世界の果てで、あなたと。 明け方にスマホの着信音が鳴って、ベッドの中で着信画面を見て息が止まりそうになった。画面には『鯉登音之進』と表示されている。俺は『鯉登音之進』から逃げてきたから、この電話に出るわけにはいかなかった。
最後に鯉登音之進……音に会ったのは二年前だ。
俺たちは生い立ちや価値観、食べ物の好み、何もかもが全て違っていたが、同じ夢があったことで知り合い、そこで意気投合して、そしてすぐに恋に落ちた。
音は無邪気な笑顔で俺を散々振り回し、俺はそんな音に振り回されている『自分』が好きで、他人から見たら共依存のような恋愛ではあったが、まわりから何と言われようと、俺は海の底に沈むように音に沈み、音も俺に沈んでいったと思う。時々この恋で溺れてお互い息継ぎが上手くいかなくて、もっと愛して欲しいとか、もっとこっちを見て欲しいとか、そんな喧嘩をたびたびしたけれど、そんな時は激しく唇を合わせ、お互いの呼吸を整え、気持ちも整えた。
しかし、この恋は長く続かなかった。
俺たちはお互いしか見えないほどにお互いに夢中で、そのうち俺は夢中になりすぎて音と一緒にいる現実が夢か現か分からなくなり、音に振り回されていた俺は、いつの間にか音を愛しすぎて音を振り回す方になっていた。最初は音も俺に振り回されても同じくらいの熱量で俺に夢中でいてくれたけれど、途中から夢中になる俺に恐れ慄いたのか、ある日ぷつりと連絡が途絶えてしまった。きっと音は振り回すのは得意でも、振り回されるのは好きじゃなかったのだろう。最後に音を見た日の後ろ姿は、俯き、悲しそうな表情を浮かべて、少し疲れていたようだった。
*
アラスカで一緒にオーロラを眺めながら、どちらともなく唇を合わせた瞬間が俺たちの絶頂期だったと思う。空一面に広がる星空、見たこともない七色の光を放つオーロラ。目に映る全てがこの世に存在しないようなものばかりで、俺たちは一瞬で自然の神秘に心を奪われ、それを今一緒に見ているという興奮でお互い見つめ合い、そして高ぶる気持ちのまま唇を合わせると、その夜は数え切れないほど強く抱き合い、手を強く絡ませ俺は音の中で何度も果てた。オーロラを見た瞬間心を奪われたように、自分の全てを音に見せて音の心を奪いたかったし、音の全てを奪いたかった。夢中で、儚く、切なくも愛おしく。
*
俺は音を失って毎日泣き続け、音がいそうな街をくまなく歩いてあてもなく探した。もちろん音がそんな簡単に見つかるわけがなく、どうしようもなくなった俺は夜空に両手を合わせ「神様、音に会わせて下さい」だなんて、らしくもなく神に朝夕祈ったりして、俺は恋愛をしているのか『鯉登音之進』を神として崇めているだけなのかそのうち分からなくなってきて、そして、もうどうにもならないのなら、いっそこの気持ちを日本に置いて海外へ逃げて行こうと、御曹司である音が絶対訪れないであろう危険な国へ逃げようと決意して、スーツケースを開き、思い出以外の荷物をぎゅうぎゅう詰め日本から飛び立った。
スーツケース一つで訪れた危険な国で、ロシア語が堪能だった俺は何とか語学の仕事を見つけることができ、そして音を無理矢理忘れて暮らし始めた。最初は異国の地での文化の違いや言葉の違い、気候の違いにまで苦労したけれど、その忙しい日々のおかげで失恋で壊れた心が少しずつ癒されていくことで日を追うごとに身も心もだんだん軽くなって、自分が何もかもから自由になった気がしてならなかった。
*
スマホの着信音が止まり、次はメッセージが来るかとそのまま静かになったスマホを黙って眺める。しかしいくら待ってもメッセージが来る気配はなく、それでホッとはしたけれど、でも少し残念な気もして──残念に思ってしまったらまた音への信仰心が戻ってきてしまいそうで──残念に思うのはやめようと呟きながらベッドから身体を起こすと、俺の部屋を二回ノックする音が響いた。思わず身体が硬直する。
「……いるんだろう、百之助」
俺は自分の耳を疑った。
ここは世界の果てなのに、音の声が朝の静寂を切り裂いたからだ。
何度も聞いた愛おしい声が、世界の果てにやってきた。
《嘘だろう?》
信じられない。
このドアを開けたら、愛しい音が立っているのか?
