みたらし色の希望を灯して「えんとの未来は、わたしたちがつくるんだよ。だから──いっしょにがんばろうね!」
幼馴染み三人でこっそりと集まるそのたびに、琥珀色の大きな瞳に溢れんばかりの希望をきらきらと映して笑っていた女の子。
それから少し経ち、俺と彼女の関係が許嫁と呼ばれるものに変わって、どこかくすぐったいような心地で過ごしたのはほんのわずかな期間で。
ほどなくして彼女は、唯は──縁渡を揺るがす謀反騒ぎに巻き込まれ、消えた。
「うう……もう限界ー! 蒼司、お茶にしよ!」
俺の隣で勢いよく立ち上がった唯が、そのままパタパタと足音を立ててだだっ広い畳の間を横切っていく。縁側に残された政の指南書は分厚く、傾いた陽光を浴びて濃い影を床に落とす。俺の使い古しではあるけれど、彼女の手に渡ってからさらに熱心に、丁寧に読み込まれているように見えた。
「もう自分で淹れるような立場じゃないんだけどな……」
苦笑しながら指南書を拾い上げ、広い屋敷をぐるりと見回す。俺たちに気を遣ってか、あるいは束の間の平和の表れか。縁側から見える庭にも長い板張りの廊下にも、人の姿はない。が、大きな声で呼べば世話係や家臣たち──もしかすると凛も、その辺からひょっこりと顔を出すかもしれない。何年も前から、彼は奏詠家の姫君である唯の忠実な忍びなのだから。
もっとも、懐己家の米蔵が起こした一連の火事騒ぎとその落着を経て、唯は今や姫君ではなくこの縁渡を守り治める将軍だ。かつて次期将軍と目されていた俺はといえば、将軍補佐への転落を呪うはずもなく、時間を見つけては一丁前に彼女に政の講釈を垂れているわけなのだが──どうにも彼女と過ごす時間はのどかで自由で朗らかで、務めであることを忘れてしまいそうになる。
「お待たせ! へへ、あけぼの茶屋のお団子ももらってきちゃった」
軽い足取りで戻ってきた唯が、俺のすぐ隣にぽすんと腰を下ろす。今や豪奢な着物だっていくらでも着られる身分だというのに、彼女は茶屋の娘として生きていたときの着物を未だに愛用していた。将軍という重い役目など背負いたくなかった──という意思表示なのではないかと、以前そうっと尋ねてみたら「だってこっちの方が動きやすいもん」と唯は無邪気に笑っていた。そんな振る舞いを「自覚が足りない」と揶揄する下からの声はないわけではなかったけれど、俺も含めて多くの家臣は唯のことをその庶民っぽさごと好ましく思っており、ひとえに彼女の太陽のような明るい人柄がなせる技だった。
「はい、これが蒼司のね」
「あ、」
「凛の分も残しておこうっと!」
ありがとう、と俺が言い終わる前に彼女の口から出てきた名前は、意外でもなんでもなかった。誰よりも彼女に近い、忠実な忍。俺がずしりと重い着物にくるまれて大袈裟な駕籠に揺られている間、凛は傾奇者を装いながら記憶を失った唯を守ってくれていた。そのおかげで彼女に再会し、こうして側にいることができるのだから、心からの感謝しかない。
と同時に、唯が凛の名を口にするたびに俺の中には消化しきれない疑念が濃くなっていて。
「……あの、さ。前から気になってたんだけど」
おずおずと切り出せば、さっそく団子を頬袋に詰め込んだ彼女のまんまるの瞳がきょと、と俺へ向けられる。まっすぐ見つめ返すにはどうにも距離が近すぎるような気がして視線を下へ逸らすと、唯が凛のために取り分けた団子が皿の上でたっぷりのみたらしを纏い、こちらを見上げていて。てりてりと輝く様が彼女の目の色みたいだとぼんやり思った。
「凛って、唯の…………いや、その……ごめん。やっぱりなんでもない」
