わるいおとこ と かわいいりんご 一日のやることをすべて終え、ベッドに寝転がりぼんやりと天井を見つめる。窓の外では、雨の残響が路地を抜ける音が時折響くだけで、九龍城砦は夜の静寂に包まれていた。ベッドの古いスプリングが小さく軋む中、眠る前は決まってあの人のことを考えてしまう。タバコをくわえる彼の仕草、低い声、鋭い目つきが頭をよぎるたびに胸がざわつく。そして一度だけ見せたサングラスを外したひとりの男としての彼の表情が今も私の心に深く刺さったままだった。
そんな時、ドアを強く叩く音が部屋に響き、私はハッと我に返った。ここら辺は似たような作りのビルが多いから部屋を間違えられたのか、はたまた酔っ払いか。草履をつっかけて警戒しながら覗き穴を覗くと、そこには鍋を抱えた私服姿の龍捲風が立っていた。妙に家庭的な姿に驚きつつ、私は急いでチェーンを外してドアを開けた。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「お前、前にうちの紅豆沙を食ってみたいって言ってたろ。作りすぎたから持ってきた。蜜柑入りだ」
差し出された鍋の蓋を開けると、紅豆沙の濃厚な甘さと蜜柑の爽やかな香りが広がり鼻腔を擽った。私が何気なく口にした好物をわざわざ持ってきてくれるだなんて、胸がじんわりと熱くなる。 「ありがとう。すごく美味しそう!」
舞い上がっている私は笑顔で答えたが、龍捲風の表情は動かない。タバコをくわえたままじっと私を見つめる意味ありげな視線に背筋がゾクッとした。違和感を感じつつも鍋を手にキッチンのコンロに向かい、置こうと身体を屈めた。コンロの錆びた縁に鍋の底がカタンと当たったとき、タンクトップの裾がわずかに浮いて肌が空気に触れる。背中に突き刺さる鋭い気配に振り向くと、彼の目は私の胸元に釘付けになっていた。
「あ⋯」
そういえば寝る前でブラをつけていなかった。身体を拭いた直後で、着古したタンクトップとショートパンツだけの限りなく無防備な格好だ。まずい、これは絶対にバレている、というか見えたかも。慌てて腕で胸を隠したが遅かった。
「ご、ごめんなさい! 変なもの見せちゃって⋯」 「夜分に男が尋ねてきてもお前は普段からそうなのか」
私は真っ赤になって謝るが、彼はタバコを乱暴に床に落とし、靴の底で踏み潰した。
「一人暮らしの小娘が、こんな時間に無防備な姿でドアを開けるなんて」
苛立ちが滲む言葉が胸を抉った。サングラスの奥の瞳は冷たい怒りに燃えている。
「普段というか⋯あなただったから開けただけで⋯」
「だったらなおさらだ」
龍捲風は一歩踏み込み、いとも簡単に私を壁際に追い詰めた。背中がコンクリートの壁に当たりこれ以上逃げ場がなくなってしまった。彼の膝が私の両脚の間に差し込まれ灼けるような圧力が肌を圧迫し全く動けない。タバコの匂いと渋いコロンの香りに包まれて視界が揺らぐ。
「それとも俺が老いぼれだから問題ないと判断したか?」
ひどく落ち着いた声が、私の心をえぐるように響く。私が彼に好意を抱いていると知っていて、わざと突き放す言葉を選んでいる気がした。
「ち、違う! そんなことないです!」
「あんなにいつも持ち上げておいて悪い女だ。この俺をからかって弄んでいたとは」
「好きだから、だからすぐ開けたんです、信じて⋯」
言葉がうまく出てこなくて胸が締め付けられる。告白を断られたことは何度もあったが私自身の気持ちを否定されるのははじめてだ。泣きたくないのに、生理的な涙が溢れて頬を伝った。彼は一瞬目を細め、眉を動かしたが、すぐに硬い表情に戻る。
「この状況で泣いても男を煽るだけだぞ」
「ごめんなさい⋯⋯」
私は掠れた声で謝ったが、彼は小さく舌打ちし、あっという間に片手で私の両手首をまとめて掴んだ。そのまま頭上の壁に縫い付けるように押さえつけ、もう片方の手が私の肩に触れる。指先が首筋に滑り、まるで私の反応を試すように、ゆっくりと肌を這う。私は腰がびくんと跳ね、身体が縮こまる。
「お前にはまだまだ教えるべきことがあるようだ」
彼の声が耳のすぐ近くで響き、湿った吐息が首筋に当たった。タンクトップの下に滑り込んだ大きな手のひらが私の腹に触れ、緩やかに往復する。触れるか触れないか絶妙な力加減で彼の指先が臍の周りを円を描くようになぞり、時折軽く弄ぶように爪先で引っかかれる。
私はゾクゾクする未知の感覚に耐えきれず、身体を仰け反らせた。すると、胸が強調され、布越しに突起がさらに浮かび上がる。隠したくても隠す術はなく、身を捩る度に布が擦れて嫌でも身体が反応してしまう。
「おい。見せつけてどうする」
「もうわかったから、やめて⋯」
