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    자마(ちゃま)

    @wo_shi_chama

    ちゃまです

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    자마(ちゃま)

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    2025.05.03スパコミで頒布した『夜のかいじゅう』番外編①です。本編を読んだ後にお楽しみください!

    彼の十年0→1
     大学に復帰した。実に一か月ぶりの大学は、随分と他人行儀な雰囲気を醸し出しながら目の前にそびえている。夏休みに入り学生の出入りはほとんどなく、時おり、どこかのサークルが放置したらしい満杯のごみ袋が風に転がってきて、入口の自動ドアを無意味に開閉させていた。
     ふう、と息を吐いてドアをくぐる。館内はシンと静まり返っており、節電のためか、廊下の片側の電気は点いていなかった。エアコンの作動音だけがわずかに空気を震わせるロビーを進みエレベーターのボタンを押すと、パッと最上階のランプが点灯した。
     無意識に鼻の傷に触れていたのに気づく。抉られた肉が再生し、薄く皮膚の張った傷跡。指先でさすると、そこだけ皮膚の感触が違っている。
     この傷がついた一か月前を思い出す。夏の入り、太陽はギラギラと眩しく、バデーニは友人と二人、研究に明け暮れていた。
     あの日、二人とも気が立っていたと記憶している。暑かったし、疲れが溜まっていた。仮説とシミュレーションの結果がどうしても合わず、研究が滞っていた。そして、焦っていた。特に友人は、この論文が海外大への留学に大きく影響するため、何が何でも七月の末までに成果を出す必要があった。
     彼は、追い詰められていた。追い詰められた人間が「そういった行為」に手を出すことは想像に難くない。……それを理解していながら見て見ぬふりをしていた。
     完成した彼の論文で使われているデータは、明らかにバデーニの導き出したものを参考に捏造されていた。
     仮に今回黙認したとしたら、彼はこの行為を繰り返すだろう。海外大で研究を続けるとしたら、いや、どこでだろうと研究に携わっていくならば、この行為は決して許されないことだ。
     だから、指摘した。
     ――わかった。この論文は書き直すよ。なんでこんなばかなことをしたんだろうな。ありがとう。バデーニ。
     彼はそう言って笑った。これで一件落着。すべて元通り。そうなるはずだった。
     数日後の研究室、刃物を持ち出した彼に襲われた。
     名前を呼ばれて振り返ると、彼の振り回した刃物が、顔の中心を切り裂いた。
     怯んだ隙に、彼が距離を縮める。後ずさった左足が机にぶつかり、机上の書類がバラバラと崩れた。大きさも形も異なる紙が舞い落ちるのが、スローモーションのように感じられた。
     彼の刃物が今度は口元を抉る。口の中に血の味が溢れる。その味と痛みで一瞬、脳が凍りついてしまった。動けなくなってしまった。彼が刃物を振り上げ、勢いよく下す。刃先が肩をザックリと裂き、冷たい、いや、熱い、鋭い感覚が傷口から全身に広がった。肩を庇うように身をよじったら、バランスを崩して床に倒れ込んでしまった。
     彼が馬乗りになる。刃物の切っ先が、蛍光灯を受けてギラリと輝いた。
     本能的な、恐怖を感じた。
     必死で腕を伸ばし、空気を切って振り下ろされた彼の手首を掴んだ。刃物の先は喉元まであと数センチといった場所にある。ググ……とほんの少し刃先が離れて安心したのも束の間、掴んでいる彼の腕に力が入る。
     殺される。
     さあっと背筋が冷たくなった。殺される。死ぬ。このままでは確実に死ぬ。身体がすくみ、悲鳴すら出ない。心臓ばかりが恐怖に暴れまわっている。
     ――チャンスなんだ。このチャンスを逃せば、ぼくは……! お前さえ、お前さえいなければこの論文は完璧だったのに!
     彼は怨嗟の声を上げる。ずっとお前が憎かった。劣等感を刺激された。その言葉はどろりとバデーニの胸に入り込んでくる。友人だと思っていたのは自分だけだったようだ。なんだか滑稽で、力が抜けた。
     喉の皮膚にチクリと刺激を感じて我に返り、死に物狂いで上半身をひねった。投げやりな気持ちが、現実の刺激と死の予感で消え去る。彼が体勢を崩す。
     そのとき、刃先が上を向いた。
     刃物を持った手のコントロールを奪い返そうと、彼が胸をそらせるようにして腕を引いた。その反動で刃物を突き立てるつもりだろう。なんとか逃れようともう一度もがいたとき、馬乗りになった彼の膝が、リノリウムの床にずるりと滑った。彼がバランスを失い、そらされていた胸が急接近する。
     ごぷり、と液体があふれ出す音がした。
     胸に熱く生臭い液体が広がるのを感じた。しかし、痛みはない。そうか、こういうときすぐには痛みを感じないのだっけ。何が起こったのかわからないまま、出血多量で意識が遠のくはずだ――けれども、いつまで経っても意識ははっきりとしている。
     細く、息を吐き出してみる。痛みはなくスムーズに呼吸ができた。しばらくそうして息を継いでいると、ふと、覆いかぶさっている彼の身体が、ぴくりとも動いていないのに気づいた。
     肩の上に伏せられた顔から、生きている者が発するサインは何一つ感じられなかった。
     そうか、上を向いていた刃先に彼の喉が――。
    「乗りますか?」
     正面から訊ねられてハッと我に返った。エレベーター内でボタンに手をかけたまま、中年の女性教員が首を傾げている。
    「ああ、はい。すみません」
     軽く頭を下げながらエレベーターに乗り込み、理学部のフロア――六階のボタンを押す。知らず知らずのうちに傷跡を引っかいていたようで、爪の先、わずかに血が付着していた。