ずっと前に、何度も重ねた愛しい唇から発せられた自分の名前を久しぶりに聞いてみれば、それはなんだか自分の名前じゃない気がしてくる。
「ずいぶん探したんだ。開けてくれ百之助」
返事をするのが怖かった。本当は音に似た声の人間が、自分を殺しに来たのかも知れないし、俺はもしかしたらすでに死んでいて、幻覚でも見てるのかとも思った。──だってここは世界の果て。絶対に、俺を見つけるのは不可能なはずだ。なのに、何故──
しばらく沈黙が続いたあと
「今夜、この国でランタンフェスがあるじゃろ。一緒にランタンを飛ばそう。夕方六時にフェスの入り口で待ってるから、必ず来て欲しい」
音はそう言うと、コツコツと革靴の音を鳴らして去っていった。結局、俺は音に返事すらできなかった。
*
夕方六時に、街の中心で開催される華やかなランタンフェスの会場に行くと、たくさんの人混みの中に本当に『鯉登音之進』が立っていた。夢でも幻でもなかった。本物の『鯉登音之進』だった。まわりがくすむほど輝いていて、二年前から全く歳をとることなく、本当に何も変わらない姿に俺は驚いて、音から少し離れた場所に立ち尽くし音をしばらく見つめていた。しかし音はそんな俺を気にすることなく、願いごとを書いたランタンに火を灯すと、それを両手で掴み「早く来い!」と少し笑ったのかな、俺の目から涙が出てきたから、よく表情が見えなかった。
服の袖で目をこすりながら、愛しい音に近づくと、熱で今すぐに夜空に舞い上がってしまいそうな白くて小さな気球のようなランタンを、俺も音と一緒に掴んだ。オレンジ色に輝くランタンをよく見てみれば
『百之助と、死ぬまで一緒にいたい』
そう書いてある。
「……俺から逃げたくせに、一緒にいたいとか本気かよ」
俺が左手で髪をかきあげながらははっと笑うと、音は瞬きもせずに俺を見つめた。
「本気だから、世界の果てにいる百之助を迎えに来たんじゃろう? ずいぶん探したんだ、一年も! 一年探しながら、おいが愛しているのはやっぱり百之助だ、諦められない! って……自分勝手だと思うじゃろが、おいはまだ、尾形百之助が好きだ」
そう言って手を離し、ランタンを空に放った。
あちらこちから何千個ものランタンが一斉に夜空に舞い上がり、この世のものとは思えないほど幻想的な瞬間が訪れた。オレンジ色のランタンが夜空一面に広がり、同時に色とりどりの花火が打ち上がる。音はそれを瞬きもしないで見上げ、俺は光に照らされる音を見つめた。この瞬間の感情は以前……そう、オーロラを一緒に見た日と同じ興奮と情熱。目を輝かせながらランタンを見上げている音の、その横顔が瞳が美しくて、俺は音の右腕を掴んで引き寄せ、強く抱きしめた。
「どうして俺から逃げた……!」
情けないけれど、涙が溢れてくるから涙声でちゃんと言葉には出来なかったけれど、そう音の耳元で言うと、音はオレンジの光を見上げたままこう言った。
「……おいはあの時、ある日突然自分が病気になっていることに気付いてしまって……死ぬかも知れんやったで……」
思いもよらない言葉に、俺は声が出なかった。
「そいで、おいが死んだら百之助はどうなるんやろうって考えたら怖くて怖くて……。やったら突然いなくなっておいを憎みながら生きてくれる方が、百之助が幸せなんじゃないかと思っちょった」
「はあ!? 俺の幸せを勝手に決めるなよ。それに何だよ、その助からない病気ってのはよ!? 何でそんな大事なこと秘密にしてたんだよ!」
「じゃあ、おいが死ぬかも知れない病気になったって、あの時の百之助に言っていたら、百之助はどうしてた? あんなにお互いまわりが見えないくらい溺れていたんだ、きっと一緒に死ぬとか言ったじゃろ!?」
「……当たり前だ」
「おいは百之助に長生きして欲しかったから、ないもゆわんやった」
「は!? 馬鹿かおまえは! どうして言ってくれなかった!? 俺がどんなに辛かったか分かるか? 音が俺のものじゃないことは死ぬよりもっと辛い! たとえ音が骨だけになったとしても、その骨すら愛おしい! 俺も、鯉登音之進が好きだ。だから、俺からもう離れないでくれ……! 頼む! もういなくならないでくれ! 音が死ぬのなら、俺も死ぬから!」
音は、ふふっと笑って、俺の首に両腕を回した。そしてアラスカでオーロラを一緒に見た日と同じくらい、熱く唇を重ねた。
「おいは病気になっても、死ななかった。無菌室からもう出られんて思うたのに……。だから、死ぬのは百之助が死んだらにしようち思う」
そして、ランタンの光の中、何度もキスをする。
「それよりも、百之助は今日何の日だか覚えちょっか?」
「……何だろう」
「馬鹿すったれ……自分の誕生日も忘れたか」
「あ……」
「誕生日おめでとう、これから毎年……死ぬまで祝ってやる。何なら一緒に天国に行っても祝ってやる」
そう言ったら百之助、くしゃくしゃに泣いちょっと。ほんのこて、愛おしい。
♢
ここは世界の果て。俺たちがもう一度一緒に人生を始めるにはふさわしい世界。あなたといるから、輝いてる世界。