五条家当主とかぐや姫の子孫の私の話「愛してたよ。最初から、ずっと」①私は、生まれて3カ月で将来の伴侶が決められた。
新生児だった私の両目に、かぐや姫の金の瞳が現れたからだ。
私は篁家において久方ぶりに出生した先祖返りであり、平安時代に月から降りて来た天上人・輝夜の魂を降ろすことが出来る器だった。
その私の存在をすぐに聞きつけて、こちらも生まれたばかりの跡取りの伴侶にしたいと申し出た家があった。
―――呪術界御三家が一角、五条家。
生まれたばかりの跡取りとは、五条悟。
400年ぶりに生まれた六眼を持つ赤ん坊。
私の人生は生まれて3か月で、彼の番として生きることを決められてしまった。死ぬ日さえも。
2018年12月24日。
これが私の死んだ日。
『愛してたよ。最初から、ずっと』 ①
「うーわダッセ。オマエの制服まじダサすぎんだろ」
おろしたての呪術高専の制服に身を包んだ篁あいを目の前にして、同じく高専の制服を着こんだ五条悟は、開口一番そう言い放った。
来週から呪術高専の新入生として入学する二人は、入学前に揃って写真を撮っておこうという悟の父親の一言のせいで、あいは東京・日本橋から遥々京都までやってきたのである。
そんなあいに対して、悟はいの一番・一言目にしてディスったのだ。
「そのスカート丈、まじダサいわ。しかもなにその白靴下。キモ」
あいの制服は、白ブラウスにひざ丈のワンピース、ボレロジャケットだった。白の靴下は、これまで通っていた女子校(小学校から高校まである一貫教育校だ)と同じ感覚で選んだものだ。ゆえにあいからしてみれば至って普通、逢った瞬間に文句を言われる筋合いはないというのに。とはいえ、ほぼ大半の女子高生と制服の着こなしが自分と180度違うことは自覚している。
「でも高専の制服、届いた時からこうだったよ? 皆これなんじゃないの?」
「んなの俺が知るわけないじゃん。制服自体、俺初めてだもん」
「それはそうだけど……さとちゃんのお父さんが私を呼んだから来たのに、そんなふうに言わなくても良いじゃない」
「あー、あとその『さとちゃん』、高専ではまじやめて。他の奴らに舐められたくないから」
「え、じゃあ、何て呼べばいいの?」
「ンなの自分で考えろよ」
3歳で顔を合わせてからずっと『さとちゃん』と呼んできたのに、突然そう言われてあいは困惑した。悟の急に突き放した物言いに、あいは戸惑いながら別の呼び方を考える。
悟、悟くん、五条くん……。
「……じゃあ、五条くんで良い?」
「おー…。あ~あまじでもう結婚相手が決まってるとか萎えるわ。ったく、勝手に決めやがって」
「またそういうこと言う。私に言ったってしょうがないでしょ」
「あ、それから、高専で俺たちのことぜってー誰にも言うなよ。めーわく」
「判ったわよ、もお……」
悟の口の悪さにはかなり慣れたものだが、やはりその度に傷ついたりして、あいは俯く。
(また始まった。そんなに私が嫌なら、早く自分から婚約破棄すれば良いのに。私からは出来ないんだから)
家の格では篁よりも五条のほうが上だ。
特に悟が生まれてからはそれが顕著で、禪院・加茂を引き離している。
篁から五条の当主に破談を申し出ることは出来ないが、悟はその権利を有していると言えた。
悟があいを嫌だと言えば、その主張はおそらく通るだろう。現当主の悟の父親は、全くもって鬼ではない。息子が違う女子が良いと言えば「ああそう」と一言で了承するはずだ。あいを悟の伴侶として据えたのはもちろん家の為、血脈を確固たるものにするため、ひいては呪術界のためであるが、息子の意志を捻じ曲げるような父親ではなかった。
「悟、そんなに私との結婚が嫌なら……」
と、あいが言いかけたところで、五条家の女中頭――通称(悟の)ばあや――が二人の前にやってきた。
屋敷の中庭の真ん中に敷かれた石畳を小走りで駆けてきて、首には一眼レフカメラを提げている。
悟の腰ぐらいしか身長がないばあやは、あいの姿を見るなり感激して、破顔した。
「まあまあ! なんて素敵な二人なんでしょう! あいお嬢様、とても良くお似合いですよ」
「ほんと? 良かった、ありがとう」
今日初めてこの制服姿を褒められて、あいはホッと胸を撫で下ろす。
「ホラッ、悟坊ちゃんも、あい様のこと褒めて!」
「ハァ~~~?? いや褒めねーし。それより早く写真撮って終わらそーぜ」
「まああ、照れちゃって! こんなに可愛らしいお嬢様掴まえて、何言ってんでしょ!」
「照れてねえよ!」
「ばあや、今日はおじさまはいらっしゃらないの?」
「ああ、ええ、ええ、そうなんですよ、ご当主は仕事で今朝早く出られました。ごめんなさい、わざわざ来て下さったのに」
「自分で呼び付けておきながら本人いねえとか、まじ何がしてえんだって話だよな」
「そう言わず。当主はお忙しい方なんです。坊ちゃんもいずれはそうなるんですからね。さあさ、坊ちゃん、そこに立って、あい様、坊ちゃんの横に並んでください。」
