小学生の頃、夏休み中の家族旅行で夜中に目が覚めて、視界に入るのが自分の家じゃないことに心細くなって、眠れなくなったことがある。
僕はその時どうしたのかというと、隣で寝ていた兄貴の布団にそっと潜り込んで、隣にいるのがいつもと変わらない兄貴だということを確かめようとした。
寝息を立てている兄貴にくっついて、いつもと変わらない心音と体温を感じると、それだけでさっきまで心の中を支配していた寂しさと恐怖が紛れていく気がした。
『ん……んう、……ぎんじ?』
兄貴の体がもぞり、と動いて、僕と同じ色をした目がゆっくり開かれる。
『にいちゃん、』
布団に潜り込んでいる僕を見て一瞬だけ不思議そうな顔をしたけれど、僕の不安げな顔を見ると兄貴はすぐにいつも通りの笑顔を僕に向けた。
『……大丈夫だぞー、兄ちゃんはここにいるからな』
兄貴の暖かな手が僕の頭を撫でると、僕は途端に安心して全身から力が抜けて、ゆっくりと眠気に身を委ねることができたのだった。
♢
フロントでチェックインを済ませてエレベーターに乗り、僕たちが泊まる客室のドアにカードキーをかざす。ドアを開けると、シンプルな内装の2人用の客室が僕らを出迎えた。
僕たちシステム・オブ・ロマンスは、明日は数組のバンドが集まった中規模のフェスに出演する予定になっていた。
ただ、そのライブ会場は関東近郊とはいえ僕らの自宅からは少し遠い場所にあったので、僕たちは会場近くのビジネスホテルで前泊をして会場入りすることになったのだ。
「本当は別々の部屋を用意できたら良かったんだけど…」と准也さんは少し申し訳なさそうな顔をしていたけど、響二さんが遺した資産があるとはいえ、僕らが所属するラプソディはまだまだ小規模なレーベルだ。こういうところで経費を節約するのは必要な事だろう。
「兄貴……なんでそんなニヤニヤしてるのさ」
「しばらく家族旅行なんてしてなかっただろ?なんか久し振りな感じでさ」
「あんまり浮かれないでよね。旅行じゃなくてライブなんだから」
「は〜い」
♢
……困った。
いつもとは違う枕を使っているからだろうか。こんな深夜に目が覚めてしまった。
明日は朝早いのにまた寝付けるかな……という僕の思考は、隣のベッドから聞こえてきた苦しそうな声に遮られる。
僕は起き上がって隣の方を見る。
兄貴はどうやら悪夢に魘されているようで、うわ言を言いながら苦しんでいた。
「兄貴……兄貴、どうしたの」
僕は急いで隣のベッドに近付いて、兄貴の肩を掴んで揺さぶる。
「っ、ぎんじっ…」
「いっ…!?」
起き上がった兄貴に強い力で腕を掴まれて、小さな悲鳴が出てしまう。
「……あ、……ご、ごめん」
兄貴は僕の痛がる声で我に返ったようで、荒い息をなんとか整えようとしながら、酷く申し訳なさそうな表情をしていた。
「……どうしたの」
「だ、大丈夫、……何でもないって」
「大丈夫って…そんな訳ないだろ…!」
さっきの兄貴は、僕の名前を呼びながら必死に縋り付いていた。
どう考えても何でもない訳がないだろう。まだ掴まれた部分は少し痛んでいる。
「変な夢、見てただろ……」
「……ああ」
「……悪い夢は人に話した方が良いっていうけど」
「……」
兄貴は気まずそうに目を逸らしながら、ゆっくりと口を開く。
「……銀路に、SORを解散しようって言われる夢を見たんだ」
このユニットを結成する前。
兄貴が前のユニットの仲間から突然一方的に解散を突きつけられたことがあるのは知っていた。
詳しい解散理由は分からないし、兄貴は話そうとしてくれないけど、少なくともポジティブな理由での解散ではなかっただろうことは確かだ。兄貴は心の奥底でそれを引きずっていたのかもしれない。
僕はため息をつきながら兄貴の手を握って、真っ直ぐに目を合わせる。
普段は僕より暖かな温度をしている手は、今は少し冷えていた。
「……そんなこと言うわけないだろ」
夢の中の僕がどんな風に解散を切り出したのかは分からないけれど、これだけは確かだ。
「僕は兄貴の歌と、僕たち二人で音楽を作り出すことに救われているんだ」
「銀路……」
「だから、今もこれからも絶対に兄貴を手放すことはないよ」
ぎゅう、と握った手に力を込めると、兄貴は弱々しく笑った。
「……ありがとうな。……あと、さっきはごめん」
「……」
「……もう俺は大丈夫だから」
僕には分かる。こういうときの兄貴は、全然『大丈夫』じゃない。
僕の手を離そうとした兄貴の手を掴み直して、恥ずかしさを押し殺して、僕は言う。
「あのさ、……今日は一緒に寝ても、いいけど」
♢
家のものよりは広いけれど、やっぱり1人用のベッドに男2人は狭い。
僕にくっ付いている兄貴はさっきよりも安心した様子になっていて、少しほっとする。
「あのときとは逆だな」
「えっ……お、覚えてたの」
「懐かしいよな、朝起きたら父さんと母さんがニコニコしながら写真撮ってて…」
「恥ずかしいからこれ以上言うな!……ほら、早く寝るぞ。明日ミスったりしたら大変だろ」
目を瞑った兄貴に手を伸ばして、慣れない手つきで頭を撫でてみると、兄貴は少しくすぐったそうに笑った。
「はーい……銀路、……ありがとうな」
「ん、……おやすみ、兄貴」