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    ほしみや

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    ほしみや

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    リクでいただいたトレデュのアイスバースの話。
    (※アイスバースとは……ジュースと結ばれると溶けて死んでしまうアイスと、アイスを溶かして死なせてしまうジュースという二つの種族の特殊設定)
    (※メリバ、死ネタです)

    溶けた心は戻らない「なんだ、まだ残ってたのか、スペード」
     掛けられた職場の先輩からの言葉に、報告書に落としていた目線を上げる。向けられる眼差しに、浮かない表情をしていたのを無理矢理に何でもないような顔に作り替える。
    「はい。一応報告書に目を通しておこうかと思いまして……」
    「相変わらずお前は真面目だな。報告書って……ああ、例の。またアイスとジュースのか……」
     若干のうんざりした声色にはい、と返事をすれば「あまり根を詰めすぎるなよ」と気遣いの言葉と共に先輩は去っていく。遠ざかるリノリウムを踏む靴音を耳に、大して頭に入って来ない報告書をぼんやりと虚ろに眺めて。一つ大きく息を吐き出した。

     アイスとジュース。この二つの単語は単なる飲食物を示す言葉ではない。世の中には一般的な人間の他に、通称アイスとジュースと呼ばれる人種が存在するからだ。
     アイスもジュースも人口のパーセンテージとしてはごく僅かであり、希少な存在だ。二つの種は見た目こそ普通の人間と変わらない。が、大きな特徴として、アイスはジュースと結ばれると身体が溶けて死んでしまうという特殊体質があった。また、アイスは体温が一般の人間よりも明らかに低いのも特徴だ。近年では病院での検査で分かるようにもなってきている。遺伝性ではなく先天性のもの、後天性で突発的になる場合もあるとの報告もある。
     一方のジュースの方は見た目も普通の人間と変わらず、大きな特徴もない。厄介な事に検査等でも見つからず、そもそも自分がジュースであると知らずに生活をしている事がほとんどだ。アイスと結ばれた際に相手が死んでから初めて、自身がジュースであることを知る場合が多い。その為、アイスを殺してしまった罪の意識に苦しむ事になる訳だ。
     冗談みたいな話だが『アイスとジュースは惹かれ合う運命にある』と言うのだから、全くもってタチの悪い話だと思う。
     幼い頃、エレメンタリースクールに通う頃までは、そんなおとぎ話みたいな話が本当にあるのだろうかと思っていた。ミドルスクールの頃だってまだ、都市伝説の類ではと半信半疑だったものだ。
     けれど大人になり、ナイトレイブンカレッジを卒業して十数年経った今。憧れだった魔法執行官の職に就いて。嘘でもおとぎ話でも都市伝説でも何でもなく、日常に当たり前に起こり得る事を、僕は嫌でもよく知っていた。この薔薇の王国の、所属している管轄だけでも年間数件単位で事件として挙げられる現実を、目の当たりにしているのだから。
     魔法執行官という職の仕事は多岐に渡る。アイスとジュースの事件の対処に当たるのもその一つだった。人間を水に変える禁忌の魔法の存在も当然あるのがこのツイステッドワンダーランドの世界だ。しかし実際に事件現場に駆けつけてみれば、大抵はアイスとジュースの悲劇の恋の結末という事が殆どである。……正直に言って、あまり気分の良いものではない。法で裁ける事件の方がまだ幾分か、と考えてしまうほどには。
     ……そういえば、ナイトレイブンカレッジの頃にも一度、あったんだよな……。
     不意に蘇る記憶に目を細める。あれは僕がまだ、一年生の頃の事だ。名門魔法士養成学校のナイトレイブンカレッジでそんな事が、男子校でまさか、と野次馬がこぞって中庭に集まっていたんだ。けど皆……一人蹲り、静かに泣いている生徒の姿を見たら何も言えなくなって。水になって消えてしまった相手の、残った制服だけを抱きしめている姿は悲壮で。何とも言えない表情で、遠巻きにしていた。
     そのうちに教師達がやってきて集まった生徒は皆、解散させられた。たまたま通りがかって見つめていた僕も。その時には惨いなと心を痛めたけれども、他人事のようにその場から離れていった。今日まで忘れてすらいた、記憶。
    「……好きな者同士で結ばれるなんて喜ばしい事でしかないのにな……」
     知らず、ぽつりと口から溢れた独り言が静まり返った職場にしんと響く。
     ただ、当たり前に人が人に恋をしたというだけなのに。好きという感情が相手を意図せず殺してしまうなんて。互いに気持ちが通じ合った途端に愛した相手を残して死ななければいけないなんて。
     聞いた話によれば、ジュースと結ばれたアイスは三分以内に溶けて水になってしまうが、痛みは伴わないらしい。例え身体的な痛みが伴わないとしても。心の痛みについては負わないはずないじゃないか。
     ふーっと腹の底から息を吐き出すと、手にしていた報告書を投げやりにデスクの上に放る。無感情、無感動に情報のみを伝えるために綴られた文字の羅列はばさりと乾いた音を立てて着地する。凭れた椅子の背もたれがぎしっと軋んだ音を立てる。天井を仰いで目を閉じて。薄闇の中で思い浮かべるのは先程とは別の、ナイトレイブンカレッジ時代の記憶だ。
     仕事でアイスとジュースの事件に関わる度に、僕には思い浮かべる人がいた。所属していたハーツラビュル寮、僕が一年生だった時に副寮長を務めていた……トレイ・クローバー先輩だ。あの頃の僕の、憧れの存在。
