あいつにくびったけ「泊めてくれって言ったって、お前⋯そりゃ色々まずいだろ」
信一の声には呆れが滲んでいた。カウンターの向こうで帳簿を睨む彼の手が一瞬止まり、私を見上げる。私はすがるように両手を握り、彼の名を大仰に呼んだ。
「そこをなんとか!信一様!」
「やめろやめろ、気色悪い」
顔をしかめて信一は再び帳簿に目を落とした。
その日の朝、私は十二と大喧嘩をしていた。
お互い導火線は長くないのでこれまで幾度となく言い争いはあったが、十二と特別な関係になって以来、初めてと言っていいほどの激しい衝突だった。発端は、彼がまた約束を破り彼のボスを最優先させたことだった。ほんとか嘘か分からないけど、十二曰く十二は「十八歳の頃からテンプルストリートの一角を任されるほどタイガー兄貴に期待されてて、今じゃ立派な若頭として彼の右目を務めてる」らしい。とにかく十二はボスであるタイガー兄貴を心から慕い、彼のためならば命だって投げ出せるような男なのだ。
昨夜、確かに十二は「明日の朝は早く帰るから、一緒に飯でも食おうな」と笑って私の部屋を出て行った。私はその言葉を馬鹿正直に信じて、日が昇る前から台所に立ってリクエストされた彼の大好物の蓮根のスープを用意していた。朝が弱い私がこんな時間に起きて料理するなんて、彼と出会う前なら考えられなかった。だが、約束の時間になっても十二は帰らず、ポケベルも鳴らない。やっと昼過ぎにドアが開いた時、彼は疲れた顔で「悪い、タイガー兄貴の用事が長引いてさ」と大きな欠伸をしながら呟いた。
私は苛立ちを抑えきれなかった。
「私、ずっと待ってたんだよ?」
「だから悪いって言ってるだろ」
彼が返すたび、私の胸の奥に溜まった不満が膨らんでいった。十二が黒社会で生きてるのは百も承知だ。ボスへの忠義がどれほど深いかも知ってる。そもそも私は堅気の人間だから、十二は私をその血腥い世界から遠ざけようと必死で、私の部屋に居候しながらも自分の仕事を極力持ち込まないようにしてる。それでも、最近の彼は約束を軽く扱うことが増え、特に「タイガー兄貴」の名を口にすれば、私のことなんて二の次になるのがどうしても耐えられなかった。
我慢の限界を超えた私は、彼にとってタイガーの次に大切と言っても過言ではない、いや、彼のアイデンティティそのものとも言える「フワフワの髪」への執着を嘲るように、「いい加減にしてよ、このバカ! 頭冷やしたらどう!?」と叫び、近くにあったコップの水をぶっかけた。
十二のリーゼントはただの髪型じゃない。彼はいつも小さな鏡とコームをポケットに忍ばせ、隙あらば取り出しては髪を整える。朝、私の部屋で目覚めた瞬間に鏡の前に立ち、グリースで固めて「完璧」と呟くのが日課だ。私が「そんなに頑張らなくてもいいじゃん。たまには違う髪型にしたら」と軽口を叩けば、「素人にはわかんねえよ。このリーゼントがどれだけイカしてるのか」と真剣な眼差しで返してくるほどだ。だから、私が水をかけた瞬間、彼の瞳が絶対零度に凍りつき、顔から血の気が引いていくのがわかった。
数秒の沈黙があり、次の瞬間、「出て行け、このバカ!」と怒鳴られた。
その言葉が私の胸を突き刺し、思わず涙が溢れて止まらなくなった。年上なんだから、しっかりしなきゃって、ずっと我慢してきたことが一気に溢れ出した。十二の帰りを待つ夜の寂しさ、彼の世界に触れられないもどかしさ、彼の一目惚れに押されて付き合い始めた私が抱えた不安。それらが涙と一緒に流れ落ちて、私は声を上げて泣きじゃくった。
十二は焦った顔で立ち尽くしていた。
「お、おい、泣くなよ⋯!」
彼の声が震えてる。怒鳴って怖がらせたのかも、と彼もどうしていいかわからない様子で、私の肩に手を伸ばしかけては引っ込め、目を泳がせていた。だが、私にはもうその姿を見る余裕もなく、衝動的に自分も頭から水をかぶり、彼と同じようにビシャビシャの姿で部屋を飛び出した。
