黒色松圍城 アジアン・カオスと呼ばれる無法地帯の中でも、特に有名な場所が香港にはある。
蜂の巣のように積み重なった迷路のような集合アパート。賭博、売春、麻薬などの違法行為が平然と行われ、行き場のない者たちの吹き溜まりとなっているその場所。内部は完全なる治外法権であり、犯罪に巻き込まれても外の警察に助けを求めることすらできない。
その反面、内部には青少年センターや老人ホーム、幼稚園、学校まであった。内部は黒社会が仕切っている独自の秩序で守られており、独自のコミュニティの中で人々は助け合い、相互扶助の関係を築いていた。
無政府状態と呼ばれるその混沌の巣窟を、人々はこう呼んだ。
九龍城砦、と。
***
すえた臭いがする。視界の端をまるまる太ったネズミが走り去るものだから、藍松(ランツォン)は嫌そうに顔をしかめた。
「相変わらずだな、ここは」
藍松の言葉に、紅松(ホンツォン)が鼻を鳴らした。
「まあ仕方ねえだろ。俺等だって人様に褒められるような生き方なんてしてねぇじゃんか」
治外法権の国で警察官の制服を着た二人は、それはそれは目立った。そこかしこからジロジロと無遠慮な視線が突き刺さるので、正直なトコロ居心地はすこぶる悪い。
不審そうな目。怯えた目。怪訝な目。そして――敵意。
(こうも見てこなくてもいいだろうに)
九龍城砦にいる者達は、はっきり言って訳ありのやつらが多い。
殺人、窃盗、麻薬……城外で犯罪を犯した者達の駆け込み寺が、この集合アパートの要塞である。警官に対して良い感情を持っている者の方が少ないだろう。藍松は憮然と刈り上げた後ろ髪を掻いて、兄の背についていった。
路地が入り組んだこの九龍城砦でも、メイン通りというものは存在する。
餃子(チャオズ)を作っている子供、棒手振りの女、棒に吊るされた豚を運んでいる男、可楽(コーラ)スタンド。金片手に年季の入った雀卓を囲んでいる老人達を背に、案内役の男について二人は奥へと入っていった。
案内され迷路のような狭い路地を曲がり、上り、下りする。藍松の方向感覚はとっくのとうに役立たなくなり、(今ここに置き去りにされたら、迷って餓えて死ぬかもしれないな)という稚気の発想がふっと湧いて出た。
害虫が壁を伝い、幾重にも重なった電気の配線の下に潜り込んでいく。すえた臭いが常に鼻を苛み、かび臭さと湿気で嗅覚がバカになりそうだ。
ああ。
藍松は自分の前を歩く紅松の、若々しくまっすぐな若竹のような首元をじっと見つめた。
今すぐあの首に齧りついて舐めあげて、紅松の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込みたい。
ペンハリガンのオードトワレのシトラスの香りと、生まれたときからずっと側にある紅松の体臭が交わったにおいで肺を満たしたい。そしてそのままベッドになだれ込んで、刈り上げられた後頭部も、うっすら汗をかいているコメカミも舐めて、ピンとアイロンがかけられた制服の裾から手を忍ばせて……。
そんなことを考えながら歩いていたので、不埒な視線でも感じ取ったのだろうか。紅松が歩きざまに後ろ足で藍松の脛を蹴るものだから、彼は悲鳴をあげて悶絶することしかできなかった。
なにせ。
「ん? どうしたんだ?」
一番前を歩いていた男――王九(ウォンガウ)が、この場にはいるのだから。
「知らねえ。なんか踏んじまったんじゃねえ?」
「ひゃはははは! マジかよおい。間抜けなオトートだなあ」
しれっと嘘を吐く紅松の言葉に、げらげらと笑うこの男。ぼさぼさの長髪にサングラスの、いかにもチンピラといった軽い風体の男であるが。
(――こいつは、強い)
紅松も藍松も、揃って彼の持つ底しれぬ強さを感じ取っていた。爪を隠した獅子のような男だ。二人がかりでかかったって、勝てるイメージは到底沸きはしなかった。
よくよく城内を見ると、そこかしこが壊れていた。アコーディオン式に開閉する柵は切られたような大きな傷が残り、落としきれていない血のシミが壁に残っている。こちらを伺うように見てくる住人の目にも、怯えと暗さが残っていた。
