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    既刊本⑥【終演】の中に収録している一作品【人はそれを愛と呼ぶ…?】
    WEB再録本。以前支部に投稿していた9作+書き下ろし1作。

    ※死ネタ・流血表現・残酷表現・転生ネタ・捏造・ネタバレ・派生キャラなど様々あり。

    人はそれを愛と呼ぶ…? ねぇ、先生? 今聞こえているかな?

     俺は今怒っているんだよ。こんな馬鹿な事をしてさ。
     でもね。一言言ってやる前に、俺は自分で沈めようとしたこの璃月を守ってやるよ。
     先生がずっと守ってきたこの美しい国をさ。

     だから、早く目を覚ませよ。凡人になるんだろ?

    「俺に殺されたくなければ、早く起きろよ…! このエセ凡人がぁあ!」 
    ◆◆◆

     璃月港に向かっていた旅人こと空は、体を支えられない程の大きな揺れを感じてその場にしゃがみ込んだ。もう少し足を進めれば璃月港を一望出来る高台に辿り着けそうな場所だったのに、世界はそんな空達の邪魔をするのだ。突然、起きた地震に足を取られた空に、傍で浮いていたパイモンは慌てて目の前の頭に抱き着く。空から伝わる揺れは大きく、パイモンは大きな目に涙を溜めた。
    「わわわ! なんだ! なんだよぉ!」
     怯えながら頭に抱き着くパイモンをあやすように背中を撫でながら、空は周りを確認する。幸いこの場所は高台に登る崖からも遠く、水場からも離れている場所で、何かあっても大丈夫そうだった。その事に気が付いた空は詰めていた息をはぁっと吐いて、未だに揺れる地面にバランスを取られないように身を低くする。
    「地震か! 旅人! 大丈夫だよな! オイラたち、こんなところで死なないよな!」
     頭にへばりついているからどんな表情をしているのかは分からないが、声だけ聞いていても泣きそうなのが分かる。だが、大丈夫とも言ってあげられなかった。鳴り響いている地響きはなかなか止まず、地面は怒るように揺れ続けているのだ。何が起こっているのか分からないまま、少しだけ表情を暗くした空に、パイモンは声を小さくした。
    「なんでこんな事になってるんだよぉ……。今日は美味しいご飯を食べるっていったばかりなのに……」
     つい先ほどまで、璃月の料理を食べたいと騒いでいたパイモンは、涙で瞳を潤ませて空の頭に顔を埋める。ほんの数分前までは穏やかな日常だったのだ。稲妻の旅も終わり、久しぶりに璃月に行こうって笑いながら話してここに来たのだ。途中、通りすがりの商人の護衛をしたり、ヒルチャールの巣を壊滅させたりはしたが、それでも穏やかな日常だった。
     それが今はこれだ。天変地異。そう言えそうなぐらいの地震に、正直空もパイモンも怯えていた。
    「早く収まればいいんだけど……」
     こうも地震が続けば、地割れ以外にも色々な問題が生まれる。そう……例えば、地震によって慌てふためいたヒルチャール達が、襲いかかってくるとか……。
     そんな事を考えている内に地震は止んだようで、空はゆっくり立ち上がった。時間にして一分か……十分か……。あまりにも大きな揺れに時間が定かではないが、空にはあの揺れが永遠のように感じた。強張った体をほぐしながらも休んでいる時間などない。空は漸く頭から離れたパイモンに向かいあった。
    「パイモン」
    「た……たびびとぉ……」
     怯えた表情のパイモンは、大きな目に涙をいっぱい溜めてこちらを見る。小さな体が少しだけ震えていて、見ているだけで可哀想な姿だった。そんなパイモンを落ち着かせるように優しく笑いかけながらも、空はゆっくり璃月港の方を指差す。
    「このままここに居たら、ヒルチャール達の襲撃に合うかもしれない。それに、地響きは璃月港の方から聞こえていた。まずは急いで璃月港に向かおう。地震がこれ以上起こらなければ、美味しいご飯も食べられるから。ね?」
     その言葉に何度も頷いたパイモンはぺちぺちと自分の両の頬を小さな手で叩いて笑った。
    「そうだな! あそこには鍾離もいるから、何があったのか聞いてみようぜ!」
     元気を取り戻したパイモンの言葉に頷いた空は、足を前に出した。顔は笑顔を取り繕っているが、その額には汗が滲んでいて、パイモンは不思議そうな顔をする。岩元素を扱わないパイモンには分からないのだろうが、璃月に来てから属性を岩に変えていた空は気付いていた。
     膨大な量の岩元素を璃月港の方面から感じていたのを。そして、これほどまでの力を扱えるのは凡人には無理だという事を。鍾離が話せる状態であれば良いけど…と呟いた言葉は誰にも届かず、消えた。鳥一匹も飛んでいないこの世界で。

