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    *死ネタ
    *2部18章含

    壊れかけの世界の、境界で《Shino》

    『僕は多分、もうすぐ死ぬんだ』
    「………は」
    『あと五十年か…もしくは五年。来年かもしれない』
    『魔法使いは余命が分かると聞いていたが、本当に分かるものなんだな』
    「…………。嘘だ……。」
    『残念だけど、本当だ』
    『まだ誰にも話さないでくれ。お前に言ったのが初めてなんだ』
     何千回目かの晩酌の途中、ファウストが突然そんなことを言い出した。ファウストが死ぬ?信じられない。だが、ファウストは冗談を言う性質ではない。何を言い返せばいいのか分からず困惑していると、ファウストは続けた。
    『あと…お前はちゃんと、世界に愛されているよ』
     突然どうしたのだ。何の脈略もない事をファウストが言うのも珍しい。
     そもそも、そんな事は思った事もなかった。俺は生まれてすぐに捨てられた。苗字も持たない孤児だった。ブランシェットの御主人と奥様には随分と良くして頂いたが、二十歳になるより前に賢者の魔法使いとしての重荷を背負わされてしまった。
     俺が受けた祝福は、ヒースだけだ。世界は俺を大層憎んでいるのだろうと思っていたし、それでもヒースがいるならなんでも良かった。
     第一、ファウストこそ中央の国の英雄として、世界に愛されているだろう。
     なぜそんな事を言うのか。
    「突然どうしたんだ」
    『君がずっと前に、言っていただろう…俺は世界に愛されていない、とか……君は十分に、世界に祝福されているよ』
    「そんな事まだ覚えてたのか…それに」
    『記憶力は良いんだ。とにかく、君は世界に愛されているよ』
     ファウストは俺の言葉を遮って、そう言い張る。出会った頃から頑固な奴だとは思っていたが、他人の祝福について、こんなに言い張るのは魔法使いとして不自然だ。そしてファウストは無駄な事を言い張りはしない。
     なんでも知っているような口ぶりをしたが、よく考えれば俺はファウストについて、未だによく知らない。ファウスト・ラウィーニア。千五百歳かそこらか。東の国の魔法使いで、呪い屋。そして実は、中央の国の建国の英雄。好きな食べ物は………なんだったか。ネロがよく言っていたが、覚えていない。
     ふいに、遠い昔にファウストの口からこぼれた言葉を思い出した。
    『嘘だ。そこまで出世しなかった。この子は違う。いつか将軍になる。』
     この子は違う?何を言っているんだと思った。革命が終わってからもお前は、英雄だと讃え続けられているじゃないか。
     窓の外を見る。静かな街だ。毎日変わらない、ファウストが手に入れた平和。魔法使いの一生は長い。ファウストは今も王宮にいて、この国を見守り続けていても何もおかしくない。なのに、どうして東の国の森の奥で、一人で生きていたのだろう。
    「なあ…革命が終わった後、あんたに何があったんだ」
     そしてついに、訊けずじまいだった質問をした。これは、今しか訊けないと思った。怒るだろうか、泣くだろうか。自分の先生が泣くところを見るのは嫌だと思う。
     しばらく、静寂が流れる。
     耳が痛くなってきた頃、ファウストは小さな声で何事かを呟いた。
    『………流石に、潮時か。ずっと隠しておくのも気が疲れる。』
    『もう時効だろう?…………アレク。』
     アレクというのは、中央のグランヴェル王朝の建国者だったか。確か、ファウストと一緒に革命を起こしたはずだ。俺が知っている話では、アレクはファウストの事を心から信愛していた。だからこそ革命から千年あまりの時が流れた今でも、ファウストは中央の国で、建国の英雄として讃えられているのだと思っていた。違うのか。
     俺が思考を巡らせている間に、ファウストは少し上を見つめ、静かに目を閉じて、小さく息をついた。誰かを悼むように。溢れそうな涙を堪えるように。
     俺はそんな珍しいファウストの姿に、なんだかもどかしくなって、「なんだ」と先を急かした。ファウストはゆっくりと瞼を開き、棚に並べてある中で一等上等そうな古い酒を口に含んでから、やっと口を開いた。
    『急かすんじゃない、長い話だ。これはお前が生まれるずっと前______』