げぇ~と舌を出している悟の背中を押して、ばあやはあいと悟二人並べた。カメラレンズのカバーキャップを外し、得意げにカメラを構える。
「二人とも、もっと近づいて! なんなんですかその距離感、逆に変ですよ、ホラ坊ちゃん、あい様の肩を抱くぐらいしたらどうです!? そうです! はい、じゃあ笑って~」
ばあやはあれやこれや声大きく二人に指示して、ようやくシャッターを押した。凄まじい勢いでばあやが何枚も撮影した後、あいの肩から悟の手が退く。
あいは隣に立つ悟の顔を見上げて、そういえばいつから自分は悟を見上げるようになったんだろう、と考えた。
「あ? ンだよ」
「さとちゃん、いつから私の背抜いた? 覚えてる?」
「あ~……? 小学5年とか…?」
「違いますよ、ばあやはよぉく覚えてますからね、悟坊ちゃんがあい様を追い抜いたのは 中学上がってからです。小学生の頃はあい様のほうが大きかったです。坊ちゃんもよく話してたじゃないですか、あいより背が高くなりたいから牛乳いっぱい飲むんだって。だからばあやがカルシウム取れるようにおやつに小魚を出したら坊ちゃんこんなの食べたくないって駄々こねて「わ~~~~!!!! もうやめろ!!」
悟はそう叫びながら慌ててばあやの口元を手のひらで覆って、それから反射的にあいの顔を見た。
あいはきょとんとして、悟の顔を見返している。
「……さとちゃん、急に身長伸びたもんね」
「お、男の成長は、中学からなんだよ!」
「良かったね、3年間で30センチ近くも伸びたもんね。カルシウムいっぱい取ったおかげだね」
あいがそう言うと、悟は物言いたげに、かつ実に気まずそうに唇を噛み締めて、顔を少し赤らめながらあいをねめつけた。その様子を横目に、そういえば中1の夏休みに、悟が自慢げに身長が伸びたと言っていたのを思い出しながら、あいはばあやに視線を移す。
「ばあや、写真現像したら、私にも送ってくれる?」
「はい、勿論ですとも」
「ありがとう。――じゃあさとちゃん、私もう帰るから。おじさまによろしくね」
「あ? なんだよ、今日泊まってかねえの?」
今度は悟が目を丸くして、ポカンと口を開けたままそう言った。
もう夕方なので今から帰ると、東京の自宅に着く頃には結構遅い。
15の女子が一人でうろついて良い時間帯じゃないはずだ。
悟がそう思ったものの、あいは悟の返事を聞くより早く、中庭の石畳を歩き出した。
「それじゃあばあや、ごきげんよう。五条くんも」
「はいはい、ごきげんよう。あいお嬢様」
ばあやがニコニコと微笑みながらあいを見送るのを素通りして、悟はあいを追いかけた。
あいが五条家に来る際はいつも泊まり掛けだったので、てっきり今日もそうなるものだと悟は思い込んでいたのだ。
「おい、待てよ」
悟があいに追いつくと、その顔を覗き込んだ。が、あいと視線が絡み合わない。あいは止まることなく歩き続けていた。
「ンだよ、怒ってんの?」
「ふうん。私が怒ってるかもしれないっていう自覚はあるんだ?」
「は? ダセーってほんとのこと言っただけじゃん。それとも呼び方の方?」
「……さとちゃん、ずっと言おうと思ってたんだけど」
そう言ってようやく悟の顔を見たあいは立ち止まった。
真っ直ぐに悟を見つめている真剣な眼差しに、同じく立ち止まった悟は思わず無言になる。
「……私は、さとちゃんのそういうとこ、好きじゃない。もっと優しくしてほしい」
「あ? 俺、オマエに十分優しいけど」
「さとちゃんがそういう認識なら、私とは価値観が違うってことだよ。……いつも私のこと馬鹿にして、なのに他の女の子には優しくしてて。どうして私には優しくしてくれないの? どうしていつも私を怒らせるの……?」
段々小声になって俯いたあいの両目が潤んでいることに気づき、悟はドキッと心臓が跳ねた。
「……そんなつもり、ねえけど」
「私のこと嫌なら、自分でおじさまに言えばいいでしょ? なのに言わないで私に文句言ってばかり。今まで恋人っぽいこともしてないし、さとちゃんの望み通り、今なら何もなかったことにできるよ」
「……来週から入学って時に、爆弾落とすなよ……」
ハァ~と大きく溜め息を吐いて、悟はあきれてあいを見下ろした。その溜め息があいの心に追い打ちを掛けて、堪えていた涙がとうとう零れてしまう。
「私……真剣に言ってるのに……」
「あ~ハイハイ、優しくすれば良いんだろ。ちゃんと優しくするよ」
『面倒くさい』が全面に出ている生返事をして、悟はあいの腰を抱き寄せた。ぴったり身体が密着して、互いの質感が伝わり合う。
「え、な、なに……!?」
「それから、恋人っぽいことだな……」
その言葉に思わず顔を上げたあいの視線を捉えて、悟はゆっくり唇を重ねる。ふんわりと柔らかい悟の唇があいの唇に触れて、数瞬の後、離れた。
あいはたった今起こった出来事の脳内処理が追い付かなくて、茫然と悟を見上げる。
(……今、キス……した?)
