Love is blindさて、こんな遊びはどちらが始めたのだったか。
年に一度のバレンタインの日。ノボリとクダリは互いに入れ替えっこする。そうしてノボリへの告白をクダリが聞いて、クダリへの告白をノボリが聞く。不誠実だとは自分でも思う。けれどやめられない。
だって、だってね?
「……あの子達みたいに、ぼくらもなれるかな」
ぽつりと零した言葉にはっとして口元を押さえた。慌てて見渡せば、幸いにも誰も聞いていなかったようでほっと息をつく。
(危ない)
つい口を滑らせてしまった。聞かれたらどうしようかと思った。でも大丈夫だ。誰にも聞こえていないはず。
今更のように胸の奥から湧き上がる不安を押し殺しながら、クダリはそっと自分の胸に手を当てた。どくんどくんと心臓が脈打っている。まるで何かを期待しているように。
クダリは自分の中に芽生えた感情に気づいていた。これはきっと恋心と呼ばれるものだ。自分と同じ顔をしている兄に抱いてはいけないもの。だから必死で押し殺してきたのに、今日という日のせいでふとした拍子に溢れ出てしまう。
この気持ちを伝えるつもりはない。それは許されないことだし、何より伝えたところで困らせるだけだ。そんなことはわかっていた。だけどそれでも、時折こうして無性に伝えたくなるのだ。
(ノボリもいつか誰かを好きになるんだろうなあ)
それが女の子であれ男の子であれ、いずれ必ず現れるであろう未来の伴侶。その相手のことを想って、優しく微笑んで、甘い言葉を囁いて―――。
ああ嫌だなぁと思う。想像するだけで泣きたくなって、ぐちゃりと心の中がかき乱されるような心地になった。
(……もしもぼくが女の子なら、)
そこまで考えて、馬鹿らしいと首を振った。そんなことあるわけがない。ありえない仮定だ。そもそも前提条件である性別の時点で成り立たない話だというのに、何を考えているのか自分は。
「……早く終わればいいのに」
バレンタインデーなんて大嫌いだ。そう呟く声は微かに震えていた。
どうかこの想いが伝わりませんように。そしてできれば永遠に気づかれませんように。
祈っても無駄なことだと知りつつも、クダリはただそれだけを願うのだった。
***
「…………」
クダリの視線を感じながら、ノボリは無言のまま手元を見下ろしていた。目の前にあるのは可愛らしくラッピングされた箱の数々。机の上に積み上げられたそれらを見て、思わずため息が出そうになるのを堪える。
毎年恒例となったこの光景だが、やはりいい気分ではない。しかも厄介なのは、これが義理チョコではなく本命であることだろう。中には明らかに特別な意味を込めて渡されたものもある。しかしそれらは例外なくお断りさせていただいた。理由は単純明快、全てクダリ宛なのだ。
「……」
ちらりと見上げた先では、同じように大量のチョコを抱えた弟の姿があった。その表情にいつものような笑みはなく、どこか憂鬱そうだ。それを見た瞬間、ちくりと小さな痛みを感じた気がしたが、あえて無視をした。
今年もまた同じことが繰り返されるのだろうか。去年までと同じように、受け取ったチョコを全てクダリに渡して、それで終わり。例年通りならばそうなるはずだった。
けれど今年のノボリには少しだけ違う点がある。それはここ最近ずっと考えてきたことだった。
もし自分が女であれば、あるいは――。
「……馬鹿ですね」
ありえもしないことを考えた自分に自嘲したくなった。いくら考えたところでどうにもならないことなのに、何故こんなことを考えてしまうのか。
「ノボリ?」
不思議そうにこちらを見る弟に何でもないと首を振ると、「そろそろ行きましょうか」と告げた。それにこくりと小さくうなずいたクダリと共に部屋を出る。向かう先はサブウェイマスター専用の執務室だ。そこで挑戦者が来るまで待機するのが二人の役目であった。
執務室の扉を開けると、中には誰もいなかった。しんとした静寂の中、ぱたんと背後で閉まるドアの音を聞きながら、ふとクダリの方へと顔を向ける。するとちょうど目が合った。そのままじっと見つめていると、何故か慌てた様子で目を逸らされてしまう。
(……?)