単なる主従、友人と形容するには凛と唯の距離はあまりにも近く、それでいて家族然とした空気感とは決定的に何かが違う。とはいえ、いい人、想い人という表現を用いて聞くのは図々しくて失礼な気がするし、忍と主人という絶対的な関係性を知っていながらどういう間柄かと尋ねるのも下品に思える。結局これという言葉を選び取れないまま質問を引っ込める意気地のなさがいかにも俺らしくて情けなかった。
この流れで団子にひょいと手を伸ばせるわけもなく、妙に気まずいまま縁側の木目に視線を彷徨わせていると、そんな俺の視界に、不意に、にゅっと。唯の探るような表情が現れたかと思えば、ごち、と額どうしをくっつけて、いたずらっぽく笑った。
「ゆ、唯っ……?」
「凛のこと、気になる?」
「そ……れは」
普段よりも幾分しっとりとした声の調子と、彼女の口許から甘く香るみたらしに心臓が早鐘を打つ。
「ふふっ、凛はいつもたくさんの女の人に囲まれてるもんね。もしかして私とも……って?」
「いや、あの……まあ、そんなところ」
彼女のまっすぐな目から逃れるように目を逸らしながら、でも額同士はちゃっかり触れたまま言葉を濁す。脳裏に思い出されるのは、たくさんの女性に囲まれて笑顔を振りまきながら唯にだけやさしく注がれる凛の眼差しと──彼女を守るために俺の首すじへ押し当てられた、冷えた刃の感触。
あの一瞬で並大抵の力量でないことは理解できたけれど、恐ろしさはなかった。むしろ、唯にこれだけ優秀な忍がついていたことに心の底から安堵した。そのおかげで彼女は、家を、家族を──記憶さえも失って、それでもなお明るい笑顔を絶やさずに生きていてくれたのだから。
だけど、その一方で──俺は。
「そっかそっか〜、蒼司、私と凛のことが気になるんだぁ」
揶揄うような声音が至近距離で弾む。いつもの俺なら照れてそっぽを向いてしまうようなやり取りなのだけれど、今日はどうにも、そんな気分にもなれなくて。
「……気になるよ」
「え、あ……わあぁっ!?」
触れ合った額をすり、と傾けるように動かして、そのまま口づけを交わしてしまいそうなほどの距離で囁く。
瞬間、俺の行動が予想外だったのか、唯の額は勢いよく仰け反るようにして離れて、そのまま仰向けで倒れそうになった彼女は慌てて俺の袖を掴んだ。力を込めて引き上げれば唯を助け起こすことなんて造作もなかったはずなのだけれど──わかった上で、俺はそうしなかった。結局、唯が縋った俺の袖は彼女が倒れる勢いをわずかに殺しただけで、とすんと後頭部を板張りの床に預けた唯は頬を染め口をはくはくさせながら、彼女を押し倒しているような体勢になった俺を見上げた。
「唯、教えてよ」
「そ……そそ、蒼司? 何を、」
「俺が知らない君のこと──謀反騒ぎのあと、記憶を無くした君がどうやって凛と出会い、どんなふうに日々を過ごし、何を思いながら生きていたのか──ぜんぶ」
縁側に散らばる栗色の髪束を指でそっとなぞりながら呟くと、唯の少し潤んだ瞳が戸惑いに揺れた。
凛が唯を守ってくれていたことに安堵を覚えたのは、本当だ。
その一方で俺は──自分が情けなくてたまらなかった。唯がいつ記憶を取り戻すかもわからない中で、その身に危険が迫ったことだってあっただろう。いかなるときも、凛だけが陰ながら彼女を守り支えていたのだ。
──俺がいつまでもうじうじと過去を悔やみ、次期将軍だなどと持て囃されている間に。
再会するまでの彼女の半生を教えてもらったところで、ただの俺の自己満足だ。いや、そんなちっぽけなものにすら満たないだろう。会えなかった期間を埋めることはどうあっても叶わないし、彼女を守れなかった俺の罪も消えないのだから。
唯のすべらかな頬に、俺の影が落ちる。相手が俺とはいえ、こんなふうに男に組み敷かれて怖くないはずがないのに、それでも艶めきを失わない瞳は俺をまっすぐに見上げながらすぅっと細められて──いや、ちょっと待て。細め、られて──?
