「ではリドルさん、行ってきますね」
「二人とも、気をつけて行っておいで」
ボクがそう言えば、アズールがいつものキスを手のひらに落とす。もう慣れてしまったとはいえ、フロイドの前だとどうしても躊躇するそのキスは、彼の前だから余計、触れるアズールの唇がいつもより長く手のひらにあるような気がする。
ナイトレイブンカレッジ以来に見た、アズールにとっての正装のようなスーツ姿に、アスターとサミュエルの未来のための作戦が本格的に動き出すのかと、ボクは少し緊張した面持で、車に乗り込んだ二人を見えなくなるまで見送った。
フロイドとジェイド……彼らの父親との一件からもう一ヶ月になり、ボクたちの周辺は、目まぐるしく様変わりしていった。
まずは、アズールと子供たちと住むこの家に、フロイドが一緒に住むようになった。初めてこの家に訪れたフロイドが泊まった、一階階段脇のゲストルームを自分の部屋にし、着々と私物を増やしていってる。
もちろん洋服や靴などは一番はじめに持ち込まれて、今やこのボクが、フロイドの洗濯物を洗って畳んでいる。アズールよりもワンサイズ大きく、そして派手な服ばかりで、そんな服が我が家の物干しに掛かっているのは、自分で干しておきながら、なんだか現実味がない。ことになるなんて、ナイトレイブンカレッジで彼に密かな思いを胸に秘めていたあの時を考えれば、まさかこんな未来が訪れるとは思ってもみなかった。
それよりもフロイドと再会してから、ここ最近忘れていたボクの自身への女装というものへの羞恥をフロイドのせいで思い出された。
それは、ボクが下着を手洗いしていたときだ。アルマから『下着は洗濯機で一緒に洗うと直ぐに傷むから、できれば手洗いの方がいい』と教わっていたボクは、女性化している時から自分の下着を手洗いする様にしていた。その日も、いつものように子供たちが寝静まった深夜に洗面台で洗っていると、ひょっこりと現れたフロイドにその現場を見られた。
ぬるいお湯を張った洗面器の中に浮かぶ分厚いパッドと、女性らしいデザインの白いレースのブラジャーを洗うボクを見て、フロイドは、あはっと笑って「かわいいブラだね」と言い手を洗って、鼻歌なんて歌いながらリビングに帰っていった。
その時のボクは、改めて男である自分の似合わない女装姿を客観的に見ることになった。
女性化から男に戻っても、骨が以前の作りに戻らなかったボクの体は、男とも女性ともいい難い体つきだ。ボクの専門医でいてくれたフレドですら「今じゃもう男か女か骨だけじゃ判断できない」と言わせ、それから数年経っても、いまだどっちつかずな貧相な体は、ブラジャーに分厚いパッドを詰めなければ女性に見えない可能性もあった。
ボクは戸籍の上では女性ということになっているし、薬を使ったにしろ男のボクがアスターとサミュエルを産んだことがバレれば、どこからかanathemaにバレる可能性があるからと、少しでも女性に見えるようにと努力した五年と半年……もう女装なんて気にならなくなっていた。
もちろん、アズールに下着を見られ、その手で脱がれたあの時ですら、それを恥ずかしと認識しなかったのに、今になってフロイドに見られただけでここまで恥ずかしいと思うなんて、ボク自身思いもよらなかった。
それに今さらだけれど、こういった下着には、もっとシンプルなデザインのものが多くあるはずだ。なのにどうしてボクはレースの付いた女性らしいものを見に付けてるのかと、うっかりそれをアズールに聞かれる形で言ってしまえば、何か言おうとした言葉を飲み込んだアズールが「買い替えるにもお金がかかりますし、第一あまりシンプルな下着では、性別を偽っているのがバレてしまうかも知れませんよ」と言われてしまい、危険は少しでも排除しなければと、結局それ以降もレースの付いた女性らしいデザインの下着を身に着けていた。
それに洋服や寝巻きも全てワンピースの形をした服しか持っていないボクは、もちろん洗濯して干す服も殆どがワンピースだ。フロイドの大きな男物の服の隣、ボクが女装できているワンピースを並べて干した時は、やはりなんとも言えない気持ちになった。
フロイドといると、どうしても気持ちがナイトレイブンカレッジの時に逆戻りしそうになる。これじゃいけないと、ボクはぺちりと頬を手で叩き、気持ちを入れ直した。