      ◆◆◆

     揺れのない世界を駆けていた空達は、やっとの思いで足を踏み入れた璃月港を見て震えた。記憶に残っている景色とは違って、そこには賑やかさなどどこにも無かった。建物こそ崩れてはいないが、棚に陳列してあった商品は落ちて、中には怪我人まで出ている。とても、美味しい料理を食べている場合ではない。そんな状況にパイモンは不安げな顔をして旅人を見つめた。
    「いったい……何が起きているんだ……?」
    「分からない……。でもとりあえず、手当てを先にした方が良さそうだね」
     荷物の中から応急処置に使えそうなものをいくつも取り出す旅人を見ながら、パイモンも鞄から零れ落ちた包帯を手に取る。こんな危機的状況は稲妻で体験した筈なのに、ついこの間までの華やかな璃月港の姿が脳裏に焼き付いて離れず、体を震わせた。
     世界が生き続ける以上、地震なんてものは起きる。そんな事、二人にだって分かっているのだが……何故か胸騒ぎが止まらないのだ。何かよくない事が起こるとそう訴えてくる。まるで神の怒りにでも触れてしまったかのような……あの恐怖が、足を、体を、震わせるのだ。
     視界では七星である刻晴が人々を安全な場所に誘導しており、その隣には香菱が両手いっぱいに食べ物を持っている。グゥオパーもそれを手伝っているのか、丸く可愛らしい手で出来たてほやほやの料理を持って歩いていて、空は強張った表情を緩めた。神の国から人の国へと変わった璃月。その盤石なる対応には、いつだって安心を覚えさせてくれる。
     旅人は自分の頬をぺちんと叩いて、それから目の前で怪我をしている老人の元へと走った。震えるのは今じゃなくて良い。まずは、自分の出来ることから始めないと……。目を細めた空に気付いたパイモンもうんうんと何度も頷き、いつものように明るい声を上げる。
    「まずはおじいさんを助けようぜ! それが終わったら、現状が分かる人を探そう! でも、刻晴は忙しそうだったよな……凝光……? ううん……」
     うんうんと悩むパイモンの声を聞きながら、目の前の老人の手当てをする空に、老人は何度もお礼を言っていた。棚から落ちて来た陶器に足を怪我した老人の側には杖が落ちていて、傷は深くないが、とても一人では歩けなさそうで、空は顔を歪めた。現状を打開する為に動きたいが、このまま老人を放って行くわけにもいかない。地震が起きた理由もなに一つ分かってないのだ。もう一回大きな揺れが来ても可笑しくない現状に、空はどうしたものかと頭を悩ませた。
    「おじいさん……。この璃月港で何が起きたの……?」
     空の不安げな声が喧騒の中で響き渡った。確実に大災害が起きていそうな揺れだったのに、建物はびくともしてない街。棚に陳列してあったものは殆ど落ちているというのに、火災一つないこの現状が、とても自然で起きているものには感じなかった。
    「……分からん……分からんが……、眩い光を見た」
     ぐっと顔を歪めた老人はそう言いながら立ち上がり、空も手助けをすべく老人の身体を支える。細い身体に巻かれた包帯は痛々しいほどで、空は自分の唇を噛み締めた。治癒出来る人の元へ行くまで、この人はこの痛みと戦わないといけない。それが申し訳なくて、不甲斐なくて辛い。老人の歩き出した足があまりにも不安定で、空は悔しさを押し殺しながらその手を引いた。
    「眩い光?」
    「あぁ、突然、眩い光が璃月港を包んだんじゃ……。大きな揺れの中、眩い光を見て気が付いたらワシは倒れておった…。それぐらいしか分からん」
     ゆっくりと、それでいてしっかりと話す老人の手を引きながら、刻晴たちが向かったであろう広場へと歩く空は辺りを見回す。重傷者のいない景色が、喜ばしいはずなのに不気味で仕方ない。
     
    まるで、これは人工的に行われたものだと言っているようで……。

     刻晴がやっと見えた頃、空の視界には一人の人間が見えた。手には弓が握られており、人々の波を逆らうように駆け抜ける一人の男。灰色の服に身を包み、赤いストールが揺れるその姿は、この状況で見るにはあまりにも不似合いだった。空は慌てて刻晴の名前を呼んで老人を託し、刻晴の言葉に耳を傾ける事なく駆け出した。パイモンも先ほどの人物が気になって仕方ないのだろう。空の横を浮遊しながらも、空に話しかける。
    「どうして公子が……! アイツがこの事態を引き起こしたのか!」
    「分からない……! けど、それならあんな顔して走らないと思う」
     全力で走っている筈なのに、目の前を駆け抜けていったタルタリヤには近づけず、空は息を荒げた。海へと向かって行ったタルタリヤがどうしたいのかは分からないけど、弓を持っている以上戦うつもりだろう。それが分かっているからこそ、空は縺れそうになる足を止められなかった。
     あんな、悲しそうな……焦った表情で戦うタルタリヤなんて想像もつかない。それだけで何か悪い事があるに違いないのだ。
    「公子! ……た……タルタリヤ!」
     走っても間に合わない距離に、空は勢いよく息を吸い込んで大きく叫んだ。はぁはぁっと息は上がり、この声だって届いているのかも分からないが、それでも叫んでみた。口がカラカラでしょうがない。音を出したいのに、喉が上手く震えない。くそうっと叫びたいのに叫べず顔を歪めた空を見たパイモンが、目を大きく開けながらも両手を口の前にやって、空と同じように叫んだ。
    「おおー―――――い! 公子―――!」
     空よりも大きなその声は璃月港に響き渡り、待ち望んだその人は慌てたような顔をして屋根から飛び降りて来る。額には汗が滲んでいて、息も少しばかり上がっている男は空達を見て驚いたような顔をした。
    「旅人じゃないか! どうしたんだい? こんなタイミングで璃月に」
     大きく見開かれた瞳には相変わらず光はなく、全てを飲み込みそうなほど深い深淵だった。それでも焦りがその瞳から零れていて、空はきゅっと眉を寄せる。空達の想像以上に良くない事が起きていると、タルタリヤの顔が訴えているような気がした。
    「何があったの……? タルタリヤはそれに関係しているの?」
    「どうせお前だろ! こんな事を引き起こすのは!」
     ぷんぷんと怒るパイモンにタルタリヤは苦笑いをしながら頬を掻く。それでももう一方の手では弓を握り続けているのだから、タルタリヤとしても気を抜ける状況ではないのだろう。緊迫した空気が空とタルタリヤの間に流れた。息が詰まりそうな程の圧迫感に、空は口を噤んだまま。そのまま、息を吸う事さえ忘れそうになった時、タルタリヤははぁっと大きく息を吐いた。それを合図に、空の口からも微量の息が漏れ出して、思い出したように酸素が口から肺へと送られた。
    「ここではぐらかすのはどうやら難しいそうだ。時間が無いから手短に話すよ。この件に関しては、俺は被害者だと思うけどね」
    「? それはどういう……」
    「今回の大地の揺れを引き起こしたのは、この地を守り続けた元岩神だ」
     すっと目を細めたタルタリヤはそう言って空の手を引いた。空もそれに抵抗することなく足を前に出し、海の方へと近づく。人々は既にこの場所には居らず、先程までの喧騒もどこかに消え去っていた。その代わり眼前に広がったのは、目を疑いたくなるような光景だった。
    「……大きな……岩……?」
     いつもは船が停泊している場所に、孤雲閣に刺さっている岩よりも遥かに小さな岩が幾つも刺さっていた。それは全て海に刺さっていて、まるで璃月港には傷つけないという意思表示にも感じる。
    「これをやったのは鍾離先生だ」
    「はっ……?」
    「鍾離がそんな事をするわけないだろ! だって、だってあいつは……!」
     言葉を失った空の代わりにパイモンが怒鳴るが、タルタリヤはそれを見ても表情を変えなかった。
    「……何があったか聞いても良い?」
    「そうだね。ちゃんと説明をしよう…と、言っても、あまりにも突然の事だったから、俺もよく分かってないんだ」
     そう言って額に手をあてたタルタリヤは苦虫を嚙み潰したような顔をした。

