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    🧙過去話。ほんとはこのあと組織みんなでおしくらまんじゅうする話とか🧙が好きなタイプの話するシーンとかあったけどたぶんもう書けないので供養します。

    レイラ・エクルストンの話女の子って何でできてるの?お砂糖、スパイス、それから素敵なものでいーっぱい。他は全部なかったことにして、それだけで作られたって顔をしていれば、男の人運命の人女の子わたしを好きになってくれるよね。


    今日からアンタの家はここだから。
    と、女はきついコックニー訛りでそう言い残し去っていった。今までにないほど美しく着飾った女は、一度だって後ろを振り返ることはなかった。

    わたしが女といたのは人生の四分の一にも満たない時間で。自身に生を与えたのは確かに彼女だったけれど、ついぞ母親になることはなく、女はずっと女のままだった。女の子の原材料を知るより前に生き抜く武器を理解してしまったわたしは、もう母とは呼べない彼女に向かって泣き叫ぶこともなく、ただずっと何もない道の先を見つめていた。青空が目にしみる夏のことだった。

    100年前だか200年前だかにいた心優しい誰かさんによって作られたごみ捨て場へと拠点を移したわたしは、かといってそこに馴染むでもなくただただ惰性で呼吸をして時間が過ぎ去るのをじっと待っていた。そこでは誰もが自分のことに精一杯で、数週間前にやってきた見知らぬ子どもを心配する余裕があったのはベスくらいなものだった。ベスはブロンドにそばかすがかわいい女の子で、本当はエリザベスなんて御大層な名前だったけれど、恥ずかしがって愛称の「ベス」で呼ばせるような素朴な少女だった。無駄に話しかけてくるから辟易したのを覚えている。根っからのお人好しだったのか、それとも善人ぶりたかったのか。後者の方がありがたいのだけど、多分違うであろうことは幼いわたしにもわかっていた。わたしはベスの優しさに対して無条件に飛びつけるほど「いいこ」ではなかったけれど、この世の真理と幸せになる方法を教えてくれた彼女が風の噂で金持ちと結婚したという話を聞いたとき、祝福の気持ちが生まれたくらいには彼女のことが好きだった。

    わたしがここに来たときには既にベスの貰い手が決まっていて、さよならを惜しむ子どもたちに連日囲まれていた。思い出がある子なんてわたし以外に沢山いただろうに、一等お気に入りだった絵本を最後の日に譲った相手が、愛想の一つも返さなかったピンクブロンドの子どもなのだから彼女の博愛精神には恐れ入る。
    「これね、わたしの宝物なの。悲しいことがあったときもきっと元気になれるから。レイラにあげるね」
    ぱちぱちと瞬きをして、いいの、と聞けば、もちろんだというようにベスは大きく頷いた。こわごわと両手で受け取る。小さく呟いたありがとうにえくぼを作った彼女はそうして、新しい両親に手をひかれながらずっとこちらを振り返っては何度も何度も手を振っていた。

    ベスはわたしの魔法使いだった。この世の真理を教えてくれた。運命の人、そう、運命の人である。幸せになるにはそれが必要だったのだ。もらった絵本を抱きしめながら、自分の人生の道筋というものがすっと見えてくるのが分かった。わたしに必要なのはこれだったのだ。
    ずっと、なにが足りなかったのだろうと考えていた。でも違った。母と呼んだその人がわたしの元から去ってしまったのは、運命の人に出会ってしまったからだ。何物にも代えがたいその人を見つけてしまったからだ。そんなのもう、どうしようもない。もやもやとした霧が晴れていくのを感じる。母が運命の人と幸せになったように、わたしも幸せになりたい。わたしが主人公で、ベスが魔法使いなら、絶対どこかにいるはずなのだ。わたしのことを一等愛してくれる、運命の人が。