見上げた悟は大したことないと言いたげに平然とした顔をしてあいを見下ろしている。その様子に、悟がファーストキスではないことをあいは女の本能で感じ取った。抱き寄せる仕草も、手慣れている。「価値観が違う」なんて言っている自分のほうが子供に思えて、あいは恥ずかしくて消えてしまいたくなった。
(さとちゃん、私の知らないところで誰かともうしてるんだ)
そう考えたら、自分の制服のことを「ダサい」と馬鹿にするもの、自分の存在がキモくて恥ずかしいから誰にも言うなと釘を刺されるのも、すんなり理解することができる。
「これでいい?」
悟の気だるい口調に、あいは返事ができない。
「……んだよ、めんどくせェな。俺かなりオマエに気ィ使ってんだけど」
悟は他の女ならここまで手を掛けないし、一つでも面倒な発言があればすぐに切る。
逆にあいは一番大切にしなければいけない女の子だと自覚しているから、きちんとケアしてるつもりだった―――のだが、悟はそれを一言も本人に伝えない上、いつも揶揄ってばかりなので全て一方通行で終わっていることに気づいていない。
「とにかく、来週からガッコ始まるこのタイミングでめんどくせえこと言うなって。それから、今日はもう帰るってんなら、泣くのもダメ。泣いてたら帰らせないからな」
悟はあいの手を引いて、ゆっくりとした歩調で歩き出す。
このままここで立ち話を続けていたら、絶対ばあやと鉢合わせすると判っていたので、内心早くこの場から動きたくて仕方なかった。
「俺は別れる気、ないから」
聞き取れるギリギリの声量で、悟は呟いた。
あいはその言葉に、ほんの少し、自分の気持ちが穏やかになったのを感じる。
あいは本当は判っていた。
自分が悟と別れたいと言ったところでその意見が通る訳もないことを。
婚姻を決めたのは五条の当主だから、悟の父親の許可がない限り不可能だ。それでも言葉にしたのは、あいは悟のことが好きだからだ。自分のことだけを見てほしいから。
「ていうかさとちゃん、もう誰かとキスしてたの?」
「…………えッ!?」
「えっ!?じゃなくて。――そんな目うるうるさせて可愛い顔してごまかそうとしてもダメだよ。他の女の子としてるんでしょ?」
「してないしてない、してないよ!」
「……最低。やっぱり私、帰る。さよなら」
繋がれた手を勢いよく振りほどいて、後ろでモゴモゴ言い訳をしている悟を残し、あいは手荷物を持って駅に向かった。
悟が駅まで送るとかなんとか言っていたが、一切口を利かず、さっさと新幹線に乗った(悟はホームまで追いてきたし、座席の窓のところにずっといた)
来週から呪術高専が始まる―――
初めて悟以外の男の子と逢った時、普通の男の子はこんなに優しいんだってびっくりした。
同時にその時初めて、悟の性格がひねくれてるんだって知った。
「篁あいです。はじめまして」
「家入硝子だよ。よろしくね~」
「硝子ちゃん。うん、よろしくね」
「しょーこでいいよ」
あいがこれまで通っていた小中一貫女子校の生徒たちとは一風変わった女子・家入硝子と挨拶を交わし、あいは胸が弾むのを感じた。二人しかいない女子、仲良くなれると良いな、と思う。
呪術高専の1年生は、あいと悟の他に硝子ともう一人、夏油傑という男子生徒の4人だけだった。かなり少ない人数だが、呪術高専という特殊環境を鑑みれば、ごくごく普通なのだろう。これから4年間、このメンバーで過ごすのだ。
あいは勇気を出して夏油傑に声を掛けた。
自分から男の子に声を掛けるのは人生初めてなのでとても緊張する。
「あの、夏油くん。はじめまして。篁あいです。これからよろしくお願いします」
「はじめまして。私は夏油傑です。丁寧な挨拶、どうもありがとう」
「は、はい」
「1年は4人しかいないし、男だけど気兼ねなく仲良くしてくれると嬉しいな」
夏油傑は、悟と同じぐらい身長が高く、悟以上に体格がしっかりした男子だった。物腰柔らかで、笑うと目が一本線のようになって可愛らしい。あいは心底感心しながら、自分よりも30センチほど高い傑を見上げた。
(悟と全然違う…。こんな男の子もいるんだ。男の子って悟しか知らなかったから、皆あんな感じなのかと思ってた)
「せっかくだから、あいって名前で呼んでも良い?」
「うん、もちろん。私、共学は初めてなの。男の子と話したことほとんどないけど、私こそ気兼ねなく仲良くして貰えたら嬉しいな」
「ああ、確かに。あいって女子校育ちって感じすんね。どこか聞いてもいい?」
と、硝子があいの言葉を拾った。
「二葉女子だよ。小中はそこに通ってたんだけど、高校からは呪術高専に行くことにしたの」