      ◆◆◆

     数時間前、タルタリヤは仕事を終わらせて小腹を満たすべく璃月の街を歩いていた。昼と夜で彩りの違う賑わいを見せる街は今日も楽しそうで、テウセルにこの景色を見せる事が出来て良かったなんて思う姿はどこにでもいる兄のそれだった。
    北国銀行から万民堂へと向かう距離はそこまで無いのに、見る景色は沢山あって楽しい。楽しそうに笑う親子に、熱心に客寄せをする店員の姿。港ならではの様々な国の特産物は、見ているだけで心を躍らせた。そんな、祭りでもないのに賑わう街は、きっと祭りになるともっと美しくなるのだろう。そう思えば思う程、この国を魔神によって沈ませなくて良かったなんて思ってしまうのだ。
     相変わらずこの国の目はファデュイに厳しい。そうなる原因を生んだのは自分だし、その目に対して何か特別な感情を向けることもないのだが、それでも、自分が今こうやって小腹を満たすために歩いている事を許すこの国の住民は優しいと思ってしまう。金を出せばいくらだってやりようがあるのはとうの昔に知っていた。人は金の前に無力だ。金でどうとでも出来るのは身に染みる程知っているし、それに対しても何か思う事はない。無いのだが……
    「この国の人は本当に人が良いよね……」
     損得勘定、契約。そこら辺はしっかりとしている人々だが、それ以上を受け取らないのは、モラクスを尊ぶからか、それとも、人の心とやらを重んじているからか。おまけだと言って、いつも買い物に来るタルタリヤの手に購入以上の物を握らせる。それならばと更にモラを出そうとすれば、いらないと断る人々を見てしまえば、タルタリヤは首を傾げて苦笑いをするしかない。
     ファデュイとして行動しやすいようにモラを渡しているだけなのに、おまけだと言って、注文以上の品を渡される。ご贔屓にして貰っているお礼だと言って開発中の試食を渡される。こんな事が続けば、流石のタルタリヤも苦笑いしか出ないのは仕方ない。璃月を危険に晒したのは目の前の男だぞと心の中で思いながらも、居心地の悪い温かさを拒めないままに貰ったモラミートはとても温かく、そして香ばしい匂いがしたのを覚えている。
     こんな温かく優しい国がタルタリヤは嫌いでは無かった。故郷が一番だとは思っているが、配属先がここで良かったかもしれないと思うぐらいには気に入っていたのだ。幼い弟を異邦人である旅人に任せてしまうぐらいには。
     そう思いながら渡っていた橋の途中で、反対から歩いて来る男を見つけたタルタリヤは、大きく手を振った。見た目は若いがこの国一番の知識を持つ男は、そんなタルタリヤを見てふっと笑みを零す。毛先に掛けて明るくなる髪を揺らしながら歩く男の姿は、一枚の写真にしても良いと思えるほど綺麗で、タルタリヤの顔にも自然と笑みが零れた。
     璃月を揺るがす程の大事件を裏で動かしていた男は、何食わぬ顔で今日も歩いていて、璃月を沈めようとした人間に笑みを浮かべる。小説でも書いてしまえそうな可笑しな話に、タルタリヤは楽しくて仕方なかった。手合わせを願ってもしてくれないこの男はきっと、タルタリヤの想像よりも強い。あの澄ました顔の裏に潜む武神としての力を見られる日を願って、タルタリヤは今日も笑って話をするのだ。
    「鍾離先生! 何? 散歩かい?」
     揶揄うようにそう言えば、鍾離と呼ばれた男は風で靡いた後ろ髪を払いながらタルタリヤのそばに来る。
    「今日は暇だからな。せっかくだし、見て回ろうと思ったんだ」
    「はは! 神が民の生活の様を見ているような物言いだね」
    手で口元を隠して笑えば、鍾離はふむと顎に手を当てて少しだけ気に食わなさそうな顔をする。
    「そうではない。凡人として、この国を見て回っているだけだ。例えば、今日は漁業が上手くいったらしい。どこのメニューにも魚料理がおすすめだと書いてあった。万葉書舎には新しい本も入荷してあったな。こうやって、日々の料理や、本の入荷を心待ちにして街を歩くのはあの頃には無かったからな」
     ふわっと笑った鍾離の顔は本当に嬉しそうで、タルタリヤは揶揄っていた口を噤んだ。最初に出会った時から、確かに彼をモラクスだとは思わなかったし、タルタリヤは完全に騙されていた。だが、それでも、今のタルタリヤには分かる。鍾離があの頃よりも凡人に近づいている事を。
    「どうせ、モラは持ってないんでしょ? 金銭感覚狂ったまま、経費か俺の財布を頼りに散財する姿はとてもじゃないけど、凡人とは呼べないよ。下界に降りて来た神が、興味本位に遊んでいるようにしか見えない」
     繕った笑みを浮かべて両手を広げれば、鍾離は目をぱちくりした後に、また楽しそうに笑った。顎にあてた手は外され、線を描くように軽やかに下へとおろされる手を、タルタリヤは惹かれるように見届ける。
    「ふむ。そういう風に見えるか。以後気を付けよう。公子殿は単刀直入に言ってくれるからな。助かる」
     楽しそうにそう言う姿が、既に凡人の器量から外れているのだと言ってやりたかったが、タルタリヤは呆れた笑いをする事で音にせず口から零した。きっと何を言っても無駄だろうことは分かる。なんせ彼は、まだ凡人一年生なのだから。
    「今は俺が居るから良いけどさ。俺がいなくなったら鍾離先生はどうするんだろうね? 誰が先生に凡人としての生き方を教えてくれるのか……」
     わざとらしくそう言いながら、タルタリヤは鍾離の返答を予想していた。

