それはきっと夢物語 ?日目-悪夢
1
脳が浮く心地に苛まれるまま、六華は瞼を開く。
その眼前に広がるのは温度のない闇。自分の足元すら明瞭に見えず、少し手を動かすと生ぬるくまとわりついてくる黒。星のひとつも見えないことを除いても、夜空とは似ても似つかない奇妙な光景だった。
いや、訂正をしよう。彼の目の前には、星があった。その星がきらきら、ひらひらと舞うたびに奇妙なブレと共に空間が歪み、水中の様相を呈している。
海の星——Stella maris。聖母をかたどる人形は陶器の喉を震わせた。
「キラキラ輝ク小サなお星サま、あなたハどンな夢を見てイるの?」
邪気のない愛らしい微笑み。しかして無邪気たり得ない彼女の深淵を、六華は知っている。
いやというほどに思い知った結果が今なのだから。
「あラ、いイえ?コうじゃなイわ!だっテあなた、もう目覚メてしまッてイるものね?」
——ネえ。あなたハ、『どンな夢を見たイと願ウの?』
人形はうっとりと笑いながら六華の目の前で回りだした。少年の鼻先に贈られた人形の口付けは、優しくありながらその尊厳を嘲笑う。悪意の一切ない愛であっても人は傷つくことができるのだと、六華はぼんやりと追想した。
「なんデもいいノよ、どんな夢でも見せてあげる!だっテもう、終わっテしマっタもの」
六華の口元が静かに歪む。そうだ、終わった。奇跡を望んで争った自分たちの戦いは、あっけなく終わってしまった。六華が奇跡を手にすることなく。
ぎこちなく固まった関節が寒々しい。あれだけ欲しかった夢への道は、いまや崩れ跡形もない。
脳裏に次々浮かぶのは、ただこちらに手を伸ばしていた少年たちの姿。殺し合うこちらを本気で慮り助けようとまでした少年。鬼としての立場を忘れ手を伸ばした少年。あの頃のシニカルな笑顔のまま言葉を綴った少年。多くの少年がいて、多くの少年に勝ち続け、多くの少年を見送った。そして自分も見送られたのだ。自分に勝った、誰かに。
勝者は何を願ったのだろう。敗者は何を、願うべきなのだろう。
『勝てば奇跡を手に入れる、負けたら夢に溺れて帰れない』。
人形が六華に語ったのは、そんな文言だった。おそらく六華と同じように『負けてしまった』面々にも同じ説明が為されているのだろう、その口ぶりはこなれている。
初めから、何も失わず叶うなんて思ってなかった。奇跡を望んで宙に足を踏み出したのだから、勝利に届かなければ足を踏み外すのは当然だ。けれど。帰り道が夢に塞がれ息もできない暗闇ではどうしたって思考が鈍る。
——わたし、何がしたかったんだっけ。
「『大人になりたくない』。ふフ、変ナあなた。あなたはズぅっとそレが欲シかったンでしょウ?」
叶えテあげルことハしなイけど。夢見ルことは、自由ダワ。
人形の夢見る瞳にまつ毛がかかる。こちらに話しているようで、その実この人形は六華のことを少しも認識していない。知らない誰かの皮を被せられ、ただ従順に愛を受け取ることを強要されるのは慣れたものだったけれど。やはりいつまでも不快なのは変わらない。
だから少し意地が出た。
違うわよ、お馬鹿さん、と。
凝り固まった表情筋を必死に動かす。愛らしく、か弱く、儚く、無力な人間の笑み。私がいつまでも浮かべていたかった笑顔。その笑顔のままで言い切ったはいいものの、その実六華の脳裏に叶えたい願い事も、見たい夢もない。
もう疲れた。動きたくないし傷つきたくなかった。叶うならこのまま全てを投げ出して永遠に停止したかった。
「あラ。じゃアなあニ、あなたノ願イは?教エてちょウだい」
そうね。ことさらゆっくり、六華は口遊む。もう何もしたいことはない。何もかも、諦めて。誰かに任せてしまいたい。けれどそうね、あなたがもし、夢を見せてくれるなら。馬鹿げた夢物語に浸らせてくれるなら。
こんなのは、どうかしら。
——少年は願ってしまった。
かつては現実から逃げるため。そして今は、夢から逃げるため。
けれどそれは誰に責められるものでもなく。誰に笑われるものでもなく。ただ少年が生きるための、小さな希望の星のため。
闇が奇妙に歪み、海は渦を描き出す。悪夢の起こりはこのように。あっけなく見るも無惨に、人は心ごと身を流される。世界の起こりとおんなじに。
ここに願いは聞き届けられた。
役者を揃え、客を呼び、悪夢の幕は今こそ上がる。
一日目-朝
2
俺は、よく間違える。
言葉の返し方とか、質問への答え方とか、あとは愛への応え方とか。ほかにも色々。あげてもあげてもキリがないほど、間違いながら育ってきてしまったと自分でも思う。
俺がこれはもうやったな、なんて思う時は大抵気のせいだったし、これは知らないな、なんて思うことは大抵もう知っているはずのことだった。これはただ忘れてるだけかもしれないけど。
俺はいつもそんなふうだから、俺だけが何かを間違っているな、変だななんて思う時は大抵俺の方が間違っているものだった。周りが変なんじゃない。俺がおかしい。俺が悪い。おかしいのは自分だけ。そのくらいのことは、いくら俺だってわからないほど馬鹿じゃなかった。
だから。今日のこれも多分、俺がおかしいだけなのだ。
「……あれ?」
天馬家の玄関、扉を開けた瞬間に見えた光景に俺は足を止めた。花が置かれた玄関先に、見慣れたはずの道路。突っかけただけのサンダルが宙に浮いたままの片足からころんと落ちた。
大丈夫?と廊下の奥から母さんの声がする。聴き慣れているはずのそれは妙に浮ついて耳に馴染まない。
——まるで、たった今夢から覚めてしまったような。
いや。
今この瞬間、誰かの夢にころっと入り込んでしまったような。そんな変な感覚が胸の奥をぐるぐると駆け回る。
新聞を取りに行ったきりなかなか帰ってこない息子を心配したのか、父さんも不安そうにリビングの扉から顔を覗かせた。いつもならとっくに響くはずのポストから紙を引き抜く高い音と、俺のばたばたうるさい(とよく言われる)足音がしなかったからだろう。
しょっちゅう海外を飛び回っている俺が日本に、そしてこの家にいるのは帰省中の少しの間で、それはほとんどないといっていい短い期間だ。だから基本的に家の仕事で俺に任されるものはほとんどない。
でもそんな中でも、毎朝新聞を取りに行くのだけは部屋が一番玄関に近い俺の役目だった。
おおい、何かあったのか、と父さんに声を投げられてはっとする。
「なんでもな〜い!ちょっと寝ぼけちゃっただけ!」
しゃっきりしないとなあ、と落ちたサンダルを履き直し跳ねるように数歩外へ出た。『天馬』の苗字の下に父さんと母さん、そして俺の名前がアルファベットで書かれた表札についた水滴を指で払い、薄いビニールで包まれた新聞をポストから取り出す。昨夜は随分雨が降ったみたいだった。
新聞を小脇に挟みながらリビングへ戻ると、母さんも父さんも空になった食器を挟んでなにやら楽しそうに話していた。
「あーっ!二人とももう食べ終わっちゃってる!」
「はは、悪い悪い。随分起きるのが遅かったから、ついな」
「あんなに気持ちよさそうに寝てると起こせなくって。ごめんね」
大声は出してしまったけど、実際そんなにショックだったわけじゃない。確かに外の日差しは早朝のものというよりはもう少し経ってからのあたたかいものだったし、俺がいつもより起きるのが遅かったというのはなんとなく察せることでもあった。