「蒼司、隙ありっ!」
「え、ちょ、唯……うわあぁっ!?」
袖と前襟を強く掴まれた一瞬で、ぐるりと視界が反転する。唐突に俺の背を受け止めた縁側がぎし、と小さく軋んで、頭上で得意げに笑う唯に見惚れたのも束の間──
「いたたたた!? 唯、くるし……!」
そのまま固め技を掛けられて、俺は悶絶した。
思いがけず彼女と密着している状況にどぎまぎする余裕などかけらもない。骨が折れる恐れなどはない体勢だとわかってはいるが、さすがは護身に特化した技で、とにかく押さえ込まれた腕が痛い。自分より遥かに小柄な女子を相手に情けないことこの上ないのだが、俺はわけがわからないまま涙目で唯に訴えた。
「……っは、なんで」
「へへん、こないだ凛に教えてもらった」
「そうなんだ……じゃなくて! どうして、いま」
涙声で訴えながら、どうしても何もないかと続く言葉を引っ込める。彼女にしてみれば今しがたの俺の行動は脅威そのもの。護身術の対象としてこれ以上に相応しいこともないだろう。
──ああ、だめだ。
自己嫌悪がさらにどろりと濃さを増す。
守るべきときに唯のそばにいられなかったばかりか、逆に彼女の心身を危険に晒すなんてどこまで最低なんだ。痛みで不明瞭な俺の声に応えるように彼女は技を解いて、俺は自由になった腕を己の視界を塞ぐように瞼の上に置いた。じくじくと筋に残る痛みが、熱い。
さて、このあとどうやって取り繕おう。そろそろ休憩は終わりだと強引にこの空気を断ち切るか、いやその前にきちんと唯に謝罪するべきじゃないのか、いや俺の自己満足のための謝罪に付き合わされたところで唯だって迷惑なんじゃないか。
着地点を見失ってぐるぐると巡り続ける思考をまるごと包み込むように、ふわりと俺の額にあたたかな手のひらが乗せられる。
「あのね蒼司、私……大丈夫だよ」
真っ暗な視界の端で、凛とした声音と一緒にみたらしがほのかに香った。
「誰かに守られないと生きていけない、か弱いお姫様じゃないから。だから──」
その声に、俺を責めるような響きは一切ない。むしろ母親が子供に優しく言い聞かせるような調子は、いつもの無邪気な唯の声となんだか違いすぎて──だからかもしれない。
「もう、そんなに心細い顔しないで」
視界を覆っていた腕を彼女に剥がされ、俺をまっすぐに見下ろす笑顔と目が合っただけで、視界が熱く滲んでしまったのは。
「この間の火事騒ぎのとき、蒼司が米蔵の命を奪うことにならなくてよかった」
改めて縁側に並んで腰掛け、二本目の団子を頬張りながら唯がしみじみと呟く。
「それは……うん、幼馴染を手にかけた男なんてそばには置けないよな……わっ、んむ」
将軍補佐を務める立場の男でありながら、容易く涙を見せてしまった。よりによって、自分の軟弱な部分を一番晒したくない彼女を相手に。先ほどの失態の苦さを、すっかり冷めてしまったお茶でぐびりと喉奥に流し込みつつ彼女の言葉に頷けば、下ろした湯呑みと入れ替わりにみたらし団子が口へと突っ込まれた。
「どうしてそう捻くれた受け取り方になるかなぁ」
呆れを含んだ声は、けれどにぃっと弧を描いた口許から発せられて。
俺の意思とは無関係に押し入ってきた団子の存在感に一瞬むせそうになったものの、甘じょっぱい芳香と餅の弾力の誘惑には抗えない。本能が命じるままにもっちゃもっちゃと咀嚼を繰り返せば、みたらしダレと餅本来の甘さが咥内でやさしく絡み合った。
甘味は豊かさの象徴だ。火事騒ぎより以前も、今も。この甘さが縁渡の民たちにとって気軽に手に取れるものであることが、こんなにも嬉しい。
願わくばこのささやかな幸せがこの先も末永く続いていくように、そのために俺は──。
「あのね、蒼司が何もかも背負う必要なんてないんだよ」
ごくんと俺が団子を飲み込んだのとほとんど同時に、唯が屈託なく笑いかける。心の中の固め直した小さな決意を見透かすように。
「私は将軍で、凛も、困ったときには刑部さんだってきっと助けてくれる。縁渡の未来は、私たちみんなで作るんだよ。だから──」
「あ……」
『だから──いっしょにがんばろうね!』
その笑顔と力強い声は、遠い昔に約束を交わした小さな女の子と重なって見えて。
──俺は将軍補佐としてじゃなく、本当はもっと特別な存在として君のそばにいたいんだけど。
なんて、刑部さんならきっとさらりと口に出せるような歯の浮くような科白はとりあえず頭に浮かんでみるだけで、あいにく口からは到底出てきそうにない。
けれどせめて、来し方の約束を今度こそ果たせるように。そして願わくば、誰よりも近いこの場所だけは譲らずにいられるように。
「うん、一緒に──がんばろう」