一体どうしたというのだろう。普段とは違う反応に首を傾げる。
今日のクダリはなんだかぎこちない。どこがと言われると説明しづらいのだが、なんというか様子がおかしかった。何かあったのだろうか? 思い当たる節がなく、ノボリはますます困惑する。しかしどれだけ考えてみても答えは出なかった。
結局それ以上考えるのをやめたノボリは、とりあえず着替えるためにロッカーへと向かうことにした。コートを脱ぎハンガーにかけると、上着のボタンに手をかける。
「……ねえ、ノボリ」
不意に声をかけられて振り返ると、いつの間に近づいてきたのか、すぐ後ろにクダリがいた。
「何でしょうか?」
「あのさ、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
クダリの瞳が真っ直ぐにこちらを見据えている。それを見返しながら、珍しいこともあるものだとノボリは思った。普段は何かを頼まれることなど滅多にないというのに、今日に限っていったいどういう風の吹き回しなのか。まあ、頼られるのは決して悪い気はしない。
「構いませんよ。言ってごらんなさいまし」
ノボリの言葉に、クダリはほっとしたように微笑んだ。それから手に持っていた紙袋をそっと差し出してくる。
「これ、ぼくの代わりに預かってほしいんだ」
中に入っている
「これをですか?」
「うん。ノボリに預けたいの」
何のために、とは聞かなかった。おそらく渡す機会を逃してしまったのだろう。
仕方ありませんね、と呟いて受け取る。予想に反してそれはずしりと重かった。
「ノボリ、ありがとう!」
「いいえ。その代わりと言っては何ですが、今度バトルしてくださいましね」
「もちろん! 約束だよ」
嬉しそうに笑うクダリを見ていると、自然とこちらも口元が緩む。やはりクダリには笑顔が一番似合う。
じゃあ行ってくるね、と言うなり、クダリはそのまま踵を返そうとした。しかし途中でぴたりと足を止めたかと思うと、再びこちらを振り返る。
「どうかしましたか?」
尋ねても、クダリは何も言わずに黙ったままだった。やがて意を決したような面持ちになると、すぅと大きく息を吸い込んでから、勢いよく頭を下げる。
「ノボリ、今までごめんなさい」
「はい!?」
突然の謝罪に、思わず素っ頓狂な声が出た。何を謝っているのかわからなくて混乱しているうちに、クダリはくるりと背を向けると、そのまま部屋を出て行く。
「ちょ、クダリ……!?」
慌てて呼び止めようとしたが間に合わなかった。バタン、と思いのほか大きな音を立てて閉じられた扉を見つめながら、呆然と立ち尽くす。
「……本当に、どうしたのでしょう」
一人残されたノボリは、ただ首を傾げるしかなかった。
***
「……はぁ」
人気のない廊下を歩きながら、クダリは深いため息をついた。
自分の行動は果たして正しかったのだろうか。本当はもっと別のやり方があったのではないか。そんな考えばかり浮かんできて、気持ちが沈んでいくのを感じる。
(でも、)
きっとこれで良かったのだ。こうしなければいけなかった。
だって、この想いを伝えるつもりはないのだから。伝えるわけにはいかないのだから。
「……」
ふと窓の外を見やれば、どんよりとした灰色の空が広がっていた。まるで今の自分の心を表しているかのような曇天。
この感情の名前は知っている。けれどそれは許されないことだ。絶対に隠し通さなければならないものだ。それがたとえどんなに苦しいことでも、クダリは耐えなければならなかった。
大丈夫。この想いさえ忘れてしまえば、いつも通りの自分に戻れるはず。そうすればまたいつものように、ノボリの隣で笑えるようになるはずだ。だからそれまでもう少しだけ。
「待っててね、ノボリ」
小さな声で囁く。それは誰に向けるでもなく、自分自身に向けた言葉だった。
終業時刻になり、職員たちが次々と帰り支度を始める。そんな中、ノボリは机の上に山積みになった書類の前で、ひたすらペンを走らせていた。
本日の業務報告。業務内容の確認。経費の計算。報告書の作成。まだまだ終わりそうにない量だ。
正直言って面倒だが、これも仕事のうちなので仕方がない。それにこういう地味な作業は嫌いではなかった。むしろ好きだとすら言えるかもしれない。黙々と作業を続けていると、あっという間に時間が過ぎていく。気がつけばもう夜になっていた。
「……よし、終わりました」
最後の一枚を書き終えて、ふっと息をつく。
時計を見ると、針は午後八時を指し示していた。思ったよりも早く片付いたようだ。