でもそんなに遅かった気はしなくて、リビングの掛け時計を仰ぎ見る。文字盤では金色の秒針が痙攣したような動きをするだけで、長針も短針もぴくりとも動いていなかった。
「やだ、電池切れかしら?」
「あとで変えないとだな」
かわりに腕時計に目をやった父さんが音を立てて立ち上がる。本人が思っていた以上に時間が過ぎていたようだった。
「悪い母さん!もう出ないと」
「ふふっ。はいはい、仕方のない人ね」
父さんはバタバタとスーツのジャケットを引っ掛けて食器を下げる。最後に母さんに呼び止められてネクタイを直され、いってきますと玄関をくぐって行った。
「…でもどうしましょう、あの人に時計を直していってほしかったんだけど」
「俺やっとくよ!」
「あら、いいの?」
どーん、と俺は胸を叩く。ひとりっ子とはいえ、これでも俺は天馬家の長男なのだ。そんなにおっきいって程じゃないけど、父さんと同じくらいの背はある。掛け時計の電池を替えるのは昔からもっぱら父さんの仕事だったけど、今の俺でもできるはずだ。
しょっちゅう旅に出るせいで一年のほとんどは家を空けてしまう俺だけど、家にいられる間くらいは二人の助けになりたい。渡りに船、というやつだ。…違うかも。
「……こんなに大きく育ってくれて、母さん嬉しいわ」
そう母さんがあんまり柔らかく笑うものだから、なんだか俺も照れ臭くなってしまう。成長を褒められるのは、いつだってあったかくてちょっと恥ずかしい。でも悪い気分にはならないから不思議だった。
3
じゃあお願いね、とだけ残して母さんが出かけていき、一人になってしまった食卓で朝食をたいらげる。料理上手の母さんの料理は冷めても美味しい。
それから電池を探して棚の引き出しに手をかけた。中にはボルトやドライバー、それに使い切った電池用のビニール袋とセロテープ。確か時計の電池は単三だったはずだ。電池のスペースを引っ掻き回すけれど、見つかるのは大きくどでんと幅を取る単一と細くちんまり挟まっている単四電池。あの見慣れた大きさの電池はどこにもなかった。
う〜む。コンビニに行って買うのもいいけど、どうせだったら色々買いに行きたい。髪が長い俺がいる分、この時期我が家のシャンプーの減りは早いのだ。ちょっと距離はあるけど駅前の大きなドラッグストアに向かうことにした。
予定も決まったので、あちこちにはねていた髪を簡単に纏める。少し前に父さんに着られて洗濯待ちになったパーカーがハンガーに吊られたまま乾いていたので、ありがたくそれを羽織った。
玄関扉を押し開けて、ふとあたりを見渡す。
俺を囲むのはいつもの日常。あたたかい朝日に、少し冷えたそよ風。雨上がりの湿った匂い、鳥の鳴き声。父さんと母さんと俺の◾️人で暮らす、いつもの家。毎日迎えてきたはずの、平凡な朝。
なのに全部が、初めての体験みたいに思える。全部が満ちたりすぎているような、なのに、何かが足りないような。
そんな違和感に囲まれた朝を、どころか毎日を俺は今日から四日間送ることになる。
もしかしたら俺がこの時点で気づいていれば、ここから起こる出来事の全てをスキップして——なかったことにして、現実に戻れたのかもしれなかった。それが十分に可能なだけの材料は、この時点で揃っていたんだから。
でも俺は気づかないし、気づけなかった。過ぎたことをどう悔やんでもしょうがないけど、それでもやっぱりこういうところが俺の俺たるゆえんなんだと思う。
なにがどうしてこうなったのか、なにがどう捻れればこうなるのかはわからない。
でもやっぱりいつもみたいに、俺が悪いんだろうなあなんて俺は思うのだ。
「——ま、いっか!いってきます!」
—-
一日目-日中4
ううむ。それからすこしして、家から歩いて数十分のドラッグストアの棚の前、俺はひとりで頭をひねっていた。
電池を買うまではよかった。ちょうど残っていたのは一つの種類だけで、単三電池だという条件だってわかっていたからだ。
でも。いま目の前にある白く塗られた金属の棚には、ずらりとカラフルなシャンプーのボトルが並んでいる。いくつかの商品の前に貼ってあるポップも眩しくそれぞれの主張を続けていた。本日のお買い得品、売上何位、オススメ商品。言い方は違えど、どれもが言いたいことはひとつ。自分を選べ、という強い要求である。
俺はこういう時いつも、シャンプーをひとつずつ手にとって説明書きまで眺め回したくなる。ずらりと並んだ端から端まで、上段中段下段の隅々ぜんぶ。そうして増えた情報量を前にやっぱり選べないなあと諦めてその時目の前にあったものをえいと取るのだ。
結果としてはただ並んだうちのひとつをランダムに選んだだけで、だからそこに俺が解説を読む意味なんてどこにもないんだろう。
でもせっかくここまで強く主張されているなら、せめて全部きちんと見たという事実が大事なんじゃないかと思ってしまう。俺の悪い癖だった。
…流石に今日の店内は随分混んでしまっていたし、もちろんほとんど買いもしない商品を手にとるのだって行儀が悪い。だから大抵の場合俺の買い物は消化不良、というかすっきりしないままでも満足して終わってしまうのだ。
もう一度、今度は腕を組んでいかにも仰々しく唸る。俺自身、今は別にシャンプーにこだわりがあるほうじゃない。ないからこそ、こういう時困る。これにしようという決め手はないし、これは嫌だという決め手もない。随分迷って最終的に、やっぱりちょうど目の前にあったボトルを手に取ってレジに向かった。母さんに怒られたら、その時はその時だろう。
5
重々しい自動ドアに見送られてドラッグストアを出る。
外は随分強く風が吹いていて、乱れた髪がカーテンみたく俺の視界を覆った。いい加減髪を切った方がいいかもしれない。夏場にも差し掛かる季節なのだ、ちょうどいい。
そんなふうに能天気だった俺は、そのカーテンの奥。車道を挟んだ向かい側にあるものを目にして、その呼吸を止めた。
——それは、なんの変哲もない子どもだった。
俺と同じように乱れた長髪を片手で押さえて、捲れそうなふわふわした服をもう片方で押さえている。女の子、でいいんだろうか。そう断定するには妙な違和感があって、言い切れない。でも少なくとも、たとえ複数人で見たとしてもその子を男の子だという意見も女の子だという意見も揃うことはないだろう。しいていうなら、『かわいい』であれば揃うかもしれない。
なのに俺は——『変』の方が先に出てきた。
変、というか、ちぐはぐだ。まるで大人が子供のふりをしているようで、子供が大人のふりをしているみたいでもある。だけどそれだけじゃない、違和感の正体。
例えば人形のように動かないその表情。風に吹かれて、小さな体も細い足も簡単に飛ばされそうだという印象さえ持たせるのに、その不変性を保ったままただ俯いている子ども。奇妙で、異様で、愛らしいはずなのに恐ろしい。
その邂逅は、ほんの一瞬だっただろう。なのに俺にはそれが永遠にも感じられた。時間が、止まってしまったみたいで。夢を見ているみたいで。多幸感が全身を満たすのに、その全部が虚で、嘘みたいだった。
こんなに幸せで、会うのをずっと待ち侘びていたような感覚なのに。感覚の全てにこびりついた違和感が胸の奥で主張する。
この子は、こんなふうだったろうか。俺は、本当にこうだっただろうか。焦燥感に喉が乾く。違う、違う、俺は何かを忘れてしまっている。また俺は間違えているのだ。そうだ、名前。俺が知っているはずの名前。誰の?誰の。誰?誰?思い出せ、名前、名前!
