を傾げた。訝しむように目を細め、難しい表情のまま口を開く。
「……、……そなた、昨晩は何したるや?」
〈えっ、だから、記録の整理だよ。作業が終わるまで出られない部屋に誘い込まれて……〉
「…………」
素直に答えれば、イサンが口元を押さえ、なにごとか考え込みはじめた。眉間にしわを寄せたり、考えを整理するように何かを呟いたりした後、肺の中の空気を全て押し出す勢いで大きなため息を吐く。
〈イ、イサン? ……私、なにか変なこと言ってしまったかな〉
先程から明らかにイサンの態度がおかしい。知らないうちになにかまずいことを言ってしまっただろうか、と問いかけると、イサンはゆるゆると首を振り、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「いや。そなたに非はあらず。ただ……ふむ、助力を要することは無かれど、私もそなたと語らいたし。このままそなたの部屋を訪ねるとも構わずや?」
もちろん構わないよ、と頷くと、イサンが嬉しそうに微笑み、私の手をそっと握った。