「オーターちょっと付き合えよ」
中庭に面した廊下に出た途端、そんな声が聞こえてきた。恋人の名前に思わず辺りを見回すと、背の高い後ろ姿がふたつ、揃って廊下の先に消えていくところだった。その先は喫煙室だ。
(……煙草、吸うのか)
別に知らなかったわけではない。過去には吸っていたというのは何かの折に聞かされたし(たぶん神覚者の飲み会)、彼は自分と交際を始める前にはやめていた筈だ。だからショックだとかそういうのではなく。
(……見てえ)
彼が喫煙している姿を見たことがない。単純に見てみたかった。しかし声をかけようにも後ろ姿は既に喫煙室の中に入って行ってしまった。今まで一度も入ったことのない部屋。用もないのに自分が足を踏み入れるのははばかられる。喫煙室は廊下のどん詰まりにあって前を通り過ぎるというのもできないし、そうこうしている間に彼らは出てきてしまうだろう。忙しいオーターがいつまでも休憩しているとは考えにくい。詰みだな。仕方なくレインは諦めて元々行こうとしていた方へ足を向けた。
「煙草吸ってるやついるか」
「局長……!!?」
ざわつく執務室。いや咎めてるわけじゃねえ、とレインが言ってもその場にいる魔道具職員全員がこちらを呆気に取られて注視している。そんなに注目されるようなことを聞こうとしたわけじゃないんだが。レインが続きを言い難くなっていると、近くにいた職員が、恐る恐るといったように口を開いた。
「まさか、局長が吸うんですか」
「ええッ!??レイン様が!??」
「いや、そういうわけじゃ」
「だめです健康に悪い!!肺が真っ黒になるんですよ!??」
「そういうお年頃ですか!??シガレットチョコ買ってきましょうか」
「待ってくれ」
自分はもう二十歳も超えている、立派な大人である。今のところ予定はないが喫煙していても悪くはない筈だ。おかしくはあるかもしれないが。
「ただ美味いのか気になっただけだ」
「あ〜〜〜〜〜………」
はいはいはい……と言いたげな職員達の生温かい表情。完全にヤンチャしたいガキを見るような目線だが、もう否定するのも面倒だ。すると仕方ないなというようにひとりの職員がローブの懐を探り出した。
「まーやってみないとわかんないでしょうしね」
「おい、ここで?」
「窓開けりゃいーじゃん。いっかいだけ」
臆する周りを尻目にはい、と差し出されたそれを、レインはそっと指で摘んで抜き取った。白くて細い、何となく燻ったような匂いのする煙草の筒。手にすることすら初めてだ。職員は杖でちょいちょいとレインの手にある煙草を指して、
「咥える方はこっち側。息吸って」
ボ、と杖の先端に火が灯る。息を吸いながら煙草をその火に近付けると、やがて苦いようなざらざらした空気が口の中に侵入してきた。むせそうになるのを耐え、ゆっくりと細く吐き出す。しかし最後の最後でげほっと咳が出て、一度咳をすると止まらなくなった。
「大丈夫ですか〜?」
「ッゲホ、だい、じょ、ぅ゙」
「最初ちょっとお、と思ったけどやっぱむせちゃいますよね〜」
唇の内側の湿った部分から剥がすように、その白い筒を指で挟んで口の外に逃がした。何だか大層目に染みるものだ、煙草というのは。レインは涙目になりながら咳がおさまるのを待った。その間に危ないからと煙草は取り上げられ、携帯灰皿に押し込まれた。待ってくれ、まだ吸えるのに。
「どうです、美味かったですか」
「……っ、わかんねえ」
まあ局長には似合わないよね、とひとりが言うのに他の職員もうんうんと頷いた。口直しと渡された飴玉を口に入れるのは何となく負けた気がして、開けずにポケットに滑り込ませた。
その日のうちにレインは煙草を購入した。銘柄なんて何も分からなかったので完全にジャケ買いだ。懐かしいアドラの鷲に似たマークの煙草を選んで、家に帰って念入りに結界と防御魔法を敷いてウサギを隔離し、窓を開けていざ、尋常に。
「…………ふーーーっ………」
なんか頭くらくらする。煙いし、美味いのかこれ。それでも夜空を見上げながら何回か煙を吸って吐いてしているうちに、煙草はみるみる短くなっていった。灰はそのまま窓の外に落としていたが、しまった、そういえば灰皿を用意してなかった。なんかいらない皿、いやもうパルチザンでいいか、
「どうぞ」
「あ、…………!???」
ちなみに差し出された如何にも販促用の携帯灰皿にありがたく煙草を突っ込んでお礼を言おうとした「あ」と、それを差し出してきた相手を認識した「」である。
「いや、ちが、……今日来るんでしたか」
オーターは煙草は健康を害します的な文言が入った灰皿の口をぱくんと閉じて「今日来るんでしたよ」とすまして言った。だが何となく感じる面白がっているような気配。どっから入ってきたんだ。いや、普通に玄関だろう、合鍵渡してるし。いやでも気配を消して近付いてくるのは無しだろう、
