金の斧銀の斧「君が落としたのは金の斧? 銀の斧?」
「ねぇ、あんたの名前は?」
「…………」
「今日こそ名前で呼びたいんだよ。なぁ、まだ駄目なのか?」
「…………」
「頼むよ」
「…………」
「……普通の斧」
「正直者には全ての斧を授けよう」
「うん。ありがとな」
それぞれ材質の異なる斧を三本受け取った魏無羨はガックリと肩を落とし、澄ました表情で泉に戻っていく美しい精霊に今日も未練がましく声を掛ける。
「明日も来るから、明日こそ聞かせてくれよ」
「…………」
「はぁ……」
泉がいつもの静かな水面に戻るのを見届け、大きな溜め息をつく。空は清々しく晴れ渡り、ぽっかりと浮かんだ雲がゆっくりと西へ流れて行く。風もない穏やかな昼下がりだ。
三本の斧を収穫した野菜と一緒に荷車に乗せると魏無羨は家に向かってだらだらと歩き出した。
魏無羨が初めて斧を泉に落としてから既に三月ほどが経っていた。初めて精霊に会ったあの日。驚いて腰を抜かし泉から現れた美丈夫を見上げた魏無羨は、金と銀に輝く斧よりもその精霊に興味を持った。
透けるような白い肌に玻璃に似た瞳。整い過ぎた容姿は人間離れしており、白い衣は彼の高潔さを際立たせるように品がいい。
「こんなに綺麗な奴は初めて見たよ……。なぁ、美人さん。俺は魏無羨、魏嬰でいい。お前の名前を教えてくれよ。ずっとここに居たのか? それとも引越してきたばかり? 精霊に会うのは初めてだ。みんなお前みたいに綺麗なのか?」
「……君が落とした斧を答えて」
「答えたらお前の事を教えてくれるのか?」
「…………」
それから毎日泉に通い、斧を落とすのは一日に一度までと注意されながらも熱心に精霊に話し掛け続けている。今のところ成果はゼロだ。
*
森の中に建てた小さな家へと帰り着く。魏無羨はこの地で勝手気ままな自給自足の生活を営んでいる。
家のすぐ隣に最近建てた納戸には金と銀の斧が山のように入っており、今日もそこに新しい二本を加えてしっかりと施錠する。これだけの量の金と銀があれば都へ行っても働く必要も無い暮らしができるだろうが、今の魏無羨にとってそれはどうでもいい事だった。それよりも泉の美人ちゃんだ。
「明日はまた花でも贈るか? でも前に渡した時は興味なさそうだったしなぁ……」
これだけ通っても名前のひとつも教えてくれない手強い相手だが、魏無羨の中に諦めるという選択肢はなかった。
仲良くなって、いつかあの美人が笑うところが見たい。
斧を落とせば必ず拾ってくれる。一日一度までにしろと苦言を呈してきた事はあったが、斧を落として無視された事は無い。
「よし、そろそろ夕飯でも作るか」
*
「お前の事を教えてくれよ」
「…………」
今日も今日とて美しい精霊は金と銀の斧を持って無表情のままだ。いくら話し掛けても斧に関係の無い話をする気はないらしい。
腰に手を当てた魏無羨が溜め息をつくと精霊の眉がピクリと動いたが、前髪をガシガシと掻く魏無羨は気付かない。
「分かった分かった。俺が落としたのは、」
「答えたら、君は興味を失うだろう」
「……へ?」
精霊が決まりきった台詞以外を話すのは、一日に二度斧を落とした日以来のことだった。魏無羨は大きな目を瞬き、開きかけた口をゆっくりと閉じる。目を伏せて話し出した精霊に釘付けになる。
「君は今、何も答えない私に関心があるだけで、分かってしまったらもうここへは訪れないだろう」
浮世離れした美しさの精霊は変わらずに無表情のままだ。しかし、毎日この場所を訪れては精霊を熱心に観察していた魏無羨には彼の声色が僅かに拗ねているのを感じ取ってしまった。
魏無羨は魏無羨で斧を落としては一方的に精霊に執拗に話し掛けていたが、精霊は精霊で勝手に魏無羨の性質を決め付けて居るらしい。
「なぁ、俺がいつそんな事っ、うぉっ」
前日に降った雨は草を湿らせ、魏無羨は普段には有るまじき失態で───泉に滑り落ちてしまった。
俺が落ちたら、誰が精霊の質問に答えるんだ?
「魏嬰っ!」
何か不思議な力で水から守られていた筈の精霊の髪がぐっしょりと濡れて、顎を伝った水滴が魏無羨の頬に落ちる。草の上に転がる彼は、斧とは違って駆け引き無しで泉から引き上げられたらしい。
不安そうに、怒ったように魏無羨の肩を揺する精霊は、大きな瞳と目が合うと殆ど泣き出しそうな顔で小さく唇を噛んだ。
「……俺の名前、覚えてたんだ」
魏無羨がのろのろと身体を起こすと、精霊はその隣に力なく座り込んだ。白い衣には泥がつき、絹のような黒髪にも落ち葉が絡んでいる。
普段の凛とした姿も勿論美しかったが、今の人らしい姿の方が余程好ましい。
「なぁ、なんで俺が毎日ここに通ってると思う?」
「…………」
精霊は緩々と首を振り、汚れてしまった衣の袖をギュッと握り締めた。魏無羨の話を怖がるように震える指に、そっと手のひらを重ねる。
「お前のことを知ったらそれだけで満足すると思うか?」
「分からな……、い」
少しだけ伸び上がって触れた唇は、互いに冷たくて、なのに蕩けるように柔らかかった。
大きく目を見開いた精霊を見て、魏無羨が口角を上げる。
「なぁ、どう思う?」
かつてこの泉には美しい精霊がいて、哀れにも泉に大切な物を落とした者たちに救いの手を差し伸べていた。
今、その精霊が泉の外に現れることは滅多に無い。最愛の伴侶を得て、愛しい彼から目を離す隙が無いからだ。
終わり