「「ふ、二葉女子……!?」」
硝子と傑が声を揃えて驚いたので、あいも一緒に驚いた。
「え……う、うん……」
「マジで生粋じゃん……すげえ。逆にそんな子と同じクラスになれてラッキーだわ」
「二葉って、呪術界関係なくめちゃくちゃお嬢様校だよね。今の皇后様とか皇太子妃がそこ出身じゃなかった?」
「ああ、うん。そうなんだ」
傑にそう聞かれて、あいは苦笑いで返した。
確かに二葉は元華族の令嬢や富裕層の上流階級が多い女子校だ。でもあいは、呪術界ではそういった一般教養ではなく、呪術のみが力であることを理解している。悟の隣にいれば、その事実はいつの間にか染み付いていた。
悟と傑は、入学と同時にすでに「特級」の呪術師だった。
つまり、傑にいくら驚かれたところで、あいに取っては傑の方がすごいことを良く判っているのだ。
「そういえば、五条君はどこの中学だったんだ?」
傑に声を掛けられた悟は、自分の席に座っていた。両脚を机の上に乗せてブラブラと椅子を揺らしている。
「俺は学校行ってない。家で教育されてたから」
「……え? そうなのかい? じゃあ、もしかして私が初めての級友ってこと?」
「おー……。まあ」
「へええ! それは嬉しいな。仲良くしようね!」
満面の笑みの傑にガシッと派手に握手され(しかも両手で包まれるように)、その勢いに押されて悟はパチパチと目を丸くし「お、おう……」とだけ返事をした。
あいはその光景に思わず「わ」と声を漏らし、口元を手のひらで覆う。
(悟が圧されてる…。珍しい)
「ねえ、もしかしてあいの制服ってワンピースなの?」
あいも目をぱちぱちと瞬いて悟を眺めていたら硝子にそう聞かれて、慌てて振り返った。
「うん、そうなの。硝子のはスカート短いんだね。可愛い」
「あ~、これね。切った」
「切った!? え!? スカート切ったの!?」
「そだよ。あ~えっとね、あい風に言うと、お直し」
「お直し!? だ、だからそんなに短かったんだ……!!」
あいもあいで、カルチャーショックを受ける。
制服のスカートを切った女子生徒など、この9年間一人としていなかった。トレンドに敏感な女子はたくさん居たが、それでもスカートを切る、というかお直しした女子は居なかったのだ。ベルトを利用したり、ウエスト部分を織り込んで短くしたりする生徒はいたが、完全にスカート生地を切ってしまう生徒は一人としていなかった(毎週風紀チェックがあったため仕方ないのだが)
「すごい、硝子ちゃんカッコいい!」
「ハハハ、お直し程度でそんな褒められると照れちゃうな~。でも私とあいの制服全然違うね。入学前、なんかヒアリングとかあった?」
「ううん、特になかった。普通にサイズ確認だけ。皆このデザインなんだと思ってたらから、今日硝子の見てびっくりしてる」
「だよね~。夏油のなんて、すごいじゃん。どこの族かと思った」
「え? ぞく? あ、あれってそういう人たちが着てるの?」
「そだよ。ボンタンって言って、特攻服とか土木業とか、そっち系の男がよく着てるやつ」
「へえ……そうなんだ」
あいはまじまじと傑の制服を凝視して、そういえば悟はシンプルだなとも考えた。どこかで事前調査でもされているのだろうか。
あいは自分の制服が、これまで着用していた女子校のものと大差なかったので全く違和感を持たなかった。けれど、同じ女子の硝子のスカートがタイトだったり、傑のスラックスがボンタンだったりとかなり個性が現れている気がする。
「ちょ、ちょっと硝子さん、初対面の子に妙な事吹き込まないでくれる……? 私は至って普通の男子生徒だよ」
いつの間にか自席に座った傑が困惑した表情で硝子を見上げている。悟の左隣の席だ。悟と傑に無言で促されるように、あいと硝子も席に着いた。
(悟には声掛けなかったな。でも他人のふりしろって言われてるし。悟からも何もなかったし)
それは少しだけ寂しかった。
他人のふりをしろと言われていることも、事実今日何も言葉を交わしていないことも。
全員が席に着くとタイミング良く、体格の良い男性が入室してくる。悟と傑よりもかなりがっしりした体型で、呪術師はこんな男性ばかりなのだろうかと、あいは内心驚いた。
「おはよう。今日からお前たちは呪術高専の生徒だ、おめでとう……いや、めでたいかどうかは判らんな。スマン。私はお前たちの担任の夜蛾正道だ。お前たちに望むことはただ一つ、呪術師として多くの人々を救え」
それからは怒涛の毎日だった。
呪力操作、呪術の歴史、肉体強化、体術訓練、一般教養科目―――etc.