     研究室にはまだ、立ち入り禁止のプラカードが掲げられていた。外から中を覗くと、休んでいる間に綺麗に片付けられたようで、事件など起こらなかったかのように以前と同じ状態に戻っていた。壁や書棚に飛び散った血も元通りだ。
     防犯カメラや、彼によって付けられた身体の傷、彼自身の死因となった傷の具合、そういったことを証拠に正当防衛が認められて不起訴になるまでにそうそう時間はかからなかった。傷は癒え、研究室は片付けられ、何事もなかったかのようにバデーニは研究に復帰する。それまでにかかった時間は一か月。たった一か月ですべてがなかったことになっている。彼の不在と、顔に残った傷以外はすべて。鼻の傷を触る。痛い――ような気がした。引っかいてしまったからだろうか。
     他のゼミのメンバーは、今は別の演習室を借りているらしい。事前に教えてもらっていた場所へ向かう一瞬、右手に奇妙な感覚があった。
     何かを強く掴んでいる感覚。その感覚は、拳を作って、開く、その一動作の後に消えてしまった。


     一か月も休んでいた分を取り戻すように研究に打ち込んだ。寝食を忘れて何かに没頭するのは久々だった。大学に泊まり込み、ひたすらに数字と現象に向き合った。
     ゼミのメンバーが事件のことに触れてくることはほとんどなかった。ただ、バデーニを気にかける声は多かった。寝てる? 食べてる? 不安なことはない? その全てにおざなりな返事を返していたら、次第に声をかけられる回数も減った。
     デスクライトのまばゆい光が、光量調整機能のついたメガネのレンズに吸収される。暗い演習室の一角で、シミュレーターを動かしながらエナジードリンクをくっと呷った。いくつかの値を調整し直してみたら、面白いくらいに計算と同じ結果が得られた。クク、と笑いがもれる。仮説と結果がピタリとはまる瞬間は、いつだって言いようのない高揚をもたらしてくれる。
     この進捗だったら十二月の学会には十分間に合いそうである。論文としての体裁を整えて、新たな視点も付け足そうか。ちょうどシミュレーション中に面白い数値が得られたのだった。
     考えを巡らせていると、エナジードリンクの瓶を掴んでいた右手が、突然不随意に痙攣した。ああ、またか、と思う。
     こうして夜遅くまで研究していると時おり、右手に奇妙な感覚が生じるのだ。力一杯何かを掴んでいる感覚。腕全体に力を込めて、すごい力でこちらに向かってくるものを押しとどめようとしているかのような感覚。
     寝不足のせいだ。それか、栄養不良。疲労のせいかもしれない。
     少し休もうとコンピュータをシャットダウンしたとき、唐突に、身体を取り巻く空気の温度が上昇した。
     驚いて顔を上げる。まるで、この部屋の空気だけ夏場のものと入れ替えられたかのようだった。今は秋の中頃。吹き込む風も冷たくなってくる頃だというのに、一体なぜ。
     冷たい汗がこめかみを伝う。
     ハッと息をのんだ、次の瞬間、
     夏が、あの夏の日が圧倒的な質量で迫ってきていた。逃れる間もなく、『あの日』に取り込まれていた。
     ──床に転がり、彼の手を掴んでいた。今まさに振り下ろされそうになっている刃物を必死で抑えている。彼は底の見えない瞳でバデーニを見下ろし、荒く息を吐いていた。
     彼は死んだはずだ。これは幻覚だ。そう思うのに、目の前で起こる『あの日』の再生は止まらない。この先に何が起こるのか知っている。だから、止めなければいけないのに。
