キャンプウィルルオ4 夏の間は、キャンプをしたくない。ル・オーの本音である。
昨今の夏は気温が高すぎだ。避暑地に行ったからといって、マシな程度で暑いことに変わりはない。汗だくになりながら、虫と隣り合わせの環境で過ごすこととなる。
だから、嫌だ。ル・オーがキャンプをしていたのは、ひとりで静かな場所に行きたかったから。過酷な環境を楽しむことが主たる目的ではない。ましてや、夏休みになど入ろうものなら、そこらじゅうに親子連れが溢れてしまう。
だから夏になると、ル・オーはエアコンの効いた部屋から出なくなる。出たとしたって、美術館だとか、寂れた海辺などだ。それも用が終われば帰宅して、百貨店で購入した弁当を食べて終わりである。
そんな毎年の過ごし方を、ウィルナスに伝えた。
『じゃあ、暑くなってきたらもう、涼しくなるまでキャンプには行けやがれないのか?』
しょんぼり、といった様子のトカゲのスタンプと共に、返信が来る。後に知ることだが、これは赤い竜であって、トカゲではないらしい。どちらでもル・オーにとってさしたる違いはないが。
『そうなってしまうね』
淡々とした短い返事をするのにも、しばらくの時間を要した。はぁ、とため息を吐いて、ル・オーは弁当の米を口に運ぶ。
職場での休憩時間。皆、昼休憩は食堂に行くようだが、ル・オーは自分のデスクの前で食事をするのが普通だ。休憩時間を削りつつ、ギリギリまで仕事をするし、食事が終わればまた仕事をする。そんな日が多い。
作業が忙しい、というのは事実でもあり、建前でもある。あの賑やかな食堂にどう身を置いていいかわからないし、そんなことは起こらないとも思うが、誰かに話しかけられてどう答えていいやら。そんな面倒を避ける為に、ル・オーは電気の消えた部屋でひとり食事を摂る。
スマホの向こうの相手は、どうなのだろうか。昼休憩のやりとりは、毎日の習慣になっていた。
『寂しくなるなあ』
その返事もまた、随分と遅く届いた。涙を流すスタンプを見た後で、ル・オーはカレンダーに目をやる。
近頃は残暑も厳しい。早くてもキャンプに行くのは10月に差し掛かるかもしれない。梅雨の間は休みと雨が重なりがちだから……下手をすれば、3ヶ月以上無いことになる。
それは、嫌だ。
ル・オーはそう思ってから、不思議に思う。何がそんなに嫌なのだろう、と。
「あの……」
声をかけられて、ハッと顔を向けると、部下のひとりが立っていた。慌ててスマホを机に伏せて隠しながら、「何か用かね?」と平静を装って尋ねる。
「お疲れ様です。これ、良かったらどうぞ……」
そっと差し出されたのは、いくつかの菓子だ。ル・オーでも知っているぐらい人気の店の名前が書いてある。
「……私に?」
ル・オーの問いは純粋な疑問だった。部下との接点は仕事以外に無い。雑談もせず、飲み会にも行かない。だから部下たちはル・オーを避けていた。少なくともル・オーはそう思っている。
それなのに、どういう風の吹き回しだろう。部下はニコ、と笑って「美味しいですよ」とそれだけ答えた。ル・オーはまた困惑しつつ、「……感謝するのだよ」と返事をする。
用件は本当にそれだけだったらしい。部下はお辞儀をするとそのままどこかへ行ってしまった。取り残されたル・オーは、菓子をしばらく見た後、机へ置く。間食にさせてもらおう。そう思いながらスマホを手に取って驚いた。
暗い画面が鏡のように作用して、自分の耳がぺったり伏せているのが見えたのだ。慌てて引っ張って立ててみたけれど、ぺしょりとまた倒れてしまう。もしや、この姿を見られたのだろうか。そう考えると恥ずかしくて仕方なかった。
『ル・オー。嫌だったか?』
通知にそんなメッセージが流れてきて、ル・オーは目を丸くする。何のことかとメッセージを遡れば、
『鼎は夏もル・オーに会いたい』
と率直な言葉が届いている。僅かな時間、既読がついたまま返事の無いことを不安に感じたのだろうか。ル・オーはすぐ『嫌ではない』と送信して、それから考える。
夏も、ウィルナスと会う方法。そんなの、本当はいくらでもある。会いたければ会えばいい。