名前!
「———『六華』、だ」
なまえ。
意識せず、俺の唇がそうこぼす。きちんと頭で考えた言葉じゃない。記憶の箱の中からぽろっと落ちてきただけの脆い響き。ただ呟いただけだと思ったけれど、意外と大きく響いてしまったみたいで周囲の何人かの視線がこっちを向くのを感じる。そしてその中には、その子どものものもあった。
ぱちり。
顔をあげた子どもは、俺の声を聞いて一度そう目を瞬かせて。同時にその顔をざあっと青ざめさせて。そしてその細い足で躊躇うように二、三度地面を踏んで。
——突然、踵を返して逃げ出した。
「え、ちょっと!?」
つられて俺も横断歩道を駆け出す。彩度の高い赤信号はぺかぺか俺を見下ろしていて、でも俺にそんなことを気にする余裕はなかった。
その子は、見た目より随分足が速かったのだ。ヒールのある靴を履いた子どもとスニーカーを履いた男の俺では歩幅も速さも俺が有利だ、とかかっていた俺はすぐにそれを改める。子どものその低い背丈は人通りの少ない道だからこそまだ見えているけれど、もし大通りにでも出て人混みに紛れてしまえば見失ってしまうことだろう。そう察するにあまりある逃げ足だった。
「っ待って!」
焦る俺が叫んだ瞬間、がくんとその子がバランスを崩した。何かに躓いたのか、服の裾を引っ掛けたのか。少なくとも本人が意図したふうな感じではなく、走っていたのと後ろ向きに、唐突に倒れそうになる。
速度をあげて思わず受け止め、抱きかかえる格好になると子どもの姿はより鮮明に見えた。
細くぱらつく長い髪。艶のある黒い靴から繋がる足に、ひらひらした布がいっぱいの舞台衣装みたいな子供服。なにより無表情の顔では丸い瞳が溢れそうなほど見開かれて、俺の顔をじっと見つめている。
「——何」
その子が出したのは、随分端的な言葉だった。もしかして本人としてはもう少し言葉を繋げたかったのかもしれない。でもその子の見開かれていた目と俺の唖然とした目ががっちり合ってしまって、気まずい空気のまま口が閉じられる。それからゆっくりその子の目が眩しそうに細められて——あ。いや、これ睨まれてるかもしれない!
慌てて俺は腕の中からその子を解放して、両手をばたばた動かす。何も持ってないよ〜というアピールのつもりだったけど、よけい怪訝な顔をされてしまった。
「えっと、俺は全然怪しいひととかじゃなくて。俺は君を知ってるっていうか…じゃなくって!」
距離を改めてよく見つめ直す。
遠目の印象はそのまま女の子みたいだったけど、その子はどうやら間違いなく男の子のようだった。ちょっとほっとする。こっちはほぼ成人男性みたいなものなのだ、流石に街中で少女を抱きかかえる絵面は危ない気がする。たとえ少年でもこれだけ幼い子だとイエローカードな気がするけど。
彼は、なんというのだろう、ものすごく複雑な表情をしたままぴたと動きを止めた。怒ってるのか、悲しいのか。どこか嬉しそうでもあるのに、その嬉しさを昔の思い出を見返すみたいに俯瞰してる顔。そんな、大人みたいな顔だった。
「——そう。『私』は知らないわ、アンタとなんて全然知り合いじゃないもの」
二の句が告げなかったのは、その少年の口ぶりに呆気にとられたわけじゃない。
女のひとみたいな口調はむしろ彼の持つ雰囲気にぴったり合っていて、男の子なのに、なんて普通抱くはずの違和感ごと少年が口を開いた瞬間に綺麗に拭っていった。
あっさりと『ああそうだった』なんて納得させるだけの一種の豪胆さがそこにはあったのだ。あるいは覚悟というか、そういうものが。
「ほら、だって。私の名前とか、今言える?」
立ち尽くしたままの俺を置いて少年がその高い声を空気に溶かす。俺はまだどこか呆然としてしまっていて、答えを口に出せない。いや、そうじゃなかった。
彼が口を開いた途端、さっきまで浮かんでいたはずのひとつの名前が俺の頭から綺麗に消えていたから。だから何も言えなくなってしまっただけだった。
「…言え、ない」
「でしょう?気のせいよ、アンタの気のせい」
強い言葉尻と反対に、どこかほっとしたように少年は腕を組む。それは自然なポーズのはずなのにどこかわざとらしくて、それこそ背伸びをしたおしゃまな女の子みたいだった。
「でも、じゃあなんで逃げたの?」
「アンタに追いかけられたから逃げただけでしょ」
「俺も逃げられたから追いかけただけだよ」
話が一向に進まない。互いに一歩も引かないのだから当然だけど。でも確かに俺は、この子が俺に気づいた瞬間くるりと踵を返したのをこの目で見ていた。逃げたのはこの子が先、で合ってるはずだ。うまく言葉がまとまらなくて頭をひねる。ここで詰まってても何もわからない、もっと別のところから訊いていかないと——と、唐突に閃いた。
「じゃあそれでいいからさ、名前!君の名前、ちゃんと教えてよ」
「名前?」
ね、としゃがみ込んで少年と目線を合わせる。見ず知らずの子供に名前を訊く、その行為自体の危なさはきちんとわかっていた。それでもただここではっきりさせておきたかったし、何より思い出したかったのだ。あの時思い出した名前がこの子の名前だったとして。その名前が、どんな響きを持っていたのか。その名前は、俺にとってどんな意味を持つものだったのか。
決して彼の名前が「そう」だったと決まったわけじゃない。けどそれは、俺にとってとても大切なものだったと気づけたはずの名前でもある。必死に思考を探るけど、俺の中身は全部空っぽで。それが虚しくて。せめてこの空白を埋めておきたい、と俺は思ったのだ。
「もしかして俺からの方がいい?それとも——」
「別にいいわ、忘れたままで」
その子はばっさり、俺の提案を切り捨てた。当然だ、少年から見れば俺は不審極まりないだろうし、そんなやつに名乗りたいわけもない。これも失敗かあ、とがっくり肩を落とすと少年は少し気まずそうに目を伏せる。
「言いたいわけでも言いたくないわけでもないから、言わないだけよ。別にアンタのせいじゃないから」
フォローになってない、かつなぞなぞみたいな一言まで加えられてしまった。子供に気を使われるって、我ながらなんだか悲しい大人である。
「…っていうか、忘れるって言っちゃってるじゃん。俺が君の名前知ってたって言ってるようなものじゃない?それ」
「言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
目を逸らしながら、それでもはっきり否定をつづけるその子は強情すぎていっそ面白かった。なんでこう賢いんだろ、と小さく声が少年から溢れるのも併せて。
「…じゃあ家族、お父さんとかお母さんは?さすがにひとりじゃないでしょ?」
「言いたくないけど言いたいから言わない」
どうも定番のセリフらしい。……ちょっと間違えてない?