     クローバー先輩は優しくて面倒見が良い、頼れる先輩で。実家がケーキ屋さんでお菓子作りが得意で、寮生はみんな先輩の作る美味しいお菓子が大好きだった。勉強も運動も何もかもそつなくこなし、寮長や寮生の間に入って場が上手くいくように仲介したりと、気遣いや心配りの出来る本当に凄い人だった。なのに本人は「オレは至って普通の男だよ」といつも少し困ったように眉を下げて笑っていた。
     最初は純粋に、憧れや尊敬といった感情で先輩を慕っていたのに。いつから恋愛としての好意に変わったのか、今ではもう思い出せない。
     勉強がわからないから教えて欲しいと泣きついた時には驚いた顔をしながらも、先輩はいつも親切に教えてくれた。そのうちに、二人きりで勉強会をするのが恒例になった。星送りのスターゲイザーに選ばれた事がきっかけで距離がまた縮まって。僕が告げた夢のことも笑ったりせずに「真面目なお前らしくて、良い願いごとだ」と言ってくれたのが嬉しかった。時々、大きな掌で撫でられるのがくすぐったくて、でも安心感があってすごく、好きだった。
     僕にだけ特別って特製のお菓子を貰った時はすっかり浮かれてしまったな……。その頃にはもう、校内で先輩を見かけると目で追ってしまっていた。自分じゃない誰かと仲良くしているのを見れば胸の辺りが詰まるように苦しくなった。それが妙な病気じゃないかって、当時同室だったエースに相談したら呆れた顔で、僕がクローバー先輩を好きなんだろうって指摘された。そこでやっと僕は先輩に恋をしているんだって気付いたんだ。
     自分の感情に気付いてからはますます意識してしまうようになった。何気なくかけられる言葉や、向けられる笑顔、仕草に一喜一憂して。僕はどんどんと先輩に惹かれていった。
     でも僕は男で、先輩みたいに優秀じゃないし、問題ばかり起こす成績も芳しくない不出来な生徒だった。僕なんかが先輩に好きだと告げても困らせるだけだ。蓋をして覆い隠して。この気持ちは絶対口にすることはないんだろう、と最初から諦めていた。
     先輩が四年生になって実習でほとんど学校に居なくなって、そして迎えた卒業式の日。その日までずっと告げずに隠し通していられた。そして先輩が卒業してしまえば後は接点もなくなり疎遠になっていく。青春の思い出の一ページとして、きちんと片付けられる。大丈夫。そう思っていたのに。
     卒業式の日、先輩への別れの言葉を笑顔で口にしていた僕は、一瞬泣きそうに言葉に詰まってしまった。急に黙った僕を先輩が不思議そうに見つめていて。ああ、先輩が困ってしまう。何か、言わなければ。門出のめでたい日にこんな、とぐるぐる混乱した結果。ぼろりと口からこぼれ落ちてきたのは、絶対に言うつもりのなかった「好きです」の言葉だった。
    「せ、先輩が、クローバー先輩がっ、好き、なんです……っごめ、なさ……ごめんなさいっ」
     みっともないくぐもった声で、ぼろぼろと止めようのない涙が頬を伝った。押し込めていた分、堰を切ったように止まらなかった。言うつもりがなかったのに。困らせてしまう。わかっているのにどうしようもなく涙は止まらず、先輩の顔を見れずに俯いて泣きじゃくってしまった。
     そんな僕の涙を止めたのは、両頬をそうっと包んだ先輩の掌だった。熱い頬をひんやりと冷たい掌に包み込まれて。氷のようなキンとした冷たさに驚いて顔を上げれば、どこか泣きそうにも見える複雑な顔の先輩が見下ろしていた。
    「ありがとう、デュース。嬉しい……すごく嬉しいよ、でも……悪い。応えられない。……ごめんな」
    「っ、い、いえっ、僕も困らせてしまって、その、ご、ごめんなさいっ」
     眉を下げた言葉にぐっと息が詰まる。無理矢理に笑顔を浮かべようとしたけれど、上手く出来てたかは全然自信がなかった。伝えるつもりのない言葉を最後に伝えて、フラれて、当然だ。気まずくてその場から逃げ出してしまって。駆け込んだ薔薇の迷路の奥で、ひたすらに涙が枯れるまで泣いた。本当にどうしようもなく情けない、苦い思い出の話だ。
     ナイトレイブンカレッジを卒業後、ハーツラビュル寮内で親しかった人達との飲み会の誘いもあった。けれどもしクローバー先輩と顔を合わせたらと思うと気まずくて、一度も参加した事はなく今に至る。
     アイスとジュースの事件に関わる度に、クローバー先輩のことを思い出してしまうのは。もしかして先輩はアイスだったのではないか、という疑惑を感じているからだ。あの告白した時に僕の頬を包み込んだ掌の、氷のような冷たさ。あれはアイスとしての体温の低さではないのか。そして先輩に惹かれていた僕は、もしかしてジュースなのでは。
     ……そこまで考えて、あまりにも烏滸がましい期待に自分で呆れてしまう。僕と同じように先輩も僕に惹かれていたのでは、僕が好きだと告げた言葉に先輩も同じように答えたら消えてしまうから……僕が先輩を殺してしまわないようにフラれたのでは、なんて都合の良い勝手な期待で図々しいにも程がある。
     惹かれ合う運命だなんて。僕が一方的に好きだっただけだ。僕なんかが好きだって言うのに当然応えられなかっただけだ。大体、先輩はよく僕の頭を撫でてくれたけれど、掌があんなにも冷たかったのはあの告白した時だけじゃないか。そう言い聞かせる一方で、いや、でも。先輩には上書きというユニーク魔法があるじゃないか、と囁いてくるもう一人の自分がいて……。
     つまりは未練がましくそんな疑惑を抱いてしまう程には。まだ僕はクローバー先輩の事が好きだった。こんなにしつこく想い続けて、諦め切れないなんて、迷惑だろうとわかるのに。ただでさえ憂鬱な気持ちになるアイスとジュースの事件に関わる度に、先輩への想いも消えずに浮かび、酷くもやもやとしてしまうのだった。