洗濯を干し終え、家の中に戻ろうとした時に、野菜のステッカーをデカデカと貼り付けた一台のバンが家の前に止まり、車から降りた若い男がボクに挨拶した。
「やぁ、リデルおはよう! 今日もご注文の品をお届けに来たよ!」
「おはようジュリオ、今日も配達ご苦労さま」
彼はジュリオと言い、フロイドのお父様が陽光の国にいた頃のボクに付けていた監視役だ。同時に、あのビルで階段から落下しかけ、ボクが魔法で助ける事ができた彼女の夫でもある。今は、こちらへ引越す準備真っ只中の妻子を置いて、一人だけ先にこちらに居を構え、表向きは青果店の店員をし、こうやって日に一度配達とともにボクや子供たちの様子を見に来てくれている。
「まさか、リデルがフロイド坊ちゃんの想い人だったなんて……」
事情を知ってこちらにやってきた彼が、初めて陽光で監視対象だったボクと、自分が入っているリーチファミリーのボスの息子であるフロイドの間にある事情を知って、一番最初に出た言葉がこれだった。そして改めて、監視から護衛対象に切り替わったボクたちに対し、ボクに対して振る舞ったアレコレを思い出して青くなったらしい。彼がしたことなんて、初めてフレドの病院で顔を見合わせた時、あの辺の男性の流儀である口説き文句をボクに言ったぐらいで大したことはなかったはずだ。どうしてそんな顔色を悪くしているのか分からなかった。
そんなジュリオは、彼女とその間に生まれた可愛らしい女の子を溺愛していた。毎日の配達で、彼女と娘の話をしては妻から送られてくる写真を見せては嘆いていた。もちろん今日も、先日プレゼントしたシフォンが可愛らしいピンク色のワンピースを着た娘さんの話を、緩んだ顔でボクに話して聞かせた。
「ジュリオ……それぐらいにしておけ」
ジュリオの話にストップを掛けたのは、先日隣の家に引っ越してきた老年男性——フェデーレだ。
「ふぇッ!? フェデーレさん!!? す、すみません!!! あはは、俺もう仕事に戻りますね。リデル長話してすまなかったね、また明日配達に来るよ!!!」
ジュリオはそう言って、ボクの返事も聞かぬ間にバンに乗り込んで店に帰ってしまった。慌ただしいジュリオの姿に、やれやれとため息を付く彼もまた、リーチファミリーの一員だ。フロイド達のお祖父様の代から幹部として働いており、その右腕とまで言われていたらしい。今はもう前線を退きはしたが未だ強さは健在で、護衛として彼以上に役目をこなせる人物はいないと任についた。
「ジュリオは、ウチの若い衆の中でも、暗器に関してのスペチャーレではありますが、どうも気持ちの上付きに問題がありますなぁ……」
彼が灰混じりの白いヒゲを触りながらそう呟いていると、家の二階からその姿を見つけたアスターとサミュエルが飛んでやってきた。
「フェエじぃだ〜〜おはよう!」「フェエじぃ、ヒコウキ! ヒコウキとばして!!」
アスターとサミュエルの手には、先日アズールとフロイドにねだって買ってもらった大きなタイヤの付いた車と、飛行機のラジオコントロール式のおもちゃを抱えてやってきた。
「坊っちゃん方、おはようございます。素敵なおもちゃですね。えぇ、ぜひとも遊びに付き合わせてください」
「フェデーレさん、すみません。いつも二人に付きあてくださってありがとうございます」
「いえいえ、フロイド坊っちゃんやジェイド坊っちゃんも元気なお子でしたが、坊っちゃん方も元気で何よりです」
彼がここに引っ越してきてから、アスターとサミュエルは毎日のようにフェデーレさんに遊んでもらうのを楽しみにしている。年齢を考えて、体の電池が切れるまで全力で遊ぶ二人の相手をしてもらって大丈夫かと始めの頃こそ心配したが。フロイドが「このジィ〜ちゃんは、殺そうと思っても簡単には死なねぇから」と失礼な事を言いながらケラケラ笑っていた様に体力に溢れているようで、いつもアスターとサミュエルの方がスタミナが切れて、お昼寝をしっかりしてくれるぐらいだ。
「今日もお昼ごはんを食べていってくださいね」
「それはそれは、奥様、いつもありがとうございます」
ニコリと微笑むフェデーレさんに奥様と言われ、ここに来て新たな呼び名で呼ばれる恥ずかしさに、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。