3.
咄嗟に提案してしまった同衾に、後悔するのは遅過ぎる。まず第一に共に寝るにはベッドが狭過ぎて、朝起きると身体が痛い。それはワースも同じようで、たまにベッドの下の床に転がって寝ていたりするので、オーターはあの部屋からマットレスを運んできてそこに敷いた。大人しくその上で寝ている日とベッドに潜り込んでくる日があって、その違いもよくわからない。わからないが、好きにさせた方が回復に向かいそうなので、放っておいている。一緒に寝ていても彼は窮屈そうに体を丸めて背中を向けているので、意味があるかはわからないが。共に寝たことなど、幼い頃でも数える程しかないのではないか。オーターは目を閉じれば三秒で眠れるタイプなので、多少の寝苦しさは気にしないことにした。
ワースの生活には波があって、調子が良さそうな日と悪そうな日の落差がかなり激しい。近付いてきたら話を聞いてやり、遠ざけられていると感じたらそっとしておいた。元来の性格とどう変わったのか、交流がなかったのでいまいちわからないのが痛い。
「キンメダイって深海魚なのか?」
BBC、ナショナルジオグラフィック。ワースはよくドキュメンタリー映画を観ていて、たまにオーターもソファに並んで座って、一緒に観たりもした。今日は深海魚特集らしい。
『深海では出会った相手が貴重な餌となります。まさにここで会ったが100年目………』
深海生物が赤い色をしているのは、水の中では赤い光が吸収されやすく、深い海の底の環境では黒く見えて背景に溶け込むからだそうだ。
「深海魚。その名の通りでっかい金目が特徴。でも生きてるうちは全身赤いわけじゃねえらしいぜ」
画面では想像を絶する過酷な環境で様々な進化を遂げた魚たちが、各々ユニークな狩りを繰り広げている。ワースは画面から目を離さずにそう言って、隣に座っている兄の肩に寄りかかるように頭を預け、クッションを抱えた。
「深海魚っていうよりは食える魚だよな。名前はキンメダイでも鯛じゃねえんだって」
「鯛じゃないのか」
彼らの目が金色に光っているように見えるのは、暗い海で僅かな光を網膜の外にある反射板で再反射させているからだ。少ない光を効率よく集める、夜の動物の目が光る現象と同様の仕組みである。金色の目。オーターはそっと自分の眼鏡に触れた。そして寄りかかってくる弟の顔にちらりと目をやって、彼がこちらを見上げているのに思わずびくりと体を強張らせる。ワースは可笑しそうに笑った。
「兄さんも金目だね」
「……私の目は光らないぞ」
家族で金色の虹彩を持つのはオーターだけだ。元来色素の薄い虹彩は生まれにくく、両親双方がその遺伝情報を持っていないと発現しない。ましてや両親のどちらも金色の目をしていないのに、オーターの目に現れたのは非常に稀なパターンだろう。ワースはグレーがかった緑の目をしている。
「オレも兄さんと同じ目が良かったな」
「……私は緑の方が良かった」
ワースはふと目を伏せて笑い、寄りかかっていた身体を起こした。そのままオーターに背中を向けるように座り直してから、ごろんと仰向けになって兄の太腿に頭を乗せる。真下から見上げるような角度で、ワースはそっと手を伸ばして、オーターの眼鏡のフレームに触れた。
「なんで。兄さんの目、すげーきれい。兄さんはこんなとこも特別なんだな」
憧憬と、何やら複雑そうな心境を滲ませた顔で、そのまま眼鏡をすっと外されてしまう。どこにも引っ掛かることなくあっさりと。オーターは眉を顰めた。
「……返せ」
「いーじゃん。このくらいの距離なら見える?」
膝枕の状態で兄を見上げ、眼鏡を寝転んだ頭の上に掲げて取られないようにしているワースの顔は、いたずらっぽく笑っている。眼鏡を外されたオーターは、軽くため息をついてワースを見下ろした。普段よりは柔らかな印象になった金色の瞳が、弟の顔を捉えようと細められる。
「……見えない。知ってるだろうものすごく目が悪いんだ」
「見えなくても、オレのことはわかるだろ?」
わからない。お前のことは、もう何もわからない。
けれどオーターは素知らぬ顔でテレビに視線を戻し、手探りで弟の髪をそっと撫でた。オーターにはワースが何故こんな風に自分をからかうような真似をするのか理解できなかった。甘えているという言葉では、もう説明のつかない気がする、落ち着かない程の距離感。どこまで許してもらえるのか試しているのだろうか。それとも兄を困らせることで、自分の中の何かを確認したいのか。理由はわからないが、オーターはワースのこういう態度を拒まないようにしていた。今日は普通にテレビを観て喋っていても、明日はどうなるかわからない。ままならない生活を、本人が一番ストレスに感じているだろう。弟の望むように、オーターがしてやれることなら何だってしてやらなければ。そうすればきっと良くなる筈なのだ。どれだけ振り回されても、こちらに対して暴言を吐いたりは絶対にしなかったので、オーターはどうにか楽観的に考えていた。弟は回復に向かっているのだと、信じたかったのかもしれない。
