「大人になったらやってみたかったことがあります」限界だ。
山のような仕事に囲まれたまま、シャリア・ブルは天を仰いだ。腰掛けた椅子の背もたれがギシリと鳴る。それを無視して、部屋の中をぐるりと見渡した。
「……ああそうか、昼に出したんですっけ…」
コモリとエグザベに昼休憩を取るようにと言って半ば強引に外へ出したことを思い出す。時計を見ればそろそろ十四時になりそうな頃合いで、ひとりになってから一時間弱が経過していた。完全に集中力が切れてしまったシャリアはとりあえず握っていたペンを机に転がし、すっかり冷え切っているコーヒーに手をのばす。
「うーん……」
引き出しを漁ると高カカオチョコレートが出て来た。それを口に放り込みながら他に何かないかと探してみると、りんごが描かれたパッケージの飴玉を見つけた。
「そういえば」
それを眺めているうちに先日見掛けたある記事を思い出す。ディスプレイに広がった資料を一旦すべてしまってから、そのネットニュースを開いた。
「……いいですね、これ」
そうと決まれば。この時のシャリアは疲労によって正常な判断が出来ていなかった。それを察して止める部下二人も席を外しており、なんなら二人も今のシャリアとたいして変わらない。
そんなこんなで、お金のちからを使い、シャリアは目的のものを即日配送で自宅近くの受取ロッカーへと手配した。
「楽しみですね」
自然と笑みがこぼれる。それから少しして、まずエグザベが戻って来た。シャリアの分の食事も調達して来てくれたようで、サンドイッチが詰まったプラスチックケースと冷えたドリンクボトルが目の前に置かれる。
「お気遣い、ありがとうございました。良ければ召し上がってください。…あ、毒味をしましょうか?」
「いえ、結構ですよ。ありがとうございます」
付属のおしぼりで手を拭き、いただきます、とそれを口に運ぶ。新鮮なトマトとレタス、それからベーコンがふんだんに挟まれたサンドイッチは空腹をどんどんと満たしていく。食事をとり始めたシャリアを見て、自席に戻ろうとしたエグザベを呼び止める。
「エグザベくん」
「中……、シャリアさん、どうかしました?」
咄嗟にエグザベが呼び方を変えた。プライベートな用件であると判断したからである。
「今夜、空いてますか?」
「今夜ですか?まあ、はい。あれが全部終われば、ですが…」
苦笑いを浮かべたエグザベの視線の先。その机の上にもそれなりの量の書類が散らばっている。
「では、お互い無事に終われたら家に来てくれますか?」
珍しいな。素直にそう思いながらエグザベは肯定を返した。
「こんばんは、お疲れさまです」
「はい、お疲れさまです。どうぞ」
「おじゃまします」
シャリアに促されてエグザベが室内に足を踏み入れる。何度訪問してもなかなか慣れないな、と思ったのも束の間、キッチンの方から漂ってきたのは空腹を刺激するような香ばしい匂い。
「シャリアさん、この匂いは」
「ああ、もうすぐ出来ますよ。そうだ。エグザベくんは浴衣を一人で着ることは出来ますか?」
「浴衣?」
高級感あふれるソファの上に置かれた、透明な袋に包まれたもの。それはオレンジ色をメインにしたチェックの布だった。
「昔着たことがあるので、おそらく大丈夫かと」
「それなら良かった。先にお風呂を済ませてそれに着替えてきてください。後もう少しでこちらの準備も終わりますので」
言いたいことを言うだけ言って、シャリアはキッチンの方へと引っ込んでいった。残されたのはエグザベとシャリアに押し付けられた袋のみ。文脈からするとおそらくこれは浴衣なのだろう。かさり、と乾いた音をさせるそれを抱え直す。
「……とりあえず、お風呂に入ろう」
シャワーを終えた後、エグザベは四苦八苦しながらも浴衣の着付けを終えた。洗面台の鏡で襟元を確認する。よし、縒れてない。浴室を出ると、同じく浴衣に着替えたシャリアがエグザベを待っていた。
「シャリアさん」
「ああ、エグザベくん。無事に着られたようですね。何よりです。似合っていますね」
「シャリアさんもよくお似合いです」
こちらへ、と手を引かれる。向かったのはいつものダイニングテーブルではなくソファ。ローテーブルには焼きそば、フランクフルト、タコヤキ、唐揚げ、じゃがバターが並んでいた。
「うわあ…!」
「ふふ。張り切り過ぎてしまいましたかね」
「美味しそうです!」
目を輝かせるエグザベにシャリアが微笑む。次に手渡されたのはよく冷えた瓶のラムネだった。エグザベも随分と幼い頃に数回飲んだ記憶がある。
「懐かしいなあ。ビー玉が取れないって泣いて困らせて、取ってもらったんだっけ」
「貴方にもそんな時期があったんですね」
ソファに横並びで座った。シャリアの手にも同じ瓶が収まっている。ぷしゅり、と音を立ててビー玉を落とし、軽くぶつけ合って口をつけた。しゅわしゅわとした感覚と甘ったるさを感じる味。それから、ころころ転がるビー玉が目に楽しい。
次にエグザベはシャリアから割り箸を受け取り、紙皿へと取り分けていく。とはいえ、じゃがバターと唐揚げは既に紙カップに入れられているし、取り分けるものといえば焼きそばとタコヤキくらいだった。適当に盛り付けたそれを口に運ぶ。広がるソースの味がちょうどいい。少し焦げた野菜類も良いアクセントだった。夢中になって食べていると、隣のシャリアからの視線に気が付く。
「んぐ、…す、すみません、ガッツいてしまって…」
「ああいえ、違うんです。美味しそうに食べるなと思いまして」
「実際、すごく美味しいですよ。一年前まで包丁の握り方も危うかったとは誰も思わないと思います」
エグザベの言葉にシャリアが苦笑いをこぼす。たしかに初めの頃はエグザベに「こわい、怖いです。なんでその持ち方で切ろうとするんですか?!」と事あるごとに止められていた。それが今ではここまで作れるようになったのである。
「まあ、それは良いとして。今日はもう一つ、やりたいことがありまして」
「やりたいこと、ですか?」
「はい」
そう言うとシャリアが部屋の明かりを消す。常夜灯すらついていない、完全な暗闇だった。シャリアが動く布擦れの音がして、二人の正面に何かがパッと映し出される。
ひゅるるるるる、………どぉん!