    公子殿は凡人からいささか離れていると思うがだろうか?
    それとも貴殿に生き方を教わった覚えはないだろうか?

     鍾離から返されるであろう返答をわくわくしながら予想していたタルタリヤは、顔を上げて目を大きく見開いた。何故なら、そこには予想と全く違う表情をした鍾離が立っていたからだ。
     目を大きく見開き、悲痛にも似た顔をする鍾離の周りは温度が一度から二度ほど下がっているようにも感じる。信じられないと言わんばかりのその目は真っ直ぐタルタリヤだけを見つめていて、あまりの視線にタルタリヤは一歩だけ足を後ろに下げた。
    「せ……せんせい……?」
     らしくもなく震える声に、足。何が起きているのか分からないと辺りを見回した瞬間、地面が揺れた気がした。カタカタと音を立てているのは、この屈強な橋なのか、それともタルタリヤの服についている装飾なのか。
    「……公子殿がいなくなる……?」
     色を無くした声が静かに響く。その声はとても小さなはずなのに、タルタリヤの鼓膜をしっかりと揺らした。公子が璃月から居なくなるのは、この先遠くない未来で起こる現実。タルタリヤにとってはそう思っていた。
    「そ、そうだよ? 俺は元々スネージナヤの人間だ。璃月には任務で来ている。この国の神の心は既に手に入れているんだ。本当ならすぐにでも別の国に……」
    「いなくなるのか……。俺の前から……?」
     こちらの声が届いてないのか、譫言のようにそう呟き続ける鍾離はふらふらと後ろに下がりながら両手で自分の耳を塞いだ。タルタリヤの声を聞きたくないのか、どうなのかはタルタリヤにも分からないが、それでも今の状況が異常だと言えることだけは分かった。普段の姿からは想像出来ない鍾離の姿に、タルタリヤは身を低くして、弓を掴む。何故だか分からないけど、そうした方が良いと自分の中で警告が鳴ったのだ。
    「先生……どうしたんだい……? わかりきっていたことだろ……?」
    「いなくなる……そうだ。いなくなるんだ。俺は……見送らないと……。いやだ……。そんなの受け入れられるわけがない……。違う……人の子を……。……なんだこれは?」
     自問自答を繰り返す鍾離の目は大きく見開かれ、顔には汗が滲んでいた。橋の上に立っている筈なのに、鍾離の周りには岩が生まれ、タルタリヤはいよいよ危険を察知して後ろへと飛び退いた。鍾離を中心にガタガタと揺れ出す世界。後ろに飛び退いたとしてもまだ橋の上に立っていたタルタリヤはバランスを崩してしゃがみこむ。滲む汗は強者を目にしたからではない。何故だか分からないが、タルタリヤは焦燥感に駆られていたのだ。
    「行って欲しくない……、傍に……いや、でもそれでは駄目だろう。一緒には居られない。……離したくない。手元に……。出来るわけがない……。出来るわけがないだろう!」
     ぶつぶつと言葉を零していた鍾離は両手で自分の頭を抱え込み、そのまま叫んだ。その瞬間、生まれた眩い光と衝撃波に、タルタリヤはいとも簡単に吹っ飛ばされ、建物へと打ち付けられた。
    「かはっ!」
     背中に強い衝撃を受け、体はまるで人形のように崩れ落ちる。歪む視界で最後に見たのは、角を生やし、うなる鍾離のような化け物の姿だった。まるで理性を失ったようなその姿に、唾を飲みこめば、体はその動きに耐えられないと言わんばかりに軋んだ。
    「せんせい……!」
     声を出せば体が痛む。それでもタルタリヤは震える足を叱咤しながら体を起こす。何が何だか分からない。分からないけど、きっと良くない事が起こる。だってほら……先生は泣いている。
    「待ってくれ。ここは駄目だ。そんなに暴れたいなら、俺が戦ってあげるから……」
     何が言いたいのか自分でもよく分からない。それでもこのままこの場所にいるのは良くないと、そう判断したのだ。先ほどの大きな揺れで、物が壊れる音がした。人の悲鳴が聞こえた。自分はそんなもの気にしないけど、あんたは違うだろ? とタルタリヤは目の前の化け物のような男に言ってやりたかった。
    震える足に力を入れてようやく立ち上がった時、鍾離らしき化け物はこちらを見下したような目をして、それから軽くジャンプをするような仕草で視界から飛び去った。時間にしてどれぐらいだったかは分からないが、タルタリヤは消え去った化け物を追いかけるべく駆け出したのだ。
    それが、空に出会うまでの全てだった。