テーブルに並べられた医師の診断書、公認欠席申請書、カウンセリングの記録。履修変更と特例申請。そして休学届け。向かい合って座るオーターとワースの間に広げられた、重なり合う書類の数々。ワースは億劫そうに口を開いた。
「このままだと単位が足りなくなる…かもしれなくて、一回休学してもいいかもしれねえって……」
オンライン授業なら受けられるんだけど、とワースは力なく笑った。かもしれないではなく、もう本当に足りてないのだと思う。それでもオーターは知らない振りをして、どうしたいか聞いた。
「休学は半年?それもいいかもな。お前の希望通りにすればいい」
「…………休学したら、……家に黙ってられないだろ」
緊急連絡先の番号は兄でもいいかもしれないが、休学、学費等々になるとそうもいかない。定期的に来るらしい父からの電話に、適当に答えるのも限界があるだろう。このまま年末になれば実家に顔を出さないわけにはいかなくなる。あの口うるさい父が今何も言ってきていないのが逆に不気味だ。
ワースは学内LMSやシラバスを見ながら、なるべく取りやすい授業に切り替えるつもりのようだった。大学は連続評価で、出席点はそれ程重視されなくとも、小テストやレポート課題、中間期末がクリアできなければ、結局いくつかは落としてしまう。
「一年で落とした単位を上に上がって取り直すの、そんなに楽なことじゃないぞ」
「わかってるよ」
必修を翌年に回したところで上級科目に皺寄せが行って、連鎖的にまた進級に詰まる。工業系なら実習はひとつも落とせないだろう。グループワークに参加できているのか聞こうとしてやめた。一目瞭然だからだ。
「……カウンセラーや、他の先生はなんて?」
そこでワースは悔しそうにぐ、と口を噤んでしまった。休学を勧められているのだろう。オーターがじっと見つめていると、弟は渋々といった風に口を開いた。
「休学……した方がいい、のはわかってんだけど…、いや、そんなことしたら父さんが」
「何て言うかわからない?あれは言わせておけばいいだけだ。気にすることじゃない」
弟がこうなった理由を考える。学業について行けないなんてことはあり得ないだろうし、クラスに問題があるなら休学して一年生をもう一度やれば、面子が変わって人間関係も上手くいくようにならないだろうか。
「私から父さんに話すか?」
そこでワースは弾かれたように顔を上げた。
「ゃめろ!絶対言うな!!」
大きな声を出したことに彼自身が驚いて、すぐに傷付いた顔で小さくごめんと、吐き出すように謝った。書類を捲る手は止まり、目線はどこを見ているのかもわからない。進級する為にこの精神状態で今から死ぬ気でやる、それは誰が見ても無謀な挑戦だろう。ストレートに進級できなければ人生が終わるとでも思っているのだろうか。退学すら選んでしまいそうな、0か100かしか選べない、若さ故の過ちに見える。
「ゆっくり休んで、それからまた勉強するんじゃだめなのか?今の状態を見たら、父さんも何も言わないだろ」
「…………」
「私が嫌なら母さんでも」
ぱた、と音がして、見ると水滴が紙を打つ音だった。
「……ワース」
次から次へと音もなくあふれてこぼれ、手元の大事な書類に落ちていく涙を呆然と見つめるしかない、弱り切った病気の弟の姿を、オーターはある種の感動を持って眺めた。不謹慎ではあっただろう。泣き顔なんてもう十年は見ていなかった、図体のでかい男がさめざめと泣いているのだから、びっくりし過ぎて脳がバグったのかもしれない。弟の顔は歪むこともなく最近よく見るちょっとぼんやりした顔で、ただ目から溢れた雫が頬を通過していく、それだけが異質だった。彼が今何を思い涙を流しているのか、推察はできても結局こちらにわかるわけもない。しかしオーターはそんなことよりも弟の瞳から溢れた水滴の美しさに息を飲み、かける言葉を失った。涙腺から分泌されたただの水分が、こんなにも綺麗だと思ったことはなかった。ふと手を伸ばし、軽く拳を握った指でそれに触れる。
「…………」
ワースは黙ったままオーターの目を見た。長い睫毛は小さな水滴を纏い、兄の手がそっと頬を拭うのを、されるがまま受け入れている。しゃくり上げることもなく、ただ静かに涙を溢しながら、やがて掠れた小さな声で喋り始めた。
「父さんは……きっと、オレのこと、許さない。休学なんて……」