     職場を後にした後も、相変わらずすっきりとしない気持ちで道を歩いていた。ふと目についたのはバーの看板。大通り沿いから少しだけ路地に入った場所にあるそのバーは、いつも横目に通り過ぎていた場所で。以前から気にはなっていた。
     店名と矢印が記されただけのシンプルな看板は、落ち着いた雰囲気を醸し出している。矢印の先、店はどうやら地下にあるらしい。覗き込んだ階段の奥にはピンライトに照らされた不思議と安心感のある佇まいの扉が見えた。一人で静かに飲むにはちょうど良さそうだ。
     一杯だけ飲んで帰るかと、気持ちを切り替えるために地下へと続く階段を降りる。木製の扉に手を掛け、開けた先にはシックな色合いの店内が広がっていた。
     壁の棚に並べられたグラスや酒瓶が、絞られた照明の光に照らされる。店内には数人の客が各々お喋りに興じたり、酒のグラスを傾けている。カウンターの向こう側で僕に気付いたマスターが小さく会釈をしていらっしゃいませと声を掛けてくれた。しっとりとした空間の、大人の隠れ家的な店だ。
     と、一歩踏み入れた足がピタリと止まる。手前のカウンター席に座る人物から目が離せなかった。アイビーグリーンの短髪に黒縁の眼鏡。そんな、まさか。未練がましく想いすぎて、とうとう幻覚まで見えるようになったのか。僕も相当手遅れだな、なんて呆然と立ち尽くしてしまう。けれど。
    「……ん? お前はデュース、か……!?」
     顔を上げ僕に気づいたその人が、幻覚でもなんでもない事を告げるように、驚いた顔で僕の名前を呼んだ。
    「クローバー、先輩……」
     掠れた声が口から漏れる。お久しぶりです、となんとか付け足した声が自分のものじゃないみたいだった。
    「驚いたな、こんな場所で偶然出会うなんて。俺が卒業して以来か……本当に久しぶりだ」
     突然の再会に戸惑っていた先輩は、それでもすぐさま表情を崩して微笑みを向けてくる。どんな表情をすればいいのかわからず、曖昧に微笑み返すしかない。
    「元気そうで何よりだよ。そうだ、せっかく会えたんだし、良かったら隣で飲まないか?」
     そのうえそんな提案をされる。断る理由などないし、僕ももういい大人だ。気まずさを理由にこの場から逃げ出してしまう訳にもいかない。
    「はい、お隣失礼しますね」
     腹を括り浮かべた笑顔は、多分、あの時よりもずっと上手く出来ている自信があった。
     ……そうして先輩と、近況報告などをしながら酒を飲み交わした。先輩は今、独立して念願だった自分の洋菓子店を営んでいるらしい。聞けば、店はこの街からは決して近いとは言えない場所だ。今日はたまたま新作スウィーツの品評会でこの街に訪れていたのだと語っていた。という事は本当に偶然で、僕が一杯飲んでいくかと思い立たなければ、こうして出会う事もなかったのだ。
    「……デュースは夢を叶えたんだな、本当に凄いよ。あの頃から真っ直ぐで一途で一生懸命で、目標に向かって一直線に走れる奴だったもんなぁ」
    「いえ、そんな……」
     眼鏡の奥、蜂蜜に似た色の瞳をとろりと細めて褒められる。気恥ずかしくてくすぐったくて、肩を竦めた。洗練された大人の色気の滲むスーツ姿の先輩は、昔よりもずっと格好良く見えた。直視する事が出来ずにグラスに注がれた酒をひたすらに傾ける。
     優しい眼差しも低く掠れた声も、甘やかすように褒めてくれるのも、記憶のまま。ちらりと盗み見した先輩の左薬指には指輪はなく、それにほっとしている自分が自分で浅ましくて、なんだか泣きそうになってしまった。
     ああ、やっぱりまだ僕は、クローバー先輩の事が好きなんだ。じわじわと胸を浸す実感が、甘く痛む。感傷と傾け続けた酒のせいで、徐々に酔いが回り、頭がぼんやりと緩んできていた。……と、不意に会話が途切れ、静寂が落ちる。カラン、とグラスの中の氷が小さく音を立てた時だった。
    「……なあ、俺が卒業した日の事なんだが……」
     静かに切り出された言葉にぱっと顔を上げる。こちらを見つめる先輩は真剣な表情で。先輩が何を言おうとしているのかわからないまま、慌てて捲し立ててしまう。
    「あっ、あの時はすいませんでしたっ! きゅ、急に告白なんかしちゃって先輩に迷惑かけて……泣いたりして、本当に気を遣わせてしまって……ば、馬鹿ですよねっ、僕、先輩の優しさに勘違いしちゃって、若気の至りで、あの、もう、忘れてください……!」
     あははと酔った勢いでわざと明るく笑い飛ばす。目尻から溢れそうなのは笑いすぎて出てきた涙だと、自分で自分に言い聞かせる。そんな僕の腕を「デュース」と鋭い呼びかけと共に、先輩が強い力で掴んだ。
    「迷惑なんかじゃない。迷惑なんかじゃ、なかったんだ。……本当は、違う返事がしたかった。本当の気持ちを言ってしまえたらって何度も考えたよ。傷つけてしまって、悪かったよな」
     ずっと、あの時の事を気にしていたんだ、と先輩は俯いてぽつり付け足した。えっ、と言われた言葉が俄には理解出来ず、呆けたように先輩を見つめてしまう。ドクドクと鼓動が速くなって、なんだか息まで苦しい。クローバー先輩は一体、何を言おうとしているんだろう……?
    「まさかまたお前に出会える日が来るなんてな。……なあ、デュースはまだ、あの時と同じ気持ちのままか?」
     こちらを覗き込む先輩は、ぎこちなく微笑んでいた。何を考えているのか分からなくて答えられずいると、腕を掴んでいた手がするりと離れ、僕の手に重なりきゅっと握られる。包み込む大きな掌は氷のように冷たかった。それが、全てを物語っている気がして。
     こく、と唾を飲み込む。口の中がカラカラに乾いていくようで。アルコールで緩んだ頭は急激にクリアになっていく。まるで仕事の時のような緊張感。ああそうか、だって。きっとこれは一歩間違えたら……命を張る、やり取りなんだ。すうっと一つ息を吸い込んで。僕は真っ直ぐに先輩の眼鏡の奥の瞳を見つめる。
    「……クローバー先輩は、アイス、なんですか……?」
     先輩からの問いの答えではなく、慎重にそう問い返した自分の声が酷く遠くから聞こえるような気がした。一瞬の沈黙の後に、先輩は「ああ」と頷いた。
     やっぱりそうなのか、と自分が抱いていた疑惑が確信に変わっていく。だとしたらきっと。僕はジュースだ。先輩を殺してしまう存在なんだ。ぎりっと噛み締めた奥歯が痛くて。喉が詰まるのを感じながら、首を横に振る。
    「……言えません」
     ツンと鼻の奥が痛くて、今にも溢れそうな涙を必死に耐えながら。歪んだ涙声でなんとかそれだけを口にする。あの時と同じ気持ちのままか、なんて。クローバー先輩を好きなままか、なんて。言えない。もう、あの頃みたいに何も知らず無防備に口に出来る訳ないじゃないか。
     中庭で蹲る他寮の子を他人事に、遠巻きに眺めていた自分と同じではいられない。可哀想にと憐れんで報告書を眺めたところで、結局どこか別の世界だと思っていた。疑惑を抱いたって自分の勝手な妄想だと思えていた。でももう違う。当事者だ。
    「言えない、です……だって僕は多分、」
    「デュース」
     言いかけた言葉を遮るように、名前を呼ばれる。さっきとは違う、静かな響きだった。くしゃくしゃになっている顔を自覚しながら先輩の方を向けば、熱っぽい瞳がじっと見つめていた。
     握られた指がすり、と絡められて。意味ありげに指の股をなぞられる。冷たい指先が辿るのに、ゾクゾクとした痺れが背筋を走る。それは嫌悪感などでは決してなく。間違いなく確かな興奮だった。
    「……デュース、お前を抱きたい。ずっとお前の事が忘れられなかった」
     語られる言葉にごくりと唾液を飲み下す。身体が、顔が、熱い。先輩と触れ合う手の感覚だけが、冬の早朝の空気のようにしんと冷ややかで鮮烈だった。
    「大丈夫。言葉で言わなければ、気持ちを口にしなければどうにもなりはしないさ」
     な? と首を傾げて微笑む先輩に、またごくっと唾を飲み込む。互いにどう思っているのか、決定的な言葉にしなければ……身体だけの関係なら。大丈夫なはず。そう思った時にはもう、頷いていた。先輩に……クローバー先輩に、抱かれたいと思ってしまったから。
     だって、ずっと好きだった。大好きだった。今もまだこんなにも大好きな先輩に。心が手に入らないならせめて身体だけでも欲しい、なんてどうしようもなく思ってしまった。僕だって、ずっと忘れられなかった。偶然に出会えた今この瞬間のチャンスを逃したくない。
     握り返した手を引かれ、立ち上がる。二人分の会計をカウンターに置いた先輩にいざなわれて。先輩と二人、バーを後にした。