    でもわたしはほんの少しだけ現実に詳しい子どもだった。ただ待っているだけで運命の人が自分を見つけてくれるなんて、何十億人という人間が住まうこの世界じゃあ不可能に等しい。幸せとは自分でつかみに行くものである。
    この国では階級で全てが決まる。そしてその階級とは、話す言語で判断されるもの。ロイヤルファミリーにはロイヤルファミリーの、そして下層階級には下層階級の言葉がある。残念なことにわたしも母も、そしてこの場所でも、話されているのはお世辞にも綺麗な言語じゃない。下級も下級、下町訛りのコックニーである。クイーンズを気取っているとか堅苦しいとか揶揄する人もいるけれど、そんなものは知ったことではない。それこそが私の求めるかぼちゃの馬車なのだ。階級に属する証が欲しい。他人をも騙せるほど精巧な。王子様と出会うには、上に行かなきゃならない。
    「レイラは困っていることはない?欲しいものはある?」
    「新聞」
    「エッ」
    他の子が外で鬼ごっこをしているその間、わたしは新聞とニュースから正しい言語と知識を身につけた。外に出かけられるようになれば休日にとびきりの一張羅で擬態してロンドンの街中に繰り出し、道行く人の話す言葉とアクセントを頭に叩き込んだ。わたしの見た目はどうやら人好きするらしいと気付いたのもこの頃だ。メモ片手に座っていれば心配したマダムが話しかけてくる回数の多いこと。黙っていれば誤解させられるのだから、あとは中身を詰めるだけ。途中で入ってきたダンがRPを話していたこともわたしの運命の人へと一歩近づく追い風となった。ついでに言うとダンのおかげでコンピューターに詳しくなれたし、あの人やその人の秘密を簡単に暴けるようになった。新聞配達やベビーシッターの回数をそこそこにしてもお金が稼げたのは彼のおかげだ。アイツがコンピューターギークで良かった。ダンさまさまである。運命の人じゃなかったことだけが残念でならない。
    もちろん運命の人と出会うにはベスみたいな愛嬌も必要だ。わたしは元がいいからそこまで苦労しなかったけど。

    そうして作り上げた「レイラ・エクルストン」は、プライマリースクールでは不評だったけれど。セカンダリーに上がる頃には完璧に勘違いさせられるようになったし、運命の人探しもかなり捗った。残念ながら見つかりはしなかったが。

    生まれたときから習得している生き抜く術と武器、それを全部やわらかいもので覆い隠すのがわたしの仕事である。残念ながらあしながおじさんがわたしを見つけてくれるなんてことは起こらず、結局タイムリミットまで掃き溜めに居座ることになってしまったのだけは誤算だった。まあいい。わたしの人生はわたしがそうだと言えば主人公は自分だし、いずれ出会う運命の人がお姫様にしてくれるんだから何の問題もない。 

    「レイラ、ちょっと」
    いよいよセカンダリースクールも卒業という時期が近づいていた頃、突然院長に呼び出された。16歳になったら孤児院を出なくてはならない。家とも呼べないこの場所を失ったら、自分の足で拠点を作る必要がある。ずっと前からわかっていたことだし、そのための準備もしてきた。別に今更それを言われても、わかっていますと返すしかない。呼び出しなんかを受けている暇があるなら、一つでも多く時事ニュースを頭に入れておきたいのに。しかしここにいる以上院長の言葉は絶対である。そっと気付かれないように嘆息して、黙って後ろをついていった。

    どうせ念押しと確認だろうというわたしの予想を裏切り、彼女は少しだけ難しい顔をして、いつ言うべきかずっと考えていたのですが、と勿体ぶったように口を開いた。
    「これは、貴方の戸籍謄本です。貴方確か、生まれたのは日本だったわよね?」
    「あんまり覚えてないけど」
    首を傾げながらも一応頷き、肯定の返事をした。
    「ヒサシだかヒロシだかに遊ばれたって馬鹿みたいに泣きながら言ってたし」
    「……それは今は置いておきましょう。簡潔に言うと、貴方は今、日本の国籍も所有してることになっています」
    「わァ、お得〜!」
    「レイラ!ふざけないの」
    怒らないで、皺が増えるわよと言えば院長はひくりと顔を引き攣らせる。お説教に移行される前にわたしはにこりと笑って話の続きを促した。
    「それで?どっちか選べって話?」
    「……知ってたの?」
    ハーフ半分部外者がもう片方の居場所を見つけようとするのなんて、割とありふれた話だと思うけど」
    眉を顰める院長に、冗談よと肩を竦める。
    「話の流れから推測しただけ」
    どう?合ってた?と笑うわたしに対し大きなため息をつく彼女は、貴方って優秀なのにどうして変なところでこう、とぶつぶつ文句を口にしている。どういう意味だ、失礼な。こんなにいい子なのに。む、と口を尖らせる私を無視して、とにかく、と咳払いをし、厳しい顔つきで院長は念押しをした。
    「まだ期限までは4年ほどあるけれど……貴方はもうすぐここを出なきゃいけないんだから。早めに決めておきなさい」