     身体をよじると、彼がバランスを崩した。制御されない身体が前のめりに倒れ、上を向いた切っ先に彼の喉元が食い込んで――。
     自分自身の叫びで現実に戻ってきた。気づけばイスから転がり落ちており、冷たい床に仰向けに倒れ込んでいた。冷や汗が背中をぐっしょりと濡らしている。それだけでなく、ズボンの裾が濡れていた。何かと思えばエナジードリンクの瓶が机から落ちて割れてしまったようで、少量残っていた薄褐色の液体が床に広がっていた。
     ちらりと横目で確認した、壁にかかったカレンダーは十月を示している。七月ではない。……夏ではない。そう言い聞かせながら、胎児のように身体を丸めた。今は十月。もう夏ではないし、『あの日』は過ぎ去った。そう思うのに、いつまで経っても身体の震えは止まらなかった。
     ――何がいけなかったのだろう。研究不正を指摘したことだろうか。それでは、見て見ぬふりをすればよかったのだろうか。あるいは、彼が追い詰められていることを知りながら何もフォローしなかったことがだめだったのかもしれない。ずっと近くにいたのに、彼の変化を見逃してしまった。
     なんにせよ、彼は死に、バデーニは生きている。
     ふと、右手に別の感覚が生じた。何かを掴んでいる感覚。男の手首ではなく、もっと小さくやらわかなものを掴んでいる。
     頭の隅にあるこの感覚の正体を知りたくて視線をさまよわせると、窓の外で、痩せぎすな月が輝き始めていた。
     右手の感覚が鮮明になる。やわらかであたたかな、子どもの手のひら。夏の夜に出会った不思議な子どもの手。
     オクジー君。
     口の中で名前を呼んでみる。飴玉のようにその響きを舌で転がしたとき、身体の震えがぴたりと止まった。
     目を閉じて、右手を額に押し当てる。祈る病人の姿勢で、静かに息を継ぐ。
     
    4→5
     ポーンと電子音がして、前面にあるモニタに三桁の受付番号が表示される。三七七。手元の案内に載っている番号は三八五。薬を受け取るのはまだまだ先のようだ。
     二か月前、研究室で倒れた。原因を上げればきりがない。寝不足、頭痛、胃のむかつき、めまい。けれどそれらはすべて、一つのきっかけから発生していた。
     PTSDによる事件のフラッシュバックである。
     フラッシュバックが起こり始めたのは四年前――事件があった年の十月だった。以降、昼だろうと夜だろうと、風呂の中だろうとプレゼンの最中だろうと、『あの日』が現実を浸食するようになった。特に最悪なのが、『あの日』の夢を見ることだ。起きているときのものよりやけに鮮明で、匂いも、感触もまるで『あの日』に飛ばされてしまったかのように生々しい。覚醒してもその感覚は身体中に張り付いていて、たまに自分を見失ってしまう。
     だから、寝ないようにしていた。寝れないのでなく、寝ないのだ。
     研究室で倒れた際に介抱してくれた同級生から、病院の受診を勧められた。初めは行くつもりがなかったが、教授にも諭され、しぶしぶ大学近くの総合病院にかかった。
     医者とカウンセラーの話に適当に相槌を打っている間に、この忌々しい頭の不調に名前が付いたようで、一枚の処方箋を渡された。それで終わりだ。呆気ないものである。これなら、わざわざ時間を取ってまで病院に行く必要などなかった。周りが大げさなのだ。
     処方箋をじとりと睨む。四種類の内服薬の名前が、奇怪な呪文のように並んでいた。
     