    ***


     浮上する意識にぱちりと目を開ける。視界に入ってきた自室じゃない天井をぼんやり眺めた所で、そうだあの後先輩とホテルに来たんだと思い出す。
     視線を横にずらせば、広がるのは白いシーツだけ。伸ばす腕に触れるさらりとしたリネンの冷たさに、小さく息を吐き出す。広いベッドには僕だけが寝ていた。遠くから聞こえてくる水音は、先輩がシャワーを浴びている音だろう。
     何気なく身を捩ったところで、重く怠い腰の違和感にびく、と肩が揺れる。意識が飛ぶ直前までしていた行為が蘇り、かあっと身体と顔が熱くなる。あられもない格好で、あられもない場所を晒し、暴かれて。僕は先輩に抱かれた。
     触れる先輩の掌は冷たく、どこを愛撫されてもビクビクと過敏に反応してしまって。それなのに火が点るようにそこから快楽が広がるのが不思議で、すごく、気持ち良かった。低い体温の先輩の身体が徐々に血が通うように温かくなって。僕の熱が移っていくみたいで。重なって触れ合う肌が同じ温度に馴染んでしっとり汗ばんでいくのが、たまらなく愛おしかった。
     初めて抱かれたというのに、信じられないくらいに蕩けさせられて、訳が分からなくなるまで繰り返し上り詰めてしまった。好きな人に……ずっと好きだった人に求められて抱かれているなんて。それだけで脳味噌は感情を高めて気持ち良さを増していった。けど……好きという言葉を決して口には出して言えない辛さが常に付き纏う行為は、同じだけの強さで僕を苦しめていた。
     きゅ、と胸元で握りしめた拳の中に爪が突き刺さる。微かな痛みを閉じた瞳で感じていると、不意にけほっと喉が詰まる。散々喘いで掠れた喉に、乾燥した空気が追い打ちをかけていた。ケホケホ咳き込みながら身を起こせば、ベッドサイドには新しいミネラルウォーターのボトルが置かれていた。
     有り難く思いながら蓋を開けて喉を潤す。喉元に落ちる冷たさに目を細めたところで、壁掛けのハンガーにきちんと吊るされた自分と先輩のスーツに気付いた。改めて自分の身が綺麗に浄められている事にも気付く。ミネラルウォーターもスーツも、身綺麗にされているのも。間違いなく先輩がしてくれたのだろう。相変わらずクローバー先輩は面倒見がよくて、気遣いと気配りの出来る凄い人だ。
     と、その時ガチャリという音と共に風呂場からバスローブを身に纏った先輩が現れた。僕が起きているのに気付き、少しだけ慌てたように近づいてくる。
    「起きたのか、身体は大丈夫か?」
    「あ、は、はい。大丈夫です……!」
     心配されるのが気恥ずかしく、意識を飛ばしている間に世話を掛けてしまった事が居た堪れなくて、こくこくと頷く。耳たぶまで熱くて、見なくても赤くなっているのが自分でも分かった。
    「あの、クローバー先輩……」
     礼を口にしようとしたところで、頭にふわりと掌が置かれる。サラサラと髪を梳くように指通しされて撫でられるのは、学生時代から大好きだった先輩の撫で方。くすぐったくて、でも安心感のある、先輩の大きな掌。呼吸が一瞬止まりそうになって、唇を噛み締める。
    「……デュース、トレイと呼んでくれないか? もう俺はお前の先輩じゃないんだ」
     顔を上げれば、柔らかく微笑む瞳と目が合った。呼び捨てのファーストネーム。そんなのまるで、恋人みたいな呼び方だ。だけど身体を繋げても、どれだけの感情が胸を占めても。それを外に出す事は赦されない。僕と先輩は恋人同士にはなれない。これから先も絶対に恋人になる事は、ない。
    「……分かりました、トレイ」
     それでも。今だけは、呼び名だけは。赦して欲しいと、精一杯に微笑み返して口にした呼び名は、ぎこちなく静まり返った部屋に響いた。
     途端に、力強くぎゅっと抱き寄せられる。閉じ込められた腕の中、聞こえてきたのは荒い呼吸と、感情を押し殺したような先輩の台詞だった。
    「……俺はデュースを愛してなんかいないし、お前も俺を愛していない。なあ、そうだよな?」
     ひゅっと喉が詰まる。言葉の真意がどうであれ、その台詞は、胸がズタズタに裂かれるような痛みを僕に与えた。先輩がどんな顔をしているのか見えなくて。ああでもきっと。口にしながら深く傷ついている。僕と、同じように。だって、抱き締める腕が震えてしまっている。苦しくて痛くて、息が出来なくなりそうだ。それでも嘘の誓いを今ここで口にしなければ、本当の気持ちを告げてしまいそうで。だからこそ先輩も口にしたんだと、分かってしまったから。ぐっと力を入れて、叫び出しそうな気持ちとは真逆の言葉を必死に告げる。
    「はい。僕もトレイを、愛してなんかいません」
    「……ああ、それでいい。……なあ、またこうして俺と会ってくれるか?」
     それは今後もこうして二人で会って身を重ねる事を意味していて。思ってもいない嘘の台詞を口にしてでも。発展も後退もないままの不毛な関係で、愛を決して口にはしないように。十分に分かりながらも、ここで終わらせたくなどはなくて。はい、と答えた僕の言葉も微かに震えていた。
     笑った先輩が、僕の手中のミネラルウォーターのペットボトルに重なり取り上げる。ベッドサイドに置かれるのを横目にしていたら、すいっと顎を掬い上げられて。欲に潤んだ瞳と瞳がかち合い絡み合う。先輩の顔が近づいて、唇が重なって。
    「んっ、ん……ふぁ、あ……っ、と、とれぇ……」
    「は、デュース、デュース……っ」
     重なった口づけはすぐに深いものに変わる。ぬるぬると舌と舌を絡ませ合い、口腔内の感じる場所を刺激されるのに息が上がり、上擦った声が漏れる。縋るように先輩のバスローブを握り締めれば、肩を押されてゆっくりとベッドに押し倒されて。覆い被さるように乗り上げた先輩に、全てを預けるように。目を閉じた僕は再び身を任せていった。