     ◆◆◆

    「と、まぁこんな感じでさ。俺もよく分かってないんだ」
     はぁっと溜息を零したタルタリヤの手には未だ弓が握られていて、彼の焦りが手に取るように分かる。確かに、普通に会話していたはずなのに、こんな状況になってしまえば焦らずにはいられないだろう。……それが常人なら。だが、タルタリヤは違う。混乱が起きようと、強敵が現れようと、その全てを楽しもうとする人間だ。そんな彼がここまで焦る様を見ながら、空は口に手を当てた。
    「……そっか……。多分だけど、鍾離先生を止められるのはタルタリヤしかいないと思う」
    「それは、戦力的な話かい? 相棒も戦闘なら……」
    「違うよ。鍾離先生は今まで知らなかった感情を知ったんだと思う。そして、それはタルタリヤにたいして」
     空がそう言えば、タルタリヤは目を大きく開けて首を傾げた。
    「俺にかい……?」
    「そう。タルタリヤにね。俺もまだその感情については詳しくないけど、俺はその感情で狂ってしまった人を見たことがあるよ。きっと鍾離先生も同じだと思う。今、悩んでいるのかもしれない」
    「あの鍾離先生が? 六千年は生きているんだよ?」
     空の言葉を信じていないのか、若干笑いながらそう言ったタルタリヤに空は少しだけ息を吐いた。この様子ではタルタリヤも気付いてない。本当に、鈍感なのか何なのか。戦闘第一の人間はこれだからいけない。彼にとって、感情が動く場面は戦闘があるかないかの二択なのかもしれないと思ったら、自然と溜息が零れた。
     戦いに直結しない感情がもっと沢山あるだろうに。家族という枠組み以外でも。
    「鍾離先生は凡人になったばかりでしょ。なら、新しい感情を知ってもおかしくないよ。とにかく早く先生の所に行ってあげてよ。俺はこのまま避難活動を手伝うから。……その……璃月を壊さないでね」
    「ははっ! 戦闘は任せてよ! こんな機会は二度と無さそうだからね! 楽しませて貰うとするさ! ……相棒、ここは任せたよ」
     弓をしっかり握ったタルタリヤは眩しいぐらいに綺麗な笑顔を見せて空に背を向けた。いつだって武人として生きる彼の後ろ姿はかっこいい。敵になったとしてもそれは変わらない。だから、任せられる。彼は戦闘で死ぬ人間ではない。戦闘を楽しんでも、戦闘で死ぬつもりのない人間だ。どんな状況でも、彼はきっと帰ってくる。燃え尽きたりなんかしないから。だからこそ、空はタルタリヤを見つめた。この戦いに、勝敗以外の感情をちゃんと見つけて欲しくて。揺れ動かされている感情が戦闘ではない別の何かから来るものだと気付いてほしくて。
     そうやって人は、己をまた一つ知るんだと……、沢山の人に教えて貰ったから。
    「タルタリヤ! 最後に一つだけ……。先生を止めたいのはなんで?」
    「へっ……?」
    「戦いだけなら、俺に璃月の避難を任せなくてもいいでしょ? タルタリヤには関係のない国だ。ましてや、一度は自分が沈めようとした国だもん。それなのに、今そんなに焦っているのはなんで? ……とても強者と戦いに行く顔じゃないよ。それをちゃんと理解しないと、先生には届かないと思う」
     じっと見つめれば、タルタリヤは一瞬空の顔を見て、また背を向けた。困惑する頭を整理出来ないと言わんばかりに、タルタリヤは海に落とされた幾つもの岩を見つめる。あの岩が、船を傷つけなくて良かったと思った。あの時、橋が崩れなくて良かったと思った。ここに来るまでの間、重傷者を見てないことにホッとした。でも、それが何故だかタルタリヤには分からない。
    「……永遠を求めた神は、人の本当の想いをぶつけた事によって、永遠を終わらせた」
    「稲妻の話だね」
    「……どんなに頑固な神にだって、想いは通じるよ。だから……、タルタリヤも想いをぶつけて来なよ。じゃあ、任せたよ」
     次にタルタリヤが振り向いた時、そこには駆けて行く空とパイモンの後ろ姿しかなかった。ぐちゃぐちゃになった思考回路はどうやっても戦闘という答えしか導き出さない。そのぐちゃぐちゃになった思考回路を一つ一つ正していくように、タルタリヤは海に浮かぶ幾つもの岩の塊を見つめながら考えた。
     
     あんなに暴走している神と戦えるなら光栄だ。戦う上で不安要素は排除したいと思うのも当然の事。でも、なんで…?なんで、璃月港が不安要素となるのだろう……? 好きだから? 璃月港が? ……一度は沈めようとしたのに?

