こんなに酸っぱきゃ夢じゃない
所謂、合コンというものに参加をするのはもうこれで何度目だろうか。久しぶりに友人に会えるから、という理由だけで赴いた飲み会では、案の定雰囲気に流されてイッキをしてしまった。胃の内容物が迫り上がるのを感じ、由依はふらつきながらトイレへ駆け込む。だが、便器にしゃがみ込むと、思い切り嘔吐できるほどの激しい悪心は弱まり、便器に張られた水と向かい合った由依は顔を歪めた。水の表面に、紙のように白い顔色した女が映っている。涙で化粧が崩れ、セットした前髪もあらぬ方向へ曲がっている。悪心が弱まったといっても、腹の中身はまだ残ったままなので、なんとも言えない不快感も残ったままだ。いっそここでしっかりと吐いてしまえた方がどれほど良かったか。自分の顔色の酷さだけを自覚することになった。
──帰りたい。あの空間に、戻りたくない。
焦がれるほど強く願ったところで、加速するのは吐き気だけだ。喉の奥から、絶えず酸っぱいような臭いが上がってくるような気がする。せめて、二次会の前までに上手く抜けるための言い訳を考えておかねば。全身に回ったアルコールの所為で、何度かしゃがみ込みながらも、由依は生まれたての小鹿のようにふらつく足取りで飲みの席へ戻っていく。
無論、彼女にだって、子供の頃は、たくさんの夢があった。けれど大人になると現実など案外単調で、ヒーローも、お姫様も、それから魔法使いも。なにひとつとして、存在しないことを、どうしたって知ってしまう。吐き気を堪えて、無理に笑っていなきゃならないことばかりだ。誰が助けに来てくれるわけでもない。自分の機嫌は、自分で取らなくちゃいけない。
◆◆◆
たとえば。
道端に揺れるタンポポは、ただの雑草ではなく。側溝を這い回るタニシやザリガニは、ただの泥臭い、不気味な生き物じゃなくて。由依は自分の部屋の照明の辺りから、絶えず変な虫の鳴き声がカナカナ響いていることに一人で怯えなくて良かった日が、確かにある、ような気がする。ただいまを告げてもなんの声も返ってこなくて、ひんやりとした部屋に鞄と鍵を投げ捨て、ソファの上で、化粧を落とさなくちゃと思いながら、全身にこびりついた泥のような疲労をどうすることもできず、真っ暗なままで気絶するように寝落ちる、ようなことを、しなくてもよかったような、気がする。厚底ブーツですっ転びそうになりながら、ときおり人身事故だとか故障だとかの理由で遅延する電車に半泣きになって仕事場に急がなくても構わなかったような、気がする。疲れた身体を引き摺って、ちまちま歩いて帰宅する必要もなかったような気がするし、自分で自分の家の鍵を出さなくても、部屋は開いていたような気がする。もっと、焦がれるような欲と情を持って毎日を過ごしていたような気がするし、空の高いところがどんなに青いのか、どんなに風が寒く吹き付けるのかを知っていたような、気がする。コンビニで二百円を超える卵を買わなくてよかった気がするし、洗濯のやり方を間違えて、服の型を崩れさせることも無かった、ような気がする。
何かを忘れているような気が、ずっとしている。いや、忘れているというのは違う。あたしが何かを忘れているんじゃなくて、誰かがあたしのことを忘れているような気がする。あたしの居場所はここじゃなかったような気がするし、由依は夢に生きていて、誰かもそんなふうに夢を見て、不思議な世界に迷い込んで、あたしと一緒に生きていたような気がする。今頃、誰かがどこかで目を覚まして、あれは夢だったのか、変な夢だったなあ、って自分の手を見ながらあたしと過ごしていた日を回顧しているような気がする。違うよお、夢じゃないんだもん、だってあたしが一緒にいたでしょ、って腕を絡めたい。
「……え、誰に?」
由依はフッと正気に返った。同時に、自分が随分と長く眠っていたことに気がつく。強い日差しが差して、瞼の裏が赤く透けている。もう朝なのだった。ソファから身を起こせば、鈍く頭が痛み、口の中は、歯磨きをしないで寝たときに特有の、乾いたような嫌な匂いに充たされていた。部屋着に着替えることすらなく、よそいきの服のまま就寝してしまったことに気づいて、余計に頭が痛くなった。口の中をすすがなくては。二日酔いでふらつく身体に、否が応でも昨日の合コン(とは名ばかりの社会への愚痴大会)の存在を思い返しながら、由依は洗面台へ這うようにして歩いていく。