     ……それから数ヶ月過ぎて。先輩とは幾度となく逢瀬を繰り返していた。最初は確かに身体だけでいいと思っていたのに。恐ろしい事に、人間の欲望には際限がなくて。会うたびに、身体を重ねるたびに。愛してなどいないと、互いに嘘の誓いを口にするたびに。どうしようもなく、身体だけじゃなく心も欲しいと願っている自分に気付いていた。



    「うっわお前ひでぇ顔ー。ちゃんと寝てんのー?」
     かたん、と目の前に置かれたランチの乗ったトレーに顔を上げる。真向かいには白衣姿のエースがポケットに手を突っ込み呆れたように僕を見下ろしていた。
     昼休みの社員食堂。卒業後、魔法解析官の職についたエースとはこうして時々顔を合わせる事があった。卒業してからも同じ組織に所属する事になるなんて、いい加減こいつとも腐れ縁だ。
    「なに、そんなヤバいヤマでも追ってんの?」
    「……そんなとこだ。エースこそ疲れた顔してるぞ?」
     昔からやたらと察しの良いエースに悟られるわけにはいかないと、冷静を装い切り返す。するとエースは思った以上の勢いで僕の言葉に食いついてきた。
    「いっやマジで疲れてんだって! 先週の、違法魔法薬作って売ってた男がしょっ引かれた事件のせいでさぁ‼︎ オレここんとこずーっと毎日終電ギリギリまで残業かそのまま泊まり込みなの! ありえねぇよほんと‼︎」
    「ああ、あれか……」
     その事件なら僕も現場で関わっていたから知っている。表向きは町医者を経営していた男が、裏で違法に魔法薬を精製して販売していた事件だ。大量の段ボールに詰め込まれた押収品を一つ一つ解析するのは確かに骨が折れる事だろうと多少なりともエースに同情する。
    「指定禁忌魔法薬なんかも当たり前みてぇな顔でゴロゴロ出てきて神経使うしさぁ……少量で人の命奪うような代物を作って売るとか、どんな神経してんだって話だよ。いくら求めてきて買う奴がいるからって人殺しの罪の意識とかねーのかな?」
    「……。そうだな」
     ブツブツ文句を口にしながら、エースは大口を開けてバクバクと昼飯をかき込んでいる。それを眺め、そっとスーツの内ポケットへと意識を向ける。ガラスの小瓶が収まっている固くて冷たい感覚。
    「……なぁ、デュースさ、なんか変な事考えてねぇよな?」
     ぱっと顔を上げれば、エースが神妙な顔で僕を見ていた。見透かすようなチェリーレッドが窄められる。
    「なんだよそれ」
    「いや……お前昔っからこうって決めたら譲らねーし、思い込んだら一直線っつーか。ブレーキ壊れてるみてぇなとこあるからさー。なんか思い詰めたみてーな、変に腹括ったような顔してるし?」
    「大袈裟だな、事件が立て込んでて疲れてるだけだ。それにこの仕事をしてる以上、命の保証なんてないし何があるか分からないんだから、腹くらいいつも括ってる」
    「ふーん、ならいっけどー」
     ……相変わらず敏い奴だ。だけど僕も昔のままじゃない。エースがこちらの僅かな仕草すらも見落とさないのも分かっている。普段通り、動揺など微塵も感じさせない顔でさらりと返した。ついでに「心配してくれてありがとうな」と付け足せば、エースは苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
    「はぁー? べっつに心配とかじゃねーっつーの!」
     照れ隠しのように残りの飯をガツガツと食らい尽くすと、さっさとエースは立ち上がる。素直じゃない所も学生時代からずっと変わらない。
    「はーあ、ご馳走様ー。昼飯も落ち着いて食えないとか最悪〜。解析官とかなるんじゃなかったわ。こんな休み無いとか聞いてないっつーの!」
     なおも文句を垂れつつも、仕事に戻るのだろう。食べ終わった食器の乗ったトレーを片手にエースは僕に向かい「じゃーな」と手を振ると去っていく。
     後ろ姿を見送り、同じように仕事に戻るために僕も自分のトレーを片付ける。社員食堂を後にして廊下を歩きながら。胸元の内ポケットに上から触れる。
     もしも、万が一。先輩と自分の今の関係が最悪の形で終わる時が来たら。その時のために、なんて。甘美な期待だ。許されない行為だ。こんなの覚悟でもなんでもない、ただの自分への正当化で、独りよがりで、エゴでしかない。
     端から見たら僕はとても馬鹿なことをしているんだろう。何もかも、全部、間違っているんだろう。だけど、もう。触れるポケットの下、脈打つ心臓が。先輩の事を想う心が、ぐずぐずに崩れて溶け始めているみたいで。正常な形を保つ事すら出来そうになかった。
     ……いつから僕はこんなに我儘になったんだろう。幼い頃から片親だったから、我慢も、手に入らないものがある事も当たり前で。諦める事には慣れていたのに。なのに何を犠牲にしても、どうしても先輩の……トレイの心が欲しいと切望してしまう。こんなに切実に飢えて何かを求める、狂った自分を知らなかった。
     そんな思考になりながら、不意に皮肉混じりの笑みが溢れる。おかしな話だな、心が溶け出してるみたいだなんて。