     そこまで考えた瞬間、タルタリヤは大きく笑い声を上げた。今まで感じた事がない感情が体を突き動かしている。焦燥感も、不安も喜びも、蓋を開ければこんなにも簡単なものだった。家族にしか抱かないと思った感情が今、タルタリヤの中で暴れている。空にたいしても幾分かあった感情とは大きく違っていたからこそ、今この瞬間まで気がつかなかった想い。
    本や物語の世界ではいつだって輝かしい色合いで描かれる感情に、タルタリヤは漸く気が付いたのだ。
    「はははっ! まさか! この俺が! 先生の悲しむ顔を見たくないと思うとはね!」
     腹を抱えて大笑いしたタルタリヤは、はぁーっと息を吐いてキッと目を細めた。気付いてしまった感情のその先に光があるとは思えないが、それでも、分かる。このままでは、面白くないという事が。錯覚とまで呼ばれている感情に突き動かされて、暴れている元神に一発殴らないと気が済まない。勝手に感情に囚われて、暴走して、自分の守りたい国を混乱に陥らせて。馬鹿みたいだ。本当に馬鹿だ。直接言えば良かったんだ。凡人は凡人らしく直接言葉にして、玉砕すれば良かったのだ。空の言ったとおりだった。六千年も生きてきた彼が知らなくても可笑しくない感情だった。そんな感情をあの元神が持ったというだけで、一週間は面白おかしく暮らせそうだが、今はどうやらその時ではないらしい。楽しいはずなのに、ちっとも笑えないじゃないか。

     手に持っていた弓を双剣に変えたタルタリヤは、視界の先に見えた一人の化け物にも見える男に向かって駆け出した。槍を降らしたかのように海に突き刺さっている岩の上で静かに佇む男はもう、凡人と呼べるような姿では無い。それが、とても腹立しくて、タルタリヤは隠すこともなく舌打ちをした。
    「ねぇ、先生? 今聞こえているかな? 俺は今怒っているんだよ。こんな馬鹿な事をしてさ。でもね。一言言ってやる前に、俺は自分で沈めようとしたこの璃月を守ってやるよ。先生がずっと守ってきたこの美しい国をさ。だから、早く目を覚ませよ。凡人になるんだろ? 俺に殺されたくなければ、早く起きろよ……! このエセ凡人がぁあ!」
    駆け出した足はそのまま真っ直ぐと、海に突き刺さった岩の上に立つ男の元へと向かう。服装などは変わっていないが、頭から角を生やし、白目が黒く染まったその姿は、鍾離という凡人からかけ離れていた。
    立っているだけで、こちらが萎縮してしまいそうな圧をタルタリヤは気にしない。相手が神だろうが何だろうが、タルタリヤにとってはどうでも良いのだ。今はただ、無感情なのかも分からないその顔を殴りたい。その為にタルタリヤは、落下防止用の手摺を蹴って飛んだ。身軽なその動きに、風が手助けするように背中を押す。それだけで、タルタリヤは、いとも簡単に神と呼ばれる男の元に行けるのだ。
    真っ直ぐと男の前へとジャンプしたタルタリヤは、迷う事なく二つの剣を男の顔面目掛けて振り下ろした。その瞬間、男の前には岩元素のシールドが生まれ、双剣を弾く。バランスを崩したタルタリヤは、そのまま別の岩の上に着地をした。シールドが展開されるのは、タルタリヤの予想の範囲内だった。彼のシールドは固く、自身の力で壊れる事がないであろうことも。
    「はっ! 涼しい顔で防いでくれるねぇ! でも……!」
     流れるような動作で双剣から弓に変え、男の上空へと幾つも矢を放つ。どれだけシールドを貼っても、上からの攻撃は防げない。にやりと笑ったタルタリヤに、男は無表情のまま槍を生み出して、勢いよく体に突き刺さろうと飛んでくる矢を薙ぎ払った。薙ぎ払われた矢はそのまま海へと落ち、水飛沫が男を彩るように跳ねる。その景色の中で、黒とオレンジの目でこちらを見下しながら放たれた声は、タルタリヤが知っている声色よりも何倍も重たかった。
    「邪魔をするな」
     男はそれだけ呟いて、トンっと軽い調子でその場でジャンプをする。その一瞬で視界から姿が消え、タルタリヤは自分の感を頼りに双剣に変えて防御態勢を取った。その瞬間、双剣には強い衝撃が訪れ、そこから一気に体全体を震える。
    一瞬にして消えた筈の男は、岩を飛び越え、今、タルタリヤに向けて槍の一撃を加えていたのだ。
    防いだ攻撃にニヤッとタルタリヤが笑えば、男は一度槍を引いて、今度は顔を目掛けて槍を突き出す。反応に一瞬遅れたタルタリヤは、その攻撃を防ぎきれずに慌てて顔を横にずらした。シュンっと音がしたと思った瞬間には頬から血が流れていて、タルタリヤの心臓は意味が分からない程に大きな音を立てる。男はそんなタルタリヤに何か感情を向ける事もなく、槍を引いた。
    バクバクと音を立てる心臓を無視するように手で頬を拭えば、そこには赤い血が付いており、タルタリヤは舌打ちと共に後ろの岩に飛び移った。少しだけ開かれた距離がまるで境界線のようだと思いながらも顔を上げれば、男はくるりと槍を回して槍を手放す。粒子となって消えた槍に、タルタリヤの額からは汗が滲む。
    神が武器を手放したのだ。この先に待つのはきっと…最悪な攻撃だ。
    「……邪魔をしなければ何もしない……」
     男の虚ろな声がタルタリヤの鼓膜を震わせる。憎たらしい程に声は小さいのに、一言一句脳に流れ込んできた言葉は、タルタリヤを苛立たせるのに十分だった。
    「邪魔をしなければ? さっきからあんたが動く度に、地面が震えている。岩が生まれている。こんな状況を見過ごせるわけないだろ!」
     ぐわっと大きな声を上げた瞬間、目の前の男は煩わしそうに顔を歪めて、ふっと腕を上げた。普段とは違う動作でも、タルタリヤは何の攻撃が来るか分かり勢いよく後ろに飛び退く。視界には大きな隕石が現れ、璃月港のすれすれに落下する。その場所は先ほどまでタルタリヤが立っていた場所でもあり、本気で自分を石化して砕こうとしたのだと分かる。
    隕石が海に落ちた瞬間、水面は大きく揺れ、波が辺りを巻き込んで暴れ始める。ぴしゃっと顔に散った水の冷たさにタルタリヤは苛立ちを隠せないまま、仮面を掴んだ。仮面を着け、弓から剣に変え、身を低くする。
     今この場所が戦場だと言わんばかりのその闘気に、男はぴくりと眉を動かした。
    「俺としてもさぁ、正気に戻った先生が悲しむ姿は出来れば見たくないんだよね。本当に不本意だけどさ。旅人にも任せろって言っちゃったしね」
     バチバチと雷を身に纏いながら駆け出したタルタリヤを、虫でも見るような目で見降ろして槍を構える。神から見れば、人は虫のようなものなんだろうなと分かっていながらも癪なタルタリヤは落雷を落としながら、そのまま先ほどと同じように男の双剣を振り下ろした。

