大空へ 神を殺せば運命を変革することは出来るのか。しかし概念を殺すことはできない。恨むなら己の短命を。戦うなら己の意志と。ならば本国に置いてきた神には彼らの祈りと安寧を願おう。
オートザム軍セフィーロ攻略最高司令官イーグルは、照明をごく暗くした暖色の中で眠っていた。シーツを頭まで被り、サイドボード側へ横寝をしていて、唯一不自然なことは、呼吸音に水気があることだった。
「ふ……っ」
不意に空間を破る声に続いたのは激しい咳だった。イーグルは被ったシーツから腕を伸ばして、ベッドサイドにある手のひらサイズの吸引器を引ったくった。拍子に薬の小瓶が散乱する。酷い咳と、懸命に吸引する音が部屋に満ちる。
次の瞬間、一際大きく咳き込んだ際に、生々しい水音が混じった。二度、三度と繰り返し、シーツが赤い染みで汚れる。咳の主は未だ頭を隠したまま、あまり品のよく無い言葉を虚空に吐きつけた。
(だんだん酷くなっている)
発作の続く苦しい息の中、イーグルは己の吐いた血を握りつぶした。ぬるりとした感触、乾けば不愉快にべたつくそれを、片付けなければいけないのに身体が言うことを聞かない。
(あと二時間)
二時間すれば彼の副官が部屋へ迎えにくる。それまでに身体を整え、汚したリネンをダストシュートに放り込まなくてはならない。
呼吸はまだ荒い。イーグルは眉間に皺を寄せ、目を閉じて、軍医との会話を思い出した。
「その身体。私には報告義務があるわ」
「……セフィーロのことを一番知り、良くも悪くも顔が割れている僕はまだ適任だと思いますが」
「適任、ね。あなた結局行きたいの、行きたくないの」
「どういう意味ですか」
「行きたいのなら医療センターになんか来なければいいのよ。勝手に死になさい」
「なんの病気か、少しでも延命方法があるのか、それを気にするのはおかしなことですか」
「私が上へ報告しないとでも思っているの」
「義務はあっても強制力はないと知っていますが」
「いやね、ドラックの中毒者のようなことを言って」
軍医はひとしきり笑ったあと、あっさりとイーグルのカルテを改竄した。
「私が野戦上がりなことに感謝するのね」
軍医は言うと、ジェオのカルテと身体能力検査書を小型スクリーンに映し出した。
「で、これがあなたの死体の代わりね。いい成績してるじゃない」
「はい。僕が志半ばで死んだら、すべてを彼に任せます」
「この人は知らないんでしょう? 教えるつもりもない」
「……」
「まあいいわ。あんたたちみたいなの、たくさん診てきたから」
「それは肉体の面で? 精神の面で?」
「両方ね。補い合っているとね、いつしかひとつの身体を共にした癒着双生児のようになるのよ」
癒着双生児。イーグルとジェオとではあまりに似ても似つかない。その可笑しさで多少の気力を保たせることができた。薬が効き始め、呼吸もずいぶん楽になったので、イーグルはベッドの上で上体を起こした。どうやら大丈夫そうだ。汚れたシーツを剥ぎ、新たにベッドメイクをする。ここが戦艦であることが恨まれた。本国ではベッド自体が全自動でやる。それから備え付けられた——これは自分の立場に感謝しよう——簡易シャワーで血の匂いを完全に落として、髪を乾かし、再びベッドへ戻った。薬類を片付けて、ジェオが来るまで寝たふりをしようとしたが、本当に眠りに落ちていた。
夢を見た。幼かった頃の夢だ。特殊計画緑地化区域を父と訪れたときの夢だった。集光ドームには光が溢れ、一般街に設置された公園の植物のような金属に近い輝きとは違う、柔らかな緑色に透ける葉が、人口の風にざわめく。
父上、これが『本物』の植物ですか。
そうだイーグル。暖かいだろう。
父の背に木漏れ日が揺らめき光を宿す。
いつかこれが街の公園にも植えられればいいな、イーグル。
イーグル……
「イーグル!いつまで寝てんだ、大丈夫か?」
「ううん……」
「こら」
定刻通りに入ってきたジェオの手でシーツが半ば剥がされる。
「ジェオ?」
「他に誰がいるんだ。ん、お前まさか寝不足か?」
「そう見えますか」
イーグルは内心肝を冷やしながら言った。
「明け方に、夢見が悪くて」
「顔洗ってシャンとしてこい」
「はい」
顔は先ほど洗ったのだから必要ないだろう。しかしイーグルは誤魔化すために、洗面台に向かい蛇口をひねって水音をわざと立てながら、気になって自分の顔を見てみた。毎日見ているので分からなかったが、わずかに隈ができている。ジェオは気付くだろうか。彼も毎日顔を合わせているのでおそらく大丈夫だろうと思われた。そして思いついたように洗面台の引き出しに隠してある小物を取って眺めた。軍医が持たせたコンシーラーという、局所的に肌色を変える化粧品だった。イーグルは溜息をつき、少し馬鹿らしいと思いながら化粧品を元の場所に戻した。
「おし、着替えるぞ」
「ジェオ、平時はいいんですが、今は僕は自分で身の回りのことをしたほうがいいと思うんです」
ジェオは目を丸くしてイーグルを見た。
「熱でもあるのか、お前」
「いえ、もうそろそろ、今日中にもオートザムの完全防衛空域を出ます。僕も気持ちを切り替えないといけません」
「そうだな。……行くんだな、ランティスの国に」
「ええ」
ジェオがランティスの名を出したのは、まだイーグルを試す気持ちがあったからだ。彼の覚悟は承知していたが、まだ信じられなかった。ここで作り笑いでもされたら怒ろうと思っていたが、イーグルはどこか疲れた真顔のままだった。
「わかった、俺も心を入れ替えよう。今後は自分で起きるんだな」
「あっ、でもやっぱり」
「なんだ、お前の覚悟はその程度か?」
いたずらっぽく片目を瞑って見せた副官に、イーグルも演技で泣きついてみせた。
「でも、いいです。朝も自分で起きます」
「本気か。なんか自分で起きるだの起きないだの会話がガキだな。ま、お前さんが寝坊したら起こしにいくぜ。じゃあ早く着替えてミーティングを始めよう」
「わかりました」
部屋のドアが作動音を残して閉じる。一人になった部屋でイーグルは自分の胸に手を当てた。黒いハイネックのアンダーウェアの下では、急速に病気と体重減少が進んでいたのだった。
赤は嫌いだった。血を連想させるから。血は戦争を。戦争は破壊を。かつてオートザムは他国のように緑吹き花は咲き乱れ水の湧き出る国だったらしい。しかし何故か乳幼児から就学児の死亡率が高く、人々は国を枯れさせないために寿命の引き伸ばしと、医療の発達に何もかもを投げうって努力をした。死亡率が下がるにつれ、今度は国土が荒れた。疲弊したオートザムに侵攻してくる国もあった。オートザムは国そのものと環境と人口を守って戦い続けなければならなかった。これだけ聞けば普遍的な国家でもあるが、オートザムにはエネルギー問題もあった。他国が自然物からエネルギーを採取しているのに対して、オートザムの資源は『人間』であった。人間の精神エネルギーがすべてを動かした。当然、人は多く死んだ。それを補うために様々な分野の開発をし、結果、大国となったが、抱える憂いは何百年も昔から何も変わってはいない。
ぽつり、ぽつりと赤が落ちる。血のような赤が。