でもどこか安心したのも本当だ。もしもそこでひとりだと肯定されてしまえば、自分は罪悪感で立てなくなるだろうと俺は無意識に理解していたから。どこから降ってきたかもわからない、身勝手な罪悪感。彼がひとりだという事実を、彼自身が認識していることに俺は耐えられない。……本当に、なんでだろう。
わからないことをわからないままにしておく、これはただの先延ばしだということまで理解していても。俺はその出どころを探りたくはなかった。
「友達は?」
「いな——言いたくなくないし、言いたくなくなくな……ない?」
「分からなくなるなら意地張らなきゃいいのに」
自分の言い回しに自分で困惑している目の前の子供は、今見ると意外と普通の子供のようにも思える。幼くて、中性的で、いっそ女の子みたいで、ちょっと変で、どうも友達はいないっぽい子供。友達がいないのは俺とお揃いだ。
少年に会った瞬間に感じた違和感、というよりちぐはぐな感じはもはやない。変ではあるけど、あの時ほど異質ではない。ぴったり馴染む感じだ。気分の悪くなるような感覚は、少年の高い声と一緒に世界の隅っこに押し流されていった。
「言い、言いた、なくなく……?」
「わ、ゲシュタルト崩壊におちいってる」
「ゲシュタルト崩壊って何?」
「……なんだろ?」
二人で首を捻る。たぶん俺たちは、今世界で一番頭の悪い会話をしてる。
少年がずっと笑わないのもあって側から見ると喧嘩のようなやり取りではあった。でもその声色があくまで柔らかいことに、俺は気づいていた。
そう、楽しいのだ。こんな中身のない、進まない言葉の投げ合いが互いに楽しくて仕方ない。朝からずっと頭のどこかを占めていた違和感を、俺はこの時にかぎっては綺麗に忘れてしまっていた。
ずっとこんなことを望んでいた気がする。ずっと、自分はこんなふうに誰かと話していたかったような気がする。こんな、ありふれた時間の無駄遣いを、『◼️◼️』と。
「——あ」
頭上のスピーカーから電子音がかった音楽が流れて、会話が途切れる。街中に響くそれは夕方の知らせで、録音された声が帰宅を急かしてくるのが重なって何度も聞こえていた。
見回すとあたりはすっかり真っ赤に染まっていて、俺と少年の足元からは長く影が落とされている。
「帰る時間、なんじゃないの」
爪先で俺の影を踏んで、その子はつぶやいた。位置関係がちょうど俺の真横に行ってしまったせいで、髪に隠れたその表情は伺えない。
確かに、この時期は日が長いとはいえもう遅い時間だった。ここまで拘束してしまった俺が言うのもなんだけど、俺よりもむしろこの子の方が帰った方がいいんじゃないだろうか。
そんなことを伝えると、その子は
「アンタが帰るまで、私は帰れないから」
なんてゆっくり首を横に振った、みたいだった。不思議な言い回しだ。それじゃあまるで、俺が彼の帰りを邪魔しているみたいだ。この子はやっぱり俺に何かしらの恨みがあるのかもしれなかった。気づいてあげられないのが、忘れてしまうのが惜しいと思うのはいつものことだけど。今日はことさら強く、自分の中にある虚の輪郭を知った気がした。なのに。
「——また、会いにきていい?」
俺はそう言っていた。
なんて、ひどい話だろう。この子はこんなに俺を拒絶しているふうなのに。俺はちっとも、そんな風には思えなかったのだ。むしろ全部許されているようで、居た堪れなくなるほどに。だからいつもわかってない、伝える力がないんだなんて言われてしまうのだろうか。誰に?誰かに。誰が?…誰が?
落とした声は自分で思ったより震えてしまっていて、自分でも情けないと思う。でもそれを聞いても、その子はちっとも笑わなかった。今の俺にはそれがありがたくて、なぜだか同時にいますぐ逃げ出したくもなってしまった。それは多分、抱えきれないほどの罪悪感から。理由もわからない、だけどなぜか自分のせいだと思える罪悪感から。
その子は少し、というより相当長く考え込んでいた。答えの是否を悩んでいる、というよりはどんな言葉なら言えるのかを考え込んでいる、言語に不慣れなひとみたいに。
考えて、考えて、考えて。
ようやく少年が顔を上げる。
「そのくらい、自分で考えなさい」
彼が俺の目をじっと見据えて言ったのは、そんな随分聞き覚えのある叱りの言葉だった。
?日目-悪夢
6
——誰かが、何かと話している。
光をすっかり吸収しきった闇が空間を覆う、それは見覚えのある暗闇だった。重力は無く、引力も無く。宇宙に生身で放り出されるがごとき虚空の浮遊感は、ヒトの正気を少しずつ削っていくには十分な感覚だ。それさえもただゆらゆらひらひら揺らめいて、この空間の儚さを証明していた。
一時の夢にさえ満たぬ、目を覚ます直前の微睡のような一瞬。悪夢と現実の間の意識の隙間。それが、ここなのだと誰しもに否応なしに感じさせた。
「——六華を、どこに連れていくの」
そんな闇を目にしながらも少しも鈍らず、あどけない顔立ちに似合わぬ厳しい声で問いかけるのは、かつて大人になりたいと願った少年。
彼の彩度の高い瞳が睨む先では、凝った装飾で身を覆うビスクドールが薄く笑みを浮かべている。くるりと巻かれた金髪の隙間から、蠱惑的な硝子の目玉が少年に笑いかけた。
「夢の中へ、願いガ叶うコとはなイけレど。…クフフ。こレじゃあノ時の真似っコね、ナナセ」
愛らしい笑い声が複数の金属音に似た響きとともに少年の心を削る。なるほどそれはかつての再演に相応しい茶番だった。少年が今ここにいることこそ彼が願った証左であり——その願いが叶わなかったという、証明なのだから。
だというのに少年は少しも揺らがない目で人形を見すえる。その芯のぶれなさこそが少年の強さであり、狂いの始まりでもあったのだが。
「あなたハどウするの?キラキラ輝ク小サなお星サま、あなたハどンな夢を見たイと願ウの?」
「六華と同じ夢。同じところに、追いかけに行くから」
一も二もなく少年が告げる。そこに選択ができない、選ぶことを放棄した青年の面影はない。愛する責任を取るために自らのためだけの優しい夢を捨てるなど、いまの彼にとっては容易いことだった。愛するもののために結果的に短くなった人生の半分を投げうったことさえあるのだから。
熱烈ネ、なんて人形が陶器の頬に手を当てる。
「可能でハあるワよ。モともとあナた役も用意すル予定だっタもの」
役者 は必要だから、とでも言うかのように人形が笑った。ひんやりとした陶器の肌が、かつて斜陽に照らされそう在ったように。
「ソれでモ、決めルのハあなた。
どうするの?愚かなナナセ。あなたは、あの子の夢の役者になれる?」
人生で初めての、自分だけのための優しい夢を捨ててまで。あの子に会いに行くの?