あいは一日の授業が終わると疲れ果てて寮に帰り、寝るだけの日々が続いた。悟と傑は肉体面のアドバンテージが高く、体術訓練は全く苦にならないようで余裕の表情だし、硝子に至ってはもはや「自分のフィールドではない」とはっきり宣言して5割程度の力でこなしている。
悟と傑は、特級を冠している術師なので、すでに夜蛾の引率で何度か任務に出ていた。
この学校は、実地での叩き上げがほとんどなのだ。学校での授業は、実地のための訓練でしかない。
任務の失敗はすなわち直接的な死を意味する。夜蛾が「入学がめでたいかどうか判らない」と言った点はそこにあった。
任務を完了して無事高専寮のベッドに戻るには、呪術師として「今」を生き抜かねばならない。
硝子の能力は内向きなのでほとんど討伐任務には出ないが、あいはいずれその時が来るだろう。とはいえ、実地では自分の身を守るだけでなく、呪霊を祓えなければ現場に派遣されることはまずない。
あいはまだ本格的に呪霊を祓える段階ではなかった。夜蛾には「呪具の使用を検討したほうが良い」と言われた。今度、武器庫を案内すると言われている。あいの術式はかなり特殊で、血統術式ではあるものの、一族ならば必ず発現するものでもないものだ。
篁に継がれている術式は直系の女子にしか発現しない。
直系の女子の中でも、毎世代発現するとは限らず、あいに至っては5世代ぶりの顕現だった。
篁の女子にのみ受け継がれている血統術式―――それは、平安時代に月から降りて来た天上人・輝夜姫の術式。
その身に輝夜の魂を降ろすことで一時的に輝夜と同じ存在となり、その力を使える。輝夜の力は「相手に死の宣告」をすること。それは、この地上に降りた際に出逢った男に犯され、子供を身籠り、天に帰ることなくこの地上に縛り付けた夫となった男への、復讐の果ての結果だった。死の宣告をされた人間は、決してその宣告に抗うことは出来ず命を落とす。
輝夜をその身に降ろす際は、髪が黒く染まり、瞳が金色に光る。半分自分であり、半分輝夜になる、曖昧で、夢を見ている感覚だ。その感覚が、あいはあまり好きではなかった。
自分なのに自分じゃない。俯瞰して世界を眺めているようで気分が悪い。
そして、もう一つの術式が月へ空間転移するための領域展開――「蜜月一輪」だった。
領域内に入った有機物なら、共に月面へ転移させることができる。その際、あいは月でも生体活動を維持することができた。
篁は、元を辿れば月の生命体。
ゆえに、月でも呼吸ができ、話すことも出来る。ただ、地球ナイズドされて久しいので食べなければ死んでしまうのだが。しかし一緒に転移させた有機体は地球の生物ゆえ、月での生命活動はできない。
あいの呪術はどちらも「呪詛師には覿面に効果があるが、呪霊には一切効果がない」ものだった。それもそうだ。輝夜は夫を憎んで「死の宣告」をし、「蜜月一輪」は月へ帰るための力。
自分は呪術師として、大したことはない。あいはそう自覚している。そんな自分がなぜ五条の嫁に据えられたかといえば、間違いなくその血脈だろう。
呪術界は「血脈」にこそ価値があるとの共通認識がある。
強烈な男尊女卑の世界において、唯一、篁のみが「女」であることに価値があり、輝夜の存在ゆえその地位が築けている。5代の不在の末に現れた輝夜の力は、五条の六眼と掛け合わせてみたいものだったのだろう。
とはいえ生まれるタイミングが少しずれていたら、もしかしたらあいは禪院か加茂に嫁ぐことになっていたかもしれない。こちらの2家は五条に比べて絵に描いたような男尊女卑の家で、それを考えると、あいは五条悟は一番好きになれる男だと思えた。
ただ一つ、あいが懸念していることがあるとすれば、輝夜を降ろしている際に、悟と居ることは出来るだけ避けたい、という点だった。
(かぐや様は、悟のこと、気に入ってる……。六眼だって一瞬で見抜いて、悟を籠絡しようとしてた)
輝夜を降ろしている際の人格は、ほぼ輝夜であり、あいとは別人格になる。その輝夜は、悟を一目見た瞬間に心底気に入ったのだ。
あいは、そのことが心底嫌だった。
嫉妬だ。
自分でありながら自分でない女が、五条悟を口説いているなど。
あいは溜め息を吐いて、自室のベッドに座り込む。
時刻は23時。