「こっちだぜ」
王九の案内についていった二人は――やがて、古びた理髪店へと着いた。ここが二人の目的地である。
最近では見なくなった、レトロなタイル床。ここだけ60年代に取り残されたような理髪店は、まめまめしく清掃され、小綺麗に使われていたのだろうというのがうかがえる内装だった。
壁に貼り付けられたヘアカタログの切り抜きは最新のヘアスタイルだったので、城の外に頻繁に出ていける立場の人間がこの理髪店の主なのだろうということがわかる。
……いや。
主『だった』というべきだろう。
「連れてきたぜぇ~」
軽い足取りの王九が向かった先。床屋の椅子に腰掛け新聞片手に葉巻を吸っていた男。
老人と呼んで差し支えない年齢だ。服もこの城砦の者たちとは違う高価なものを着用しているが、決してオーダーメイドのスーツなどひと目で高級そうだとわかるような服ではない。
でも、そこらへんにいる老人とは、ぜんぜん『違う』。
――これが、大老板(大ボス)。
油麻地(ヤウテマイ)のフルーツマーケットを支配する黒道のボス。政府と太いパイプで繋がっている男。
そして。
長年この九龍城を統治していた龍捲風(ロンギュンフォン)を排除して、地主達から権利を巻き上げ、つい先日名実ともに九龍城の支配者となった男。
紅松と藍松は今日、この男に会いに来たのだ。
「九龍城砦と外は干渉しない。これは暗黙のルールだ」
大ボスは葉巻の香りを楽しむと、二人に一瞥もくれずに新聞を読む。まるで独り言を言っているように見えるが、彼が二人を気にしていることは明らかだった。
「九龍城はこれから取り壊されて香港政府の管轄になる。ここの住人は例外なく退去だ。龍捲風がいない今、暗黙のルールなんてものを守る必要もなくなるだろう」
足取りも軽く大ボスの隣を陣取った王九は、ひゃは! と笑いながら、足元に転がっている『物体』を軽く蹴り上げた。
それは一見、蓑虫にも似ていた。
うぞうぞと地面を這うようにして動いている『それ』。
「だが――」
大ボスは葉巻の煙をぷかりと吐き出すと、足元にある蓑虫に押し付けて葉巻の火を消した。
ぐりぐりと押し付けるたびに、もごもごという汚い悲鳴とともに、地面を蹴るびたびたとした音が大きくなる。
「そりゃあ、香港政府に土地を売り渡して強制退去して『から』の話だ。今はまだ違う。なあ、そうだろう?」
「ぶひゃひゃひゃ! そうそう!」
ゲラゲラ笑う王九とともに、まるで害虫を見るような蔑んだ目で、大ボスは『蓑虫』――『人間』を一瞥した。
紅松と藍松は、その『人間』を引き取るために、わざわざこの九龍城くんだりまで来たのだ。
――大ボスの黒道が取り扱っているものとは違う麻薬を外の世界で売りさばいていた、九龍城の住人を。
「犯罪者が九龍城に逃げ込んでくるのはいい。だが、九龍城の人間が外で犯罪を犯すのは違う。無事売却するまで揉め事を持ち込まれちゃ困るんだ。わかるか? なあ」
髭の奥に刻まれた皺は、彼の老獪さをより一層際立たせている。
蓑虫の腹を蹴り上げてきゃらきゃらと喜んでいる王九とは違う迫力が、彼が長年ここら一帯の黒社会を取り仕切っていたのだろうことを伺わせた。
九龍城にも黒社会にも掟がある。アウトローであればあるほど、掟を破った時の制裁は激しいものになることを、黒社会のボスに育てられた二人はよく知っていた。
ボロ雑巾のほうがよほど清潔だと思えるくらいの様相の蓑虫を見て、藍松は思わず眉をひそめる。
あれを今から持ち帰らなければいけないのかと思うとうんざりする。ここにいるのが潔癖のケがある翠松でなくて良かった、としか言えない。
藍松とは違い眉ひとつ動かさないで蓑虫を一瞥した紅松は、わざとらしく肩をすくめた。
「……で? オレ達はあんたらの見せしめに協力させられるってワケ?」
この茶番劇の目的は、紅松が言う通り『見せしめ』だ。