    「わたし、日本人になる」
    「本気か?」
    ダンは飲んでいた紅茶を吹き出して、狂人を見るような目で言った。やだあ、きたな〜いと叫び声をあげれば、誰のせいでと睨まれる。何も変なことは言っていないはずだが。
    「なんでまた……キミはずっとこっちで生活してるだろう。普通に考えたら捨てるのは向こうじゃないか?」
    「だって、ここにいても未来がないんだもん」
    どれだけ教養を蓄えて、どれだけ美しい言葉遣いを身につけたって、結局生まれですべてが決まってしまう。プレップスクールにもシニアスクールにも行けない人間は、天井にぶつかってそれでおしまいだ。いまだに階級制度が色濃く残るこの国イギリスは、持たざる者に優しくない。
    「日本はジェンダーギャップ指数下位常連国男尊女卑だぞ」
    「階級か性別かの違いでしょ?似たようなものだわ」
    それに、と続けてカップに口をつける。いい香りだ。
    「出会いは多い方がいいじゃない?運命の人が日本にいたらみすみす逃すことになるのよ、もったいない」
    またそれか、とダンはげんなりした表情を隠さずため息をついた。ついでポチポチとスマホをいじり始める。気がついたら持っていたけれど、そのお金は一体どこから出ているのだろうか。
    「大体キミ、進路はどうするんだ。折角GCSEもハイスコアだったのに」
    「それは………でも、」
    「今時大学くらい出ておかないと、『運命の人』の土俵にも上がれないぞ」
    視線を向けることもなくそう言い切られて、わたしは口をとがらせた。
    「決めなきゃいけないのは20歳までだし……大体大学なんて行くお金ないわよ。どちらにせよ就職するつもりだったわ」
    「奨学金は?」
    「取れなかったら2年間が無駄じゃない」
    「取れるだろ、キミは」
    目を丸くして見つめれば、案外真面目な顔をしてダンはこちらを見つめていた。ついでほい、とスマホの画面を向けられる。
    「ま、そっちを取ってもこっちを捨てる必要はないみたいだぞ」
    「なあに、これ」
    「日本の法務省が出してる国籍に関する条文の説明」
    ふうん、と言って画面をスクロールする。国籍法16条第1項、当該外国国籍の離脱に努めなければならない………。
    「つまり?」
    「努力義務ってのはな、別にやらなくてもいいってことだ。『必ず』じゃなくて『なるべく』だぞ。わかるか?」
    「日本国籍を選んだらなるべく英国籍を捨ててくださいってこと?」
    ダンは珍しくにこりと笑って正解だと頷いた。
    「『しなきゃならない』じゃないんだから罰則もない。日本国籍を取っておいた方が離脱手続きの必要もないしいいんじゃないか」
    「ふたつあってお得ってこと〜!?」
    やっぱり合ってたじゃない!今すぐここで踊りだしてもいいくらい気分が上昇したわたしは、クロテッドクリームをたっぷり取ってスコーンにつけた。美味しい。感謝のキスでもしようかと言ったら、ものすごい顔をして汚れるからやめろと言われた。何故。
    「やっぱり持つべきものは弁護士の友達ね」
    「まだ弁護士じゃない」
    呆れた目をしてダンは二杯目の紅茶に角砂糖をひとつ落とした。火事で両親を失った孤児は、それでも弱者を守る仕事を目指している。いい子ちゃんにもほどがある、と思った。口には出さないけれど。
    「まだ」と口にするあたり「いずれ」なるという意思の強さが感じられる。ダンのそういうところがわたしは好きだった。毎日毎日問題事を起こしていないか確認してくるのだけはやめてほしいけれど。恨むならコンピューターの扱いを教えた11歳の自分を恨むべきだ。
    「それにしても、日本か。キミ、日本語喋れたんだな」
    感心した様子のダンに、にこりと笑みだけを返す。ひくりと目の前の彼の顔が引き攣った。
    「まさか、喋れもしないのに帰化するとか言い出したわけじゃないよな?」
    「やればなんとかなるかと思って」
    「日本語は習得難易度世界一の言語だぞ!?馬鹿なのか!?」
    がたりと大きく椅子が鳴った。きゅっと目を瞑って耳に手を当て、大袈裟に仰け反る。ガミガミと小言を言う友人の姿があるはずのない母親の記憶というものを思い起こさせた。
    「キミの努力家なところは評価してるがな、そういう無鉄砲さは全くもって尊敬に値しない!大体、」
    「も〜〜、いいじゃない!いずれ覚えるんだから!」
    ダンが大切に残しておいたジャムクッキー、その最後の一枚を口に放り込む。悲鳴にも似た叫び声が響いた。情けない表情をしている彼は普段の生真面目な雰囲気とかけ離れていてちょっと面白い。べ、とわざとらしく舌を出せば、目の前に座る友人は「はぁ~……」と大きな溜息をついて椅子に座り直した。
    「たまに考えるんだ。何故ボクはキミの友人なんていう不名誉な役職に五年も就いているのか」
    「『女王陛下に匹敵する素敵な仕事』の間違いでしょ」
    無言で睨みつけてくるので愛らしい笑みを浮かべて返事をしてやった。最終的には諦めたように頭に手を当てるのだから、無駄な抵抗というものだ。もう何度目かも分からない大規模な二酸化炭素の排出を行ったダンは、ぽつりとボクの友達の親の、と言葉を発する。わたしはそれにおや、と目を瞬かせた。
    「貴方わたし以外に友達なんていたの?」
    「黙って聞け。ボクの友達の親の同僚の弟の奥さんが」
    「それって他人じゃない?」
    「……ボクの!友達の親の同僚の弟の奥さんが、元教師の日本人らしいけど。紹、」
    介しようか、というダンの言葉を待たず、わたしはカップに入った紅茶を零す勢いで立ち上がった。
    「貴方って最高だわ!!」