「今はお前が自分を取り戻す時間だ。ここにはいつまででもいればいいし、学費のことも気にしなくていい。ゆっくり休んで、お前の好きな時にまた始められる。何も心配することはない」
「……兄さんは、ゆっくりなんてなかったじゃねえか。いつでも最短で……何でもできて……オレはどうして………」
「人によってペースは違うものだし、私も別に何も回り道してないわけじゃない。……だからたぶん、お前の力になれると思う」
ワースは何も答えなかったが、そっと兄の手に自分の手のひらを重ね、目を閉じて頬を擦り寄せた。その拍子にまた涙がこぼれ、オーターは溶け出しそうに大きな目をした幼い頃の弟を思い出して、少しあの頃に近付けた気がした。
『お前の家にいるそうだな』
「…………何のことです?仕事中ですが」
主語も何もかも抜かしても、己の言葉が通じると思い込んでいる傲慢さ。この男はいつだってそうだ。家柄だの地位だの、体面ばかり気にする愚かしさは父の一族に顕著であり、その時代遅れな感覚はいつまで経っても理解できるものではない。
電話越しの父はオーターの返事を鼻で笑ったようだった。確かにわかりきったことを誤魔化すのは時間の無駄でしかない。結局年の功か。オーターはため息をついた。
「……別におかしなことじゃないでしょう。兄弟なんで」
『そうだな。まともに話したのはいつ以来かわからずとも、血の繋がった兄弟ではあるな』
その血を分けた息子にそんな物言いをする必要もないと思うのだが。敵意を滲ませながら表面上は大人の余裕を見せる、このやり方に弟は萎縮してしまうのだろうか。父に知られたらと怯える顔を思い出し、オーターは刺々しく返した。
「それで、一体何の用ですか。もう一度言いますが仕事中です」
ワースの居場所を突き止める為には直接本人に聞くか母親を経由して聞くかだろうが、それで父がどう出るかは未知数だった。ワースの精神状態を優先して、少し後手に回ってしまったかもしれない。隠し通せるとは思っていなかったが、昨日の今日で直接電話とは、展開が早過ぎる。父は低く笑った。
『そう邪険にするな。ワースが自分から言ってきたんだぞ?実家に戻りたいと』
「は?」
『今まで散々指導してきたのに、何も身に付いていなかったんだ。休学手続きはこちらで済ませておくから、もうお前の家に戻ることはない。もう一度叩き直してやる』
「待ってください」
そんな筈はない。弟は、オーターの手を取ったのだ。
「休学理由はご存知ですか?今は休ませるべきだ。貴方のその指導も、ワースがああなる一因だったんじゃないですか」
どうしてワースが緊急連絡先に兄の名前を書いたのか。休学届を手に、この世の終わりのような顔で許されないと呟いたのか。
父が教育熱心という言葉では言い表せない、度を過ぎた指導をしてきたのは身を以って知っている。オーター自身、子供の頃は毎日のように父に詰問されてきた。テストの点数、順位、なぜこの問題を間違えたのか。答えられないと食事抜き、深夜まで机に向かわされた。どんな成績にも父は決して満足することはなく、これに付き合うのは馬鹿げている。オーターは父の言葉を程々に受け流すことを覚えた。トップを取ったところで文句をつけてくるような父親に、これ以上煩わされたくない。表向きは従順な子だった筈だ。
オーターが家を出た後、その矛先は全てワースに向かったのだろう。年の離れた弟は、オーターがいなくなってひとりであの重圧に耐えていたことになる。弟は決して口を割ろうとはしないが、オーターはずっと考えてきた。父のあのやり方を、弟の性格ではたしてうまく受け流せただろうか。抗う余裕もないまま盲目的に信じて、他の誰の言葉にも耳を貸さなかったのではないか。ワースが壊れてしまった原因は、父にあったのではないか。
しかし当の父親は、電話越しに思いもよらぬことを口にした。
『これはお前が甘やかした結果だ。さっさと家に戻せば良かったものを。金輪際あれに関わるのはやめろ』
「……ッ」
咄嗟に何も言い返せず、息を飲んでしまった。どういう意味だ。甘やかした?自分は、何もしていない。自分が大丈夫だったから弟も大丈夫だと、いや、あの日大学に呼ばれるまで、特に何も思うことなく日々を過ごしていただけだ。ワースが父に何を伝えたのだとしても、それは正常な思考に基づく行動でないと断言できる。判断力が低下していて、後先のことが全く見えていないのだ、本人も気づいていないだろうが。甘やかしてやれていたら、こんなことにはならなかったのではないか。
父は言いたいことを言って満足したらしく、いつの間にか通話は切れていた。ワースのスマホに直ぐ様かけ直す。当然のように繋がらなかった。