がしゃん、ぱりん、どっかん。
普通の人であれば驚いて振り向くような音が部屋の端の方で鳴り響いているけど、オレにとっては聞き慣れた音なので放置する。
それらの音をたてている本人が困ったと感じたら声をかけてくるはずだから。
音がする方とは反対側、窓寄りの明るい方にあるダイニングテーブルを綺麗に片付ける。
今朝食べてそのままにされていたスープの器は既にカラカラに乾ききっていた。もう少し早く気がつけば洗いやすかったのに、と後悔したけれど時すでにおそし。
台所に運んで水を張った桶につけてしばらく放置すれば柔らかくなって洗いやすくなるだろう。その間に洗濯をしてしまおうか。確か昨日薬品が吹きこぼれて服が汚れたとか言っていたような。
その服はどこだっけ、と思ってまた暗がりの方を見つめると変な色の煙が立ち上るのが見えた。
「先生、昨日の服はどこですか」
「……」
多分聞こえていない。
この家の主である錬金術師は高名だが、一方で偏屈なことでも有名だった。
会話という、人間にとって最も基本的な意思疎通手段。
この人はそれを使うことを好まないし、そもそも誰かと関わろうともしなかった。
街へ食べ物を調達しにいったり、逆にこちらに尋ねてきた人間の対応をするのはいつもオレだ。
オレはこの人のことを尊敬しているし大好きだからそうやって他の誰かとの間に挟まるこの生活のことを好ましく思っているけど、それでもこうして意思疎通をしたい時に返事がかえってこないのはとても困る。
仕方ないか、とため息をついて何の欠片かもわからない物質が散乱した床の上に足をふみいれる。
パキッという音がしたから靴で何か踏んだのかも。箒をもってきて足元を掃きながら近づくべきだったと思ったけれどオレも大概面倒くさがりなのでそのままパキポキペキと音を鳴らしながら彼の背後に近寄った。
他人に興味がないことと気配に気づかないことは全くの別物で、後者がないのは危機意識に欠けてると言う他ないと思うけれど今更それを指摘したってこの人は変わらない。
適当に纏められた髪がゆらゆらと揺れる背中に近づいて、そのまま耳元に顔を寄せると彼の手元が見える。
どうやら今は机の上におかれたシャーレの中に垂らした液体がどうなるかを観察しているだけみたいだ。ならば今のうち。
すぅ、と息を吸って、耳元でだすにはいささか大きな声でもう一度彼のことを呼んだ。
「せ・ん・せ・い!!!!」
「!」
オレが同じことをされたら体を思いきり跳ねさせる自信があるのに、この人は少しだけ肩を震わせてからこちらを振り向いた。
眼鏡が少しだけずりおちてるからちょっとはびっくりしたのかも。
だけど自ら口を開くことはせずに、丸い目で何の用だと問いかけてきた。
「昨日汚したって言っていた服、どこに置いたんですか」
「ああ……あっちに…」
あっち、と指さされた所には山があった。
「あそこにはソファがあったはずですけど」
「そうだった気がする」
「この前掃除したんですけど」
「…………」
するりと目を逸らされた。
「オレ、洗濯物はカゴにいれてくださいっていつも言ってますよね」
「……うん。でもカゴはいっぱいになってて……」
「入りきらないほどの量を汚したのならすぐに呼んでください。オレはその為にいるんですから」
「……でも君にだってやることはあるだろう?」
「オレは貴方の身の回りのお世話がしたくてここにいるんです。オレのやることは部屋の掃除をしたり洗濯をしたり貴方にご飯を食べさせたりすること。だからこういう時は呼んでいいんです。わかりましたか?」
「わかった……」
普段ほとんど動かない眉毛がほんの少しだけ下がったからこの人にしては珍しく反省をしているのかもしれない。
子犬のような、というには育ちすぎている気もするけれど、とりあえずそんな風に庇護欲をかきたてる表情をするのはやめてほしい。うっかり許してしまいそうになる。
「じゃあカゴのやつと、ソファの上のやつ。ぜーーーんぶ洗っちゃいますからね。持っていったらダメなやつは紛れてないですよね?」