そもそも、由依がゆうべの合コンに顔を出したのは、久しく会っていなかった友人に会うためである。そして、ここしばらく感じている、奇妙な──なんとも説明し難い──衝動、のようなものについて、打ち明けてみたかった。無論、現在の彼女が酷い二日酔いに陥っているのは、その友人がモスコミュールを勧めてきたことにも一端があるのだが、それでも友人ならば、由依の話を笑わずに聞いてくれたのではないかと、そう思うのだ。だが、由依がそれを打ち明ける前にひどく酔ってしまい、二次会の前になんとかその場を辞したのが最後の記憶である。……今考えれば、気がする、気がする、ばかりでまるで不確定な自分の衝動など、打ち明けていなくてよかった、と思う気持ちもある。友人を困らせてしまうだろうし、それに冗談半分で中華街の占いでも勧められていたら、堪ったものではない。これは、そういうオカルトじみた話じゃないのだ。本当に、本当の──。
「本当の……何?」
洗面台で、化粧水のたっぷりと染み込んだメイク落としを頬に当てた由依は、そのひやりとした質感に、冷静さを取り戻した。この前、気晴らしに仕事の休みの日に港の見える丘公園へ薔薇を見に行って、それからというもの、ふとしたときに、奇妙な感情に取り憑かれることが増えた。だが、小公女じゃあるまいし、どこかから誰かが現れて、由依の人生が文字通り薔薇色に一変するなんてこと、あるわけがない。由依はそれなりの人間として、幸福と、それから多少の辛酸を舐め、社会人になった。何かが一変するなんてこと、あるはずないのに。
「……そう、だよねえ……」
こんな、子供みたいなこと考えるなんて、本当にあたしはどこかをおかしくしてしまったのだろうか。ふと気がつけば、洗面台の鏡の表面に柔らかく指先を添えている自分がいるので、由依は慌てて鏡から手を離した。まるで、鏡のむこうには別の世界がある、みたいな。そんなのは、おかしい。これ以上鏡の前に立っていると魅入られてしまいそうで、由依はメイク落としを持って鏡の前から離れた。
誰かを呼ぶように───或いは、ただの太陽光の反射とも思えるような光り方で、洗面台の鏡がきらっと明滅している。
◆◆◆
『……本日の満月ですが、今年見える満月のうちで最も大きなスーパームーンとなります』
なんとなく静かなのが寂しくて付けたテレビでは、ニュース番組を放送していた。そのニュースから聞こえてくる、どことなく興奮した様子の女性アナウンサーの声に、朝食をつつく手を止めて、由依は顔を上げた。あまり上手く焼けなかった魚に、なんとなく味の決まっていないような味噌汁。自炊を始めるまで、由依はアルミホイルでなくオーブンペーパーを使わないと魚の皮がくっついてしまうことも知らなかったし、それほど要領が悪い方ではないと思っていた自分が、まるでそういうアニメキャラみたいに、トーストを思い切り黒焦げにしてしまうことも予想していなかった。うまく作れなかった朝食から意識を逸らすように、由依はニュースの音声に耳を傾ける。
『月の公転軌道は完全な正円ではなく、少し歪んだ楕円となっていますから、月と地球との距離は、およそ三十六万キロメートルから、四〇万キロメートルの間で変化しています。その最接近のタイミングと満月となるタイミングが近いと、月が大きく見えるというわけですね。本日の場合、十八時頃に月が地球に約三十五・七万キロメートルまで最接近し、そこに満月のタイミングがちょうど重なるので、十八時頃がいわゆる「スーパームーン」となるようです』
──冬は空気が澄んでいますから、いつも以上に月が綺麗に見えるのではないでしょうか。なんだかロマンチックですね。みなさんも、お時間がありましたら是非空を見上げてみてくださいね──。そんな一言を付け足し、カメラ目線でにっこりと微笑んだ女性アナウンサーは、続けて次のニュースを報じていった。
「……月、ねえ……」
箸を止めた由依は、なんとなく立ち上がって、窓の外を眺めてみた。まだ朝ではあるが、空には雲が分厚く垂れ込めていて、月どころか、太陽の所在すら明らかではない。
まあ、現実などそんなものだろう。七夕だって、たいていは雨が降ったり曇ったりしていて、素麺に浮かんだオクラだとかが、唯一まともな星だと言える。だから此度のスーパームーンも、SNSで流れてくる、美しい月の写真を流し見るだけで終わるのだろう。何かを期待している自分を振り払うように、由依は小さく溜め息を吐いた。
◆◆◆
