無垢なる誘惑人間の欲の儘ならなさよ。下手に知性がある分、本能に忠実なだけの獣よりよほど厄介だ。
アビスと恋人関係になってから二ヶ月ほどが経過した。泊まりでトランプをするなどはそのままに、アベルと目が合えばやんわりはにかむ。アビスの、たがいちがいの瞳が眩しげに細められるのがアベルは気に入りで、その眼差しが向けられるだけで心が満たされた。しかし眠りに就く際の無防備さには日に日に苛まれ、どうしたものかとひとり悩んでいる。
全幅の信頼を裏切る真似はしたくない。ただでさえ長いこと彼を道具呼ばわりしていた上に、アビスはアベルのためならその身を投げ出すことを厭わないのだ。かける言葉をひとつ間違えば望まない展開に陥いるだろう。アベルが求めるのは一方的な蹂躙ではなく、対等な立場での密事だ。
その日もアビスは泊まりに来ていた。ダウトがひと段落した折、トランプの山を集める白い手に己のそれを重ねる。澄み渡る空と煌めく月を落とし込んだ双眸がわずかに見開かれ、ひくりと肩が跳ねた。
「アベル様?」
伺う声音には戸惑いが滲んでいる。怯えや不快さは感じられない。他人との接触を極力避けてきたアビスを怖がらせないよう、そして誤解させないように慎重に言葉を選ぶ。
「これはあくまでも僕の欲求で、無理に合意しろとは言わない。けれどもっとアビスに触れてみたいんだ」
「……それは」
真意を量りかねて、穢れのないまなこが揺らぐ。重ねていない方の手でアビスの薄いくちびるをなぞると明確に体を強張らせ、目元が赤らんだ。
「友人よりも距離を詰めたい。恋人にしか許されないところまで君を感じたいという意味だよ」
途端におろおろと視線を彷徨わせる初心さについ笑みが漏れる。戦慄くくちびるが微かに開き、呼吸さえ躊躇うようにそっと動いた。
「アベル様が触れたいなら。……いえ」
私も触れてほしいです。
囁くほどの小さな声は震え、ともすれば泣き出しそうな。だがアベルを見つめる眼差しは眩しげなそれだから嘘はない。くしゃりとはにかんで眉を下げる。
「ただ、そういった経験がないので失礼があったらすみません」
「構わないよ。こういうことは二人で進めていくものだからね」
痣をなぞるように指の背で頬を撫でれば、アビスはくちびるを引き結んで眉間をむずむずさせた。
「まずは抱き締めてみてもいいかな」
ゆっくり、大きな首肯。けれど言葉はなく、すでにアビスがいっぱいいっぱいであることが窺えた。顔も赤くないところの方が少ない。
トランプの山を傍にどかしてアビスを抱き込むと、アベルが扱う人形よりもぎしぎしに固まっていた。しかしローブ越しにもじんわりと温かく、彼の紛れもない生を伝える。行き過ぎた緊張で汗ばみながらもアベルを受け入れようとする姿勢が愛おしい。
形のいい耳にくちびるを寄せる。
「好きだよ」
貴族としては安易な言葉を安売りすべきではない。だが今のアベルはアビスの恋人であり、健気でいじらしい彼への労いも込めて愛を囁きたかった。更に身を縮こまらせたアビスはアベルの肩に額を預け、かろうじてローブの裾を握る。どうやらまだ腕を伸ばしてはくれないらしい。それでも大きな進歩であると、アベルの眉はほんのり上がっていた。
*
自分は道具として付き従い、時に影のように寄り添うばかりと思っていた。アビスにとってアベルの背中は尊く見上げるもの。そこに縋るだなんて選択は端から存在しなかった。なのに、最近。アベルの部屋を訪れるたびに決まって施される抱擁から欲が生まれ、自分から触れてみたいとさえ考えてしまって困る。
初めて抱き締められてから何回過ぎたか、両手の指では足りなくなった頃。トランプを片付けたアビスにアベルが問いかけた。
「そろそろ慣れてきたかな」
「そうですね、最初よりは……」
「なら、今日は他のところも触ってみたいんだ」
アビスが触れられて嫌じゃない場所を確かめたいと言う。そんなの。アベルが望むなら何を差し出したって構わない。けれど実際には辿々しく応じることすら難しいため、厚意に甘えておくべきか。
「この身でよければ」
「アビス。僕は君だから触れたいんだ」
教え込むように鋭く、十字架のまなこがアビスを射抜く。目を逸らすのは許さないとばかりに。
まっすぐな欲求をぶつけられ、急に羞恥が込み上げた。何を差し出しても構わない。だけどやっぱりアベルと同じだけの熱量で応じるなんて到底無理だ。
「いいかい」
掬うように手を取られる。指の腹をくすぐり、関節を辿ってするりと指を絡められた。その間にもアビスの手指を握る動きは止まらない。かさつきのない、アベルのうつくしく滑らかな指がじっくり這い回っている。
「この硬いのは剣ダコかな」
手のひら、指の付け根を検分するように擦られてアビスは息が止まりそうだった。ごわついてゴムみたいに分厚くなった皮膚なんて不快だろうに。
「すみませ……っ」
「アビス」
咄嗟に口をついて出た謝罪を窘めるかのごとく、アベルがこつりと額を寄せた。
「君の努力の証だろう。誇ることはあっても恥じることはないよ」
ぎゅうと胸が締め付けられる。
アベルの道具でいられれば幸せだった。けれどひとりの人間として扱われるのはこうもくすぐったく、涙が出そうな感覚だなんて。ひとりぼっちで立っていた心が解きほぐされていく。この温かさを覚えてしまったら戻れない。
