あなたが欲しい(んじんしょ)浅からぬ想いを抱いていると告げた。
僕も同じだ、と答えをもらった。
——そこから先に変化を求めようと、求めたいと、考えたことがなかったのだ。
そもそもが想いを告げたことだって、胸の内の心を収めていた器の許容量を超えて、あふれ出すように言ってしまったことだった。だから、雲次から同じ気持ちであると答えをもらったことさえ思いがけないことで、ただ、それが存外にも、心地よいことだった。
そうやって気持ちを互いに明かしたあと、雲次は少し赤らんだ頬ではにかみながら、抱きしめていいかな、と律儀に尋ねた上で私に腕を巻きつけた。きっと同じくらいの体温なのだろうけれど包むように抱き込められれば温かくて、求めるように力を込められたことに、くわりと胸の内がそわつく気配がした。
……欲しい、と思った。この男のすべてが欲しい、と。
だけれど欲しがりかたが分からずに、せめて、彼にそうされたことを返すように広い背に腕を回せば、耳朶をくすぐるように嬉しそうな声が響いた。髪の間から香る瑞々しい甘さが胸に染み入るように広がって、心拍を加速させた。腕の中の雲次が、すごくドキドキしてるよ、と肩を笑みに揺らした。
それが堪らなくて、また閉じ込めたがるように力を込めてしまって、それでも雲次は同じように、ぎゅうと腕が解けないように抱き込んで返してくれた。
——欲しいも何も、今の我々は主の物だ。それでも彼の心は私に向いているのだと知ったというのに、これ以上彼の何を求めるというのだろう。
それでも、欲しいと思う心は止まらずに、そう思うばかりに雲次にずっと視線を送り続けていた。とはいえ不躾に見つめられ続ければ、見張られているようで気分の良いものではないだろうとは理解している。だから多少自制はしていたつもりだが、それでもやはり、ふとした瞬間につい、視線をその姿へと向けてしまう。
そうやっていたのだから、そうなってしまったのも必然だと言えば、必然なのだろう。
ふたつ並べた蒲団の上、もうあとは蒲団に入るだけとなって、何とはなしにクセのように視線投げかけた先。枕へ顎を乗せ、寝そべったまま本をへと向けられていたはずの青い双眸から注がれるそれと、ばちり、絡み合ってしまった。
ついさきほどまで、本へ真っ直ぐに意識を向けていたはずだった。だからフイと逸らして仕舞えば、たまたまほんの一瞬目があっただけだと誤魔化されてくれるかと思ったのに、落とそうとした視線を遮るように、彼の手が伸びてくる。その傍らで、文庫本は役目を終えたとばかりにその口を閉ざされていた。
寝そべった身を捻るようにしながら伸ばされた手に、くん、と顎を引っ掴まれて、逃がそうとした視線を留められる。
閉じた口角をきゅうと持ち上げて笑う顔に、何も言ってなどいないのに、「つかまえた」と言われたような気がした。ならば彼が読んでいた本は、囮だったのかもしれない。彼の策に易々と嵌められて、罠に掛かった愚かな獲物になってしまった。
……などと考えを巡らせる間も、彼は何も言わぬまま顎を掴んで、視線だけを私に注ぎ続けている。
ただ見つめ続けられるというのは、少し、据わりが悪い。雲次だからこそ嫌な気持ちにはならずとも、まるで穴でも開けるように見つめられると、落ち着いていられるわけもなかった。
私も同じことをしているのだろうと咎められれば、その通りなのだけれど。
「……あの、何か」
結局、無言のまま向けられる視線に耐えきれずに口を開けば、雲次はその手をそっと外して、逃げる気もない獲物を自由にする。ただ柔く力を込められていただけだというのに、その体温を追うように彼の右手を、見つめてしまう。
雲次はそれに気がついたのか、ふ、と吐息だけで淡く笑って、私の前に胡座で座り直してから、ひたりと私の左頬にその手指を触れさせた。先ほどよりも触れる面積の広い体温が、じわりじわりと肌に沁みるほど、胸の奥が浮つくような高揚を覚えてしまう。
「君はよく僕のことをじっと見つめているから、どんな気持ちで見ているんだろう、って思ってね」
「それは……」
歌うように楽しげな声で告げられることは当然身に覚えのあることばかりで、居た堪れずにまた視線を落としそうになったけれど、彼の手はそれを許さない。逸らさないでと言いたげに、ぐ、と頬を持ち上げられれば、こちらを見つめる瞳は、甘やかな色に蕩けている。
「……ね、もっと見て、僕のこと」
そんなこと乞われなくとも、朝も、晩も、ずうっと見つめてばかりなのに。
欲しくて、ほしくて、そうして見つめ続けるうちに、私に取っての「欲しい」とは、「知りたい」なのだと気がついた。誰よりも知っていると言えるくらい、知らないところがないくらい、雲次の全てを知りたい、と。