「何ですかその灰皿」
「喫煙室にあったから頂いて来ました。早速役に立って良かった」
窓枠に置きっぱなしになっていた煙草のパッケージを手に取って、オーターはとんとんと叩いて一本取り出した。フィルター近くを指で挟んで、その手のひらをこちらに突き出してくる。
「咥えて」
「……っ」
有無を言わさず押し付けられるその小さな筒の先端を唇で挟むと、オーターも笑って一本取り出してその口に咥えた。手際良く火を付ける様は一瞬過ぎて、まるで手品みたいだった。
「……どうしてそんなにうろたえてるんです?君は大人で、どんな嗜好を試そうと自由なんですよ」
「い、や……」
悪戯がバレた子供みたいだ、言われた通り堂々としていれば良い。でも出来ればこんな軽率な様は見られたくなかった。むしろ貴方のその姿が見たかったのだ。俯く視線、細く立ち上る煙、ふぅと長く息を吐き出す時は窓の方を向いて。夜の暗い空気に溶けて消えていく。
「…………オレにも火ください」
オーターはちらとこちらに目を向けて、何か摘むような指先を顔の前に突き出してくる。先程は確かにこうやって指を鳴らすような仕草で火をつけていた。が、レインはそれを押し退けた。
「違うこっち」
「?」
手のひらを被せるように彼の手を脇に退けて、ぐいと煙草を咥えた顔を近付けた。オーターが目を見開きながら顔を背けて避けようとする。それを更に追いかけて、額がくっつく程まで近付いて、煙草の先同士を触れさせた。
「…………」
そこでやっとこちらの意図を悟ったのか、オーターが動きを止めたのを見て、レインは軽く息を吸った。触れ合った先端が徐々に熱を灯して赤らんでいくのを目を伏せて見守る。彼は恐らく自分の方を見ているのだろう。紫煙が立ち上るのを期に身を離すと、オーターは煙を吐き出しながら「……危ないでしょう」と言った。今度は煙を窓の外に逃がしはしなかった。
「すみません」
煙を吸い込んで吐き出す。やっぱり少しくらくらする気がしたが、むせたりしないよう死ぬ気で耐えた。焦げた草か紙の匂い、肺が少し熱くなる。彼の方はさすが様になっていた。しかしこれが見たくて自分でも吸ってみたのに、そこまで感動するような姿ではなかった。オーターが煙草を吸っている、ただそれだけだ。灰を落としたくて窓の外に腕を伸ばすと、彼は呆れたようにまた灰皿の口を開いて差し出してきて、
「……身体に悪いですよ」
「オーターさんこそ」
「……どういう心境の変化か、聞いた方がいいですか。面談するか?」
「面談はいいです」
貴方はオレのメンターじゃなくて恋人なんだから。
差し出された灰皿に煙草を突っ込んで、ついでに彼の咥えていた煙草も抜き取った。
「オーターさんはどうして吸っていたんですか」
「…………昼のことですか?別に、誘われたから付き合っただけですよ。それを見て吸ってみようと思ったんですか?」
「……ちょっと気になっただけです」
「なら声をかければ良かったのに」
そうすれば私が教えてあげたのに。
オーターはそう言ってレインの指先の煙草を砂の魔法で揉み消した。そのままゆっくりと口付けてくる。
煙草を吸った人間とのキスは灰皿に顔を突っ込むようなものだと聞いたことがあるが、今までオーターとキスしてそんな風に思ったことはなかった。今日初めて吸うのを見たのだから当然だ、絡んだ舌からは自分と同じ味がした。苦くて煙を含んでいて、それでいて微かに甘い。この世でもっともほろにがい味。
「……不思議な気分ですね。君から煙草の味がするのは」
「美味しくいただけそうですか」
「…………機嫌を直してくれ」
そう言ってオーターはレインを優しく抱きしめた。本当は他の誰かとふたりきりで密室に入っていくのを見て胸がざわついた。自分の知らない姿があるのが嫌だった。全部、おままごとみたいな嫉妬だ。ささくれだった気持ちは煙草が少しだけまろくしてくれた。なるほど、だからみんな身体に悪いとわかっていても煙草を吸うのか。
「ご相伴にはあずかれますから。今後はオレの前だけにしてください」
「……お前も悪い顔が出来るようになったじゃないか」
ええ、まあ。
貴方と付き合ってれば。
局長には似合わない、と言ってくれた職員達の顔がぼんやり浮かぶ。悪りいな、お前達が思ってくれてる程、オレはいい奴じゃあないんだ。神覚者なんてやってるから悪い奴でもねえんだろうが。
だらりと垂らしたままだった腕を持ち上げて、そっと彼の背中に回した。もう鼻が馬鹿になっているのか、これだけ密着しても煙の匂いは何もわからなかった。剥き出しの感情と一緒に肺に溶けて、もう吐き出せない。
「私が教えてあげたかった」
そう言って笑うオーターの顔こそが、世界で一番わるい顔に見えた。