わがままひとつ今日は俺の誕生日。それを知っていた上司の菊田さんが、食事に誘ってくれた。定時を少し過ぎてから菊田さんと一緒に会社を出る。
よく行く店に入り、いつものように注文を済ませた。
「有古、誕生日おめでとう」
乾杯、と菊田さんが掲げたグラスに自分のグラスを軽く合わせる。明日も仕事なのでそれほど飲めないが、まだまだ暑い日が続くなかで仕事終わりの一杯はうまい。
料理も運ばれてきて箸をつけたところで、
「遅くなりました」
とよく知る明るい声が響いた。驚いて個室の入り口を見れば、予想通りの人物が靴を脱いでいる。
彼女が来るなんて聞いてない。
慌てて菊田さんを見るが、菊田さんは俺の視線に気づいていないのか、彼女を俺の隣に座らせておしぼりを渡している。
「有古くん、誕生日なんだって?おめでとう」
「あ、あぁ……ありがとう」
「今日、菊田さんから聞いたから、プレゼント用意してないの。今度ね」
「気持ちだけで十分だ」
「私があげたいの」
何がいいかな、と呟いている彼女から、正面の菊田さんに視線を動かせば、頬杖をついてニヤニヤと笑っていた。
この人、確信犯だ。
俺の気持ちを菊田さんに教えたことはないはずなのに、何でこの人は知っているのか。
思わず睨み付けるが、菊田さんは全く気にする様子はない。
やがて彼女の飲み物が運ばれてきて、改めて乾杯とグラスを合わせた。
しばらくは料理を食べながら、話に花を咲かせていた。といっても、主に喋るのは菊田さんと彼女で、俺は聞き役だ。これは出会った頃から変わらない。
菊田さんの話に笑う彼女を見て、俺も同じように彼女を笑わせる事が出来るだろうかと、ふと考えてしまった。俺は決してお喋りな方ではない。冗談を言う質でもない。仕事の話ならどうにかなるが、こういった席で何を話していいのかよく分からない。
きっとつまらない男だと思われているんだろうな。
せっかく誕生日を祝ってもらっているというのに、少し気分が沈んでしまった。
「有古くん、酔っちゃった?大丈夫?」
隣の彼女が心配そうに下から覗き込んできた。急に近付いてきた彼女に驚くも、大丈夫だと返す。本当?と尚も心配そうな彼女に大丈夫だと繰り返した。
「お、唐揚げ残ってるな。もらうぞ」
するとそこへ菊田さんの声が響いた。
「あ、それ私が取っておいたやつ」
彼女が慌ててそう言うが、すでに唐揚げは菊田さんの口の中。彼女が唐揚げが好きで、好きなものは取っておくのを知っているはずなのに。
「お前なぁ、好きだからって取っておくのもいいけど、放置してたら横からかっさわられちまうぞ。なぁ、有古」
意味ありげな視線を寄越す菊田さんに、はぁ、とだけ返事を返した。
それは……俺への言葉なのだろう。誰かに彼女を取られてもいいのか、と。
取られたくはない。でもどうしても一歩が踏み出せない。
そこへ電子音が響いた。
「あ、電話だ」
そう言って菊田さんが席を外す。
「もう、菊田さん、ひどいよね。私が唐揚げ好きなの知ってるのに」
唇を尖らせる彼女をまぁまぁと宥めながら、改めて誰にも渡したくないと思う。せめて何きっかけがほしい。彼女を誘えるきっかけが。
やがて菊田さんが戻ってきたが、
「悪い、弟から呼び出された」
そう言ってお開きになってしまった。
会計は、菊田さんが持ってくれるというので、彼女と二人してお礼をいう。
「有古、駅まで送ってやれよ」
「もちろんです」
「誕生日なのに、ごめんね」
じゃあ、と手を振って先に歩き出した菊田さんを見送り、彼女と並んで駅に向かう。すると俺の携帯からメッセージ受信の音が聞こえた。こんな時間に誰かと、彼女に断りを入れてから見てみると、先程別れた菊田さんからだった。
[誕生日なんだから、一つくらいわがまま言っても許されるんじゃないかな]
誕生日おめでとうのメッセージの下に、そう書かれている。
誕生日のわがまま……。いいのだろうか。
でもこれはいいきっかけになるのではないだろうか。このままでは誰かに彼女を取られてしまうかもしれない。だから……。
「どうしたの?急ぎの仕事とか?」
携帯を見たまま動かない俺を、彼女は心配そうに見上げてきた。
「いや、なんでもない、大丈夫だ」
そう言って携帯をしまうと、俺は彼女に向き合った。
「誕生日のプレゼント、くれるっていったよな」
「え?うん。何かほしいものあるの?」
楽しそうな、期待に満ちた表情で見上げてくる彼女に、俺は拳を握りしめ、呼吸を整える。
「一つだけ、誕生日のわがままを聞いてほしい」
「なぁに?」
「俺と……」
続いた言葉に、彼女は真っ赤な顔で頷いてくれた。