そして向かった先が、九龍城砦の七記冰室だった。 九龍城砦の雑然とした空気の中、この小さな茶肆は喧騒に紛れてひっそりと佇んでいた。店に足を踏み入れると、油で揚げる音と甜醤の甘い香りが漂い、カウンターの奥で信一が帳簿を広げ、難しい計算に没頭している。
私は濡れたままカウンターに突っ伏した。信一が顔を上げ、「またお前か」と眉を寄せたが、私の異様な姿に気付くと「ん、何だ!? お前どうした!?」と慌てて立ち上がった。
「事情は聞くから、とりあえず落ち着けよ」
手渡されたごわごわのタオルで顔を拭くと私は一から状況を説明する。十二が約束を破ったこと、タイガー兄貴をいつも優先するし口を開けばタイガータイガータイガーで耳にタコができそうってこと、私がずっと待っていたこと、水をかけたこと、そして泣いてしまったこと。
「アイツ、私に『出て行け』って怒鳴ってさ、私、思わず泣いちゃって⋯年上なのにしっかりしなきゃって頑張ってたのに、全部我慢してたのが溢れてきて⋯」
「なんなんだ、お前らのそのくだらねえ状況。なんでお前まで水かぶったのか全然理解できなかった」
はじめは深刻そうな顔で聞いていた信一だったが、徐々にその表情は歪んでいった。同じく黒社会に身を置く彼には、十二が雁字搦めになってることも私の煮え切らない気持ちも見透かされているのだろう。
「そもそもさ、お前がそんな我慢してたの、十二にちゃんと伝えたことあんのか?」
的を射た信一の言葉に、私は言葉を詰まらせた。そういえば、十二に本気で気持ちをぶつけたことなんてなかった。彼のテリトリーに踏み込まないように気を遣って、いつも我慢してただけだ。「⋯ないよ」と呟くと、信一はため息をついた。 「だろ? アイツ、本能で生きてるくせに変なところで不器用だからお前が泣くもんだから焦ったんだろうな。怒鳴ったのも売り言葉に買い言葉だろ。怖がらせたと思って、どうしていいかわからなかったんじゃねえか」
しかし、だ。どうしてもあの部屋に戻れない、いやどの面下げて戻ればいいんだという思いが募り、私は信一に住む場所を貸してくれと頼み込んだ。
「床で寝るから」
「そんなことさせられるわけねえだろ」
「じゃあもういい。信一がだめなら洛軍にお願いする」
私が階段を昇り、洛軍の名を呼ぼうとすると、信一が後ろから猛スピードで追いかけてきて、私を羽交い締めにしてホールへと連れ戻した。
「ダメだ、待て!洛軍なら普通にオッケーしそうだから却下!俺が洛軍のとこ行くから、お前はあっちの俺の部屋使え。な?」
「どっちも散らかってるし変わらないでしょ」
「全然違うだろうが」
信一に諭され、仕方なくホールの隅にあった空の瓶ビールケースをひっくり返して腰を下ろした。厨房の阿七が紅豆沙を掻き混ぜる手を止めて私に気付き、にこりと笑って手を振ってくれた。 「にしても、お前らがこんな喧嘩するとは。まさか『兄貴が好きなら兄貴と結婚しろ!』とか言ったんじゃないだろうな」
「⋯なんで知ってんの」
「って、ほんとに言ったのかよお前!」
「だってアイツ、最近約束なんてあってないようなもんでタイガー兄貴って唱えれば私が待ってたことなんか忘れちゃうんだよ」
私は吐き捨てるように言った。信一の言う通り、私が我慢してた気持ちを伝えなかったのも悪いのかもしれない。でも、十二が私に深入りさせまいと気を遣ってるのを知ってるから、言えなかった。
「んなわけねえだろ」
「なんで信一がそんなこと言えんのよ」
つい私がカッとなって立ち上がると、彼は慌てて私の口を塞いだ。確かに、周囲のお客の視線が刺さる。
「そりゃ、俺は十二とお前よりも付き合い長いからな。アイツはお前のことだってちゃんと考えてる。お前が思ってる以上に、な?」
その言葉が私の胸にじんわりと染み込み、私は言葉を失った。
「ま、お前が言いたいことも分からなくはない。それでも気長にアイツを待っててやってくれ」