さて、では帰ろうかと思ったところで、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。どうぞ、と答えると扉が開かれ、一人の駅員が顔を覗かせる。
「失礼します。お疲れ様です、ボス。ちょっとよろしいですか?」
彼はノボリの部下の一人だ。何かあったのだろうか?不思議に思いながらも、椅子から立ち上がる。
「どうかなさいましたか?」
「実は、少し相談したいことがありまして……」
「私に?」
「はい」
「……わかりました。ここでは何ですので、とりあえずこちらへどうぞ」
部下と共に執務室を出ると、そのまま近くにある応接間へと向かった。テーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファにそれぞれ腰掛けると、早速話を切り出す。
「それで? 一体何の話でしょうか?」
ノボリの問いに、しかし彼の口から出てきたのは意外な言葉であった。
「あの……、サブウェイマスターは恋をしたことがあるんですか?」
一瞬何を言われたのか理解できず、ぽかんとする。
「え、」
「あ、すみません! いきなりこんなことを聞かれても困りますよね」
申し訳なさそうな顔で、彼は続けた。
「実は今日、女子職員の間でそういう話が持ち上がっていまして……。そこで皆に聞いたところ、ノボリさんはそういったことに全く興味を示さないという話だったので、もし経験がなかったらどうしようかと不安になってしまって」
なるほど、そういうことか。ようやく事情を把握し、ノボリは納得した。確かに、年頃の女性ならば色恋の話題に興味を持つのも無理はないだろう。
「いえ、謝っていただく必要はございません。ただ、そうですね……、」
どう答えるべきか迷う。
「……ありますよ」
結局、嘘をついて誤魔化すことを選んだ。
「あるんすか!?」
「ええ」
「ちなみに相手はどんな方なんですか?」
「それは秘密です」
「やっぱり年上の女性とか!?」
「ノーコメントです」
「じゃあじゃあ、告白したことはあるんですか?」
「それも言えませ―――」
そこまで言いかけて、ふと思う。
自分は今、何と答えただろうか。
『それは秘密です』
『それは言えないのです』
ノボリは小さく息を呑んだ。
まさか。そんなはずはない。そんなことが有り得るはずがない。
動揺するノボリを見て、部下はにやりと笑みを浮かべる。その表情に確信した。嵌められたのだと。
「……あなた、わざと聞きましたね」
「さあ、何のことっすかねー」
しらばっくれる彼に、ノボリはため息をつくしかなかった。
***
自宅に戻り、玄関の扉を開けると、ふわりと良い香りが漂ってきた。どうやらクダリは既に帰ってきているらしい。
「ただいま戻りまし……」
靴を脱いでリビングに入った途端、ノボリは思わず言葉を止めた。理由は至極単純である。そこにはエプロン姿のクダリがいたからだ。
「おかえり!」
クダリは振り返って微笑むと、「ちょうどよかった」と言って手に持っていたものをずいっと差し出してきた。
「これ、一緒に食べよう」
「これは……」
「ぼくが作ったの」
見ればそれは綺麗な形のオムライスだった。卵の黄色にケチャップの赤がよく映えて美しい。その上にかけられたホワイトソースも絶妙のバランスで、見るからに美味しそうだ。
「すごいじゃないですか、クダリ。とても上手ですよ」
素直に褒めると、クダリはとても嬉しそうに笑った。
「えへへ、ありがと。ノボリに喜んでほしくて頑張ったんだよ」
「そうだったのですか……」
自分のためにここまでしてくれるなんて。じんわりと胸が温かくなるのを感じた。同時に、どこか懐かしいような不思議な感覚に襲われる。
(ああ、)
思い出した。
昔、ノボリがまだ幼い頃、一度だけこうして二人で料理を作ったことがあったのだ。ノボリはクダリに教えてもらいながら野菜を切り、フライパンを振るい、そして完成したオムレツを食べて「おいしいね」と言い合った。その時の光景が目の前の景色と重なり、ノボリはそっと目を細める。
「さ、早く座って」
促されるまま食卓につき、いただきますと手を合わせる。スプーンですくい上げたそれを口に運ぶと、ふわふわとした食感と優しい味が広がった。
「いかが? ノボリ」
「すごく美味しいです」
「ほんと? やったぁ!」
ノボリの言葉に、クダリは心底安心したように笑みをこぼした。
「実はちょっとだけ心配してたの。ちゃんとできてるかなって」
「大丈夫ですよ。本当に美味しいです」
