籠の鳥は旅立っただらんとソファーに身を預けながら、タルタリヤは眉を寄せて口角を上げた。二人掛けのソファーの上で横向きに座って、ひじ掛けに背中を預ける。そうして、靴を脱がないままソファーの上に足を置いて笑みを浮かべている姿に、鍾離の瞳は何の色も示さなかった。ただ無言でタルタリヤを見下ろし、その鍾離の視線に答えるように、タルタリヤが緩く顔を上げる。そんな異質な空間がそこにはあった。
永遠を切り取って持って来たような時間の中で、タルタリヤはふはっと笑って鍾離の目を見つめ続ける。そのタルタリヤの瞳は、彼本来の色とは遠く離れた石珀のような色に染まっていた。黄色のような橙色のような、それでいて、黄金を振り撒きそうなその瞳には、ハイライトが入っていない。ビー玉のようにキラキラと輝くその瞳の中は、あの時の同じ深淵のままだった。神をも喰らおうとする瞳をきゅっと細め、嘲笑うように息を零して、お綺麗な唇から流暢に言葉を紡ぎ始める。
「鍾離様……とでも言えば良いのかな? ねぇ? カミサマ?」
甘い声で音を奏で、顔全体で嫌悪感を示す。そうして、だらんっと力が抜けていた体を起こしたタルタリヤは、体を鍾離の方向へと向けた。ソファーから足を下して床に着け、膝の上に肘を置く。それから、頬杖をしながら視線だけ上に向ければ、鍾離は未だに何の色も示さずにタルタリヤを見下していた。
「好きに呼べばいい。そこは制約していない」
低い声が部屋の中で木霊し、タルタリヤはその音を聞いて笑い声を上げた。その瞬間、耳元で揺れたピアスの音がどこか風鈴の音のようにも聞こえて煩わしいが、それでも、タルタリヤは笑みを崩さなかった。
「制約……ね。勝手に人の身体を好き勝手して、そんな事を言っちゃうんだ? 偉大なるカミサマは、俺みたいなちっぽけな人間の恨み言など、小鳥の囀りにしか聞こえないんだろうねぇ? 神の助けたいままに助け、命を与え、それで与えられた側がどれだけ迷惑するか考えられない」
そう言いながら、頬杖を崩したタルタリヤは、ゆっくりと両手を首に添える。手にあたった無機質なそれの色が黄金である事はとうの昔に知っていて、それを思い出しながら顔を歪めたタルタリヤを、鍾離は黙ったまま見つめていた。
「神様というのはいつだって自分勝手だ。エゴなんて持ち合わせてないんだろう? 勝手に捕まえて、籠に入れて可愛がる。まるで籠の中の鳥のような気持ちだ。善意だと宣いながら、羽を切り、羽ばたく術を奪ってしまう。……それのどこが善意なのか教えて欲しいぐらいだ。魚は海を泳ぎ、鳥は空を飛ぶ。花は根を生やして地面に咲き誇り、虫はその蜜を吸って生きる。自然というのはそういうものだ。それを捻じ曲げて善意なんて……本当に胸糞悪い話だよね」
力の入らない手は、ただ首に触れるだけで終わり、それが最初から分かっていたタルタリヤは顔を歪めたまま笑みを浮かべ続ける。その中で燻っている怒りを知っていながら、それでも何の色も示さない鍾離はふっと息を吐いて腕を組んだ。
「何度も伝えた筈だが? 自死は許さないと」
見下しながら、それでも淡々と言葉を紡ぐ鍾離の姿を、タルタリヤは嫌気が差すぐらい見てきた。もう何回? 何回このやり取りをした? そう思わずにはいられない程、繰り返してきたのだ。それでも、眷属というのは厄介で、自由というものがない。
籠の中から永遠に出して貰えないのに、自死さえも許されないのだ。
こんなの……人形と何が違うのだろうか。喋って、意思を持つ事だけを許された人形。生死を選べず、生き方も選べない。ただ、神に厭きられて捨てられるのを待つ日々。
「先生はさ。結局の話、何一つ理解していないんだ。人の意思というものを。奴隷だって叛逆の狼煙を上げるし、どこかの国のように永遠を終わらすために、神に逆らった。マインドコントロールも、制約も、結局は人を縛るのには不十分というわけだ」
その瞬間、タルタリヤはにやりと笑った。首に手を添えたまま、愉快だと言わんばかりに笑ったのだ。その手が神に逆らうように……、意思を持つように、少しずつ力が加わり、タルタリヤの白い首を圧迫していく。それを視界に捉えた鍾離は、初めてその端正な顔を歪ませて、目を見開いた。
「馬鹿な……」
「あははっ……! 先生。悪いけど、俺はピエロにはなってもマリオネットにはなってあげないよ。面白おかしく生きてやれても、あんたの思い通りにはならない。……これが俺の意思だ。俺は生きたいように生きて、死にたいように死ぬ。それを邪魔する先生を、俺は許すわけにはいかないからさ」
そこまで言葉を紡いだタルタリヤは、首に添えていた手を緩めた。それを見てほうっと息を吐いた鍾離に、タルタリヤは嘲笑いながら岩元素のマークがついた首輪を両手で掴んだ。その瞬間、ぐらりと視界が揺れたような気がしたが、それでも、高らかに笑いながら一気に首輪を引き千切ったのだ。