長年龍捲風の庇護下にいた城砦の住人たちに、『もう今までのようなことは通じない』と知らしめるための。
もう何かことを起こしたときに、かばってくれていた龍捲風はいない。新しいボスは決して九龍城砦のものたちを贔屓したり、助けたりはしない。それを知らしめるための茶番だ。
そのために、わざわざ紅松と藍松は外の勢力を表す『警察官の制服』を着用してきたのだ。それはつまり、警察の上層部に大ボスの息がかかったものがいるということの現れでもある。
しかし、紅松とて生き馬の目を抜くような黒社会のボスに拾われて、一人も欠けることなく兄弟たちを守ってきた男だ。
ただただ黒社会の小間使いに使われて、それで終われる男ではない。
紅松は頭に被っていた制帽を取ると、口元を隠すように帽子を顔にあてて、目元だけでにんまりと笑う。
「だったら……なにか見返りがないと、ワリに合わないよねぇ?」
大ボスが紅松を見る。皺が刻まれた老爺のまなざしと、にんまり笑う若造のまなざしが交差して――先に動いたのは、大ボスのほうだった。
「持っていけ。『お義父さん』にヨロシク」
「伝えておくよ」
話は決まった。
紅松は王九に遊ばれている蓑虫の縄を掴むと、藍松に抱えさせた。右腕で米俵を担ぐように藍松が蓑虫を担ぐと、ぐにゃりとした生暖かい感触がして顔をしかめる。
これは後で絶対紅松を抱かせてもらおう。心のなかで誓う藍松が、先に理髪店を出た紅松の後ろをついていき――。
ヒュッ。
僅かな殺気と風を切る音に反応した藍松が、反射的に左手をあげ、空を掴む。
左手の中に冷たい金属が収まり、藍松の肝がどっと冷えた。
ぎろりと後ろを振り返ると、王九が投球ポーズでへらへらと笑っている。藍松の怒気が反射的に膨れ上がった。
こいつ、紅松に、なにを――。
「落ち着け。ただの櫛だって」
紅松の制止に、はたと我に帰る。藍松が左手の中を見ると、金属製の細身のコームが手のひらの中におさまっていた。尖った部分がなにもない、紅松にぶつかっても軽い痛みで済むような代物だ。
「行くぞ」
紅松が顎で出口を促す。藍松が最後に一瞥くれると、王九はへらへら笑いながら二人に手を振っていた。
***
「あれはバカなだけじゃないな」
九龍城のフェンスをくぐりぬけた後。タバコに火を着けながら、紅松が言った。
「アイツ、あそこで刃物を投げたら戦争になることを知ってんだ。だから櫛にした。オレらの実力を測ってんだよ」
ふう、とタバコの煙を吐き出して、紅松が運転している弟を見た。
「……次は『やれる』か?」
「ああ」
怖いくらいに前しか見ないで運転していた藍松が、ハンドルをぎりりと握って、言った。
「――次、紅松になにか仕掛けてきたら、殺してやる」
***
「ひゃはは! アイツ、見えてなかったのに反射で防ぎやがった!」
面白い玩具を見つけたように生き生きとしている王九に、新聞から目を離さないまま大ボスが言った。
「まだ警察とコトを構えるには早い。程々にしておけ」
「わかってるぜぇ、ボス」
ふんふんと鼻歌をきざみながら、ごきげんな王九が言う。サングラスの奥の目は、獲物を見つけた獣のようにランランと輝いていた。
「――次に戦争する時は、もっと上手に遊ぶさ」
***
アジアン・カオスと呼ばれる無法地帯の中でも、特に有名な場所が香港にはあった。
蜂の巣のように積み重なった迷路のような集合アパート。賭博、売春、麻薬などの違法行為が平然と行われ、行き場のない者たちの吹き溜まりとなっているその場所。内部は完全なる治外法権であり、犯罪に巻き込まれても外の警察に助けを求めることすらできない。
その反面、内部には青少年センターや老人ホーム、幼稚園、学校まであった。内部は黒社会が仕切っている独自の秩序で守られており、独自のコミュニティの中で人々は助け合い、相互扶助の関係を築いていた。
無政府状態と呼ばれたその混沌の巣窟を、かつて人々はこう呼んだ。
九龍城砦、と。
九龍城砦は一九九四年に取り壊され、今は整地された公園に、その名残を残すだけとなっている。