3話「糊塗」スグリは図書館にいた。人気(にんき)も無ければ人気(ひとけ)も無い資料閲覧室の一番奥に陣取って、23時の閉館まで居座ることが日課だった。
カチ、と小さな音がして、ボーンボーンと壁に掛けられた古臭い時計の鐘がなる。22時、あと2時間でお前の今日の時間はお終いだと告げていた。
無意識にしていた貧乏ゆすりに気付く。つい、先ほど2時間ほど、文献を調べるうちに脱線してしまったのだ。900年前くらいの文献を見ていたら、今は覚えないとされている技を使っているような記載に気が付いて、関連文献としてその時代の古書を漁っているうちにまた別の400年前の民間伝承に関連しそうな興味深い記述を見つけてしまい。……バトルとは何の関係も無いのに関わらず、読み進めてしまったのだ。確かに面白かった。かつて、鬼さまの伝承を自分なりに調べて、語られているのとは異なる事実や、知られていない事柄を知るときができたときと、同じように――。
「、~!」
ガリガリと頭を掻く。
苛立ちに任せてペットボトルの水を一気に飲むと、口の端から水があふれ、驚く拍子に思い切り噎せた。
その水は容赦なく資料に掛かり、大きく濡れた資料に焦るも、鞄にティッシュが見つからない。慌てたまま上着を脱ぎ、裏地を押し付けてみたが上手く吸わない。
「あ~~~! チャンピオン様だからって、本汚しちゃ~いけねーんでないかい」
「!、カキツバタ!、ティッシュない?」
「おん? あっけどよ」
ポケットティッシュが出されるや否やそれを引ったくり、ビニールを破り、重なったままティッシュを落とす。そして積み重なったティッシュをひっくり返し、濡れた一枚を剥がしてまたそっと押し付けることを繰り返す。心臓がばくばくと動いている。
そしてなんとか、取れるだけの水を取りきった。多少しわができるかもしれないが、何とか許容範囲に収まっただろう。机に文献を立て、濡れた数ページを開いた状態で筆箱やペンを使って倒れないようにバランスを取る。
「……、はぁ……」
「おー、お前、何か言うことあるんじゃねえか?」
「ごめん、ティッシュ、助かった」
ドッと疲れて背もたれに体を預けながら、見下ろしてくるカキツバタを見上げる。礼を言ってから、そもそも何でこいつがここにいるのかという疑問が、またどうせ邪魔をしに来たんだろうなという確信と共に湧いてくる。
今日は、脱線した上に本まで汚してしまい、散々だ。予定していた調査が終わっていない。
「チ」
舌打ちにカキツバタが眉を上げたのには気付いたが、カキツバタのことじゃないとわざわざ訂正する気にもならなかった。心臓を落ち着かせるために目をつぶっていると、カキツバタが動いて机の上に手を伸ばした気配があった。
「ん?……なんじゃこりゃ。……スグリはこんなん読めんのかい」
見ればカキツバタが捲ったのは、2時間前に脱線に気付いて端に追いやった、件の900年前の文献だった。確かに古い文字のうえ、崩し字なので、読むための勉強をしていないならおそらく読めないだろうものだった。
「チ!」
今度はわざと舌打ちをすると、カキツバタは面白そうに笑ってみせた。
「な、何書いてあんの? このページ、ちょいとオイラに読んでくだせぇよ、……ティッシュのお礼に」
断れない要求に激しく苛立つ。ついでに言えば、よりにもよって、それはバトルに何の関係も無い文献なのだ。お前もサボってんだななどと笑われるのも許せなかった。
……全然違う内容を話してしまおうか?
「……。……かくして多くの髑髏ども、ひとつにかたまり、高さ十四、五丈もあらんと覚ゆる山のごとくになりにけり……」
そんな考えが頭をよぎりはしたが、結局は嘘を吐く気にもなれなかったし、また自分にその技術も無いことを知っていたので、諦めて小細工せずに読み下す。
「……ふぅむ……。確かにここ、言われてみれば数字に見えるねぃ」
カキツバタはスグリの読んだ内容を部分部分で照らし合わせた。読み上げたページを一通り指でなぞってからカキツバタは、ふーむ、とまた言った。
「面白いねぃ。スグリもやるねぃ。ツバっさん、こういうの好きよ?」
思わぬ肯定の言葉に反射的に安堵してから、待てよと思う。カキツバタは自分のバトルに対する姿勢を良く思っていない。だからこそ、バトルと関係のない分野を見ていた自分を肯定してみせたのではないか、と。
つまり、バトルと関係ないものを読んでいるなと思われてしまった上に、彼はそれを強化しようと誘導しているのだ。
ガタリと音を立てて席を立ち、隣に置いておいたはずのいつもの黄色い鞄を探す。それはティッシュを探していた時に落としてしまっていたようで、中身を散乱させて机の下に落ちていた。
「ん? スグリ帰んの? 閉館まであと30分あるぜぃ」
「どうせその30分は、邪魔されて勉強できない」
机の下にもぐり、鞄に物を戻していく。
「はは、確かにな。本はそのままでいーの?」
「……乾かしたいから」
鞄に物を仕舞い終えて机の下から顔を出すと、にたりと笑ったカキツバタの顔が乗り出してきていた。
「またまた、チャンピオン様はこの専用のお席にいっつも出しっぱなしで帰るくせに」
知られていたのにわざわざ訊かれ、ちょっとした誤魔化すらも暴かれたことに情けなさと共に腹が立つ。チ!とまた舌打ちをしてみせる。今日だけで何回しただろうか。
「……司書の先生に、許可もらってるから」
「勉強熱心な我らが最強チャンピオン様は御待遇が違うねい」
「……」
カキツバタだって頼めば許可される、と、最もな反論をすることもできた。しかし、カキツバタの目的はわかっている。そういう難癖をつけて、自分がこうして長居する居心地を悪くさせようという魂胆だろう。じとりとした視線を投げると彼は、チャンピオン様は夜更かしばっかりしててオイラ心配よ?と白々しく笑って見せた。
今度こそカキツバタの相手はやめて図書館を後にする。薄暗くシンとした廊下にまで、カキツバタが付いてくることはなかった。
本当に今日は散々だった。自室に向かって速足で歩く。
鼻に残った古紙の香りと誰もいない階段は、かつて、キタカミの図書館で見た光景とよく似ていた。
その時の感情は、思い出したくない。
※古文は平家物語を参考にしました。