掠れた声で呟くが、指の動きは止まらない。腹から脇腹、肋骨の形を確かめるように這う。私の弱いところを全て見透かすような焦らしが続き、肌を粟立せることしか許されない。
「どうしたんだ?」
「見ちゃ、いや」
懇願すると彼は低く笑った。指が腹から後ろへ回って背中を登り、髪の生え際を弄ぶように首を撫でられた。肌と肌が触れ合うたび、電流のような感覚が走り、身体が熱くなる。彼の息遣いを感じる度に膝が崩れそうになった。手を、そこじゃなくて、と期待してしまう自分に嫌気がさす。
「ちゃんと服を着て⋯いや、違う。男を部屋に入れるな。でないと、こうやって簡単に襲われてしまうぞ」
言葉は重く、僅かな怒気が混じっている。私は真っ赤になって頷くしかなく、この時間が早く過ぎることを祈った。
「こんなに震えて可哀想に。もうしないと俺に誓えるか?」
「もうしないです、誓います⋯」
ようやく解放されると思ったのに、龍捲風の手は止まらなかった。指が私の腰を強く掴み、引き寄せられる。距離が近くなったことで両脚の間に差し込まれた彼の足がぴたりと収まり、硬い胸に私の肩が触れた。ウィンストンの甘い香りが濃厚に絡みつき、息を吸うたび意識が彼に絡め取られる。
「お前、いつも俺に言ってることがあるだろう」
私の片想いを知っているからこその、意地の悪い質問だ。私は言葉に詰まり、誤魔化そうとする。
「急に何ですか⋯!」
「答えろ」
長くて美しい指が私の顎を掴み、顔を強引に持ち上げる。
「っ、好き、です⋯」
「そうだ」
彼は満足したように小さく笑い、指先で私の眦に溜まった涙を拭ってくれた。
「お前は相変わらず俺の前ではすぐ林檎のようになってしまうな。これからはお前のことを特別に林檎と呼んでやろうか。赤くてまるくて、どこも美味そうだ」
ゆっくりと頬を撫で、指先が輪郭をなぞり、涙に濡れた頬にそっと唇を押し当てられた。柔らかくて生暖かいリアルな感触に身体が震える。
「ここは甘くないな。俺の気のせいだったか」
「んっ」
本当に林檎を味わうように、下唇に歯を立てられて引っ張られて、熱を帯びた瞳が私を捉えた一瞬、名残惜しげに揺れた気がした。
「こっちは甘い」
「やめてください、そんな」
「お前もよく知ってるだろう。俺は甘いものが好きだって」
愉しんでいるのか、龍捲風の口角が上がっている。その微笑みはいつもとは違っていて彼の見てはいけない側面を見つけてしまったみたいだ。そうだった、目の前にいるこの男は悪い人だって昔から色んな人が言っていた。熱が燻っていた両脚の間をぐっと太ももで押し上げられる。身体を揺さぶられると、堪らず小さな声が漏れてしまう。
「待っ⋯て、そこ、ッだめ⋯!」
「見立てでは、俺のかわいい林檎には蜜が詰まってると思ったんだが⋯どうだ?」
龍捲風は囁き、さらなる圧迫で私の限界を試すように笑う。私はもう、致死量の好きな男の悪戯に耐えきれずに身体の力が抜けてしまいぐらりと視界が歪んだ。崩れる、と思った瞬間すっと手を伸びてきた腕が私の身体を優しく抱きとめた。腕にこもる力はどこか懐かしむようだったが、一瞬だけ強く締まる。
「少し虐めすぎたか」
「う、うぅ⋯っ、少しじゃなかった!」
「悪い悪い」
私は解放された腕で龍捲風の首にしがみつくように飛びつき、肩に顔を埋める。また涙が溢れてきた。せっかく子ども扱いじゃなかったのに、私はまだまだ大人になりきれていなかった。
これじゃあ昔と変わらないなと龍捲風は笑って抱き上げてくれた。私は悔しくて仕返しのつもりでぎゅっと腕に力を込める。
「おい、こら、胸を押し付けるんじゃない。はしたないぞ」
彼の声には呆れと少しの柔らかさが混じっておりすっかりいつもの調子だ。
少しして落ち着くと、龍捲風は私をそっとベッドの上に下ろし、羽織っていた上着を脱いで私の肩にかけた。きっちりとボタンを全部留めてまるで私がまた無防備にならないように守るみたいに。私は彼の香りが染みついた上着をぎゅっと握りしめた。もしかしてさっきのって人生最大級のチャンスだったんじゃないだろうかと自分の覚悟の無さが不甲斐ない。でも、彼のことを好きな気持ちは紛れもなく本物なのだ。
「鍋と服は店に返しに来い」
「ひとりじゃあんなに食べきれるわけない」
「⋯⋯信一はあれくらい一人で食べ切ってしまうぞ」
「食べ盛りの男の人だからでしょ!」
龍捲風は面食らった顔をして、すぐに肩を震わせて笑いはじめた。そもそも、信一にはあの紅豆沙は食べさせなくてよかったのだろうかという疑問が頭に浮かぶ。
「一緒に食べてくれる?」
「その代わり──」
「ちゃんと服を着ます⋯⋯」
「俺のためにもそうしてくれ、かわいい林檎」
私は林檎みたいになっているであろう火照った顔で頷いた。紅豆沙の甘い香りが漂う部屋で、胸の鼓動はまだちっとも収まらない。