「うん、ありがとう」
その後も二人は他愛のない会話をしながら食事を続けた。話は尽きることなく、時間はあっという間に過ぎていく。気がつけば皿は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
食器を流しに運び、洗おうとしたところで「いいよ、ぼくやる」とクダリに止められた。そのまま流しの前に立たれてしまったので、ノボリは仕方なくソファへと移動することにした。
「何かお手伝いすることはございますか?」
「ううん、ないよ。ノボリは休んでて」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
そのまましばらくテレビを見ていると、洗い物を終えたクダリが再び近づいてきた。
隣に腰を下ろしたかと思うと、不意にこちらの肩にもたれかかってくる。
ノボリは少し驚いて、クダリの顔を見た。彼はじっと前を向いており、何を考えているのかわからない。
そのまま何も言わずにいると、やがてぽつりと呟いた。
「ねえ、ノボリ」
「はい」
「……ノボリは、」
そこで言葉を切ると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合う。
深い藍色の瞳は真っ直ぐにノボリを捉えていた。
吸い込まれてしまいそうなほど透き通ったそれに見惚れているうちに、いつの間にか二人の距離は縮まっていた。
互いの吐息がかかるほどに近い距離で、クダリは囁くようにして言う。
「ノボリは、恋をしたことがあるの?」
「ええ」
気がついた時にはそう答えてしまっていた。
「誰?」
「言えません」
「どうして?」
「どうしても」
「……じゃあ、ぼくとは?」
一瞬、どきりとする。
しかしすぐに冷静さを取り戻せたのは、きっと、心のどこかでわかっていたからだ。
「……言えません」
答える声が震えそうになるのを抑えて告げれば、クダリは悲しげな表情を浮かべた。
「そう、なんだ」
「すみません」
「ううん、気にしないで」
そう言って笑うクダリだったが、その笑顔はいつもと違って見える。それはまるで今にも泣き出しそうな子供のようで―――。
(ああ、)
違う。そうではない。
本当はずっと前から知っていたはずだ。
あの時、初めてオムライスを作ってくれた時に感じたもの。
それは既視感なんかではなく――――。
「……ノボリ?」
名前を呼ばれて我に返る。不思議そうに見つめてくるクダリの頬に手を伸ばし、その輪郭をなぞるように撫ぜると、クダリはくすぐったそうに身を捩らせた。
「何するの、いきなり……」
「いえ、ただ――」
ただ何だろう。自分でもよくわからない。
「ただ、あなたに触れたいと思ったのです」
するりと口から零れた言葉は、紛れもない本音だった。
「あなたが好きなんです、クダリ」
「…………」
クダリは何も言わなかった。
その代わり、ノボリの首に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。そして耳元で小さく囁かれる。
「ぼくもだよ」
「クダリ……」
「ぼくもノボリが好き」
クダリは顔を上げると、ふわりと微笑んだ。
「だから、ぼくをもらってくれる?」
「ええ、もちろん」
ノボリが答えると、クダリは嬉しそうに目を細めた。それから、どちらからともなく唇を重ねる。
何度も角度を変えて繰り返されるキスの合間に漏れた熱い吐息が、静かな部屋に響いて溶けていった。
***
「ノボリ、こっち来て」
ベッドの上に横になった状態で、クダリはノボリに向かって両手を広げた。誘われるがままにそこに潜り込むと、クダリはノボリを抱き寄せて頭を優しく撫でてくれる。
「あったかい」
そう言って微笑むクダリは幸せそうだ。ノボリもまた、同じように幸せな気持ちになる。
「ノボリ、大好き」
「私もですよ、クダリ」
どちらからともなく再び口づけを交わすと、二人はお互いを求め合った。
夜はまだ始まったばかりだ。
END. あとがきのようなもの。
ここまで読んでいただきありがとうございました! いかがでしたでしょうか? 少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。
ちなみにタイトルの『Love is blind』ですが、これは英語の慣用句で「盲目的な恋」という意味になります。この話を読んでくださった皆様には、この言葉の意味をしっかりと胸に刻んでおいていただきたいです。(笑)