キャンプでなくたって、遊びに行けばいいのだ。美術館だって、海だって、それこそただ会って話すだけでも。なのに、何か大きな口実が無ければ会えないような気もしている。
こういう時、他の人間はどうしているのだろう。要件が無ければ誰かに声をかけることもない人生を送ってきたから、理由も無しにウィルナスと出かける方法が思いつかない。
――いいや、有るには、有る。
『グランピングはどうだね? 少々、金額は高くなるが』
『それは、どんなものなのだ?』
『施設によるが、冷暖房完備で冷蔵庫やキッチンも有ったりしてね。キャンプに適した場所で部屋を貸切るようなものだよ。透明なドームで夜空を眺められたり、屋外で風呂に入ったり……なにしろ、プランによるが。それなら、涼しくアウトドア気分を味わえるかもしれない』
そう提案しながらも、ル・オーはグランピングなるものをしたことがない。ホテルに泊まるようなものだと思っていたからだ。しかしそれなら、真夏でも会うことができる。今から予約を入れて間に合うかはわからないが。
『では、そうしよう! 金は工面する! 夏もル・オーに会いたい!』
すぐ返事が有って、ル・オーは思わず表情を緩めた。彼のほうも会いたいと思ってるのが、どういうわけか嬉しい。
『予約できそうな場所を探しておく。……それはさておき、まだ夏には早い。次のキャンプはいつにするかね?』
そう問いかけて、首を傾げる。つい先日までキャンプに誘われていた側なのに、ついつい話の流れで誘ってしまった。
いったい、彼と自分の身に何が起こっているのだろう。ル・オーは困惑しながら、スマホの隅に在る時計を見て目を見開く。昼休みが終わりそうだ。
慌ててスマホの画面を閉じ、彼にしては珍しいほどの速さで弁当を片付けた。
「予報どおり、降り始めてしまったなあ。ル・オーが雨対策を知っていてよかった。流石、流石」
雨を受け止めてくれるタープ見ながら、ウィルナスは感心しているようだ。ル・オーは暗い空の様子を見ながら「あまり酷くならないとは思いたいね」と呟いた。
6月。まだ梅雨入りしてほしくない、というふたりの願いは叶った。まだ「梅雨入り」は宣言されていない。しかし、せっかくのキャンプ予定日の天気予報は曇りところにより雨であった。
幸い降水量はそう多くなさそうだ。雨のキャンプもまあ、悪いことばかりではない。雨音が満ちる世界は静かで、穏やかだ。景色もまるで変わるし、ぼうっとするだけでも心が癒されることはある。ただ、それにも程度と、片付けの問題が有るだけで。
キャンプ道具は元々それなりの量が必要だが、本気の雨対策をするとなればまた色々と厄介になる。濡れたテントをどうするか、念のため寝具を支えつきのものにするか、大雨でテントが潰れないようにして……と、すべきことが随分増える。
だからル・オーは自分の車を出すことに決めた。車中泊もできるよう色々と準備をしていたのだ。タープで屋根を作り食事などをして、寝る時は車に戻る。これで随分気楽に過ごすことはできる。
そんな提案をしたら、ウィルナスが「鼎もル・オーの車で寝てみたい!」と言うものだから、結果的に車中泊を共にすることになった。
(いや、別に。友人とキャンプに行くのなら、普通のことだ。荷物は少ないほうがいい。ふたりでひとつのテントで寝るようなもので、なんの不思議も無い……)
そう考えはするものの、どうしてか、少々落ち着かなかった。
先日のキャンプ。またしても寝こけてたル・オーは、今度こそ朝までぐっすり寝てしまった。ウィルナスの布団の中で目覚めた時は顔を青くしたし、何故か隣で寝袋に包まって眠る男の姿に仰天した。
何故、寝袋を持って来ているのに、布団も有るのか。まるで寝落ちするのを予想されていたかのようである。ウィルナスによれば、万が一の為に持って来ていたとのことだが、つまりその万が一とは……と考えて、ル・オーは顔を赤くした。
人前でぐっすり寝て、しかも世話になるなど、とんでもないことだ。羞恥のあまり、もうウィルナスと一緒に酒を呑むのはやめようと決意した。
その失態に比べれば、同じ車の中で寝るというのはマシだ。そのはず、なのだが。
(お、落ち着かないのは、何故だ……?)