    運命の人と幸せになるためなら、安い賃金でボロアパートに住むことも、睡眠時間を犠牲に血反吐を吐くほど働くことも三種類ものマークを使い分ける難解な言語の習得も全く苦ではなかった。覚えたての日本語をダンに披露すると、まあ心配してなかったけどな、みたいな顔をしてくるのが癪に障ってべしりと肩を叩いたのが記憶に新しい。
    「割と早かったな」
    「切り詰めれば旅費なんてすぐよ」
    それでも数年かかってしまった。にこりと笑うわたしに、ダンはキミの執念深さには感心すると呆れたように言った。
    「見送りはボクだけか。随分人望がないな」
    「みぃんな『寂しい』って言うくせに引き止めてもくれないんだもの。やんなっちゃうわ。でもいいの、どうせ運命の人じゃなかったんだし」
    さまざまなにおいが入り交じるここで、別れの挨拶をするような人間は残念ながら私には一人しかいない。家族もいない、恋人も結局求めていたものとは違くて。わたしに残ったのは友人だけ。運命の人じゃなくても続いているこの友情を、終わらせる気は毛頭ない。
    「ま、キミとの腐れ縁もここまでと思うと清々するよ」
    「あら、文明の利器をご存知ないの?ちゃんと連絡するから安心して♡」
    ダンはこの世の終わりみたいな顔で勘弁してくれ、と頭を抱えた。やっと縁が切れると思ったのに、とさめざめ泣く友人をけらけら笑っていると、誰のせいでと睨まれる。にこりと笑えば部屋でネズミを見たかのように顔をぐしゃりと歪めた。
    「キミのその、自分の顔の良さを自覚して笑っておけば全部どうにかなると思ってるところが心底嫌いだ」
    「ひどぉい」
    ぷくりと頬を膨らませれば蔑んだ目で見つめられる。それでも見送りには来てくれるのだから、腐れ縁とはありがたいものである。あのとき勉強目的でダンに声をかけたけれど、まさかここまで長い付き合いになるとは。わたしの見る目がありすぎて怖いくらいだ。
    「ボクはキミがゲートを潜ったらその足で携帯ショップに行ってスマホを買い換える。キミの番号は着信拒否するからな。これでさよならだ」
    「貴方がわたしにコンピューター技術を教えたの忘れた?」
    「ふん、やれるものならやってみろ」
    あ、そう。じゃあ遠慮なく。心の中で返事をして、代わりに表には微笑みだけを出した。なんだかんだ連絡をしたら返してくれるだろうし。伊達に何年も友達をやっていない。
    ダンがちらりと左手にある腕時計を見て、そろそろかと呟いた。タイミングをはかったかのようにアナウンスがかかる。ざわめきの中でもよく響いたそれについ舌打ちをした。全くせっかちなんだから。ほらさっさといけ、と手で追い払う仕草をするこの友人ともしばらくお別れかと思うと、なんだか寂しく感じてしまうから不思議だ。黙って両腕を広げれば、げ、と顔を歪ませ、そしてわたしに引く気がないと見ると、彼は特大のため息を吐いてからぽんと背中を叩いた。
    「キミの運命の人探しが捗ることを祈ってるよ」
    「うふふ、式には呼ぶわね」
    「呼ぶな。キミを選ぶなんてろくな人間じゃないことは目に見えている。関わりたくない」
    感動もどこへやら、べりっと効果音が付くほど勢いよく引き剥がされる。最後だというのに締まらない。楽しみにしててね、と笑えばボクの意志は無視かとため息を吐かれた。なぜわたしが他人の意志なんてものを優先しなきゃならないんだ。人生の主人公はわたしなのに。
    「もう日本だろうが中国だろうがどこでもいいからとっとと行ってくれ」
    「ちょっと、背中押さないでよ」
    保安検査ゲートの目の前に突き出されてたたらを踏む。何だってこの友人はわたしの扱いが雑なんだ。こんなにかわいいのに。ぷくりと頬を膨らませてため息をひとつ。じゃあねとおざなりに挨拶をすれば、レイラ、と名前を呼ばれてついぱちりと瞬きをした。珍しい。わたしがこの名前を複雑に思っているのを知っているから、この古い友人は滅多に口にしないのに。
    「レイラ、もう戻ってくるなよ」
    言葉とちぐはぐな柔らかい声色で、彼はそう言った。ああ、もう。
    「ダンが、」
    すん、と鼻を鳴らした。空気が冷たくて肺が冷える。使い古されたマフラーが暖かい。運命の人と幸せになりたい。だから遠い異国の地に行く。運命の人をずっと探している。けれど。
    「ダンが、運命の人じゃなくて良かった!」
    ゲートを潜ったその先でも、本当に見えなくなるまでずっと振り返るわたしに、唯一無二の親友は呆れたように手を振ってくれた。隣に誰もいないことは存外堪えたけれど、たぶん新しい場所で素敵な誰かが見つかることだろう。