視界に映るのは、目を見開いた鍾離の顔と、緩く伸ばされた手。眷属の契約に用いられた首輪の残骸は、鍾離の手から逃げるように床へと落ちていく。千切れた首輪に引き摺られるように、体を維持していた何かが崩れていき、タルタリヤはそのままソファーの背凭れに沈んだ。
体が重く、瞼も口も上手く開かない。息が苦しくなって、足先からどんどんと力が抜けていく。久方ぶりに感じた命の終わりに、タルタリヤは嬉しそうに笑いながら重たい唇を何とか動かした。
「……神様に戻ったのかと思ったら、随分……、凡人らしい顔をするじゃないか……。せんせぇ。そんな顔を見られるなら、俺のクソみたいなボーナスステージも案外、価値があったじゃないか」
「……俺は元々、凡人だ」
唇を噛み締め、悔しそうに言葉を吐き捨てた鍾離に、タルタリヤは少しだけ目を大きくして、それから笑った。石珀とは似ても似つかない深淵の青の瞳で。その瞳に映る鍾離の顔は、情けないぐらいに歪んでいるのだろうと思いながら笑ったタルタリヤに、鍾離は視線を外せない。
「よく言うよ……。人の死体を持ち帰って勝手に眷属にしたくせにさ……。ははっ……、まぁいいや。せんせい。すきだよ」
音を紡いでいたタルタリヤは、自分の口から出た言葉に目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。その笑顔は生前の彼がしていた表情そのもので、鍾離はぐっと眉を寄せる。
「やっと言えた。なんでこの言葉が禁止されていたのか分からないけど……。……俺は、せんせいのこと、許せないけど……。うん。嫌いじゃないよ。すきだよ」
瞼を閉じながら、それでも嬉しそうに笑うタルタリヤに、鍾離は一歩だけ足を前に出してタルタリヤの髪を撫でた。無理矢理時間を止めて維持していた体が、岩元素で何とか動かしていた死体が、今、失った時間を取り戻すように一気に朽ち果てていく。艶のない髪を何度も撫でる鍾離の下で、タルタリヤはもう体を動かす事なく消えてしまいそうな声で呟いた。
「言えないとおもっていたから……、てがみ……かいたよ。……後で読めばいい……。じゃあね」
その瞬間、がくんっと魂の抜けた体がソファーの上で横たわり、一気に朽ちて、灰へと変わった。彼が着ていた衣服と、灰だけが残されたソファーを前に、鍾離は目を細めて立ち尽くすしかなかった。
流暢に言葉を紡いでいた彼はもういない。その事実が鍾離を苦しめる。服の隙間から零れ落ちた白い紙を見た瞬間、鍾離は苦痛に歪んだ顔でただ笑ったのだ。
“鍾離先生。————。”
「制約をした理由など、一つしかないだろう? 俺がその言葉を言われる立場にいないからだ。お前の羽をもぎ、檻へと放り込んだ。そんな自由を奪われたお前から、好意の言葉など……貰えるわけがないだろう」
白い紙をぐしゃっと握り潰し、その場で崩れ落ちた鍾離は、空白の四文字を何度も何度も受け止めた。嫌われていると思っていたのだ。生前が恋人関係でも、彼の尊厳を奪った自分は嫌われていると。それなのに……彼は、その言葉を口にすることも文字にすることも許してなかったのに、こうやって鍾離に愛情をくれた。
こんな事実はいらなかった。彼に嫌われたと思ったまま、これからも生きていたかった。
いつか彼が檻を壊して、外へ飛び立つ事は理解していたんだ……本当は。それでも、それでも良いから、少しの間だけ彼を自分の物にしてみたかった。旅立つ前のほんの一瞬を貰いたかった。例え彼に嫌われたとしても、摩耗していくだけの人生に身を委ねる前に、一握りの幸せを感じたかったのだ。
「まだ死ねない……。まだ、俺は死ねないんだ。だが、お前は待ってくれないだろう? 俺を置いてどこまでも遠くに行ってしまう」
これから先の人生で死んでも、彼は自分の死など待たずに転生しているだろう。彼はそういう人間だ。だからこそ、一瞬で良いから貰いたかったのに……。一瞬では満足出来なくなってしまった。
「欲が出てしまった。……今までの人生で初めてだ。俺が……追いかける立場になるとはな。待たなくて良い。いつか俺が追い付こう」
何年先の話か分からない。何百年、何千年先かも知れない。摩耗が進行し、この体が朽ち果て、輪廻転生をした後、彼に会いに行こう。
「俺もお前を愛している。そう言える日が……来ればいい」
春を知らせる風が吹く。窓を叩いて、鍾離に桜を届けてくれる。鍾離はそんな熱いような温いような風の音を聞きながら、一人窓の外を見つめた。少しだけ潤んだ瞳で、どこまでも澄み渡った石珀の瞳で。もういない深淵を思い浮かべながら。