(もう寝ちゃおう。すごくだるい。明日もまた体育あるのか。きついなあ)
そのまま布団に潜り込んで、目を瞑った。
3限目に体力強化の時間があった。
トレーニングウェアに着替えて校庭にまで来たものの、あいは身体がだるくて立っているのもしんどかった。
今朝から生理が来てしまったのだ。
夜蛾が校庭にくると、校庭5周するように言われる。
男子2人は軽く流せる1キロ、硝子は適当に流す1キロ、だったのだが、あいはとにかく調子が悪くて正直走るなんて出来なかった。
それでも2周目まで走ってみたが、出血量がひどいのが手に取るように判る。踵が地面に着くたびに出血していて、これはもう無理だと判断した。あいは途中で走るのを止めて、夜蛾にお手洗いに行くとだけ伝え、慌てて校舎のトイレに向かう。
(ああ、良かった。漏れてない)
トイレでホッとして、深い安堵のため息を吐いた。
走りながらすごい量の出血が感じられて、気が気じゃなかった。もう走るどころではない。現にもう少し遅れていたら漏れていたと断言できる。
授業に戻ればまた訓練させられるだろうし、夜蛾に見学したいと申し出れば見学させてくれるだろうが、もはや校庭に戻ることすら億劫だった。
(ひどい貧血。ダメだ、ちょっと座ろう)
女子トイレから出ると、玄関横に並んでいる自販機前に長椅子があったので、あいはそこで一休みすることにした。
目を瞑って、生理用品が入ったポーチを膝の上に置いて、しばらく安静にする。
(5分ぐらい休んだら、授業戻ろう……)
ゆっくり瞼を開けて、何度か瞬きをした。
あいは顔を上げた視線の先に自販機が並んでいるのを見て、そこでようやく「寝てしまった」ことに気づく。
―――しまった。
慌てて立ち上がろうとして、自分の横から「起きた?」と声が聞こえた。無意識で声の方を見ると、見慣れた男が座っている。
「……五条くん」
あいの横で長椅子に座っていた悟は、制服姿だった。
「平気か? 調子悪いんだろ」
立ち上がろうとした弾みで床に落ちてしまったポーチを、悟が拾ってくれる。
「ん。これ」
「……ありがとう」
目を覚まして、隣に悟が居てくれたことが嬉しかった。
落としたものを拾ってくれて、いつもよりも優しい。いつも悟でちくちく傷ついていた心が、こんなことで癒されるなんて、つくづく自分もバカだと思う。
「もしかして、もう体育終わっちゃった?」
「ちゃった。オマエがトイレ行くって言ったまま戻ってこないから、しょーこが見に行ってくれて、んでここで寝てるの見つけたから、授業の後に着替えて俺が来た」
「今何時間目?」
「4時間目の途中。もうすぐ昼飯」
「……五条くんが行くって言った時、みんな何か言ってた?」
「いや~? 別に。特に何も」
「そっか、良かった」
「なんで?」
「だって、五条くんが言ったんだよ。私とのこと誰にも言うなって。私、あの言葉、傷ついたんだからね」
「ああ、それね。ゴメンゴメン。まあ今んとこ傑としょーこからはなんも勘ぐられてないし、大丈夫ッしょ」
「傑」「しょーこ」などとすっかり二人に打ち解けた悟は、「飲むもん買っといたけど」と言ってお茶のペットボトルを差し出した。あいの好きな紅茶花伝。飲み切りの350ミリサイズ。
「ありがとう。……起こしてくれて良かったのに」
受け取ったペットボトルのキャップを開けて、一口飲もうとして、予想外に喉が渇いており、そのまま半分ぐらい一気に飲む。甘い飲料が身体に染み渡って、あいは全身で美味しいを感じて思わず顔が綻んだ。
「おいしい! なんか元気出たかも」
「ハハッ、チョロ」
「ちょっと、チョロいとか言わないで。そういう言われ方いや」
「ごめ~ん」
あいはペッドボトルを両手に握ったまま、悟に視線を移す。サングラスの奥に見え隠れする青く透き通った瞳がチラチラと光っていた。
「体調落ち着いたか?」
「……生理だから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「そう? 良く判んないけど」
「うん。着替えて教室戻るから、五条君は先に戻ってて良いよ。ありがとね、一緒にいてくれて」
「んー、どうせだからこのまま4限サボろうぜ。というわけで更衣室追いてく❤」