やわやわと手のひらを撫でていた手がアビスの頬の輪郭をなぞり、十字架のマリアライトへと視線を導いた。どこか躊躇いを含んだ色の奥に、仄めく情欲。
「キスには耐えられそう?」
音声から単語への変換、更に質問内容の理解までに時間を要し、すべてが繋がると思考が停止した。
キス。愛情を示す行動として知ってはいる。アビス自身はしたこともされたこともない。それをアベルがこの身に望んでいると実感したら、今度こそ息ができなくなった。ひゅっと吸ったきり、どうしていたか分からなくなってくらくらする。
視界からマリアライトが消え、かわりに少し苦しいほどの抱擁。
「ゆっくり息を吐くんだ」
ほら、と促されて徐々に肺から空気が抜けていく。アベルにしては珍しい力業での対応。確実にマッシュの影響だろうと思ったら自然と笑みがこぼれた。
「まだ早かったようだね。口にする前に顔のあちこちで試すのも難しいかな」
「顔のあちこち、ですか」
「頬やまぶた、額、鼻先。まずは耐えられる限度を探っていこう」
ささくれひとつない指がアビスの顔の端麗なパーツをじっくり堪能し、抵抗がないことを確かめた。アビスがくすぐったそうにしているうちにアベルがそっと額にくちづけを落とし、すぐに離れて反応を窺う。
「ん、」
反射的に目を閉じたアビスのまぶたにもくちびるを寄せれば、再び呼吸が怪しくなる。
「吸って」
トンと背中を叩く手に合わせて口を開け、詰まっていた喉に空気を送った。褒めるように鼻先へのキス。
「吐いて」
指示通りに息を吐くくちびるの、一センチほど隣。頬と口角の境目に啄むように触れ、アベルが顔を離した。透明度の高い瞳には情けなく真っ赤になった己が映り、居た堪れなさがアビスを襲う。アベルは本当に自分でいいのだろうか。彼の心を疑うなんて失礼甚だしいけど、でも。
「アビス」
白い指がくちびるをなぞる。
「考え事とは余裕だね。心の準備はできたのかな」
先ほどよりも温度を上げた眼差しに貫かれ、一瞬で身が竦む。
「もう少し待ってください……」
いっそ否やを問わずに奪われていたら楽だったのに。望む心とは裏腹に、アビス自らアベルへ縋れる日はまだ遠い。
*
膝の間に招かれ、背後から伸びた手がそこかしこを撫でる。
アベルとの触れ合いは徐々に深まり、もはや二人トランプは泊まりの口実に止まっていた。部屋で過ごすほとんどの時間が恋人の距離。最近ではアベルの体温がないと寂しいとすら感じるだなんて言えない。自室でワースと課題を片付けている時なども不意に思い出してしまう。こんなこと、本当に、誰にも。
均一に整えられたアベルの爪が、咎めるようにアビスのくちびるをチクリと搔いた。そのまま顎を掬って後ろを向かせる。揺らめくマリアライト。視線が注がれる先は、アビスが待ってを懇願している場所。
手を伸ばしてみたいという欲はずっとあった。だけどそれ以上にアベルの好きなようにされてみたくて、ぐるぐる考え込んでは許容量を超えてパンクする。でも今なら。何も確証はないけれど、かちりと温度が合わさって、アベルの熱に灼かれてしまう恐れはない気がした。そっと瞼を下ろす。至近距離で、わずかに息を呑んだ気配。
「……アビス」
吐息混じりに呼ばれた名前はくちびるに吸い込まれ、しっとりと甘く溶けた。やわらかくて瑞々しい。一度離れて角度を変えて、再びほのかに湿った感触。
「アベル様……」
時間にすればほんの数秒。なのに永遠にも思えるほどの多幸感と、遅れてきた緊張で眩暈がした。儚げな睫毛がマリアライトを翳らせる様さえよく見える。きらきら透き通る薄明の空。
「いい子だ」
上機嫌に褒められ、頬や目尻にもくちびるを落とされた。まだ先ほどの感触が頭から離れない。もう一回をねだる勇気はないけれど。伝わってほしいと願いながら目を閉じれば、望んだ場所にくちびるが降ってきた。
ああ、ついに覚えてしまった。どこまで欲深くなってしまうのだろう。
アビスの悩みなど知る由もなく、アベルは次の段階へ進める算段を立てていた。この奥手な恋人を逃がす気なんて、端から更々ない。
*
貴族として余計な物音を立てないように教育されてきた。足音や生活動作、食事の際は言わずもがな。
だがアベルは、アビスにくちびるを寄せる時は敢えてかすかなリップ音を耳に残すようにしている。触れるたびに身を強張らせ、思考のすべてをアベルで埋め尽くされていく様子がどうにも愛らしくて。額や瞼、頬の高い位置。鼻先に口角。それからくちびる。やわく重ね合わせるだけの、子供の真似事じみたそれ。しかしアビスにはなかなかの難易度なようで、休憩を挟まないとすぐ酸欠になってしまう。
「呼吸は鼻でするんだ」
はふ、とぼんやりしているアビスに息継ぎを教えてみても、理解できているかすら怪しい。ふわふわと溺れているような表情は幼気。なのにどこか悩ましげでもあり、アベルの理性を鈍く突く。
戯れに耳たぶを食んでみれば、やっと落ち着きを取り戻していた肩がビャッと跳ねた。襲われた小動物のごとき速さで耳を庇い、真っ赤になって目を白黒させている。
「ぇ、あ、アベル様」
何が起こったのかも分からない様相。閨事のいろはを知らないわけではないだろうに、あまりに初心な。唆られる嗜虐心を制しながら、なんでもない顔でアベルは尋ねた。
「続けていいかい」
どうぞと承諾する声は震えて、そのくせ。たがいちがいの瞳は期待の色に染まっているからやめられない。