きつねのおでんパロ 10月に入って、ようやく過ごしやすい気温となった頃。
夜空は、満月が綺麗に輝いている。
拓也と礁介がふらりと集まるのは、最近ではどこか定番になっていた。
今日も拓也が「今日飯食お」とメッセージを送った事で、二人で礁介の自宅へと歩みを進めている。
お互いに大学終わりに合流したため、時刻は19時となっていた。
「家で待ってりゃいいのに」
「大学から帰るなら、駅によるのも家に向かうのも距離は一緒だからな、別にいいだろう」
口では素直でないものの、拓也は内心わざわざ駅までこうして迎えに来てくれることを嬉しく思っている。
長年の付き合いでそこまで礁介が見抜いているかは、分からないが。
「買い物もしなければいけないし……、拓は何が食べたいんだ?」
「んー……」
礁介は自宅の冷蔵庫内を思い浮かべたが、そこまで食材が充実していた覚えはなかった。
大学で貰った野菜はあったはず、米もある。
自分一人で夕食を準備するならば、適当に野菜炒めを作るだろうが、拓也がいるならそう簡素に済ませるのも味気ないと考え、幼馴染に問うた。
しかし拓也も具体的に食べたいメニューがあるわけではない様子だ。
「まぁ、スーパーに着いてから考えれば」
「おでん」
「……おでん?」
ぽつりと拓也の口からこぼれたリクエストに、礁介は少し動揺する。
もちろん、おでんなど作ったことがない。
ただ、大根なら家にある。
そのままおでんの具を頭に巡らせ、玉子は買うとしてあと練り物、白菜……は違うか。人参……も、入っていない、か?
……そもそも作れるのか?
「拓、おでんは恐らく煮込む時間も必要になるし、作った事が……」
「すげーいい匂い、この辺屋台あったっけ?」
「え?あぁ、屋台……か?」
礁介が軽く混乱していると、拓也は視線を横の通りに向けていた。
そしてそのままスーパーではなく、道から逸れた住宅地のY字路を右へ進んでいく。
だが礁介は眉を潜めた。
こんな閑静な住宅街におでんの屋台など見たことがない。
さらに言えば、礁介にはおでんの匂いなど全く感じられなかった。
「屋台なんて、祭りでもない限りそう無いだろう。そもそも、おでんの匂いなんてしないぞ、拓」
「鼻詰まってんじゃねーの」
「つまってない」
念のため腕を掴んで拓也を引き留める。
しかし幼馴染は礁介の言い分に納得していないようで、歩みを止める様子はない。
近頃、正確に言えば去年の夏から。
地元に帰省したあの日から、やけに不可解な出来事に巻き込まれることが多かった。
たかがおでんの匂いでも、礁介は嫌な習慣から警戒してしまう。
「別に屋台が無かったら、ちょっと遠回りになるだけだし」
「普通に考えてみろ、拓。こんな住宅街にあるわけないだろ」
「でもめっちゃいい匂いするし」
「俺にはしていない」
そんな風に軽く言い争っていると。
瞬きをした瞬間、
二人が居たのは住宅地ではなかった。
どこか霧がかかったような空間。
二人は何度も近しい経験をしていたため理解した。
ここは、自分たちの知る住宅街ではない。
そして、礁介はそこでようやく、ふわりとだしの香りが鼻腔をかすめた。
「おや、人間のお客様とは珍しい」
その声に二人は視線を向ける。
そこには、明らかに人間と同じように二足で立ち、人よりは少し小柄に見えるが普通の体長よりは大きいであろう
――きつねが、屋台を構えていた。
声を発したきつねとは別に、子ぎつねだろうか。
小学生ほどの小柄なきつねが、尻尾を膨らませて二人に驚いていた。
少し怯えも入っていたのか、子ぎつねは後ずさった際に屋台の椅子へぶつかり、皿が落ちそうになる。
礁介が目を見開いている間に、先に動いたのは拓也だった。
案外近くに鎮座していた屋台へ走り出し、そのまま宙を舞った大皿を手で受け止める。
「……っぶね」
「わわ……っ」
「おやおや、うちのチビがご迷惑を」
ギリギリ地面接触前に受け止めたため、スライディングとまではいかずとも、軽く倒れこみながら皿を掴んだ手を掲げていた。
すぐにきつねの店主が屋台から出てくると、皿を預かる。
そしてすぐに礁介も駆けつけ、拓也に手を差し伸べた。
「拓、怪我はないか?」
「こんなんで怪我しねーって、今日黒い服だし土汚れも目立たねーだろ」
胸や膝に少しついた土を手で払い落していれば、拓也はふと子ぎつねと目が合う。
怯えなのか、単に人見知りなのか、小さなきつねは屋台の陰に隠れてしまった。
「いやぁすみませんでした。ですがお皿を割らずに済みました、ありがとうございます。」
「あー、いえ、良かったです」
「どうでしょう、お詫びもかねてうちのおでんを召し上がっていきませんか」
「え……」
ぺこりと店主は頭を下げるので、拓也もつられて会釈程度におじぎをする。
きつねに謝罪とお礼を言われるなど、内心では正に狐につままれたような体験だと思っていた。
そしてその後の提案には、拓也の瞳は僅かに輝く。
この空間に来る前からずっと、食欲のそそるおでんの良い香りがしていたのだ。
「……拓」
「なんだよ礁介」
拓也が返事をするよりも早く、礁介は彼の肩を掴んでいた。
その目は疑心に満ちている。
拓也としても、礁介が目と声音だけで訴えてくる『怪しいからやめておけ』という言い分が分からない訳では無かった。
