足元で波の音がする。
息を吸って吐く間に海水が下着まで侵食する。深夜の海はブラックホールのようだ。体の半分をブラックホールの好きにさせて、少しだけ上を向く。今日は昼からずっと曇っていて一日中憂鬱だった。当然星も月も見えない。
指先がきんと凍り付くような寒さだった。波の流れに逆らうように一歩ずつ前に進んでいくと、ふと右足が一気に沈んだ。
「あっ」
踏み出そうとしていた左足のバランスが崩れた。何かを掴もうと伸ばした手が空を切る。
ばしゃん。
全身が冷たさに包まれる。思いっきり海水を飲み込んでしまって喉が気持ち悪い。体を起こそうと地面に手をつこうとして、ほんの少しだけ砂を握った。少し奥まで入りすぎた! こんなに寒い中海に入った自分は何でもできるような気がして調子に乗った!
手足をいくらばたばたと動かしても水面を切っている気がしない。ぼこ。口から空気が出ては海水が入ってくる。目に海水が染みて痛い。心音がうるさい。気持ち悪い。寒い。怖い。死んでしまう。嫌だ。必死になって思いっきり上に突き上げた右手に、ふと確かな感触があった。
「フリスク!」
力強く引き上げられる。その勢いで口にたまった海水を吐き出した。風が体に巻き付く。ひどい耳鳴りがする。ひりついた喉へ酸素が刺さって咽せた。
また波の音が聞こえるようになるまでしばらく時間がかかった。ようやくずっと手を握ってそばにいてくれたパーカーの形が見える。暗くて色まではわからないけれど、この手の感触はきっと。
「サンズ?」
「大丈夫か、アンタ」
変わらない声がした。むしろ夜に聞く彼の声は、いつもよりも少し響いて特別な感じがする。凍り付いた体を溶かしていくような気がした。
「助けてくれてありがとう」
「大丈夫そうだな。またこんな天気に海なんて入るから」
夜に天気も何も関係ないでしょ。そう返そうとしたが、水深が立ち上がった自分の太腿より低いことに気づいて何も言えなくなった。最初は腰まで浸かっていたはずだ、水の中で暴れている間に流されたのだろうか。これじゃあ、浅いところで溺れて必死になっているみたいじゃないか。
下を見てじっとしている僕を見て、サンズが「あー……」と言葉を濁した。
「ほら、人間って水深十センチあったら溺れるらしいし」
フォローのつもりなのだろう。なんだか急に気恥ずかしくなって、何も言わずサンズを引いて海から出た。
サンズと一緒になって水でぐしゃぐしゃになった靴下を引っ張って脱ぐ。靴下だけでなくスリッパまで濡れているのは、脱ぐより先に溺れている僕を助けようとしたからだと自惚れていいだろうか。
やっぱり波の音よりも自分の胸の音のほうが大きい。きっと隣に彼がいるからだ。それだけで、この寒さすらも愛せる気がした。
「アンタさ、真冬でも海に入るんだったら『暑くて海に入りたかった』の言い訳が使えなくなるんじゃないか」
「そういえばそんなこと言ったね」
「言った。毎日海ばっかりじゃ飽きないか?」
全く、と歌うように言って少しだけ笑う。サンズはいつもと同じように「ふうん」と興味がなさそうにつぶやくだけだった。
濡れた体に冷たい風が突き当たる。指先や足の感覚はとっくになくなっている。ただ、引き上げられた時のミトンの柔らかさだけ手の甲に残っていた。
心配だから家まで送る、と言うくせいつもショートカットだ。有難く家まで送ってもらい、サンズがショートカットでいなくなるのを見届けてからドアを閉めた。
地上に出てからずっと、町から離れた狭い物置小屋に一人閉じこもるように住んでいる。ママは顔を合わせるたびに心配の言葉をかけてくれるが、居心地いいから大丈夫だと言ってちょっと笑うことで場をしのいでいる。電気を点けようとしたがスイッチがカチカチ音を鳴らすだけだった。そういえば、一昨日電球が切れたんだ。
あまり外に出たくない。誰かに会う気も起きない。物置を譲ってくれたモンスターは、まさかそこに人が住み始めるとは思わなかっただろう。