    ただいまぁ、という甘ったるい声が耳に響いて、男はむくりとソファから起き上がった。仕方なく、という感情を隠しもせず返事をする。言わない方が面倒だからだ。彼は物事を天秤にかけられる聡明な男だった。
    「あら?悪魔だけ?」
    長い睫毛をぱしぱしと瞬かせ、女は不思議そうに首を傾げる。悪魔と呼ばれた男はその問いに「狼は便所、幽霊は知らない」と端的な答えを返した。
    「こんな早朝に呼び出したのに~?まだ寝てるのかしらぁ」
    間延びした喋り方とは反対に迷いのない足取りでキッチンへと向かう。少ししてからケトルの音が聞こえてきたから、たぶんお湯でも沸かしているのだろう。
    数ヶ月前目的を同じくして集まった彼らは、いつの間にやらアジトを持ち、いつの間にやら戯れる間柄になってしまった。ジェーン・ドゥ名無しを名乗るふざけた女は、今日日幼稚園児でも信じないであろう『運命の人』を探し続ける中身もふざけた女だった。幽霊を名乗る青年から『魔女』というコードネームが与えられたというのを聞いて、なるほどたしかにと納得したものだ。

    女は正しく魔性の女だった。男など知らないという風で獲物を手玉に取り、虫も殺さないような顔で麻袋に詰める。己の親友がその毒牙にかかってしまったことが残念でならない。ジェーンちゃんかわいいよね、とやにさがった顔で言われて、正気を疑ったことは記憶に新しい。否、出会ったのはついこの間だというのに、女が作る食事に疑いもせず手をつけている自分も同じか。アジトを訪れたとき、執拗いくらい返事を強請る「おかえり」の声がないと、珍しいこともあるものだと思ってしまう。「出迎えの声がないと寂しいじゃない」と笑う顔はたしかに聖母のようだけれど、残念ながらそんな枠に収まる女じゃないと悪魔は知っていた。
    「ジェーンちゃん、俺やるから座ってて」
    いつの間にやら戻ってきた友人がそんなことを言っているのが聞こえる。次いで遠慮することなくその好意を受け取る女の声も。鼻の下を伸ばしている男の顔が容易に想像できて、どうしてこうも厄介な奴を選ぶんだと、悪魔は重いため息を吐いた。