ビスクドールの小さな手が少年に差し出される。ひどく優しげなそれは、少しでも少年が拒めばあっさりと翻され二度と差し出されないであろうことが明確だった。
彼女は全てを嘲笑う。ヒトの足掻きを、願いを、宙から静かに見下ろしている。特別悪意があるわけではない。彼女はただ、そういう関わり方しか知らないだけなのだ。
所詮『相手にしてあげられること』は、『自分が誰かにされたこと』の範疇にしかない。ヒトも人形も、それは等しく。
彼女はそういうことしかされなかったから、そういうことしかできなかった。それだけの話だ。
それだけの話でしかないことが、こんなにも悲しいというだけで。
「——あ。そっか。ティンクは、『そう』なんだ」
「アラ、何か?」
少年がふと、腑に落ちたように笑う。そこには先ほあで少年の周りを満たしていた敵意は微塵もない。
少年はただ一個の人間として、目の前のかつて少女だったものと向き合っていた。
地に捨て置かれた人形を優しく抱き上げて目を合わせるように。あるいは、天におわす神を無理やり引きずり落として目を合わせるように。
「君って結局、願いを叶えてあげたいわけじゃなかったんだね」
少年は、基本的に愚かである。考えないことばかりを考えてきた人生で彼が理解できたことなど、常人の一握りにしか満たぬ些事ばかりだった。
けれどだからこそ、誰も気づけ得ぬことに気づけるのが彼であった。
「………」
「んん?こうじゃなかった!願いを叶えたいのはほんとだよね。でもティンクのそれは、相手に幸せをあげたいわけじゃない」
稚拙な論理に、要領を得ない口上。
「相手の現実に幸せをあげたいんじゃない」
けれどそれは、未だ幼い少女の自我を残す人形には。
「それってけっきょく——」
「……フ、フフ、クフフふふフフフフフ!」
十分に、逆鱗への攻撃たり得る一撃だった。
「イイわ、侮ってゴめんナさい?そウね、アナタはソうダった。初めカらソうダったワね。考エないコとヲこソ考エていルだけ——クフフ、盲点ヲ突かレた気分」
人形の薄い唇が忙しなく動く。血液など通っていない、代謝など知らぬ体で。それでも人形は冷えたものを背に感じていた。体が感覚に追いつかれたその感覚を、人は動揺と呼ぶ。
「え?ちょっと」
「そウね。もトをタどれバ初メからアナタは穴埋めダったワケだし——こウしまシょうか」
人形が小さな手で器用に指を鳴らす。途端生まれた渦潮のごとき流れは暗闇を大きく揺るがし、その一端で少年の足を掴んだ。
「うわ、わ、わわわわっ!」
「アナタを招待しテあげる。でモ意地悪なあなタには、ほンのちょっぴリの枷モつけテ、ね」
「な、なんて〜っ?聞こえない!かせ?」
渦に呑まれながら、それでも少年は顔を上げる。すっかり遠のいて暗闇に紛れかける人形を必死に見つめ続ける。一瞬でも目を逸らせば失ってしまうと怯えるように。
その視線を振り切って、人形はその虹色じみた翅をはためかせた。二者の距離はみるみる開いていって、未だ会話ができるのが不自然なほどでさえある。
それでも声を張り上げることもなく、細い陶器の喉を高い金属音で震わせて人形は告げる。
「枷、いイえ、あなたニ罰をあゲるわナナセ。せいゼい同じ夢ノ中で、あノ子を幸せニしテあげテちょウだイね」
私にはできないことみたいだから。
暗闇はとっくに人形の姿を覆っていた。でなくても、渦に呑まれた少年がその姿を正しく認識し続けることなどすでに不可能だった。
それでも。それでも少年は、その暗闇に何かを見た気がして声を上げる。
「———ティン」
二日目-朝
7
自分の悲鳴で目が覚める体験は初めてだった。
汗でへばりついたTシャツの襟をつまみ上げて軽く仰ぐ。久々に悪夢を見たみたいだ。
夢の内容こそ朧げだったけど、どこか見覚えのある光景だったことだけは覚えている。それに、
「——枷」
枷。その言葉に思わず自分の手を見る。当然だけどどこにも枷なんてものはなくて、ただ血管だけが手首に紫がかって透けていた。
あの夢が何だったのか、あの人形は何だったのか。考えれば考えるほど夢の内容はぽろぽろ欠けて弾けて消えていく。なにも、思い出せなくなる。
悪夢を忘れる。それはきっといいことのはずなのに、俺の心臓は嫌な跳ね方をして落ち着かなかった。
「…そうだ、新聞。取りに行かなくちゃ」
不安を振り払うようにことさら明るく宣言をして、ようやく立ち上がる。寝汚い方ではないけど悪夢を見た日の朝はやっぱりすっきりしない感覚だ。脳にモヤがかかってるような。後ろ手に扉を閉めながら片手で髪をまとめる。廊下を歩く足は裸足のはずなのにやけに重くてのったりしていた。
玄関扉から顔を覗かせる。昨日とは打って変わって空には雲がいっぱいで薄暗い。肌寒い風にまとめた髪が靡いて視界が埋まるのをなんとか手でかき分け、ぼうっと表札の方へ足を進める。
突っかけたサンダルをことさらゆっくり履き直してポストに手をかけた。
ポストの中身は空っぽだった。
空っぽ、だった?
首を傾げる。そんなはずない。ポストに突っ込んだ手で底面をがさごそ探ってみるけれど、手には冷たい金属の感触がつるりと届くだけだ。
いよいよ朝寝坊が極まってしまって、母さんに先に取られてしまったんだろうか。俺の数少ない朝の仕事がひとつ減ってしまったわけだ。そこまで考えて俺ははた、と灰色の空を見上げる。
「そもそも、なにを取りにきたんだっけ」
さっきまでは覚えていたはずのそれが、頭からすっぽり抜けていた。
8
釈然としないままリビングに戻ると、母さんが空の皿を前に立ち上がる最中だった。一度外に出たせいで枯葉が髪についていたみたいで、背伸びをして頭に手を伸ばされる。
「ふふ。ぼんやりしてどうしたの?珍しい」
そうやって母さんに笑いかけられると、いつもどうしていいかわからなくなる。何を考えていたのかも忘れてしまう。
だから食卓の向こうにいるはずのもう一人、父◼️◼️に助けを求めようとして。
逸らした視線の先に、ひとつの空席がぽつんと映った。
誰も座っていない椅子は、俺のものでももちろん母さんのものでもない。じゃあ誰のものか、と言われても言葉が出てこない。あの席に座っていたはずの、毎朝あそこで朝刊を広げていた『誰か』。その存在が、俺の頭からはすっぽり抜けてしまっていた。
「なんでもない!ちょっと寝ぼけちゃっただけ」
そう、寝ぼけただけだ。変な夢を見たせいでぼんやりしているだけだ。
そんなわけがない、とどこかで誰かが叫んでいる気がする。朝聞いたばかりのひどく枯れた悲鳴だったから、ああ俺の声だ、とすぐに察しがついた。いつもだんまりな自分が声をあげてくれるのは嬉しいけれど、今だけは少し静かにしてほしかった。
笑った拍子に母さんの手は俺の頭から離れてしまって、少しだけ頭が軽くなる。ずっと錆びついているような頭だったのに、最近は特に動きが鈍い気がする。目の前のものがよくわからない。目の前のものが本当にきちんとわかっていることなんて、今まで一度もなかったけど。
「やだ、電池切れかしら?」
はっと顔をあげると、母さんが壁の掛け時計を見上げて首を傾げていた。つられて見上げた時計の文字盤では痙攣したみたいに震え続ける金の秒針に朝日が反射していて、俺は一瞬目を細める。
「俺やっとくよ!」
「あら、いいの?」
ぽん、と俺は胸を叩く。ひとりっ子とはいえ長男なのだ。俺もそんなにおっきいって程じゃないけど、さすがに母さんよりは大きい。掛け時計の電池を替えるのはいつも俺の仕事、だったはずだ。
俺がいない間、母さんの代わりに高いところの作業をしてくれる人なんていないのだ。しょっちゅう旅に出るせいで一年のほとんどは家を空けてしまう俺だけど、家にいられる間くらいは母さんの助けになりたい。
「こんなに大きく育ってくれて、母さん嬉しいわ」
笑う母さんの声が本当に嬉しそうで、なんだか鼻の奥がつんと痛む。