だけれど幾度も手を伸ばしそうになっては、はしたないと、そう思って引っ込めてきた。……というのに、あなたという刀は易々とそれを超えてくるのだから。
「聞かせてよ、どうしてそんなに、僕のことを見つめるのか」
甘えるように首を傾げ、教えて、と柔らかな音が耳をくすぐる。それは問うているようで、ただ、既に分かりきった答えを引き出そうしているだけだった。
私はきっと、それほどまでに、物欲しげに見つめているのだろう。だってそれは、朝焼け色の双眸も、同じだからだ。
「……ただ、……あなたが欲しくて、たまらなくて、」
何と伝えれば、などとたじろいだのも僅かな間、雲次の前で飾った言葉など通用するはずもなく、ただずっと私の中にあった気持ちを言葉にすれば、蒼い瞳は『知っている』と言いたげに、ぜんぶ見透かしたように、笑っていた。
その視線の温度に、ああ、そうか、と漸く知った。欲しがっても、知りたがっても、彼は全て許してくれるのだ。それが許される距離に、私は置いてもらえているのだ。
そう気がついたときから、やけに触れられた手のひらがあつかった。陽光のような彼の視線の下、渇きを覚えて仕方がなかった。
だから、触れても、と問えば、僕はもう触れてるのに、と淡く笑う。
それもそうかと触れようとして、けれどいざ触れていいと言われると、どこから触れれば良いのか分からない。
短い逡巡の間を挟んで、同じように頬を挟むように両手で触れれば、雲次は己を捕える手のひらに懐くように頬を擦り寄せる。許しを得たような気持ちになって、その手をするりと滑らせても、雲次はじっと私を見つめ返すまま、されるがままにその手の中に収まっていてくれる。
頬から、艶やかな髪を指で梳くと、私と違って真っ直ぐに伸びた白は絡まりなく指からこぼれてしまう。それから僅かにじわりと赤らみだした耳朶には、私にはない孔が幾つかあった。
それから陽の下にはほとんど晒されない頸を両手で作った輪の中に収めようとしたことには、流石に少し驚いたのか手の中のそれはひくりと跳ねた。
「斬りたい?」
首は急所だ。雲次がたじろぐのも無理はない。指の下で蠢く太い血管だとか、呼吸のたびに収縮する喉笛だとか、そういうものを手の内に収めて、『そんな気持ち』がひとつも湧かない、とも言わない。
「……まさか」
「おや、意外だ」
それを分かった上で、私に全てを委ねるように無抵抗で収まってくれているのだと知ってしまえば、当然、それに伴って湧き起こる昂奮は、人の身の昂奮だ。つまりは軽い口調の問いかけに短く返したのは、そのせいで幾らか呼吸が浅い自覚があったからだった。
これ以上、そんなふうに見つめられるまま、許されるままに触れていては、心臓が弾けてしまいそうだった。身体の内側に火をつけられたみたいに、心臓が拍動のたびに熱を送り出すみたいに、暑くてたまらない。手のひらまで酷く熱ばんで、じっとりと湿っているのは、これだけぺたぺた触れていたのだから当然気付いていただろう。
これ以上はダメだ、と触れた肌から手を引こうとして、けれどがしりと手首を掴む熱い手のひらが、それを許さない。私と同じくらい熱く汗ばんだ手のひらが、私の手の指の先を導いていく。ふに、と人差し指の先が触れたほかの肌とはちがう、ひときわの柔らかさに、ど、っとただでさえ早い鼓動が一拍飛ばしに跳ねた。
「ここは、いいんだ?」
言葉と一緒に零れ落ちる熱い吐息が、私の指の先を濡らす。薄い膚を透かして淡く血の色に色づく、唇。話すたびにちらりと覗く、もっと濃い、粘膜の色。
少し力を込めれば呆気なく形を変えて、そのくせふわふわと弾力のある感触が、指に触れている。耳から拍動の音が溢れてしまいそうなほど、ごうごうと煩く鳴っていた。
「話すときも、食事のときも、何をしていなくても。君はずっと物欲しそうに、ここを見ていたよね」
楽しげに色を孕ませた声は、鼻のすぐ先を擽るほどの距離で落とされる。ふたりぶんの吐息が絡まりそうな距離で、私の指先は薄い唇に触れさせられたまま、雲次の指先が私の唇の輪郭を確かめるようにゆるりとなぞる。触れるか触れないかの淡い触れ合いに、その先の期待ばかりさせるから、じわりと脳髄にまで熱が届く心地だ。
「もっと、欲しがってよ」
ちら、と覗いたふたつぶの朝の色は、相も変わらず楽しげに、その色にまるで正反対の夜の熱をジワリと滲ませて、見つめている。
これはきっと私だけが知る色だと、そう知ってなお、堪えられようものか。欲しい、とその一色に染まった思考が許されてしまえば、もう。
引き寄せ合うように僅かな距離を縮め、ふたつが触れ合うほんの直前、知らない悦楽に怯えてぎゅうを目を瞑った私を、かわいい、とあなたは笑っていた。