釈迦に彼岸花その日はあまりにも突然に訪れた。
午前中はいつも通りの時間が過ぎて行き、そのまま平和に終わりさえすれば、特に記憶には残らない、取るに足らない一日になる筈だった。それが、丁度正午を少し過ぎた刻、ひっくり返った。
一人の信者の叫び声が館に響く。吹き抜けとなっている玄関先の階段下で声を上げたものだから、広い館にも関わらず大半の人間に声が聞こえた。
なんだなんだと大勢の信者が見に行くと、へたりこんで腰を抜かした女中のような階級の少女と、血塗れで息を引き取っている幹部信者の姿があった。
月島が唖然としていると、後ろから「どうした?」と、何処にいても聞き間違える筈のない声が聞こえる。
月島は何とかして隠そうとしたが、自分より身長の高い彼が相手では、そんなものは無駄な足掻きでしかなかった。
そして見開かれた彼の瞳に、月島は絶望に近い感情を抱いた。
日常が足元から崩れ去る音を、月島基はその時に初めて聞いた。
いや、正確には崩れ去ったのは日常ではない。自分の唯一であり、絶対神。月島基が信仰するただ一人の人、鯉登音之進であった。
「教祖様、お気を確かに。教祖様が気に病む事件ではありません、然るべき対応をしますのでどうか気を落とさず……」
「月島」
月島の声を遮る様に、鯉登が名を呼ぶ。その声は僅かに揺れる瞳とは裏腹に、思わずこちらの背筋が伸びてしまうような、真っ直ぐで迷いのない声だった。
「はい、教祖様」
「幹部を集めて、早急に犯人を突き止めろ」
月島に小声で指示を出した後、鯉登は集まった信者に聞こえるように大きな声でこう宣言した。
「今よりこの館は、この事件が解決するまで一切の出入りを禁止にする。各自部屋に篭もり、指示がある時以外は外へ出ないように」
それだけ言って鯉登は部屋へと踵を返す。月島に目配せをすると、月島は黙って彼の数歩後ろをついて行く。
教祖の部屋は信者が暮らす本館とは少し離れた別館の方にある。というより、別館まるまる一軒が彼だけの居住区域であった。
そこに立ち入れるのは上位幹部である数名だけであり、その上許可なく入れるのは月島基のみだった。
別館への道をただ黙って歩いていた鯉登が、聞こえるか聞こえないかの声で月島を呼ぶ。
数歩離れていた月島は、直ぐに鯉登の横へと並んだ。
「犯人を見つけ次第、即刻私が粛清をする。死体の処理はお前に任せたい」
「は……、失礼を承知で質問させて頂くのですが、それは、本気で仰られているのでしょうか」
月島が鯉登へと質問を投げ掛けたのは、後にも先にもこの瞬間だけだった。神に対して疑問を持ったルシファーは、天国から追放されて堕天使へと成った。信者が教祖に疑問を持つのは、それと同じくらいの大罪なのである。
月島はそれを重々理解していた。けれど、それでも耳を疑ってしまったのだ。彼の言った言葉に。
月島が所属している宗教団体は、1985年に設立された"拝掌教"
という新興宗教法人で、信者数は国内10万人というかなり大きな団体である。
信者数が増えると力を持った教祖が暴走をしてしまい、カルト教団に傾きがちなのだが、拝掌教は二代目の教祖である鯉登が真面目で欲の無い人間だったので、地域に貢献や社会奉仕活動に力を入れていた。
力のある宗教団体というものは、裏の人間からしたらミツバチの巣のように甘い香りのする物である。汚いビジネスの話や、ヤのつくブラック企業と提携を結ぶ話なんていうのも、何度持ち掛けられたか分からない。
けれど鯉登は、そう言った話はいつも断っていた。裏の人間とは線を引き、信者が関わらないように守っていた。
簡単に言ってしまえば、上げればキリがない程クリーンな運営の仕方をしていたのだ。どんな揉め事が起こっても殺しなんて以ての外で、信者同士の話し合いを教祖である鯉登が仲裁する事もあった。なのに、だというのに。
「月島、今の私が冗談を言うように見えるか?」
月島に目を合わせた鯉登は、血走った目をギラつかせ、呼吸は短く吸って吐いてを繰り返している。
いいえ、申し訳ありません。そう答える事しか、月島には出来なかった。
「月島、私は此処を聖域と称していたが、あれは本心だったんだ。皆が安心して安らげる場所であり、私自身が一番綺麗だと感じる場所だった。それに今日、穢れが混じった」
俯く彼の表情は、月島からは見えなかった。
「なぁ、月島、穢れが混じった神は"邪神"と呼ばれるらしい。私も今日、そうなってしまったのだろうな」
もう一度月島の方を見た鯉登の顔は酷く弱々しく、今の今まで号泣してたかのような表情で、それなのに口元には薄く笑みを浮かべて居た。
月島は自分の神様が壊れてしまった事を、確信せざるを得なかった。
「私にはもう、お前しか頼る相手が居ないのだ。お前は……お前だけは、私の前から消えてくれるなよ」
私は少し休む。そう告げて鯉登は、自室へと消えていった。
一人になった月島の口元には、先程まで必死に抑えていた笑みが零れた。
口元を手で隠しては居るものの、ニヤけが収まらない。
ああ神様、鯉登様、貴方が粛清しようとしているのは誰なんでしょうね。貴方には見えませんでしたか、それとも見なかった事にしたのでしょうか。
祈りを捧げるように胸元で手を組み、貴方に己が身を捧げる様に亡くなっていた信者の姿が。
犯人なんて居やしないんですよ。彼は自身を供物として貴方に捧げたがっていました。それを表面上鎮めて改心させたと満足して、彼を、信者を理解した気になっていたのは貴方だ。
ああ、やっと神様が自分の所まで堕ちて来てくれる。完璧な神から、間違いを犯した邪神へと。私だけの神へと成ってくれる。
大丈夫です、私は貴方の望む通りの信者で有り続けましょう。
この教団は貴方と共に壊れてしまうかもしれない、けれど。
「おやすみなさい、鯉登様」
貴方の隣は俺だけの物だ。