そういえば、母さんに撫でられたのだって随分久しぶりだった。長く二人で一緒に暮らしているのに変な話だ。
大きくなってしまうとそういう機会が減るらしい、と聞いたことがあるけれど。それなら大きくならなくてもよかったかもな、なんて俺らしくもない考えに笑ってしまった。
9
母さんが出かけてしまって、一人で片付けた朝食の皿を洗う。冷えた朝食は味がしなくて、夢の中でものを食べている時みたいだった。
そうだ、電池。思い当たる引き出しを開けるけれど、目当ての単三電池はどこにもない。少し前に買い足したような気がするのはきっと気のせいだろう。
買いに行かなくちゃいけない。義務感みたいな言い方をしてしまうけど、その実俺はちょっとほっとしていた。
朝から妙に、空間に空白を感じる気がして落ち着かなかったのだ。ひとつ多い椅子に、ひと組分多い大きな箸。茶碗だって二つあれば十分なはずなのに、俺のよりもひとまわり大きい茶碗が使い込まれた風にしまってある。全部が全部、俺に非難の目を向けてきているような気がするというのはさすがに言い過ぎだけど。
悪夢を見た日の朝はナイーブになりがちだ。頬を二、三度ぺちぺち叩いて、髪を軽くまとめる。まずは電池、それから切れかけてたシャンプー。買い終わったら適当に散歩もしてしまおう。
四日目にはまた別の国に向かう予定なのだ。日本にいられる短い期間くらいは、あたりを見て回るのもいいと思う。いいはずだ。間違ってない、はずだ。
湿気のない初夏の空気をすう、と吸い込んで、
「行ってきます」
と呟いた。当然だけど、返事はどこからも返ってこなかった。
二日目-日中
10
電池を買って、シャンプーも買って。重々しい自動ドアが開いた先の道路と向き合って、俺はううむと唸ってしまう。思ったよりも早く用事が済んでしまった。いつも買い物は何を買うかで迷ってしまうはずなのに、随分効率よく買えてしまったものだ。まるで、昨日と同じことを繰り返しているみたいなスムーズさで。
まっすぐ帰るには早すぎる、かといってどこに行くかの決め手はない。普段いないとはいえ、元はこのあたりに住んでいたのだ。今更見ておきたいと思うような観光名所も特には思いつかなかった。
いつもみたいに散歩でもしておこうかな、とアスファルトに引かれた白線を見つめる。車道が広いせいか、ここの横断歩道は信号の変わりが遅かった。気休め程度に腰の高さのボタンを押してぼんやり赤いシルエットを見上げる。
横断歩道というと、横じまのうちの白い線だけを踏む遊びを俺は昔したことがある。踏んでいいのは白線だけで、はみ出すとアウト。アスファルトの黒地をサメがすむ海にしたり煮えたマグマにしたり、いろいろと語って遊んだものだった。ひとりで?うん、ひとりで、だったはずだ。
目の前の黒い海がしんと静まり返っていたのもあって、緑の光に照らされながらあの頃のように歩き出す。一歩、二歩、三歩。
——足を止めたのは、渡る先の車道に見覚えのある車が停まっていたからだった。
人が数人横たわっても橋をかけきれないくらい広い範囲。アスファルトが覆うそこに、ぽつんと唐突に停まるワゴンは妙に目を惹いた。
白い陸地につま先をかけたまま少し考えて、身体をぐるりとそちらへ向ける。
いつのまにか信号の直立したシルエットが赤くこっちを見ていたけれど、横断歩道は誰も、どころか何も通っていない。しんとまっさらな車道が広がっているばっかりだ。それでもなんだかバツが悪かったので、小走りで素早く向こう岸へ渡った。
「こーきょーの場は禁煙だよ、おじさん」
「え?…うわぁっ!?」
車窓からはみ出た後頭部から伸びる細い煙に声をかける。それにバネのおもちゃみたいにびょいんと跳ね上がったのは、見知った顔のおじさんだった。肩かどこかをぶつけたみたいで鈍い音と呻き声、それと慌てて消したっぽい煙草の香りが風に乗って届いて、反射的に煙たっ、と咳が飛び出す。あと一年で吸える歳とはいえ、煙草の煙にはいつまで経っても慣れないものだ。
「て…、天馬、くん」
おじさんは俺を下の名前で呼ばない。忘れないようにするため、とかなんとか言ってた気がするけど、随分前のことだったから詳しいことはもうあんまり覚えていなかった。
その時は紛らわしくて困らない?と思った気がする。
でも紛らわしいも何も、俺の知り合いに天馬なんて苗字の人はいないし、家族のなかでも天馬『くん』なんて歳の男の子は俺だけだ。そう母さんに笑われて確かにそうだね、なんて調子でその話は終わったけど、いまだになんでおじさんが俺を苗字で呼ぶのかはナゾのままだった。
「——いやあ奇遇、奇遇も奇遇!渡りに船だよ天馬くん!実はおじさん、道に迷っちゃって」
「迷った?」
俺が開いた窓からハンドルのそばのカーナビを見やると、そこには眩しい青色の画面がひとつ。
「なにもしてないのに、カーナビって壊れるものなんだねえ…」
「おじさん実は機械オンチ?」
「ぎくぅっ!」
漫画みたいな効果音で車内に崩れ落ちるおじさん。そっかあ。探偵って機械とか、大事なんじゃなかったっけ。脳みそに機械仕掛けのスケートボードとスニーカーを携えた眼鏡の少年探偵が浮かぶ。
「でもおじさんは真実はいつもひとつなんて言わないか。だからかな?」
「君の思考回路はときどき謎だね」
身体は大人、頭脳も大人。それならおじさんは何?
首を傾げてみればおじさん大喜利は苦手なんだけど!と茶髪ががっくり下に垂れる。結局イケメン有能探偵で決着したみたいだった。
頼れる探偵、みんなのヒーロー。幼い頃の夢を本気で追いかけるおじさんは、たしかにこれでも探偵事務所の経営者なのだ。経営者がこんなところでふらふらしてていいのか、というのは別として。
そこまでいうなら、一個くらい探偵らしくお悩み解決でもしようかなー!とおじさんのサングラスの奥の目が弧を描いた。
「……それで。君は今、何か困ってることとかある?」
困ってること。それなら昔から今まである程度はずっとある、むしろ最近は困ってないことの方が少ないかもしれない。けど、そのほとんどは俺のせいなのだ。最初からわかってることをわざわざ推理させるのもなあ、と記憶をさぐる。
「あ」
そうして浮かんだのは、あの長髪の男の子の姿だった。
11
「なるほどねえ、変な少年」
こんな相談を『単に変わってる子ってだけじゃない?』と切り捨てないあたり、やっぱりおじさんは優しいんだと思う。もしかしたら心の中じゃお遊びくらいにしか考えてないのかもしれないけど、一応は乗ってくれる。優しくて、苦労しそうなひとだとらしくもなく自分の髪をいじった。
「現実的に言えば…見た目よりも年上だっただけとか、そういうことじゃないんだよね?」
言いながらもおじさんはなんだかしっくりこないようで眉を顰める。たしかにそういう感じじゃなかった。単にちっちゃいってだけじゃなくて、本当に子供そのものなのだ。どこが、とは具体的には言えないけど。幼くて、可愛い感じで……本当に、女の子みたいな、男の子なのだ。
アスファルトにぴたぴた落ちる油の雫がそのままクイズ番組のカウントみたいにさえ思えてくる。五、四、三と刻んでいって、最後の最後には爆発する映像で時間切れになるあれ。そんなことをぼんやり思っていると、唐突におじさんが口を開いた。
「そこじゃないのかもね」
一瞬なんのことかと思ったが、おじさんがおじさんなりに考えたさっきの問いへの答えらしかった。
「そこじゃない?」
「うん。その子、聞く限りだとそんなに逸脱してるって感じじゃないな〜って思って」
「え」
俺の話が下手だったんだろうか。
そう考えていたのが顔に出ちゃったのか、おじさんはちょっと焦ったように手をひらひら振って否定する。
「そうじゃなくてさ」