     傷をつけるのが目的ではない。話をするのが目的なのだ。一瞬でも間を作れたらそれでいい。
     これは楽しい戦いでも、心躍る手合わせでもないのだから。

     こんな楽しくない戦闘はいつ以来だろう。鍾離と手合わせ出来る機会なんて次いつあるか分からないのに、こんなにもつまらないなんて。もっと……もっと……、楽しんで戦いたかったのに。そんな泣きながら戦われたら、面白くないじゃないか。
    振り下ろした攻撃は、シールドで塞がれる事無く槍の柄に当たる。キンっと響き渡った音に眉を寄せたタルタリヤは、そのまま口を開いた。
    「俺には先生がこうなった理由が分からない。俺は神じゃないからさ、言われないと分からないんだよ。先生」
     一瞬でも気を抜けば、槍が体を突き刺してきそうな緊張感。着けたままの仮面さえ、今はまだ外せそうにもない。今の状況が暴走状態だという事は分かる。だが……そこまで暴走するような事があっただろうか?
    「だって……、俺だって! 先生が好きらしいのに!」
     そう言って笑えば、目の前の男はぽかんっとした顔をして槍を手放した。パッと消える槍に、タルタリヤは双剣を構えたまま仮面を外す。角も目も戻ってないが、確実に収まりつつある男の雰囲気に自然と安堵の息を零した。目の前の男はパクパクと口を動かして、それからゆっくり自分の手を見つめた。その姿が迷子の子供のようにも見える。
    「……俺は、お前を……自分のものにしてしまいたくなったんだ。誰の手にも届かない場所で……永遠に囲ってしまいたくなったんだ」
    「うわっ……。想像以上に重たいし、嫌だ」
    「だが、それをしてはいけないことぐらい分かる。公子殿は俺のものにはならない。いつか……故郷に帰る……。それが当然の未来だ。凡人の鍾離は貴殿の未来に干渉出来ない」
     その瞬間、ぎゅっと顔を歪めた鍾離の瞳からはハラハラと涙が零れ落ちた。岩元素の黄色を含んだその涙は、とてもではないが人間の姿からは逸脱しているのだが、タルタリヤはその姿が綺麗に見えてしまったのだ。
    「それを理解した瞬間、俺の中で二つの感情が生まれたのだ。神であれば、人の子を自分のものに出来るという感情と、鍾離としてそんな事をしてはいけないという感情が。俺としては、どうにか神としての感情を抑えるつもりだったのだが、今の状況を見ると力が暴走していたようだな」
     ふわっと周りを見渡したあと、鍾離はタルタリヤの身体を掴んで璃月港へと降り立った。その瞬間、鍾離の頭からは角が消え去った。タルタリヤはそんな鍾離の姿を見て、双剣を手放して武装を解き地面に足を着ける。時間にしては数分の筈なのに、この地の感覚が懐かしい。
     橋一つ崩れていないところを見ると、どうやら国を守る事には成功したみたいで、柄にもなくほうっと深い息を吐いた。
    「ふむ……。ここまでの感情が俺にもあったとはな」
     口元に手を当てて、自分が落とした岩を見つめた鍾離はゆっくりと手を伸ばして、海に突き刺さった岩を消す。凡人として生きる事を止めたのかと思ってしまう程のその行動に溜息を零しながらも、タルタリヤは鍾離の横に立つべく、一歩足を前に出した。
    「それで? 先生の中では答えが出たのかい? 神としての感情を取るのか、鍾離という一凡人としての感情を取るのか」
    「いや、まだ答えは出ていないな。頭では、凡人として見送るのが一番だとは思っているが、神としての感情がずっと体の中で騒いでいてな」
    「俺を囲えって?」
    「あぁ。欲しいならば手に入れてしまえば良いとな」
     そこまで聞いたタルタリヤは面白そうに笑った。戦闘の時には見せなかった楽しそうな笑みを浮かべて空を見た。先ほどと変わらない空の筈なのに、どこまでも広がっていて綺麗な空。こんな空の下で先ほどまで戦っていたというのに、心はとても穏やかで仕方ない。
    「先生は凡人らしくなったんじゃない?」
    「ふむ……?」
    「人間も同じなんだよ。先生と同じように、綺麗な感情と汚い感情が鬩ぎ合うんだ。相棒が言っていたよ。その感情は人を狂わせるってさ。好きだから、大切だから傍に居て欲しいって気持ちも、自分以外の人に渡したくないって気持ちも結局一緒なんじゃない?」
    「公子殿は詳しいのだな」
     少しだけ恨みがましそうにこちらを見つめた鍾離に、タルタリヤは一瞬だけきょとんとした顔をしてそれから笑った。くるりと背を向けて歩き出すタルタリヤの後ろを、緩やかな速度で鍾離が付いてくる。いつもと同じようで同じじゃないこの関係が少しだけくすぐったくて、タルタリヤはまた笑った。