「これって…」
「花火の中継映像です。…とはいえ、もう二週間ほど前のものですが」
よく見ると、いつの間にか設置されていたプロジェクターから映像が投影されていた。細い音の後に、色とりどりの光が大きく花開く。コロニー育ちのエグザベにとって、花火というものは資料でしか見たことがなかった。
「こんなに大きくてきれいなんですね」
「はい。直接見ることは難しいですが、映像ならと思いまして」
皿と箸を置き、すっかり映像に目を奪われているエグザベの手にシャリアが己の手を重ねる。エグザベは驚いたように体を跳ねさせた後、手のひらの向きを変えて、応えるようにシャリアと指を絡めた。そこに言葉は必要なく、繋がった手
「……シャリアさん」
映像が終わり、部屋は再び暗闇に包まれた。目が慣れてきた頃、エグザベが口を開く。
「どうしていきなりこんなことを?」
今更、という気持ちもあったが、エグザベはどうしてもシャリアに聞いておきたかった。何を思って、こんなに手の掛かることを用意したのか。
「ずっと忘れていたんですがね。子供の頃、大人になったらお祭りに行ってみたいと思ってたんです。……あの頃は縁のない生活を送っていたので」
ぽつり、ぽつり、と少し悩むような言葉選びでシャリアが言葉を紡ぐ。シャリアの幼少期をエグザベは詳しく知らない。知っていることといえば、親族はおらず、施設で育ったということくらいだった。その境遇故に縁のない生活だったということが容易に結び付く。
「私の知っているお祭りとは少し趣向は違いますが…。まあ、大っぴらに歩くわけにもいきませんからね」
そう言ってシャリアが笑ったのが分かった。エグザベは何も言わず、シャリアの手をぎゅっと握る。握り返される手の強さが、すべてを見透かしているかのようだった。
「ねえ、エグザベくん。貴方はどうですか?」
「どうっていうのは…」
「大人になったらやってみたかったこと、ありませんか?」
やってみたかったこと、そう呟いてエグザベが考え込む。うーん。たっぷり悩んだ末、エグザベが口にしたのは。
「……夜中にコンビニに行って、カップラーメンとアイスを買って食べて、そのまま寝ちゃったり…とか…?」
「はは、それは良い。ぜひやりましょう」
「えっ 本気ですか?」
「もちろん。早速今日にでも、と言いたいところですが、楽しみを一日で消化してしまうのは面白くありませんからね。次の休暇のタイミングで、というのはいかがでしょうか?」
シャリアが随分と楽しそうだということは、エグザベの不得意とする感応でも十分に読み取れた。まるで鼻歌でも歌い出しそうなシャリアにエグザベも思わず笑ってしまう。
「ははっ あんた、そんなに浮かれなくても良いのに」
「愛しい恋人と楽しいことをする。これに勝る幸福はないでしょう?」
「…それもそうか」
暗闇の中で二人の笑い声が響く。
少しして、エグザベがシャリアの手からプロジェクターのリモコンを抜き取った。
「花火、他にもあるんでしょう?どうせならそれを見ながら食事をしましょうよ。ほら、早くしないと冷めちゃいます」
シャリアが花火の動画をセレクトしている間にエグザベはさっさと食事を再開していた。口いっぱいに料理を含んで、頬がまあるく膨らんでいる。
「おや、待っていてはくれないんですね」
「んっ …このソースの味にやみつきになってしまったので」
シャリアが作った焼きそばを片手に笑うエグザベ。何だか堪らない気持ちになって、思わずその唇に触れた。じんわりと広がるソース味。
唇を離して、「たしかに美味しいですね」と口にしたシャリアがエグザベに叱られるまで、あと。