     初めて医者に掛かって一年が経った。症状は改善されるどころか悪化している。
     研究室に入れなくなった。
     この言い方には語弊がある。入れはする。ただ、研究室の扉を一歩でもくぐった瞬間、強烈な吐き気とめまいに襲われるのだ。まるで、呪いのかけられた境界を跨いでしまったかのように。
     教授からはただ一言、少し休めと言われただけだった。
     実質無期限の研究室立ち入り禁止を言い渡され、バデーニは時間を持て余していた。あまり良くない状況だ。『あの日』が入り込む隙を与えているのと同じなのだから。
     ガタン、ガタンと電車が揺れる。大学近くのアパートから町の家──祖父が昔に購入した別荘──に帰ってきて、することもなく暇で暇でしょうがなかったので、隣町の大型書店へ足を運んだのだが、駅に降り立った瞬間気分が悪くなりとんぼ返りだ。余計なことを考えないように、車内広告の文字を読むのに全神経を集中させる。それでも、ドアの隙間から滑り込んでくる生ぬるい風が『あの日』を想起させて、何度も電車を降りてしまっていた。
     肺の中の空気を慎重に吐き出し、窓に貼られた広告シールを眺める。サングラスで視界が悪い。金属に反射する光で彼の持っていた刃物を思い出してしまうので、外へ出るときはサングラスを着用するようになった。薄暗くなった視界、窓ガラスに映った自分の姿はまるで死人のようだった。
     いつまでこんなものに苛まれないといけないのだろう。まるで、頭の中に彼が住み着いて映写機を回し続けているみたいな日々だ。出て行ってくれと言ったって、彼は出て行かないだろう。なぜだろう。不正を指摘したから? それならお前が悪いじゃないか。何度だって問いかけたけれど、頭の中の彼は何も語らない。どろりと濁った瞳でこちらを見て、刃物を振り回すだけだ。
     何か、時間を忘れて集中できることがほしい。何だっていい。ただ、『あの日』の入り込む隙が無いくらいにこの頭を満たしてほしかった。
     電車の揺れが、少しずつ小さくなる。町の駅名が車掌によって読み上げられ、ぷしゅ、と気の抜けた音がしてドアが開いた。途端に肌の上に夏の湿度がまとわりつく。ぞわりと肌が粟立ち、彼の幻が背後から忍び寄ってきた。
     転げ落ちるように電車から降り、ホームの端でしゃがみこんだ。人の足音が頭の中に反響して、胃がねじ切れそうに痛んだ。夕日がアスファルトに混じったガラス片に反射し、あちこちがきらきらと光っている。ぎゅっと目を閉じて、刃先のぎらつきを忘れようとした。バクバクと何かから逃げるように心臓が拍動している。
     右手を握って、開く。強張った手首でなく、あたたかな子どもの手のひらを想像する。
     時おり、あの子どもの手の感触を思い出した。怯えながら、バデーニの手をぎゅっと掴んだ小さな手のやわらかさ。それを思い出す一瞬だけ、『あの日』の呪縛から解放されるような気がしたのだ。
     あの子の丸い頬や、よくしゃべる口、
     夜空とそっくりな、きらきら輝く大きな黒い瞳、
     手のぬくもり、
     優しげな声。
     そういったものに全神経を集中させる。これ以上ひどくなるようだったら薬を飲んだ方がいいかもしれないが、なるべく避けたい。気分が落ち着く代わりに眠くなる。寝てしまえば昼間のフラッシュバックより鮮明な夢を見てしまうので本末転倒だ。
     うずくまって深呼吸を繰り返していると、次第に激しい動悸が収まってくる。うっすら目を開けると客はあらかた降車した後のようで、最後尾車両付近のホームがガラリとしていた。
     と、黄色いブロックの近くに、何やらカードが落ちているのを見つけた。鉛のような身体を何とか動かして拾うと定期券のようだ。あの人込みで落としてしまったのだろう。この駅で降車する人間のものなら、改札を出られずに戻ってくるだろうから、ホームの端の方に置いておくのが吉だろうか。
     何気なく定期券の名前を確認したとき、信じられないくらいに胸が震えた。
     ――オクジー。
     オクジーと、そう書いてあった。サングラスを持ち上げてみても、目を擦ってみてもその名前は変わらない。オクジー。オクジーと記名してある。
     あの子どもの名前だった。
     運命だと、強く感じた。