    「俺もさ。勉強したんだよ。恋愛ってやつを」
    「……それは……」
     言い淀んだ鍾離の感情が手に取るように分かって面白い。こうやって、自分の事を考えてヤキモキしている姿を見ると、どうしようもなく嬉しいと思ってしまうこの感情は、綺麗と汚いどっちだろう?
    「俺は、この国が嫌いじゃない。良い国だと思うよ。それでも、守りたいとまでは思ってなかったんだ」
    「一度は沈めようとしていたからな」
    「そうそう! それでも構わないぐらいの国だったんだけどさ。毎回、誰かが嬉しそうにこの国の自慢をするからさ。あの嬉しそうな顔が見られなくなるのは嫌だなって思っちゃったんだよね」
     歩を止めることなく後ろを振り返れば、呆けた顔の男が居て、タルタリヤは目を細めた。タルタリヤの頬は少しだけ赤く色付いていて、瞳もどこか潤んでいる。その姿に、鍾離は何と言えば良いのか分からなくなったのだ。頭に浮かんだ言葉が、声に出来ない。それどころか、浮かんだ筈の言葉は泡になって消えていく。これが恋ならば、何て淡く儚いものなのか。
    「公子殿……」
    「さっきも言ったけど、俺も鍾離先生が好きだよ。多分だけどね。さっき気が付いたから、俺自身もこの感情を上手く言葉に出来ないんだ。でも、今度同じように先生が暴走しちゃったら、俺が先生を止めたい。他の誰かじゃなくて俺が」
     甘さがどこかに消えたその顔に、鍾離はふっと笑みを零した。真剣な顔で、暴走した神を止めるなど……なんて傲慢な人の子だろうか。それでも……。それでも、鍾離は嬉しかったのだ。あの姿を見てもなお、対等に渡り歩こうとしてくれるこの子を愛しくてたまらないのだ。
    「だいたい、言いたい事があったら言えば良いんだよ。色恋沙汰で国を沈めるとか論外だからね!」
    「あぁ。これからは公子殿に聞こう。とりあえずだが、最初に聞きたい事が……」
    「囲うのは駄目だからね。俺は女皇に全てを捧げているから」
     その瞬間、鍾離の目が大きく見開かれる。自分が聞こうとした事を当てられた事にもびっくりだが、まさか即答で断られるとも思わなかったのだ。
    「だが、公子殿は俺に好意を持っていると」
    「うん。先生が好きだよ。でも、それとこれとは話が別でしょ。……まぁ、でも。恋人とかいう名前ならあげても良いかもね」
     顔を真っ赤にして笑うタルタリヤは逃げるように駆け出した。鍾離はそんなタルタリヤの吐いた言葉に、石化でもしてしまったかのような衝撃を受けて固まり、言葉をしっかり理解した上で歩き出す。駆け出したい気持ちは勿論あるのだが、さっきから心臓がバクバクして死んでしまいそうなのだ。走ってしまえば、その瞬間心臓が終わりを迎えてしまうかも知れない。
     だって……、こんな事、今までなかったから。

    「あ、でも先生! まずは、誰かのせいで多くの人間が被害を被っているんだから、先にそっちの後始末をしてからね! 旅人が今頑張ってくれているからさ!」
    「もちろんだ。全てを元に戻さなくては」
    「それが全部終わったら、俺が頷くまで頑張って猛アタックでもしてみせてよ! 俺はまだ先生から好きの一言も貰ってないんだからね!」
     遠くからそう叫んだタルタリヤに、鍾離は何度も頷いた。猛アタックなんて耳馴染みのない言葉に胸が熱くなる。彼はいつだって一筋縄ではいかない。それが楽しくて嬉しくて仕方ないのだ。手放したくない。そう思ってしまう程に。

    「頑張ってみよう。公子殿が俺の傍から離れたくないと言ってくれるまで」

     ふふっと零れた笑みを隠すこともなく、今はもう見えない愛しい人の子の事を想う。囲いたい気持ちも、見送りたい気持ちもどちらも人間らしい気持ちならば、無くさないで良いのだろう。なら、この二つの感情を大切にするだけだ。いずれこの手に入るのであれば、暫しの別れは我慢しよう。
     大丈夫。俺は気が長い方だからな。

    「公子殿…いや、アヤックスはどこまで、抗うのだろうか? 出来れば、早い方が良いんだがな。俺とて手荒な真似はしたくないからな」

     あぁ、これからが楽しみだ。
     そう言って笑った鍾離を、タルタリヤは知らない。
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