     ……だって、溶かしてしまうのは僕の方のはずなのに。



    ***



     幼少期から異様に体温が低かった。それがただの体質ではなく、俺自身がアイスであるからだと診断されたのはエレメンタリースクールの頃だ。

    「いいかいトレイくん。これから先、君に好きだと伝えてくる子がいても、簡単に返事をしちゃあいけないよ。もしその子のことが本当に好きだと思っていても、絶対にその気持ちを口に出しちゃ駄目だ。そうしないと君自身の身体が溶けて死んでしまうからね」
     かかりつけの老医師は穏やかに、けれども真剣に俺を見つめて言い聞かせてきた。まだ物心がつく前の乳幼児の頃から風邪をひけば診てもらい、怪我をすれば治療してもらっていた『近所のおじいちゃん先生』の言葉。「わかりました」と聞き分けの良い返事をした。隣に経つおふくろが今にも泣き出しそうな顔をしていたから。その時の俺は間違いなく聞き分けの良い長男の顔をしていたんだろう。
     ……ああ、俺には人から向けられる愛を同じように返す事が出来ないのか。両親のように互いを大切に想う人と出会い、結ばれて家庭を築くことは出来ないんだな。
     はっきりとそんな事を思った訳ではないけれど。幼少期の子供にとって、死なんてのは恐ろしいものに違いなくて。ましてや身体が溶ける死に様なんて恐怖だった。とにかく死にたくなければ人を好きになったり、好きだと言われても同じように返さなきゃいいのだと、そうするしかないのだと思った。
     ……俺には人を愛する資格がないんだと、遠回しに言われた気がした。
     いつしか俺の根底には諦念から来る事勿れ主義の考えが根付くようになっていた。過程や愛情なんてのはどうでもいい。平穏無事に、何事もなく日々過ぎ去ればそれでいい。何に於いてもほどほどの結果を残せればそれで良くて、注目されたり活躍したり一番にならなくていい。誰かの特別になったり、誰かを特別に想うことなんてなくていい。どうせ自分には縁のない話なのだから。
     そうして人を愛することをさっぱりと諦めきっていたのに。唯一、諦めきれなかったのがデュースだった。
     最初はただの同じ寮の後輩だった。入学早々、同じ一年生のエースと一緒になって問題を起こすとんでもない奴が入ってきたもんだな、と思っていた。けれどもリドルのオーバーブロットの件を機に、徐々にその印象は変わっていった。
     デュースははっきり言ってしまえば要領が悪く、当時は成績も芳しくなかった。だが過去の自分の行いを悔やみ、努力を怠らない真面目な子だった。こうと決めたら真っ直ぐに走っていける強さと純真さがあった。
     ナイトレイブンカレッジには似つかわしくないほどに素直で従順で。年上を立てる性格に加えて、面倒ごとに絡まれやすい危なっかしさが相まって。これでもかと俺の庇護欲を刺激してきた。「クローバー先輩!」と人懐っこく慕われてしまえば、愛おしくて可愛くて。気付いた時には後輩の中では特に目を掛ける存在になっていた。
     星送りのスターゲイザーの役に共に選ばれた時も。笑われても馬鹿にされても役割を果たそうと奮闘していた。それから、自分の夢を困難であっても絶対に諦めないんだと、真っ直ぐな瞳で語る姿が眩しかった。デュースは諦めきって生きてきた自分にはない全てで構成されて、出来ている。そのひたむきさが宝石のように輝いて見えた。
     なのに、空っぽの俺を憧れで格好良いと、尊敬するときらきらする目で見てくるから。その時はっきりと分かった。俺はデュースが好きだと。デュースの特別になりたくて、デュースを特別に想いたかった。
     ひとたび自覚してしまえばもう、止められなくて。何かとさり気なく気を回しては、デュースを特別扱いして甘やかすのに夢中になっていた。そのうちに俺だけではなく、デュースからも熱の籠った視線を感じるようになって。恋愛感情としての好意を向けられているのがはっきりと分かった。『アイスとジュースは惹かれ合う運命にある』というのが世の定説だ。恐らくはデュースがジュースである事も分かっていた。
     諦めなければいけない、好きになってはいけないと分かっている。せめて、俺が卒業するまでのほんのひと時だけは。デュースを好きでいさせて欲しい。卒業したら必ず決別出来るようにすると、自分に言い聞かせて。好きだとは絶対に告げないし、例えデュースから告げられても拒否するつもりでいた。俺を初めてキラキラと眩しい光で照らしてくれたから。最後までデュースにとっての憧れのままで去って行きたかった。

    「せ、先輩が、クローバー先輩がっ、好き、なんです……っごめ、なさ……ごめんなさいっ」
     卒業式の後、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら告げてきたデュースを見た時になって。初めて俺は自分の甘い考えに後悔をした。
     分かっていたはずなのに。何故自分はアイスなのだろうと幾度となく繰り返してきた問いを、改めて強く強く、思った。デュースの特別でありたい一方で、いつだって普通の男になりたかった。「俺は普通の男だよ」と普段から口にしていれば、そのうちになれるんじゃないかなんて。単純な自己暗示だ。普通に、当たり前に。デュースを好きでよくて、デュースからの好きに応えられる、普通の男になれたら。どんなにか良かっただろう。
     今まで必死に押さえつけていたものが溢れ出て止められないというように、デュースは泣きじゃくっていた。身体中が氷水を浴びせられたように冷える思いだった。
     謝らないで欲しい。謝るのはこっちだ。勝手に卒業までだと自分の中で決めて、思わせぶりに甘やかして構っておいて、デュースの気持ちには見ないフリで、俺は一体何をしてるんだろう。
     泣かせたくなんてなかったんだ。好きだと、俺もお前がずっと好きだったんだと伝えて抱きしめて、笑わせたかった。その瞬間、代償に溶けて死んでもいいとさえ、本気で思った。
     僅かに残った理性だけが、俺が今ここで溶けて死んだら、デュースは責任を感じてまた泣いてしまうだろう、今後もずっと罪悪感を背負わせてしまうだろうと歯止めをかけていて。お前が悪いんじゃない、全部俺のせいなんだとどうにか伝えるために、今まではユニーク魔法で上書きをしていた体温を素のままでデュースの頬を挟んだ。気付いてくれたら、なんて。これも傲慢でしかないけれど。
     冷たい両手に驚いたのだろう。目を見開いたデュースはぴたりと涙を止めて俺を見つめていた。泣き止んだ事に安堵して、同時に傷つけてしまう事を悔やみながら。噛み締めるように拒否の言葉を口にして。その後、走り去ったデュースを追うことは出来ずにいた。
     自業自得だ。一人きり残された自分にはもう、照らしてくれる光などないのだと、これから先の暗い未来を思うだけだった。またデュースと出会う前の、諦めきって過ごす日々に戻るだけだ。