更衣室に向かい始めたあいを追いかけて、悟がニコニコ微笑みながら歩いて来る。やれやれ、と思いながらも生理で怒る体力がないあいは、そのまま追いて来るのを止める気力が起きなかった。
女子更衣室のドアを開けて中に入ると、悟も一緒に入ってくるのでさすがにあいは咎めた。
「ちょっと、本当に入るつもりなの?」
「だぁ~って一人で女子更衣室前に立ってたら俺ヤバイ奴じゃん。どうせ誰もいないんだし良くね?」
「でも私着替えるんだけど」
「え~、ならこうやってカーテン閉めれば見えねえよ」
そう言って悟は目の前に下がっていたカーテンをシャッと閉める。更衣室入ってすぐにカーテンの仕切りがあって、外から見えないようになっているのだ。悟は出入り口ドアとカーテンの隙間に立ち、あいからは悟の姿が見えなくなった。
「ていうか、今さらじゃね? ガキん頃から一緒なのに」
「いやよ、恥ずかしいもん」
しかも今生理中だし、とあいは内心思った。インナーのキャミソールは着ているので先に上を着替え、ワンピースの下からジャージを脱げば悟がいても別段見られて困る部分はないのだが、そういう線引きはきちんとしておいた方が今後のためだ。
「もう着替え終わった~? ねえあいちゃーん」
悟がつまんなさそうに話しかけてくる。
その声を聴きながらあまりにうるさいのであいはカーテンを開けてあげた。とりあえずワンピースには着替えたものの、悟が急かすのでジャケットは着てない。
「もお、そんな急かさないでよ。それにここ女子更衣室なんだか……わっ」
あいが文句を言い終わる前に、ロッカーに身体が押し付けられた。反射的に目を瞑ったが、背中が固いスチールに当たってその衝撃が肉体に跳ね返って来る。
目を開けると、身長190近い悟の身体があいの身体にほとんどくっ付き(ギリギリ付いてない)悟が両腕をロッカーに突っ張っていた。
「いったぁい……なにすんのよぉ」
「なあ、キスして良い?」
「は…!?」
「キス。して良い?」
サングラスを外した悟のきょろっとした青い目の中に、あいの顔が反射している。悟の視界には自分しか映っていないことを自覚すると、あいは恥ずかしくて思わず俯いてしまった。
心臓が物凄い速さで鼓動を刻んでいる。これだけくっ付いていたら悟に心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと、あいは羞恥心で一杯になった。
「下向くなよ。俺のこと見ろって」
クイッと悟の指先があいの顎を拾い上げる。
再び悟の瞳に捕らえられて、あいは何か言おうとしても声が出なかった。
「何も言わねーなら、このままするから」
悟が身体を屈めて顔を近づけてくる。
ぷちゅ、と唇が軽く触れて、一旦離れ、また重なった。少し薄くて、湿度が高い悟の唇。
(私…悟と…キスしてる)
無意識で悟の身体に両腕を回す。
初めて抱きしめた悟の身体はごつごつしていて、硬かった。
「ファーストキス、ちゃんとやり直したからな」
唇が離れて、悟があいの身体を抱き寄せる。
学ラン越しに悟の胸板を感じて、あいはその感触がとても心地いいことを知った。
「悟……好き……」
「知ってる。オマエ昔っから俺のこと好きだもんね」
「……だって悟以外の男の子知らないもん」
「じゃあおっぱいも触って良い?」
「えっ、だ、だめ。どの辺がじゃあなの!?」
思わずあいは身体を離す。悟の腕からスルスル~と逃げ出して、距離を取った。
「なんで? 良いじゃん」
「だ、だめ、いや!」
「え~、ケチぃ」
悟が唇を尖らせてしかめっ面しているが、キスしたばかりで胸まで触られたら思考が追い付かない。悟はいろいろ経験済みかもしれないが、こちらはまだキスの階段を昇ったばかりなのだ。
ちょうど運よくチャイムが鳴り、4時間目が終わった。
あいは脱いだジャージをキャンバスバッグに詰め込んで、制服のジャケットを持って更衣室を出る。
「チャイムも鳴ったし、お昼ご飯だよ。学食早く行こ」
「えー、つまんない。俺ちゃんとオマエにお伺い立ててるのに」
確かに、悟は一つ一つあいの同意を確認している。
悟にしては、それは偉い。偉いが、あいにも心の準備が必要なのだ。
「もうちょっと場所考えて」
あいは照れ隠しにそう言って、さとるが更衣室から出てくるのを待つ。