「⋯分かってる」
「でも、悪いと思ってんなら早く謝っとけ」
その通りである。だが、謝ることとこの状況は別だ。私の怒りはまだ収まらない。
「家出はやめない。十二に私がここにいるとか余計なこと言ったら、信一の髪全部引っ張ってストレートにしてやるから」
「わかったよ⋯でもアイツ、どうせ迎えに来るだろうけどな」
タバコの煙と一緒に吐き出された信一の予言通り、夕方になると十二は九龍城砦に姿を現した。トレードマークのタンクトップに柄シャツを羽織り、手には油紙に包まれた菠蘿包を提げている。
私は信一を睨んだが、「俺じゃねえ。あいつが勝手に来たんだ」と釘を刺された。
「ほら。うちに帰ろう⋯といってもオレんちじゃないけどさ」
ホールで瓶ビールケースに座ったまま固まっていた私は、十二を見上げた。十二はいつもより口数が少なく、今朝私が台無しにしたリーゼントは下ろされたまま、乱れて寂しげに見えた。その姿に胸が締め付けられる。彼は私の荷物を手にし、手を握って引っ張ったが、私は意地を張った。
「やだ。私、今日からここで働いて暮らす」
「ダメだ」
「私はもう十二のこと好きじゃないもん。十二だってそうでしょ、私のことなんか愛想尽かしたでしょ」
「オレはずっとお前だけが好きだ。お前のこと嫌いになんてなるわけねえだろ」
その言葉が力強く、真っ直ぐな瞳が私を貫いた。嘘のない眼差しに、彼がどれだけ私を想っているかを感じ、私は目を逸らして涙を堪えた。
「信一、世話になったな」
「ひとつ貸しだからな。さっさと帰れ」
結局、私を救ってくれたのは十二だった。泣きそうになるのを堪え、信一と阿七に礼を言って店を後にした。送迎の車に揺られながら、十二と手を繋いだまま、彼の横顔を見た。ぶすくれた表情がどこか可笑しくて、思わず笑いが漏れた。
「ごめんね、十二」
「あ? いや、こっちこそ⋯出て行けなんて思ってもないこと言って悪かった。あの時、お前が泣き出して⋯俺、どうしていいかわかんなくてさ」
十二の声色には間違いなく後悔が滲んでいた。
「ううん。私が悪かった。ごめんなさい」
十二は何も悪くない。意固地になって拗ね、家を飛び出し、彼に嫌な思いをさせ、信一たちに迷惑をかけたのは私だ。
「でもね、私、さっきちょっと嬉しかった」
「何がだよ?」
「わざわざ迎えに来てくれて、嬉しくないわけないじゃない」
「⋯あのな、オレはお前にゾッコンだし、すっごく大事にしてるんだぞ。海の向こうに逃げたって取り返しに行くに決まってるだろ」
不貞腐れた口調に、私の体温が上がった。ついさっきまでの怒りが嘘のようだ。
「ぐ、それは私だって十二のこと⋯」
「いや、オレのがお前を好きだ」
「私がもっと好きって言ったら?」
「ならオレはその倍好きだ」
幼稚な言い合いに笑いが溢れ、「なんだよ」と唇を尖らせる十二がまた可笑しくて、笑いが止まらなくなった。
「そんなに笑うなって!」と肩を揺さぶられたが、涙が出るほど笑った。
色とりどりのネオンサインが窓の外を流れていく。十二がふと口を開いた。
「なぁ、オレは多分ろくな死に方しないし、死ぬまで兄貴の元にいるつもりだ。義のためなら命懸けで闘える。でも絶対、お前のところに帰ってくるから」
その言葉に私は一瞬息を呑んだ。初めて会った時、彼が私に一目惚れしたのだと押し切った勢いで言った言葉を思い出した。でも今、その声には深い覚悟と優しさが混じっていて、私の心を強く揺さぶった。
「⋯わかってる」
小さく呟くと、十二の口元が緩み、手を握る力が強くなった。「これからもよろしくね」と言うと、「当たり前だろ」と鼻で笑う彼の目が優しかった。 頬に仲直りのキスをすると、「こっちだろ」と唇を突き出す十二に、同じようにキスを返した。いつもの調子が戻ってきた十二がポケットからコームを取り出し、乱れた髪を整え始める姿に、また笑いがこみ上げたが、今度はそっと堪えることにした。