その時。
大きく、低い音が響いた。
といっても、気の抜けるようなその音は、礁介の腹から鳴った空腹の主張のようだ。
「……腹減ってんじゃん、お前」
「不可抗力だ。まだ夕飯を食べていないんだから仕方ないだろう」
「お夕飯がまだでしたか!ではどうぞ、こちらへ」
二人が揉めるよりも、店主の誘導の方が早かった。
礁介はあまり気が進まなかったが、今まで何度も不思議な経験をしたからこそだろうか。
きつねからは、嫌な感じは全くしなかった。
むしろどこか安心感さえ与えてくるような優しいおでんの香りに、二人は自然と屋台の椅子へ腰を下ろす。
思えばおでんを食べる機会などコンビニでしか無かったため、屋台というのはどこか新鮮みもあった。
仕分けられた容器に、たっぷりつゆが仕込まれている。
淡い黄金色に輝くつゆの中に、玉子や大根、こんにゃく、昆布、たこ串、厚揚げなどが沈んでいた。
暖かな蒸気と共に、だしの香りが漂っている。
「では、こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
お椀に具をよそるその手は、やはり確かに狐だった。
ふわふわとした毛を携えて、器用にお玉で具を掬っていく。
そして二人の前に、ことり、とお皿が置かれた。
ほかほかと湯気をまといながら、一番上にのせられた玉子がつるりと輝く。
礁介は本当にこれでいいのか、と横目で幼馴染を見るも、拓也は僅かに口角を上げ、既に割り箸を割っていた。
「いただきまーす」
「頂き、ます」
警戒心のない恋人に呆れつつも、礁介は諦めたように自分も割り箸を手に取る。
そのまま大根を半分に割ろうとすれば、じっくりと煮込まれているせいか力を入れずともほろりと割れた。
箸で掴み、少し息を吹いて冷ましてから、口に運ぶ。
口内で温かい大根がとろけるように広がる。
じわりと染み出すだしの味は、親しみのあるかつおと昆布の美味しさだ。
むしろ、コンビニで過去に食べた記憶のおでんよりも、遥かに旨味があった。
「……美味い」
「それは良かったです」
先ほどまで警戒していた礁介も、思わず口から本音が漏れる。
店主は細い瞳を閉じて優しく安堵するように微笑む。
拓也も咀嚼を終えた後、顔を上げて口を開く。
「めっちゃウマいです。特に厚揚げ」
「きつねですからね、そこには腕によりをかけてますよ」
拓也の言葉に、喜びからなのか店主の尻尾がわずかに揺れている。
そのままおなかが減っていたこともあり、二人はゆっくりと美味しいおでんを味わっていく。
すると皿の横にことりとお茶が置かれていた。
礁介がふと視線をそちらにやれば、子ぎつねと目が合う。
「ああ、ありがとう」
「あ、や……、」
子ぎつねはもじもじと視線が下がっていくと、またぴゅうと屋台に隠れてしまった。
「すみませんね、うちのチビは内気なもので」
「いえ、驚かせてしまい、すみません」
店主の言葉に、礁介も優しい笑みで返す。
拓也の横にもそっとお茶が置かれ、またすぐさま子ぎつねは引っ込んでしまった。
「にしてもお二人とも、ここには意図的に来られたわけではないようですね」
「そう、……ですね」
「おでんのいい匂いに、つられて来たんすけど」
「おやおや、そうでしたか。私としては嬉しい限りです」
お皿に乗せられたおでんもほとんど食べ終わった頃。
礁介は店主に言われてふと気づく。
お代は、人間の金銭なのだろうか。
というか、ここからはどう帰ればいいのか。
そんな不安げな表情を読み取ってか、店主はそのまま言葉を続けた。
「ここは出ようと思えばすぐに出られます。お客さんはあちらの方向から来ましたから、あちらに歩いていけば、見慣れた場所に出るでしょう」
「そうなんすね、ありがとうございます。」
「あの、お代は」
「そんな。いいんですよ、お皿のお礼ですから」
穏やかな声音で話すきつねは、優しく二人に笑みを向けた。
拓也は「じゃあお言葉に甘えて」と返し、全て食べ終え箸を置く。
同じタイミングで、礁介も完食し、手を合わせた。
「ごちそうさまです、ほんと美味かったです」
「ごちそうさまでした。最初に、失礼な態度をとってしまってすみません」
「そんな。むしろ見ず知らずのきつねのおでんを美味しく召し上がってくださり、ありがとうございます。」
椅子から立ち上がると、子ぎつねが屋台からひょっこりと顔だけ出して二人を見ていた。
拓也は笑みを向けながら、軽くひらひらと手を振る。
礁介は店主と子ぎつねに会釈をした。
「お二人とも、よほど苦労をされてきたんでしょう」
その店主の言葉は、二人には覚えがありすぎる。
けれど話すほどのことではなかった。
全て乗り越え、今こうして二人で過ごせているのだ。
お互いに顔を見合わせ、困ったように笑うだろう。
「また機会があれば、うちで休んでいってくださいな」
そんなきつねの声を最後に、歩みだす必要もなく、瞬きをすればそこは閑静な住宅街だった。
礁介が手元の腕時計に目線を下ろせば、19時から5分程度しか時間は進んでいない。
それでも二人は満腹さを感じており「美味かったな」なんて言葉を交わしながら、見慣れた帰路へ再び歩みを進めた。