    .
     継ぐ言葉が見つからなかった。
     涙があふれて、止まらない。
     今自分が聞いたのは、目の前にいる英雄が千年以上もの間、必死に隠し続けた真実だった。ファウストが魔法を教えてくれていた時フィガロの気配がしたのも、ファウストを見るレノックスの目がいつも悲しそうで嬉しそうだったのも、アーサーに誰かを重ねているように見えたのも、全部気のせいではなかった。このかなしい真実を、聞かされていなかったから、不思議だとしか思わなかったのだ。
    『シノ、泣くんじゃない』
    『もうずっと前の話だ』
     ファウストが負った傷は、一千年どころでは治るものではなかった。何千年、何万年経っても癒えないものだ。その痛みは、幼馴染がいる俺には、よく分かる。もしも、ファウストが俺の元から突然去ったら?もしも、ヒースが俺を裏切った挙句火炙りにしたら?
    「ファウスト、あんた……」
     ファウストは静かに、俺が泣く様子を見つめていた。
     その事を、中央の国にばら撒けばよかったものを…と言うと、薄く笑って首を振った。
    『そうかもしれないな』
    『出来なかった』
    「どうして」
     アレクが作った中央の国のために……いや、違うな。アレクのためじゃない…生まれ育ったこの地に住むみなに、少しでも幸せになってほしかった。母にも、妹にも、祖母にも。自分が与えられる全ての祝福をあげたかった。自らの手で作った平和を、崩したくはなかった。この国に、罪はないから。そして、フィガロや、レノや…長命の魔法使い達は、全員僕の秘密を守ってくれた。君たちに出会う前から、ずっと。
     呪い屋のファウストは、他の誰よりもこの世界を慈しんでいた。かつて、彼の師がそうしていたように。温かな手で包み込んでいた。今も、涙が止まらない俺を見つめている。少し後悔するように微笑みながら。その様子は紛れもなく、聖ファウスト様だった。温かいけれど、少し近寄りがたい。
     ここで、その気配こそがファウストの本質だと気付く。思い返せば、出会った時からそうだった。近寄りがたい中に確かに温かさがあった。ファウストの指導は他の国よりも厳しかったし、ファウストの立ち姿は、誰も引きつけないような雰囲気を纏っていた。だが俺はファウストの温かさに、一番多く触れてきた。一人じゃ足がすくんでどうしようもない時。今のように涙が止まらない時。いつだってファウストはその静寂に満ちた慈愛を分けてくれた。
    「………どうして俺に言った」
    『………僕の師が僕にそうした。だからお前にもそうしたくなった』
    『お前は、英雄になる……僕は、なれなかった』
     いつかのように、あんまりに静かな口調で言うものだから、もう死んでしまうのではないかと思って焦ってファウストの方を見る。だが彼は、まだしっかりと生きていた。紫色の瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
    『僕がいなくなった後…………』
    『双子とオズが支配し、フィガロが慈しんだこの世界を、僕たちが勝ち取ったこの安寧を』
    『沢山の人々が愛し、生きるこの地を』
    『魔法使いと人間が共存する、明るい未来を』
    『お前に、頼んだよ』

     頬に触れた手は、温かかった。

    .
     それから何年経ったかは、よく覚えていない。そう長くなかったように思う。
     ファウストはひとりで死んだ。よく晴れた日の朝。珍しく自室の窓を開けて、光が差し込む部屋の中で、静かに石になった。

     なあファウスト、そろそろ出会えたか?
     あんたの幼馴染に。
     あんたの師に。
     あんたの、沢山の後悔に。
     千五百年越しの仲直りは出来たか?
     そっちでは何も呪わずに生きているか?
     暖かい火を皆で囲んで、踊っていたらいい。いつか聞かせてくれた話のように。
     ネロの料理を、皆で食べていたらいい。きっとそっちの奴らも気に入るだろう。
     俺が世界に愛されているか、あれから考えてみたけど、分からなかった。結局俺はあんたとネロがいなくなったらヒースしかいないんだ。まあ、元々ヒースしかいなかったが……あんた達がいなくなったら、俺を褒めてくれる奴がいないんだ。
     あんたの石は俺が食べた。半分より、少し少ないくらい。ヒースも俺と同じくらいを食べて、残りはあんたのマナエリアに埋めた。ルチルがそうしようと言ったんだ。
     あんたの石はしょっぱかった。
     この間、あんたの代わりの、新しい魔法使いが召喚された。なかなか、いいやつだよ。料理がうまいんだ。ネロには敵わないけどな。新しい賢者にもそろそろ慣れてきた。だからあんまり、心配するな。
     あんたの願った未来は、俺が守ってやる。