君がその子を異様だと思ったのは、その子と深く会話する前だったんでしょ?遠目で見た時点で、『なんか変だな』と目を惹かれていたわけだ。
でもその時点の君は、その子の内面を知らない。そこにある情報は、外見とか……窺い知れても、仕草くらいだよね。
「だったらそもそも、内面に違和感を抱くことはできないんじゃないの?」
指摘されて初めて、あ、と納得した。
そうだ。会話すらしてないのに、その子の性格が変わってる変わってないなんてわかるはずもない。なのに俺は一目見てその子を『変だな』と思った。なんか違う、というより、ちぐはぐというか。
「要は君が感じてる異様性——つまりギャップは、別のところにあるんじゃないかってこと、だよ」
変なのは、中身じゃない。『そこじゃない』のかもって。
「……おじさん、探偵みたい」
「ふふん。じゃあ探偵ついでにもうひとつ。だったらなんで、君はその子を『変だ』と思ったのかな?」
疑問形ではあるけど、おじさんは一人でなんだかすっきりしたような顔をしている。というか、子供にクイズを出す大人はだいたいこんな顔だ。自分がわかっていることを、どうすれば目の前の子供に伝えられるか考えて。子供が悩む様子をちょっとの不安と一緒に見守っている。
この分だとおじさんはもう答えが出ているんだろう。自分のことなのに自分よりも他人の方がわかっているというのはちょっと悔しい気にもなる。頭を右に捻り左に捻り、俺はようやくあ、と手を叩いた。
「——似てた」
そう。その子は、似てたのだ。
誰にとは言えない。テレビで見た人なのかもしれないし、夢で見ただけの誰かかもしれない。
でも、似てた。誰かに似ていて、誰かに似ていたけど、何もかもが違った。例えば髪の靡き方、例えばその表情。例えばその瞳。
そして例えば、その年齢、とか。
おじさんはサングラスの奥で目を細める。おじさんの表情はサングラスを抜きにしたっていまいち分かりにくいけど、なにやらほっと安心しているみたいだった。
「君がその子に対して変だと思ったのは、ただその子単体が変だったってだけじゃないんだと思う」
これはおじさんの妄想なんだけどね、と前置きして、おじさんは口を開く。
「君の抱くその『誰か』のイメージと、その子のイメージが違ったからちぐはぐに思えたんじゃないかな」
12
腑に落ちた、気がする。
子供が大人みたいに思えるから、じゃなくて。男の子が女の子みたいに思えるから、でもなくて。
そこにいるはずもない人間の面影を、全く違う他人から全く違う形で感じているから、異様で不気味な人間に思える。
「それってひどい人間じゃない、俺!?」
がばっと頭を抱えてしゃがみこんだ俺に、おじさんがちょっと目をみはる。
なるほど、珍しいとは思ったけど、だからか——。なんておじさんの声が聞こえた気がして顔をあげる。そこにはいつもの飄々としたおじさんが、プリムラ色のサングラスに光を反射させてただ微笑んでいるだけだった。
「あー、ごめんね。もっと話してたいところだけど。おじさん実はそろそろ欲望渦巻く悪夢の深淵に、この身を捧げないといけなくて」
つまりは子どもには言えないような場所に行くらしい。
俺ももう十九になって、成人とは言わないまでも大人だと思うんだけど。おじさんにとっては今も昔も、俺は子どもみたいなものなんだろう。
ここをこうすればいいのかしら〜?なんて人差し指をぴんとたてておじさんがカーナビを操作するけど、見るからに危なっかしい。
見てられなくて俺が窓から手を差し入れて、ボタンを押して何度か操作をすると、あっけなく画面は元の地図を示しなおした。目的地に設定されてるのは見覚えのない地名で、この辺りを通るような場所にあるとは思えない。家がこの辺りなのかな?
「そういえばおじさんって——-」
どこに住んでるんだっけ。そう口を開こうとして思考が止まる。
…そもそも、おじさんとはどこで知り合ったんだっけ?公園で…じゃ、なくて。デパート?でも、なくて。あれ?
「ん?どうしたの?」
「なんでもない!頑張ってね、おじさん」
手を振ると、一瞬おじさんの顔が泣きそうに歪んだ。そんなに人の激励に飢えていたんだろうか、このひと。そういえば昔、頑張れと応援してもらえるだけで嬉しくなる大人もいるんだなんて冗談めかして話していたけど。
「——うん。ありがとう、天馬くん」
エンジン音が遠ざかる。今度会えたら、おじさんのことはもうちょっと労わってあげたい。でもなぜか、その今度がある気は不思議と全くしなくて。これが最後の出会いみたいにさえ思えてしまって、どうせならさっきもっときちんと挨拶しておけばよかったな、なんて思った。
車が走り去ったあとに残された道路をじっと見る。
横断歩道。踏んでいいのは白線だけで、黒い部分を踏むと——なんて。オイルが滴ってまだら模様になった黒いアスファルトは、海にも見えてマグマにも見えて、ひょっとすると空に浮かぶ雲みたいだったけど。やっぱり今見るとただのアスファルトにしか思えなかった。
それにしても、探偵って本当に色んなところに行くんだ。なんで俺に行き先を伏せようとしたのかはナゾだけど。
遊園地って、別に子供に伏せるようなものでもないと思うんだけどなあ。
13
おじさんが去ってすぐ、どこへ向かうでもなく俺は歩き出した。手持ち無沙汰だったのもあるけど、一番はさっき話題に上がった昨日の子のことを思い出したからだ。
俺の勝手なイメージで彼を『変な子』としてしまったことに今更罪悪感が湧いた、というか。もし本当に、俺のあの子への印象の理由がおじさんの推理通りだったとして。だとするとやっぱりあの子は変な子でもなんでもなく、普通の子だったということになるのだろうから。
普通の、それも子供を変扱いしてたんだあ、みたいな…自分に対するがっかり感とか、多分そういうあれ。わかんないけど。
だからきちんと、自分から会いに行こうと思ったのだ。会いに行って、謝るとは言わないまでももう一回、今度は前印象なしで話せるようになりたかった。
昨日だって明確に会いにいくと約束できたわけじゃない。でもかといって、会いにきちゃだめと怒られたわけでもない。はぐらかされたような別れにはなってしまったものの、俺には確信めいたなにかがあった。あの子はきっと今日も、ここに来る。
相手が来る、と分かっているなら本来は立ち止まって待っておくべきなんだろう。ふつうお互いがお互いに探して歩き回っていては合流もままならないはずだ。でもそれじゃ駄目なのだ。多分。俺は今度こそ、あの子に会いに、歩き出さないと——。気持ちばっかりせっついて、ただ歩いているだけなのに足がもつれそうだった。
そういう感覚にいっぱいいっぱいだったせいか、俺は当然気づくべき違和感に気づかない。
俺に、昨日電池を買った記憶はない。だってそうじゃないと、今日も時計が止まっていたことの辻褄が合わない。だから当然昨日俺はドラッグストアなんかに出掛けていないし、誰かの代わりに時計の電池を変えたりもしていない。そして今日家に、どころかこの世界にいなかった◼️◼️◼️がその『誰か』であることなんて気づかない。◼️◼️◼️の不在に気づかなくていい。辻褄合わせって、そういうものだ。そういうものじゃないといけない。
だから昨日、ドラッグストアの前で小さな子供と会っているなんてことあるはずない。そんなのは絶対、辻褄が合わないのに。
なのに俺は、彼の存在を否定できないのだ。これは罪悪感とか勝手なイメージとかとは全く関係なく。
俺の意思とは関係なくそこにある感じが、あの子からはする。そして多分あの子からも、あの子の意思とは関係なくここにある感じが俺からはしているのだと思う。
頭に浮かぶのはドットの荒いゲームの画像。横長の画面を往復するいかついキノコのキャラクターと、ぴょんぴょん跳ねる赤い帽子のおじさん。もしくは妙に機械的にパンチを放つキャラクターと、操作に合わせて俊敏に技を繰り出し続けるアバター。