もう悟は何事もなかったような顔つきに戻っていた。
(慣れてるなぁ……。つまんないは私のセリフよ、バカ)
自分の婚約者が他の女の子と経験済みなのは、気分が良くない。かと言って悟と親密な恋人同士かと聞かれればNOであり、友達かと聞かれてもNOだ。ただ生まれてすぐに、自分の夫になる男が決められてしまった。
それは悟も同じで、けれど悟は他の女の子と遊んでいる。そしてそれがあいにバレていても大して気にしていない。
「さとちゃん、私達ってどういう関係?」
「え~、う~ん。どういうも何も、いつか結婚する相手ってことじゃん」
「じゃあ今はなに? なんでキスしたの?」
「うーん。なんとなく? したかったから?」
「なにそれ……さとちゃんは私以外の女の子とキスしたりしてるんでしょ?」
「えーいやーでも、もうその子たちとは会ってないし」
「たち? たちなの!?」
「ねえもうこの話面倒くさいから終わりにしていい? 別に俺が何してようが良くない?」
「え、あ、ちょっと……!」
悟は手のひらをヒラヒラと振って、一人廊下を歩いて行く。
あいは、胸の辺りがザワザワして苦しかった。
最近よくこの胸のザワザワがやってくる。
段々小さくなっていく悟の背中を見送り、その場に立ち尽くした。
(彼女だよって言って欲しかった。ほんとは。でもそれなら、私からそう聞いたほうが良かったのかな……。判んない……どうしたら私だけになるんだろう)
この時の胸のざわつきを、焦燥を、猜疑心や嫉妬心を、私はここから長年味わわされることになる。
悟は女の子全員に優しく、「可愛い」と愛ではするが、誰にも「好き」とも「愛してる」とも言うことはなかった。
それは私に対しても同じだった。ただ、少しぐらいは気を使ってはいるのか「オマエが一番だよ」とは言っていたが。
私が高専を出た後、教職課程で大学に通っている間、長く悟と会わない期間があり、その間に私は彼氏を作った。
でも、その彼氏が悟により文字通り半殺しにされかけたことをきっかけに、私は悟以外の男と関係を持つのを一切やめた。
それこそ、話すことすら。高専関係者ならまだしも、悟が知らない男とは関わらないように努めている。
思い返せば、前兆はあったのだ。
高専2年時の京都校交流会の時、私は禪院直哉に呼び出され、何も判らずに行ったところ、直哉に顔面を殴られ昏倒し、レイプされた。
ギリギリのところで悟たちに見つけられたけど、その時、悟は禪院直哉を半殺しにした。夜蛾先生や夏油くんが死ぬ物狂いで止めたから、彼は殺されずに済んだ。
悟は、自分以外の男が、私を女として見るのを心底嫌がる。
そのことに私が確信を得たのは、大学で彼氏が半殺しにされてからだった。
私はその学生と付き合っている間、まるで夢を見ているようで今までのことを全て忘れ、自分が非術師の、普通の女の子のように振る舞うことが出来て、とても幸せだったのを覚えている。けれど、自分が悟以外の男と恋愛関係になるのは不可能なのだと思い知らされた。
―――私は、五条悟の番。選択肢はそれのみ。
私は全てを受け入れた。
己の人生を、五条悟の全てを、呪術師として生き、死ぬことを。
呪術師はまともな感覚を持っていては生きていけない。
そのことを身をもって体験し、この狂った世界で、子供たちに―――呪術高専の生徒たちに、自分の全てを捧げることを決めた。
二度と、自分のように犯される女子生徒が出ないように。
二度と、灰原雄のように調査ミスで命を落とす生徒が出ないように。
二度と、夏油傑のように救えたはずの生徒を取り零してしまわないように。
五条悟に夢があるように、篁あいも夢を見る。
その夢は平凡で、悟のように世界を変えようとしているわけじゃない。私がいつからか何より求めた「日常」を願っているだけだ。
これは、「最強」と言われた男の隣で、「平穏」を祈った女の物語。
To Be Continued
塩対応の五条ですが、ちゃんとめちゃくちゃ愛されエンドなのでご安心ください!
幣作品は、他の漫画・小説含めてすべて時系列が明確なものとなっています。
(他の作品読んでいなくてもOK)
五条から小出しにされる好意や、一度も言わなかった「愛してる」の回収は他作品で回収しております。
そういった部分も含めて楽しんで頂けると嬉しいです。