     俺も、いつかはそっちに行く。
     だから、その時はいつかの厄災の時のように。

     俺のこと、褒めてくれてもいいぜ。


    ===


    《Faust》

    「僕は多分、もうすぐ死ぬんだ」
    『………は』
    「あと五十年か…もしくは五年。来年かもしれない」
    「魔法使いは余命が分かると聞いていたが、本当に分かるものなんだな」
    『…………。嘘だ……。』
    「残念だけど、本当だ」
    「まだ誰にも話さないでくれ。お前に言ったのが初めてなんだ」
     千年以上前に言われた、今は亡き師であるフィガロの言葉を一言一句思い出しながら、シノに告げる。
     何度も見た、泣きそうな顔をしながら、シノは懐かしいいつかの夕焼けと同じ色の瞳を向けてくる。その瞳が僕は大好きだったし、同時にその色を少し恨んでもいたなと、ぼんやりと思う。楽しかった思い出が、僕の青春が不意に蘇ってしまいそうになり、グッと堪える。もう千年以上前の話だというのに。窓の外を見る。中央の街が、グランヴェルの街が静かに眠っている。これは確かに僕たちが勝ち取った平和だ。
    「あと…お前はちゃんと、世界に愛されているよ」
     ふいに数百年前、シノがぽつりと呟いた言葉を思い出した。思い出すのが早かったか、言葉にするのが早かったか。あの時の寂しそうな背中は、いつかの自分に重なった。何も言葉をかけてやれなかった後悔が、ずっと胸の中にあった。
     シノが心底不思議そうな顔をする。なぜお前が言う?とでも言わんばかりの表情だ。かわいいな。いくつになっても、この子は僕の生徒なのだなと思う。
     あの時、フィガロの気持ちが分からなかった。どうして僕に伝えたのか。見放した弟子に、どうして。だが、今なら手に取るように分かる。これは、未練だ。
     魔法使いの一生は長い。どこかでひとり虐げられたり、僕のように火炙りにされたりする魔法使いは多い。また、死を悟られて他の魔法使いに殺される魔法使いも決して少なくない。その中で僕は幸せ者なのかもしれない。死を覚悟して尚、こんなにも友人や仲間に囲まれて、平和とは言えないがそこそこの生活を送っているから。
     そして、魔法使いの叶えられる望みは少ない。長い人生に飽き飽きしてしまって何事も成せない者がほとんどだ。また、人生の長い糸が絡まってぐちゃぐちゃになってしまう者も沢山いる。僕もフィガロも、その一人だ。歴史に残る大革命を引っ張ったが、最後は最も心を預けたひとに裏切られた。
     時折、思った。アレクがもしもアーサーのように魔法使いだったらどうだっただろう、と。アレクは所詮、人間だった。結局、僕を火炙りにしたくせに、そのことを無かったことにした。四〇〇年経って、アーサーに出会った。目を疑うほど、そっくりだった。純白の髪も青空色の瞳も、優しい声音も無鉄砲なところも、あの青春の日々を共に過ごした唯一無二の友と同じだった。アレクじゃなくてアーサーだったら、と何度も無意味なことを考えた。
     僕が死を悟った時、一番に思い出したことは僕の、昔の願いだった。人間と魔法使いが共存する平和な世界。死に際のフィガロが思い出したことを、同じように、もう一度考えるようになったのだ。
     どんな皮肉だと思った。
     革命が終わって火炙りに遭ってから、四百年、嵐の森の中で一人で苦しんだ。そして、フィガロと再会してから、フィガロが死ぬまでの間。アーサーの顔を見る度に。レノが僕の名前を呼ぶ度に。苦しくて、悲しくて。永遠に癒えない傷が深くなるばかりだった。ずっと東の森に帰りたかった。だが、全てがいなくなって僕は、孤独に苦しんだ。
     僕はいつもバカだ。失ってからその大切さの本質に気がつく。そして自分の感情のやり所を、いつも見失う。
    『俺のこと、忘れていいよ』
     フィガロは死ぬ数日前に、僕に言った。
     寂しそうに、悲しそうに。だけど、僕のことをこれ以上なく慈しんでいるような眼差しで。
     忘れられるわけがなかった。フィガロは僕にとって、いつも呪いだ。あれから千年近く経った今でも、昨日のことのように思い出せる。第一、師のことを忘れられる弟子がどこにいる。フィガロの言葉ひとつひとつやその時の声音は鮮明に覚えているし、夜空をぼかしたようなあの髪も榛色の瞳の中に浮かぶ結晶も目を閉じれば浮かんでくる。教えを請うていた頃、僕はいつも尊敬していたし、フィガロが突然消えた時もいつか帰ってくるのではないかと少しは期待していた。
     珍しくシノが、神妙な顔つきで黙っている。いつもは酒が入ると饒舌になるが、まああんな話をしたのだから仕方がないだろう。僕だってそうだった。申し訳ないことをしたなと少しだけ後悔する。
     だが突然、シノが遠慮がちに話し始めた。
    『なあ…革命が終わった後、アンタに何があったんだ』
     時が止まったような、感覚がした。
     また同時に、アレクやフィガロ、レノやアーサーが死んでから、長らく仕舞い込んでいた感情が一気に溢れ出した。思わず涙が出そうになる。このまま下を向いていたら溢れてしまいそうで、慌てて上を向く。言葉はどうしても出て来ない。
     シノがこちらをじっと見つめている気配がする。何か言わなければ、と思うが、何をどう言葉にすればいいのかわからない。伝えるべきだろうか、でも、伝えてどうなる?シノとはもう、何百年もの付き合いだ。隠し続けるのも無礼だろう。もう潮時だ。気も疲れる。だが、この事は今この世界で、僕しか知らない。賢者の魔法使いの中でもいつの間にか最年長になってしまった。もう、僕を咎める者は僕以外にいない。
     _______もう時効だろう?アレク。
     どうしようか考え込んでいると、シノが『なんだ』と急かしてくる。僕は小さく息を吐いて、自分の持っている中で一等上等な酒を開ける。これはフィガロが革命の勝利を祈願して持ってきたものだ。革命に勝利したら、二人で一緒に飲もう…そして一緒に生きていこう…あの時、確かそう言った。ついにそんな未来は訪れなかったが。
     少しだけ口に含む。苦い。フィガロはこれを、どんな風に飲むつもりだったのだろう。それにしても苦いな…と思いつつ、心を決めた僕はおもむろに口を開く。死んだ仲間達に、最大の祈りを捧げながら。
     「急かすんじゃない、長い話だ。これはお前が生まれるずっと前______」

