5話「修繕」「おおん? 随分きったない字ぃ書いてるねぃ」
部での練習試合を終え、そのまま部室で気が付いた点や思いついた戦略をまとめていたスグリはテーブルを蹴りたくなる気持ちを堪えた。
うるさい、と一言返しておくが、その言葉は特に効果を上げなかった。カキツバタの陰が落ち、手元が暗くなった。書きにくい。おそらくカキツバタはニヤニヤ笑いながら覗き込んできているのだろう。顔を上げるつもりもないが、その顔は容易に想像がつく。
「ん~~? 我らが最強チャンピオン様は、左利きでしたかねぃ?」
よっぽど席を立とうかと思ったが、こういうまとめはすぐ書くからこそ意義があるものだ。こんなことで気を逸らして、今思いついた技の構成を忘れてしまう方が余程問題だ。
無視していると、カキツバタの気配がすぐ右側に移動しようとした。仕方なく、さりげなさを装いながら、だらりと下げていた右手をそっと持ち上げて、バインダーに挟んだルーズリーフの端に乗せる。早速、筋がつるような痛みが走る。
「……」
「ん~~~?」
無理矢理左手で書いていた文字が、紙と一緒に滑って大きくゆがむ。ふ、と息が背後から聞こえ、いい加減頭に血が上る。
「邪魔するな!」
「いやいやぁ、イチ部員としてね? 部長様が心配だ~ってね」
「……また心にもないことを。バトルに支障はない。俺は負けない。やろうか? カキツバタ」
見上げると、案の定のニヤニヤ顔が、思ったよりも高い位置からこちらを見下ろしていた。
「眠りもしないで体壊して、手も壊して、次はどこが壊れるんでやんすかねぃ?」
「は?」
カキツバタはゆっくり手を持ち上げて、自分の目元を指し、胃のあたりを示し、スグリの右手を指さしてから、にんまりと笑い、また自分の胃――よりも、少しだけ高い位置を指して止まった。
「…………。……エントランスで、待ってる」
部室で始めなかった自分の自制心は、まだまだ見込みがある。
カキツバタには勝った。しかし、バトルに支障はないと言った割には、思ったよりも上手くできず、歯噛みした。横で、ツバっさんに勝ったのにそんな表情、浮かばれねえなぁ~などとのたまっている相手には返事をせず、居室へ戻る。
濡れた体をシャワーで温めながら、痛む右手を揉んでみる。温まってマシになったような気もするが、特に変わらない気もするし、僅かながら悪化しているような気もしなくはない。本当のことを言えば、実は、時折、ごくたまにではあるが、胸のあたりが痛むことがある。
シャワーの激しい水音の中で、大きく息を吐く。
左手でシャワー室の壁を叩き、そのまま壁に額を付けて寄りかかる。
眠い。
この手ではどうせろくに勉強なんてできない。
今日は、今日だけは、もう寝よう。
いつも夜中に冷え切った体で入っていた布団は、今日は暖かかった。
リンゴから顔を出した竜がくるくると回り、ねじれ、絡み、延びていく。飴にまみれたノートにある、確か自分が左手で書いた汚い文字を解読すれば、鬼の伝承が書かれている。巨大で硬質なドラゴンが大声で笑う。物語の主人公、と誰かが叫ぶ。姉が隣で自分ではない誰かと話している。ガチャンと大きな音がして見れば直したはずのお面が割れている。直さないと、と言おうとしたが既にそこに姉はいない。あの機械のようなドラゴンがまた笑う。手元のノートには間違いばかりが書いてある。誰だかもわからない誰かが、無力を嘆く。
汗で全身がぐっしょりと濡れ、布団も気持ち悪いくらいに湿っていた。起き上がり、着替える。時計を見ると、ちょうどいつも布団に入るくらいの時間だった。
風邪を引いた時と似ている、とスグリは思った。だから、水分と栄養を取って寝れば治る。夢うつつのままキッチンで水をがぶ飲みし、おやつの封を3つほど切って乱暴に口に放り込む。外の薄明りで室内が照らされている。口を濯ぎ、振り向いた先に枯れた植物が見えた。枯れていることは知っていた。でも、どうでもよかった。ベッドに向かおうとして、ゴミを入れていた段ボールに躓き倒れ込む。足に感じたちょっとした痛みよりも、潰れて入れ物にはならなくなった段ボールと散乱したゴミに気分を害した。
片付ける気にもなれず、そのままベッドに向かい、布団にもぐろうとすると、冷えた湿り気に体温が奪われた。
なるべく湿っていない端の方に寄って、目を瞑る。
次に目を覚ましたのは朝だった。
視界が妙にクリアだった。たぶん風邪は治ったようだ、とスグリは思った。潰れた段ボール箱の形を整え、ガムテープで補修してゴミを戻す。歯を磨きながら、キッチンに転がっていた飲料水のボトルを脇にまとめ、ゴミも捨てる。口を濯いでコップに残った水を、枯れた観葉植物の鉢に掛けてみる。
右手も、まだそう重症ではなかったようで、とりあえずは普通に動かしても痛みは出なさそうだった。
昨日サボってしまった分、頑張らないといけない。
朝のわずかな時間を使って、昨日途中までしか纏められなかったバトルの記録に追記する。思った通り、最初のバトルで感じたことのいくつかは忘れてしまった感覚があったが、代わりにカキツバタと戦った時の記録を付ける。反省点を挙げながら、やはりカキツバタとのバトルは色々なことに気付く、と客観的な感想を抱いた。
その日の部活では、珍しく、カキツバタが絡んでくることはなかった。ただし、テーブルの端で美味しそうにおやつを食べているだけで、特に練習も何もしていなかったが。