     ……それなのにまた引き合うように出会ってしまうなんて。神様はあまりにも酷な悪戯が好きらしい。



     店の表の扉に『close』の札を掛けて、店内の電気を落とす。俺以外のスタッフは皆上がった後の静まり返ったバックヤードで、帰宅のために着替えていた時だった。スマホに届いているメッセージに気付く。俺が送ったメッセージにデュースからの返事が返ってきていた。次の約束の待ち合わせ時刻等の内容だ。
     あの再会した日からデュースとは、もう何度も約束を交わしては会うのを繰り返している。身体だけの関係で、愛していないと本心とは真逆の気持ちを口にし合う、救いようのない夜をやめられずにいた。
     きちんとした敬語の簡素なメッセージに、ふっと溜め息に似た笑みが漏れる。喜んでしまいそうになる自分を諌めるように。両手で握りしめた無機質で温度のないスマホを額に押し当てる。
     ……好きだと伝えたい。あの時言えなかった言葉を、伝えてしまいたい。デュースからも本当の心を聞かせて欲しい。けれどももう、俺がアイスだと知っているデュースは俺を好きだとは決して口には出来ないだろう。
     そこまでを理解しながら、せめてもと繋ぎ止めるために身体の関係に持ち込んだ俺は狡くて酷い奴だ。デュースが拒めやしないだろうと分かりながら提案したのだから。皮肉な乾いた笑いが溢れる。
     ……きっと、こんなのはそう長くは続かない。会うたびに覚悟を決めたような顔をするデュースを見て、思う。遠からず限界が来ると分かっている。「もうこんな事はやめましょう」と言われてデュースが離れていって、金輪際会わなければ。それが本当ならば最良なのだろう。
     だが、もしも。もしもデュースから再び抑えきれずに好きだと言われたら。その時は……──。
     ……いつから俺はこんなに我儘になったんだろう。幼い頃から長男として、妹や弟を優先させてきた。自分は我慢も、手に入らないものにも、諦める事にも慣れていたというのに。なのに何を犠牲にしても自分の命をかけてまでも、どうしてもデュースの心が欲しいと切望してしまっている、なんて。