    .
     どれほどの時間喋っていたのだろう。もう一度夜が来たんじゃないかと疑うほどには、長く話した。
    「シノ、泣くんじゃない」
    「もうずっと前の話だ」
     黙ってシノは息も絶え絶えになりながら泣いている。この子にはヒースクリフがいるから尚更、自分の事のように感じるのだろう。自分で言うのも何だが、壮絶な経験だと思う。フィガロは僕の人生は直角に折れただけだと言っていたが、折れるのが突然すぎやしなかっただろうか…と子どものような事を考える。
     『ファウスト、あんた……』
     シノはそれ以上言葉を継げないようだった。
     アレクが僕を火刑にかけた理由は、いまだに分からない。きっとこれからも知ることはないのだろう。魔法使いを恨んでいたなんてことはアレクに限ってないと思いたいが、そうなのかもしれない。考えれば考えるほど、虚しくなる。
     そしてフィガロは結局、僕から離れた理由を教えてくれないまま石になった。フィガロの石は南が半分、他の国々でもう半分。といっても彼の死である双子と弟弟子のオズが殆ど食べてしまったような気がする。僕はというと、食べられなかった。事情を知る人たちの厚意で他よりも少しだけ多くもらったが、ひと齧りも出来ずに、部屋の隅の瓶に詰めてある。フィガロは石を、酒に入れて飲むのが好きだった。誰のものかは分からない石を、月の光がよく入る部屋で酒に入れて一人で飲む姿は、弟子として一緒に住んでいた頃よく目にした光景だった。誰のものかと問うと、大抵曖昧に濁された。そして僕も、そのようにしてフィガロに食べて欲しいとまで、あの頃は思っていた。この命が尽きる日まで一緒に生きて、そして自分も食べてもらうのだと……。
    『その事を、中央の国にばら撒けばよかったものを…』
    「そうかもしれないな」
     本当に、そうかもしれない。アレクをこの手で殺してやろうと何度も思った。死んでからも、天寿を全うさせるのではなく、あの時に殺しておけばよかったと事あるごとに思った。だが…
    「出来なかった」
    『どうして』
     どうして…と聞かれると、言葉に困る。
     ただ、生きていて欲しかったのかもしれない。新しい王国の、明るい未来を生きる母や妹。生き残った革命の仲間たち。そして、僕の秘密を守り続ける、フィガロや、古い魔法使いたちを裏切るような事はしたくなかった。ずっと、隠し続けてくれたから。
     この事をありのままに伝えると、シノは笑う時のような、泣く時のような顔をした。昔、自分も同じような顔を何度もしたような気がする。ネロと丁度今と同じように、晩酌をしている時なんかに。もしくはフィガロと2人で話をしている時に。瞳の夕焼けがまた滲む。夕日が揺れる。
     いつだったか、アレクに瞳を褒められた事があった。お前の瞳は、美しい夜みたいだ。お前が夜なら、僕は昼。ふたりで一つだ、と。お前がいないと僕には夜しかないのに、どうして僕を裏切ったんだ、アレク。
     もう考えても仕方がない事を考えていると、シノが話し始めた。
    『………どうして俺に言った』
     どうして…そう、おまえが、昔の僕の姿に重なったから。そして、いつかの師を思い出したから。
    「………僕の師が僕にそうした。だからお前にもそうしたくなった」
    「お前は、英雄になる……僕は、なれなかった」
     理由だけでいいのに、言葉が、勝手に口をつく。
    「僕がいなくなった後…………」
    ああ、何を。
    「双子とオズが支配し、フィガロが慈しんだこの世界を、僕たちが勝ち取ったこの安寧を」
    何を言っているのだろう、僕は。
    「沢山の人々が愛し、生きるこの地を」
    酒を飲みすぎただろうか。
    「魔法使いと人間が共存する、明るい未来を」
    そんなものは叶わないと、僕が一番知っているのに。
    「お前に、頼んだよ」
    おまえに、こうして呪いをかけてしまう。
     目の前に浮かぶいつか見た夕焼けから、静かに雨がこぼれ落ちる。それを指で丁寧にすくってやる。
     窓の外を見やると、大いなる厄災、つまり月の光が辺りを照らしていた。
     僕はおもむろにフィガロの石を取り出して、目の前の琥珀色の酒に浮かべる。あの光に照らされるとどうなるのだろう。フィガロはあの時、一体何を見ていたのだろう。
     グラスに月の光を当てる。琥珀色に浮かぶ、全ての色を吸収する、美しい色の石。窓際に移動してグラス越しに世界を見ると、世界の輪郭は曖昧で、今にも崩れてしまいそうだ。
     ああ。ようやく気付いた。フィガロはこの、壊れかけの世界を愛していたのか。
     魔法使いと人間が共生する世界。月と大地とが混ざり合う、美しい世界。
     これまで、死ななくてよかった。
     この美しさを知らないまま、石にならなくてよかった。