「たぶん……」
「多分!?」
「……………………えっと、昨日からメモが一枚見当たらなくて」
「…………」
「研究の途中経過をメモしたやつで……それがなくなると……ちょっと、困る」
「なんでなくした時に言わないんですか!?」
「君も忙しそうで……」
「掃除してる時に捨ててたらまずいやつじゃないですか!言ってくれれば探したのに!」
「すまない……」
「電気つけますよ!?」
「ああ……うん……」
壁に備え付けられているスイッチをはねあげると部屋の惨状がより鮮明に見える。
足元は散々踏みつぶした破片でキラキラと輝き、よくわからない色の粉で彩られていた。
「床の上には……ない」
「うん……」
「オレはソファのほう見るんで!先生は机の引き出しとか足元を見てください!」
「うん……」
先生がゆっくりとした動きで机上の本をぺらりと捲っては戻してをやり始める。それを確認した後にオレは布の山のほうに向き直った。
昨日一日でどれだけ汚したんだろう。一昨日の夜には一旦片したはずで、昨晩は珍しくよく動き回っていたから邪魔をしたら悪いかなと思って近寄らないでいた。
メモをなくしたと知っていれば近づいたのに。
過ぎたことはもう仕方がないので別のところから持ってきた大きなカゴに洗濯物を一枚ずつ移動させながら間に紙が挟まっていないかを確認する。
一枚捲って、ない。もう一枚捲ってもない。
ない。ない。ない。ない。ない。ない。
山は少しずつ削られて、ソファの座面が見えはじめる。
もしかしたらここにはないんじゃないか?
次はどこを探したらいいんだろう。ソファの下?
そんな風に考えを巡らせながら確認していると実験机の方からぽつりとした声が聞こえた。
「……あ、」
「ありましたか!?」
「……うん………」
どことなくバツの悪そうな顔をしているのは気のせいだろうか。
おねしょをしてしまった子供がシーツを隠すような、そんな顔をしながら指をしきりに動かしている。
「どこにあったんですか?」
「…………怒らない?」
「怒られるようなとこにあったんですか?」
「…………」
「怒りませんから、今後の対策の為に教えてください」
「…………………………ポケットの中」
「……えっ」
「僕の今着ている……この上着のポケットの中に……」
「………………見つかったから、いいんです」
「うん……」
「メモ書きは机の上の箱にいれるとか、壁に貼るとか。今やっていることに関するものなら目につくところに置いておきましょう。その実験が終わったあとは引き出しの中にしまいましょう。いいですね?」
「…………努力するよ……」
実験をしている時にはきらきらと輝いている目が反省に染まり、しゅんとした様子でこちらをみあげてくる。
オレがそういう目線に弱いのをわかってやっているのかな、と思ったけどこの人はそういう心理的な駆け引きはできないタイプだ。
「今着ている服も洗ってしまいたいんで気分転換を兼ねてお風呂に入りませんか。どうせ昨晩寝ないでずっとここにいたんですよね」
「よくわかるね」
「そりゃ、オレは貴方とずっと一緒にいるんですから」
「ふふ……じゃあ入ろうかな」
「ええ、入ってください。その間に洗っておくので」
「……君は一緒に入らないのかい?」
「入った方がいいんですか?」
「溺れちゃうかも」
「そんな馬鹿な。でもいいですよ、一緒に入りましょう。徹底的に綺麗にしてあげます」
「やった」
にこりと微笑んだその表情にはめんどくさいことをしなくてすむ、とかかれていてどうやら最初からオレに洗われるつもりだったらしい。
洗濯も食事もお風呂も睡眠も、何もかも面倒をみてあげないと人としての生活が成り立たない変な錬金術師。
完全にダメ人間と称していい生き物だけれど、その一方でオレが世界一尊敬していて大好きな人だ。
だから今日も明日も、この先もずっとこの人の面倒をみていきたい。
そう思いながら椅子に座ったままのその人に手を差し出すとあたたかな温度で握り返された。