枕元のスマホが一度鳴って、由依は身を硬直させながら目覚めた。あわてて携帯を手に取ると、スマホに入れているオンラインゲームのアビリティポイントが回復したという通知だった。つまり大したことはない、ほうっておいて構わない通知である。スマホの液晶に表示される時刻は、十八時を少し回ったところだった。休日には様々なところに出掛けてリフレッシュするのも楽しいが、今日はそんな気力も湧かず、二日酔いに身を任せて一日中ぼうっとして過ごしてしまった。無益な時間を過ごしてしまった、という自己嫌悪に襲われながらも、由依はなんとなく窓の外へ目を向ける。薄いカーテンのひかれたその先に、とても大きくて綺麗なスーパームーンが映っていたら、あたしは──。思わず、吸い寄せられるように窓辺に駆け寄る。勢いよく、カーテンを開ける。
「……んー、まあ、知ってたよねえ」
由依は、思わず苦笑してしまった。窓の外にあるのはやはり分厚い雲で、スーパームーンが見える十八時になっているというのに、月の「つ」の字もない。それなら、最近感じていた変な衝動も、全部気のせいだったのだろう。明日は仕事だし、ちゃっちゃとお風呂に入って、スキンケアをして寝てしまおう。落胆よりも、「そりゃそうだ」といったある種の納得の気持ちを抱えながら窓に背を向けた由依だったが、そのとき、ベランダの窓ガラスが、音を立てて震えた。ほんの少しじゃない、まるで台風のときのように、激しく、がたがたと震えている。
「なっ、えっ、……何!?」
由依は腰を抜かしながらまた窓の方へ振り返って、
「──、……」
一切の言葉を、失った。
空を覆っていた分厚い雲が、ある一点から、さあっと晴れていく。そこから眩い満月が姿を現す。雲がどんどん引いていって、元の、美しい夕暮れ時の空が網膜を焼く。だが、それよりも何よりも由依の目を捉えて離さなかったのは、月の向こうから飛んでくる、胡麻粒みたいに小さな人影だった。それは、段々こちらに近づいてくる。由依は震える手で必死に窓の錠を外す。ベランダに、裸足でまろび出る。
それは、箒に乗っている。掃除をするような、ふつうの箒を、自由自在に操って、月の向こうから由依のことを迎えに来てくれる。そうだ、だって、今日は月の綺麗な夜なんだから。ロマンチックで不思議な出来事のひとつやふたつ起こっても、ぜんぜんおかしくない。空中を飛行する鳩や烏を、時に箒に逆さまになってぶら下がるようなアクロバットな飛行をして避けながら、彼は、あっという間に由依のそばまで近寄ってきた。ベランダの手すりを跡がつくほど強く握りしめ、外に身を乗り出す由依に向かって、その人は、唇の片端だけを引き上げるようにして、あまり素直でない笑い方をしてみせた。
「アンタ、今月の家賃まだ支払ってないッスよね? 払うモンは払ってもらわねえと──ユ・イ・さん」
月がいちばん綺麗な日に由依──いや、ユイを箒で迎えにきたハイエナ獣人の魔法使いは、ロマンチックなシチュエーションとはまるで不釣り合いで、現実的な台詞を吐き、ユイに手を差し伸べてきた。だけど、それがよかった。それじゃなきゃだめだった。夢みたいな状況に散りばめられたリアルは、これが目を覚ませば消えてしまう夢じゃなくて、現実とひと続きになった夢だって教えてくれるから。
「素直じゃないなあ、ラギ〜くん」とユイは震える声で笑った。
「そんなこと言ってさあ、あたしのことわざわざ迎えに来るなんて、フツーに考えて、家賃よりも手間の方が上回るじゃん。やっぱあたしのこと好きなんでしょ」
「そんなぐちゃぐちゃの顔で言われても、説得力ないッスよ」とラギーが小さく笑う。ユイは泣き笑いを浮かべながら、差し伸べられた手に手を重ねた。鏡に呼ばれて誰かの手を取るように、ユイはラギーの後ろに乗り、彼の胴に腕を回す。
「こっち、箒専用の公道とか無いんスか? 鳥だのなんだのに何度もぶつかりそうになって、飛行の軌道がぜーんぜん安定しないんスけど」
「……あ、ラギ〜くん、ちょっとまって、久々に箒乗ったから吐きそうかも……」
「はァ!? ちょっとちょっと、今袋とか出しますから、それまで持ちこたえて!」
「ええ……もうむりかも……マジで吐くかも……」
「おい、それなら尚更くっつくなって!」と自分を引っぺがそうとしてくるラギーの腕の感触すら懐かしい。気持ち悪くて、吐きそうになったら助けてくれる誰かがいるって、なんて幸せなんだろう。わざとラギーの背中に力尽きたフリをして頬を擦り寄せながら、ユイはゆるやかに目を閉じた。ゲロによって始まった関係は、またゲロによって動き出す。……というのはあまりに情緒に欠けるけれど、それでも状況が夢みたいに素敵なんだから、きっと大体のことは許されるはずだ。群青色から茜色に染まった美しい夜空を、月に向かって飛んでいく二人の影は、いとも容易く月の向こうへ飛び越えて、二度とこちらには戻らなかった。