夏海の星 不意に海が見たくなった。
昼間に見たテレビに映っていた遠方の地域の海が余りに青く頭から離れていなかったのと、近頃の籠るような暑さにあてられたせいかもしれない。
普段なら布団にそっと潜っている時間ではあったが、そんな気持ちになった事と明日は作業場でのお仕事はお休みであるのが背中を押して気が付けば夜着の流しの上に羽織を掛けて草履に足を通していた。
夏の夜は歩くのに心地が良い。
熱した空気が夜の冷たさに宥められ温くもないなだらかな冷たさが肌を撫でる。
いつもの散歩道より少し先に足を伸ばす、普段足を運ばない地元の砂浜へと向かう事にした。
ザザ.......ザ........
波打ち際を歩く足元を波がさらっていく、草履は既に脱いで片手に纏めて指に掛けていた。
時期が時期故かそもそも時間帯の問題なのだろうか、波は冷たい温度になじむ前の指先には少々堪える。
潮の独特の重量のある香りを吸い込み、暗い水平線を見据える。
今日は生憎と新月らしい、ぽかりと穴が空いたような夜空には月の不在を埋め合わせる様に星が瞬いている。
「.......凄い」
主要な明りを失くしたにも関わらす、空に散らばる小さな光たちは煌々とした輝きを黒の天幕に描いている。
いや、月が無いからこそ星が美しいのか。
「これを見れただけでも気まぐれを起こした甲斐はありましたね。」
海の星空の美しさ、瞬く音は聞こえないながらも夜の気配を纏った波の音が心地よく暫く見惚れていた。
しかし、そうやって気を取られていたせいなのだろう、指先から草履がするりと落ちる。その感触に気付いて視線を向けた頃にはぱちゃん、という水音と共に小さなしぶきが上がっていた。
あ、と慌てて屈んで水の中に手を付く、草履の感触が無くじりじりと焦った心地になる。
やがて、水中ではなく水面に浮いていることに気が付きホッと息をついて指で拾い上げる
草履は軽いから浮くというのに水の中を探ってしまったという事実に頬が少し熱くなる、誰も居ない場所で良かったと己の運に感謝した。
手首が海水に濡れてしまっている、着物の袖も少し濡れているのだろう。
ふと、この手首に纏った水に星明りを宿したくなって濡れた手首を持ち上げて夜空に掲げてみる。
だが、星の光る空は遠く月明かりより弱い光は地上へは降りてこない、ひときわ輝く星ならあるいはとも思ったが生憎と星を見つける慧眼は持っていないらしい。
ダメか、と肩を落としたくなる気持ちをこらえる、一人だからこそできる自由な一人遊びを満喫できただけでも良しとしようと頷いた。
そのまま諦め、腕を下ろそうとした、その時だった。
手首の水にきらりと光が宿る。
目を見開き頭上を見れば、夜空を大きな光が私の背後から流れ海へ落ちていくのが見えた。
黒い水平線に白い軌跡を残しながら消えていくそれに目と心を奪われ呆然とする。
次第に心に温かく愉快な気持ちが湧き上がって口元が自然に綻んだ・
「........ああ。
本当に、気まぐれを起こして良かった」
次の蒔絵の絵付けには星を描いてみようか、と次の仕事の構想に胸を楽しませながら上機嫌で暫く私は夏の夜の星空を眺めていた。