     『その時』が来たのは、とある明け方の事だった。いつものようにデュースとホテルで会い、抱き合った後のこと。
     俺とデュースが暮らす街は決して近いとは言えない距離であり、会うときは中間地点の街で待ち合わせをしていた。互いに終電に間に合うように分かれるのが暗黙の了解で。それは恋人という関係ではないのだから共に朝を迎える事はないようにという、最低限の決まりのようなものだった。
     けれどもその日、行為の後で、疲れ果てたようにぐっすりとデュースは眠り込んでしまった。仕事が大変な中で僅かな時間を見つけては約束を取り付けてきていることは、くたびれた色が濃く浮かぶ寝顔を見れば想像に難くなかった。無理をさせてしまった申し訳なさが心苦しく、心配から置いて帰る事などは出来ずに隣で同じように眠っていた。
     不意に微かに聞こえてくる押し殺した嗚咽で、微睡みから意識が戻ってくる。ぼんやりと薄く開いた瞳にはまだ夜が明ける前の淡い闇が映って見える。ぐず、とくぐもった涙声が俺の名前を呼んでいた。
    「……っ、レイ、トレイ……」
     眼鏡をはずしているせいではっきりと見えない中、ネイビーの形の良い頭がシーツぎゅっと握りしめて小刻みに震えているのが見えた。囁くような小声で、必死な様子でシーツに顔を埋めて。ああ、また泣いている。泣かせたくないのに……お前には笑っていて欲しいのに。
    「……き、です、すき……好きになって、……っなさ、ごめんなさ……」
     デュースは俺が起きている事には気付いていない。今だけなら、この瞬間だけなら、本当の心を吐き出せると。赦しを乞うように、苦悶するように繰り返し呟かれる言葉。悲痛な叫びに似たそれは、まるで重く濃い、液体みたいだった。押さえ込んでいたものが止められないと、溢れる感情が早朝の薄青い空気の中に満ちて、溺れるように息が苦しくなる。
     ……俺は知っている。デュースが人一倍我慢強くて簡単には弱音なんて吐かない奴だと、知っている。こんなにも切羽詰まったように泣きながら呟くなんて、どれだけ追い詰められているんだろう。好きになってごめんなさいなんて。悲しい事を言わないで欲しい。
    「デュース、俺もお前が好きだよ」
    「っ!?」
     気付いた時には声に出していた。驚愕にばっと勢いよく上げたデュースの目がこれ以上にないほど大きく見開かれる。濡れたピーコックグリーンの美しい瞳からぼろりと大粒の透明な滴が零れ落ちた。
    「トレイ、聞いて……? いやっ、な、何言ってるんですか!? そんな事言ったら……っ!」
     狼狽えたように叫ぶデュースの言葉は途中で息を飲んだ音でかき消えた。瞳からはまた新たな涙の滴がぼろぼろと零れ落ちる。起き上がり掲げた俺の掌は先から崩れ落ちるように徐々に液体になり始めていたからだ。
    「っ! ダメ、ダメです、こんなっ……そうだ、上書き! トレイのユニーク魔法で……!」
    「いや、無理だ」
     本当に溶け始めている俺を目の当たりにして、どうにかしようと必死になるデュースにきっぱりと告げる。
    「俺のユニーク魔法は落書きみたいなもので短時間しか効果はない。凌ぎ続けることは不可能で、せいぜい先に魔力が尽きてオーバーブロットするのがオチだ」
    「そんな……!」
    「わかってる、いいんだ。どうしてもお前に伝えたかった」
     真っ青な顔になるデュースに穏やかな笑みで首を振る。
     もしも万が一、デュースが耐えきれずに好きと言ってしまった時がくるのなら。応えたいと思っていた。例え、自分が死んでしまうとしても。もう二度と自分の心に嘘をつきたくなかった。一度は手放したのに、また引き合うように出会ってしまった。デュースと出会うまで、それから離れていた十数年間、生きていても死んでいても変わらないような日々だった。
    「……それならいっそ、デュースになら殺されてもいいと思ったんだ。酷い奴だな、俺は」
     自嘲する俺の前でデュースは項垂れたように俯いている。完全に溶けて消えてしまうまでの間、デュースは決して悪くないんだと、罪悪感を背負わないようにと言葉を尽くそうとした時だった。
     徐にぱっと立ち上がったデュースは壁にかけられていたスーツの上着から何かを取り出して戻ってくる。手に握られていたのは小さな瓶で。それはなんだと問う前に蓋を開けたデュースは躊躇いなく口を付け、中身の液体をあおり嚥下する。途端、ぐっと息を詰めたと思ったら胸元を抑え、えずくように激しく咳き込み始める。口元を抑える掌に鮮血が見え、思わず叫ぶ。
    「おいデュースッ!? なんだそれは……!」
    「……禁忌、魔法薬です……数分後に、死に至る……」
    「なっ!?」
     掠れた声で途切れ途切れに告げられた言葉が信じられず目の前が真っ黒になる。どうしてそんなものを、と慌てて両肩を掴めば泣きそうな顔で笑うデュースが俺を見つめていた。
    「勝手に一人だけで背負うなんて、酷いです……許しません……僕の愛がトレイを殺すのなら、僕だってトレイの愛で死にたい……ベッドザリミット、です。僕も傲慢で、身勝手な、酷い奴ですね」
     言い終えた途端に苛烈な勢いで激しく咳き込んだデュースの口から黒くくすんだ血が飛び散り、白い肌を汚す。たまらず抱きしめた俺の身体も、もう大半が水となって液化していた。
    「デュース、デュースッ……」
    「っ、とれ、やっと、ちゃんと言える……すき、すきですっ……!」
    「ああ、俺もお前を愛してるっ……!」
     溢れるのが涙なのか、溶けていく自分の身体なのかわからない。それでもようやくなんの憚りもなく口に出来る、今までずっと抑え込んできた心を。残り少ない時を惜しむように、繰り返し繰り返し、互いに口にし合った。
    「……デュース、俺を愛してくれて、俺に愛させてくれてありがとう。愛する資格がないと思っていた俺に与えてくれた事を、選んでくれた事を忘れない」
     例え、この身が溶けて消えても覚えている。必ず。
     そう微笑んで告げた俺に、デュースは大きく目を開き、それからくしゃりと顔を歪めてゆるゆると首を横に振る。
    「っ、ぼくは……っ、本当は、ただ自分が、怖くて……、トレイを死なせる事も、トレイのいなくなった世界で一人で生きていく事もっ、だから、ぜんぜん、そんなトレイが言う、立派なものじゃないんです……」
    「それでもお前が俺の世界に光を射してくれたんだ」
     間違いなく、お前が俺を照らす光だった。泣きじゃくるデュースの唇にそっと唇を重ねる。赤く濡れたそこは血の味がしそうなものなのに。もうなんの味もしなかった。
    「もしも、生まれ変われるのなら、次はアイスやジュースなんてもののない世界で出会いたい。何処にいてもどんな姿でも。必ずデュースを見つけ出す」
    「僕も、です。必ず、トレイを見つけます」
     強い眼差しで頷くデュースを笑って焼き付ける。……それが、最後の記憶だった。


     パシャンと軽い音を立てて。僕を抱きしめていた重みも温度も何もかもが消える。代わりにトレイが着ていた濡れたパイル地のバスローブだけが僕の腕の中に残る。咳き込んだ途端に喉元から込み上げる血液が、抑えきれずに抱えたバスローブに散る。白い生地に染みる赤さを、ヒューヒューと細くなる呼吸と、遠のき始める意識でぼうっと眺める。
     僕とトレイの事も悲壮なアイスとジュースの結末だと、事件として報告書にまとめられるんだろう。いつかの僕のように、結果だけを見て悲しい恋の結末だと、捉えられるのだろう。憐れんだり、胸を痛めたり、理解されずに眉を顰められたりするんだろう。
     けれど誰も本当には分かりはしない。僕がトレイを想っていた心を、トレイが僕を想っていた心を。選んだ選択に込められた想いを。当事者の二人にしか分からない。僕とトレイだけの切り取られた世界だ。
     それは少し寂しく孤独で。同時に誇らしくて。誰にも譲らないんだと、強く胸元を掻き抱く。消えてしまった、トレイがいた証の濡れたバスローブごと。腕の中のそれは不思議と仄かに温かいような、そんな気がして。小さく笑みを浮かべたまま、そっと目を閉じた。
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    Replies from the creator

    ほしみや

    MAIKINGトレデュとケイエーの女体化百合のお話。
    (途中まで。続きを書いたら増えます)
    ※ナイトレイブンカレッジが女子校
    ※全員女の子
    ※ハーツラビュル寮にのみ姉妹制度がある
    という捏造設定です。
    書きたいエピソードがいくつかあるので、全てを書き終わったら手直しをしてまとめてpixivにアップする予定です。
    (こちらは以前、エース受けワンライで書いたにょたゆりケイエーちゃんのSSが元になっています)
    トランプ兵達の秘密の花園【始まりの話】

     ハーツラビュル寮には、いわゆる姉妹制度というものが存在する。ナイトレイブンカレッジの中でハーツラビュル寮にのみ存在する制度だ。
     なにしろトランプ兵たちは覚えることが多い。全810条にも及ぶ女王の法律を始め、独特の規律、『なんでもない日』のパーティーは準備から片付けに至るまで事細かにルールが決まっている。入学したての一年生などは毎年困惑し、戸惑ってしまう。
     そのため、いつしか上級生が下級生と擬似的に『姉妹』になるという制度が生まれ、伝統として根付いていた。日常生活から姉である上級生が下級生の世話を焼き、教えを伝え、規律と秩序を守るのが目的とされている。
     姉妹になるための方法は主に二通り。上級生が気に入った下級生へ妹にならないか誘うか、あるいは逆に下級生が姉になって欲しい上級生に申し出るか。
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