    8→10
     博士課程を修了し、所属していた大学の非常勤講師の職に就いた。ただし、キャンパスは理学部のある方でなく、住んでいる町に近い、電子工学部や社会学部がある方だ。正直、ありがたかった。研究室に入るとおこるめまいや吐き気は続いていたし、フラッシュバックもひどくなっていた。よくもまあこんな状態で論文審査をパスできたものだと、自分でも呆れるような気分だ。
     あの子どもは、どうしているだろうか。三年前、ファミレスで期末考査の結果を聞いて、それっきりだ。
     あのときは、ままならない現実に立ちすくみ、すべてに絶望した目をしていた。そんな彼が再び前を向く力添えができていたならいい。あの子は笑っていた方がいい。
     バルコニーに出て空を見上げる。遠くの街の輪郭が薄暮に溶けている。小さな星がぽつぽつと赤紫の空に浮かび、やわらかな光を放っていた。冬の空だ。
     順調に進学できているなら、今ごろ高校三年生だろうか。進路はどうするのだろう。背は伸びただろうか。気になることは山ほどあったが、今のところ、バデーニの知ることはない。
     あの子は手紙を出すと言った。こちらからのコンタクトは避けている。それが誠意だと思ったからだ。
     けれど、たまに、どうしようもなく会いたくなる。
     ふと、後ろを振り返った。自室の扉の向こう、あの子がこちらを覗いているような気がした。


     ごくりと唾を飲み干し、エスカレーターのボタンを押す。後期のテスト期間がちょうど今日で終了だったようで、大学ロビーには解放感にすっきりとした表情の学生たちが行き交っている。
     理学部の入っているキャンパスに赴いたのは、どうしてもこちらに所蔵している書籍が必要になったからだ。古く、専門性の高いもので、行ける範囲の自治体の図書館にはなかったのだ。
     郵送で送ってもらう手もあった。だが、後期の授業準備で近日中に必要で、やむを得ずこうして出てきたわけだ。講師として働き始めてから二年が経つが、一年ごとに講義内容を改良しているせいか、いまだに教材のストックができない。
     エスカレーターのドアが開く。わらわらと学生が降り、空っぽになったそこへ乗り込んだ。
     ヴ――と低く唸りながら、エスカレーターが巻き上げられる。階が上がるごとに、鼓動が早くなっていくのを感じた。見えない手にぎゅっと掴まれて、逃げ出そうともがいているような鼓動だった。
     六階に着く。フロアへ出ると、下の階の化学系の実験室からだろうか、薬品のようなツンと鼻にくる匂いがした。
     廊下の奥へ進み、研究室のノブをひねる。最近、やっと事件のあった研究室に入っても平気に──ひどいめまいで倒れないくらいにはなった。
     身体全体で押し込むように扉を開ける。なんともないはずの扉が、ひどく重たく感じた。
     扉を開けた瞬間、ぶわりと風が頰を撫でた。
     研究室の奥、窓が開いていた。ブラインドが風に持ち上がり、床にいびつな縞模様を作っている。カレンダーがバサバサと揺れ、次の月のページが見え隠れしていた。来月、再来月、その先。カレンダーは時間がまっすぐに進んでいくことを示している。
     胃の底から苦い気持ちがこみ上げてきた。喉が締まり、涙が出るほんの少し手前のように目の奥がぎゅうっと痛む。表現のしようのない苦しさが身体の内側を圧迫して、決壊寸前だった。
     だというのに、涙は出なかった。
     理由はわからなかった。


     大学を出るころには分厚い雲が空全体を覆っていた。夜から明日明け方にかけて大雨になると天気予報で見たのを思い出す。
     家に戻ると、古ぼけた郵便ポストに一通の紙が挟まっていた。投入口がばかになっていて開かないから挟み込むしかなかったのだろう。
     一体誰だろう。今どき手紙なんてクラシックな方法を取りそうな人物は、バデーニの交友関係にはいない。
     ――いや、一人だけ存在する。
     もしや、と思う。たった一人、バデーニに手紙を出すと言った人物がいる。
     どくん、と心臓が強く拍動した。まるで歌曲の一音目のように、強く、予感を秘めて。
     手に持った封筒の、宛名のところへ一すじの光が差し込んだ。
     身体が震えた。呼吸が上ずり、胸の奥が熱い気持ちでいっぱいになる。
     オクジーと、
     オクジーと、書いてある。
     ぽたり、と雨の一しずく目が手に当たる。ぽたり、ぽたり、様子を確かめるように数粒の雨粒が空から転がり落ちてきた。そういえば雨が降るのだっけ。それでは、先ほどの光は幻覚だろうか。ついに頭がおかしくなったかと自嘲したが、あるはずのないものが見えるのはいつも通りだと気づく。
     まぼろしだろうか。いいや、違う。そのとき本当に、光が差したのだ。
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