ウィルナスと同じ空間で寝るのだ、と考えれば、不思議と胸がざわつく。不快なのではない。何か言いようのない……恥ずかしさにも似ているが、しかし何処か浮かれているような、妙な気持ちだった。
(友人との宿泊に胸を踊らせるなど、子供ではあるまいし……)
頭ではそう思うのに、どうしてもソワソワしてしまう。おかげで、ウィルナスの焼いてくれた肉の味もよくわからなかった。
そうこうするうちに、陽は沈み、暗いキャンプ場に雨音だけが響く。炭火も消えた頃、ふたりは車の中に入った。
座席を全て倒せば平たくなる。そこに寝袋を広げれば、寝室の完成だ。あとは寝袋に入って、眠るだけ。
それなのに、ル・オーはどうにも眠くない。こんなことなら酒を飲めば良かったと思うほどには。
金属の屋根に雨音が当たる。その原初の音楽が妙に大きく聞こえた。
「車の中で眠るのは初めてだ! 鼎は今、とてもワクワクしているぞ!」
ル・オーの気持ちも知らず、ウィルナスはそれこそお泊り会の子どものようだ。大きな寝袋を広げ、ウキウキと中に潜っていく。そんな様子を見ていると、ドキドキしている自分が馬鹿らしくなる。ひとつ溜息を吐いて、自分も寝袋の中へと入った。
「明日は晴れるといいなあ」
「そうだね」
「雨のままだと、片付けるのが大変そうだ。そうでなくても、地面がぬかるんでいやがるだろうし」
「……そうだね」
「鼎は晴れの日のほうが好きだ。しかしおかげでこうしてル・オーと珍しい経験をできると考えれば、雨も悪くないように思えるぞ」
「……そう、かね」
ウィルナスは横になってからも随分話しかけてきた。いや、あるいは独り言なのかもしれないが。
雨はしとしと降り続けているようだ。単調なリズムは睡魔を呼び寄せる。既に明かりも落として暗い車内。ウィルナスのなんということもない話に相槌を打っているうちには、うとうとしてきた。
このまま眠ろうか。瞼を閉じていると。
「……ル・オーはどうしてキャンプを始めやがったんだ?」
問われて、うっすらと目を開ける。もう隣にいる男の表情も見えないが、きっと嬉しそうにしているだろうと思った。眠いのも相まって、ル・オーは素直に答える。
「私は無趣味な人間でね」
「そうでいやがるのか?」
「まあ、学生の頃から読書は好きだった。だが仕事を始めるとずっと何かしら読んでいるものだからね、だんだんと、読書そのものも苦痛になってきたのだよ」
仕事に関する本、仕事に直接は関係しないが社会生活に必要な本。会社でも家でもそんなものを読んでいたら、次第に本そのものが嫌になってきたのだ。
これはとてもまずい、と早くに気付いたのは幸運だった。ル・オーは速やかに読書以外の、何か今までしたことがなく、全く仕事に関係のない趣味を作ろうと思った。
そしてたまたま立ち寄った書店で、キャンプ雑誌を見て。これにしようと決めただけに過ぎなかった。
「こんなにハマるとは、正直思っていなかった」
「ル・オーには合っていやがったのだなあ」
「ひとりでマイペースにできるところが良かったのだろうね。おかげでキャンプ中は読書もできるようになって……今では家でも読めるようになったのだよ」
「良かったなあ、良かったなあ」
うんうん頷いている気配がする。ル・オーは小さく笑って、それから問いかけた。
「君は、どうなんだね?」
「鼎?」
「急にソロでキャンプをしようと思ったのには、なにかきっかけがあったのではないのかと」
「あ~……」
ウィルナスはまたいつもの反応をした。ル・オーが彼のことを問うと、大体こうのような気がする。今回もはぐらかされるだろうか、と思いつつ、うとうとしていると。
「……鼎は、友人がいなくてなあ」