     自分の胸に、手を当てる。
     心臓が、つよく、強く鼓動を刻んでいる。
     ああ、生きていて、よかった。

     .
     よく晴れた朝。何百年ぶりかに窓を開ける。ベッドに横たわって、小さく息を吐く。
     そこでふと気付く。
     僕はこのまま、石になるんだな。
     死期を自覚してから少し、生への執着心が芽生えていたが、今は不思議と哀しさも寂しさもなかった。もう充分生きた。
     静かに風が吹く。産土のいい匂いだ。
     動けなくなる前に窓を開けておいて良かった。
     部屋の中なのに、草原の真ん中にいるような気分だ。不意に、幼い頃を思い出す。
     もうすぐ、母や妹に会えるだろうか。必ず帰ると言ったのに帰ることができなかったことへの謝罪を伝えなければいけない。
     もうすぐ、フィガロやアレクに会えるだろうか。あの時の後悔と恨みと、いなくなってからのことを全部伝えなければいけない。またもう一度、炎の周りで踊ろうと、そう言わなければいけない。
     鳥の囀りと、子どもたちの声が聞こえる。
     ああ、この壊れかけの世界に祝福を。
     この先の美しい未来に、とびきりの愛を。
     静かに目を閉じる。息を大きく吸う。
     そこで、意識が途絶えた。
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