    くあ、と欠伸を噛み殺していると、ソファの片側が沈む感覚がする。目つきの悪さをそのままに、男は「おい」と声をかけた。
    「なんだってわざわざ隣に座ってくるんだよ」
    他空いてんだろうが。ご丁寧に指まで指して指摘したが、女はその大きなペリドットを瞬かせて、べつにいいじゃないと首を傾げた。なにをそう気にすることがあるのかと。悪魔としては、空いているどこか───そう、友人が座りそうなあの席とか────を選んでくれていたら、あれの機嫌が良くなってありがたかったのだけど。いや、でれでれとしまりのない顔を見ずにすんで逆によかったのかもしれない。別に隣にいられることが蕁麻疹が出るほど嫌なわけでもなし。まあ良いかと思いながらちらりと横を見れば、こちらのことなど気にした様子もなく、ばたばたしてて読めなかったのよねぇと呟いて英字新聞を広げている。ふうん、と悪魔はちょっと感心したように目を丸くした。この女が新聞を読むとは思っていなかったな。よくよく考えてみれば世間知らずなところはあれど年の離れた自分たちとの会話に付いてくるし、そう驚くことでもなかったのかもしれない。ファッションと恋愛にしか興味がないとばかり思っていたが。しかし英字か。まあ確かに顔立ちからして───そこまで考えて悪魔はかぶりを振った。詮索はご法度。それがルールだ。悪魔とて、この場所をみすみす逃したいわけではない。

    組織の人間のことは、彼らが自分の口から零す話以外、個人情報と呼ばれるものは何一つ知らない。スカウト役の幽霊は別として。けれど、だからこそ気楽でいい。ジェーンがイギリスに住んでいたことも、母国語が英語なことも、彼女の本名レイラさえも。彼らは何一つ聞かない。三人が知っているのは彼女がコンピューターに強いことと、運命の人とやらを本気で探していることと、裏切った人間を肉塊にしていることだけだ。

    きれいに整えられた爪、枝毛一つない髪、色づいたくちびる。そのどれもが魔女を魔女たらしめていた。見た目だけなら最上級と言ってもいいのに全く食指が動かないのは、ひとえにこの女がぶっ飛んでいるどころか頭のネジを数十本どっかに飛ばしたような人間性をしているからだろう。嫌い、ではないが好きでもない。そうでなくても仲間に手を出すほど落ちぶれてはいないが。

    「この時期になるとお芋が食べたくなるわねぇ」
    誰に言うでもない独り言に、一番驚いていたのはジェーン本人だった。イギリスにいたときじゃ、こんなこと絶対言わなかったのに。いつの間にか日本に染まっていたらしい。
    ふと、かの国にいた友人の顔が思い浮かんだ。宣言通り連絡先を変えていたが、その程度で切れる縁ではない。不在着信を二桁残していたらとうとう諦めた彼が疲れきった声で「なんでわかった」と聞いてきたことをよく覚えている。そんな態度を取っていても誕生日にはレイラの好きな茶葉を送ってくれるのだからかわいらしい。いい加減諦めたらいいのにとは思いつつ、レイラはレイラでこの攻防を楽しんでいるから指摘したことはない。彼女は友人のそういう愚かなところが好きだった。

    数カ月前、見知った名前が新聞に載っているのを見た。よくある酔っ払いの喧嘩。それが『よくある』で済まされなかったのは、正義感の強い哀れな青年が命を落としたからだ。知ったときにはもう何もかも遅くて、彼以外に知り合いもいないレイラは手を合わせる場所すら知ることができない。もう帰ってくるなよ、と笑った友人は、本当にレイラから帰る場所を奪ってしまった。

    友人のことを考えたらもう駄目だった。十年も一緒にいたのにもう顔を見ることはできない。通話だって片手で数えるほどだった。知り合った男も新しい仲間もいるけれど、母国語が聞けない。どちらにもなれない中途半端さに焦燥感を抱いたのは初めてだった。
    さみしい。口からこぼれ落ちた言葉に、悪魔はぎょっと目を見開いた。
    「ねえ悪魔、だきしめて」
    「オラフかてめえは」
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