その言葉は意外なもので、一瞬パチリと目が覚めた。暗闇を見つめても、彼の赤い髪も見えやしないけれど。いつもの明るい、子どものような表情を浮かべているか、ル・オーは少し不安になった。
「いや、知人はまあ、いる。だが、腹を割って話せる友人……のようなものは、なかなかできにくくてな。鼎は見ての通り、このたくましい体だし、始終笑顔でいなければ怖がられる」
「…………」
「故に、……キャンプに誘えるような相手もいなかった。ひとりでいたのはそれが理由だなあ」
「……嫌なことを、聞いたかな」
「否、否。気にしないで下さいやがれ。それに……まあ、なんだ。色々上手くいかなくて、ひとりになりたい気分だったのだ。だから、やったことのないことをしてみたいと考えてなあ。子供の頃憧れた、キャンプをな。してみようと」
「……そう、かね」
「うむ。ところが、まあ初めてだし、説明書は知っての通りだし、鼎も困り果てていた! 期待はしていなかったが、予想通り誰も助けてくれないしなあ。鼎の見た目では、近付く人間もいないのだ。やはり人生は上手くいかない。もうこのまま地べたに寝袋を強いて野宿にするか……そんな気持ちになっていたところへ、ル・オーが声をかけてくれた、というわけだ! 感謝、感謝!」
声音は明るい。けれど、彼は今どんな表情をしているのだろうか。わからなくて、ル・オーはずっとウィルナスのほうを見つめていた。
思わず、寝袋から手を出すと、のろのろそちらへと伸ばす。すり、とまず触れたのは髪だった。それを頼りに辿っていくと、温かい肌へと触れた。
「む」
ウィルナスが驚いた声を出すので、それが頬だとわかった。爪を立てないように、指を丸めて撫でてみる。まるで猫か何かを可愛がるように。
「ル・オー?」
「……」
名を呼ばれる。何故こうしているのかを問われている気もするが、理由が自分にもわからない。
人生は一瞬の喜びと、無数の苦しみでできている。だからといって、自分だけが辛いと思うなとか、前向きになれなんて無責任なことは言いたくない。人の数だけ苦しみが有り、悲しみが有り、そしてその隙間に僅かな幸福が有る。
それがどんな形で、どれ程のものか、他人にはわかりようもない。わかった気にはなれるかもしれないが。
「……君は、」
小さく、問いかける。
「私とこうしている時間、安らげているかね?」
私と同じほどに。その問いは胸にしまった。
「……無論、無論!」
ウィルナスがごそごそと暴れて、寝袋から腕を出したようだ。その手が、ル・オーの手を包み込む。
「鼎はル・オーとこうして一緒に過ごしていると、色んな事が些細に思えてどうでもよくなる! 胸が温かく、いや熱くなって、たまらなく幸せになるのだ。ずっとずっと、こうやってル・オーと何か喋って、食べて、眠ったりしていたいと思うぞ!」
「……」
ウィルナスの大きな手が、温かい。それを意識すると、どうしてだか胸がドクドク高鳴って、寝袋の中で妙に大きく響いているような気がしてきた。
思わず、ウィルナスから手を離す。するりと寝袋に潜り直すと、「嫌、だったか?」と不安げに尋ねられた。
「……いいや。少し……少し、私らしくも無いことをしてしまったのでね」
頬が熱い。恥ずかしいのだ。もぞもぞと姿勢を整えて、「もう寝るのだよ」と呟く。
「応、応。……なあ、ル・オー」
「なんだね?」
「もう少し、そばにいってもよろしいか?」
その問いに、ル・オーは今一度彼のほうを見る。やはりそこには暗闇しか無いけれど、不思議と彼はもう暗い顔などしていないような気がした。
「……おいで」
これ以上無い程、優しい声音で囁くと、大きな仔犬がはしゃいでぶつかるほど近くまで転がってくる。ル・オーは苦笑しながら「そばと言っても限度が有るだろう」と呟いたものの、彼を遠ざけたりはしなかった。
そして、辺りには雨音が穏やかに響くばかりとなった。