ノンプレイヤーキャラクターに対する、プレイヤブルキャラクター。
そして多分◼️◼️◼️は——というより一部をのぞいたほとんどはいわゆる『ノンプレイヤー』で。
あの子と、そしてひょっとしたらおじさんも『プレイヤブルキャラクター』。そんな区分けをすると、雑っぽいだろうか。
おじさんは俺を否定できなかったし、俺もおじさんを否定できなかった。俺があの子を否定できない分、あの子も俺を否定できない。だから俺は今もまだ、のうのうとここに居られている——ような、気がしてしまう。
らしくもなく考え込んでいたら頭が痛くなってしまって、う〜んと伸びをした拍子に何を考えていたのかを忘れた。ちょっと残念だったけど、そういうものだ。そういうもので、いいはずなのだ。たぶん、まだ。
そうしてドラッグストアと家の間、細い道を進むうちの曲がり角に、俺は小さな人影を発見した。
人影はひょこひょこと顔を覗かせては隠れ、あたりを見回しながら動かない。ああやっぱり。待ち合わせは、片方が待っているべきものなのだ。
もう一度顔を覗かせた彼と目が合う。彼は何か言いたげに口を開いたあと、そこから空気ひとつ漏らさずにもう一度閉じた。それでもその口のかたちから何が言いたかったのかはおおよそ察しがつく。
だから俺は笑って、今度はおじさんみたく驚かせないように音量を絞るべく息を吸い込んで、
「おはよう。それと、おまたせ」
なんて先回りしてやるのだった。
14
「ふうん。そう」
道端で世間話を続ける中でおじさんと話したことを——つまり俺が彼を変な子だと思っていることまで——うっかり滑らせてしまった俺に少年が返した言葉は、そんな淡白なものだった。
「…怒らないの?」
意外だ。普通誰だって、変だと言われたらショックだし怒りだすものだと思うんだけど。少年は特に気を張るふうでも意地を保つふうでもなく、ただ不思議そうに首を傾げていた。…傾げているんだと思う。長い髪で首元が隠れているのを踏まえても、それはなんとも不自然な仕草だった。俺と彼の身長差のせいで見上げながら話す格好になっているからかもしれない、と俺が視線を合わせようと屈むと無言のジェスチャーで拒絶された。そんなあ。
「怒るもなにも。おじさんと話せたんでしょ?よかったじゃない」
少年はあっさりそう続ける。なるほど彼はおじさんの話題の方に気をとられていたようだった。助かった、と安心すると同時にわずかに思考がつっかえる。
おじさん。俺がどこで会ったのか、どうして知り合ったのかを思い出せない人。口ぶりからすると、あの人のことをこの子もどうやら知っているらしい。
知り合いってだけよ、名前も知らないおじさんだもの——なんて言っているけど。その割には随分と親しげに話している。地域のヒーローは、子供にも人気らしかった。
「でもおじさんもずるいなあ。きみのこと知ってるんだったら、話した時普通に教えてくれればいいのに」
「気づかなかっただけよ、多分。私、あの人とはじめ話した時と今ではずいぶん違うし」
「えっ」
思った以上に間の抜けた声が出てしまって、俺は慌てて自分の口を塞いだ。
考えてみればその通りだ。何年も変わらない人なんていない、子供なら尚更少しの期間でもめまぐるしく変わるものだろう。なのに俺はそれがどうにも想像できなかった。
彼がいつまでも同じ身長だとか、ずっと前からそんな口調なんだとかを思っていたわけじゃない。
それ以前に、『この子はいつまでも変わらないものだ』と無意識に思っていた。そういう、さっきあげたようなイメージの一種。こんなところにも俺の偏見はあったらしい。
「ああ、でも。おじさんがここにいるんだったら、目的は同じか」
あの人も、たぶん——。誰に言うでもなく、少年の高い声が風に消える。
目的。そりゃあそうだった。今日はもしかしたら俺に会いに来てくれたのかもしれないとこじつけられるけど、昨日の時点で彼がドラッグストアの前をうろついていたのには多分彼なりの理由とか。それこそ目的があったんだろう。
おじさんの目的は、俺が考えるなら依頼とかそういうのになってしまうんだけど。だとすると彼と同じというのは噛み合わない。探偵に何かを依頼する人はいても、小さな子供に依頼する人はいないだろう。彼は、彼なりに。そしておじさんはおじさんなりに。仕事ではない何かしらの目的があったんだろうか。
少年の呟きは別に俺に聞かせたかったものでもなかったらしくて、すぐに別の話題に押し流されていった。
「うーん。にしてもやっぱり意外かも。仲良くできるものなの?おじさんって、きみのお父さんくらいの年齢じゃない?」
「流石に。知ってるでしょ、父さんは」
今度は少年が素早く自分の口を塞いだ。側から見るとこの仕草、随分と子供っぽかったかもしれない。
「父さんは?」
「…お父さんは、もうちょっと年上よって言いたかったの」
そうなんだろうか。確かにちょっとシニカルな言動とか自己認識があの人をおじさんじみさせているけれど、見た目だけでいえばおじさんはざっと三十半ばといったところだ。対してこの子が何歳くらいなのかぱっとはわからないけれど、それでも大体十歳前後。まあもうちょっと年上と言われて納得できない年齢差でもなかった、けど。
自分がそのくらいの年齢差だったからだろうか、不思議とそう——?年齢差?誰と?今、誰のことを思い浮かべてたんだっけ。誰の?
「…そ、そうよ。家族。家族が家で待ってるでしょ?帰りなさいよ」
隣に並んでいた少年がぱたぱたと数歩歩きだす。二人で長話をしている割に立ったままだったことにやっと気づいた。悪いことしたなあ。
「母さんならまだ帰って来ないだろうし、もうちょっと話せるよ?」
「いいから!家族だん…だん…」
「団欒?」
「それ。は大事なんだから、大事にしなさい」
達観したようなことを言う子だけど、こういう時の意地の強さは子供っぽくて見た目に相応だった。ごく普通のことなのに、それがどうにもいたたまれなくて誤魔化すように俺は笑いかける。
「そうだね。それこそきみだって、家族が待ってるだろうし」
少年はどうにも歯切れ悪くそうね、とだけ肯定して俺の背中に回り込む。それから無理やり俺の体を回転させるようにしてぐいぐいと家の方向に押し出した。まるで聞き分けのない子供だ、俺の方が。
「明日もまた、会いにきていい?」
押された勢いのままちょっと歩いて、背を挟んだ向こう側の少年に首だけ振り向く。少年は別れる最後の瞬間まで顔をあげなかったけど、自分で考えなさい、とまた小さな声で呟いていたような気がした。
俺は明後日には日本を出て行ってしまうから、この子と会えるのはあと二日。次に帰るのは半年後くらいになるだろうか。その時まであの少年が覚えていてくれるならいいけど、子供の記憶力は頼りないものだ。俺の記憶力と同じくらい。明日か明後日には、彼の名前をきちんと聞けたらいいな、なんて思ったまま真っ赤な帰り道を歩く。それはすごく幸せな想像のはずなのに、なぜだろう。目の前がぼやけて、鼻の奥がつんとしてたまらなかった。
三日目-朝
15
家に帰ってきて三日目。そして、日本を発つまでは今日を含めてあと二日。そんな日の朝、俺はなんともすっきりしない曇り空を見上げて立ち尽くしていた。
外の冷たい空気で冷えたポストは相変わらず空だった。起きてすぐ、何かに突き動かされるみたいに外に出て覗き込んだはいいものの。そこに本来何があるべきだったのか、俺は誰のために毎日それを取りに来ていたのかはもうぼやけて消えてしまっていた。ちょうど、昨日と同じように。
ポストの真上には、家族全員の名前が並んだ表札。なぜだかそれが妙に見慣れなくて首を捻る。
十五度くらい回転した景色の中で、表札では大きく天馬と書かれた下に少しの空白をあけてひとりの女の人の名前と俺の名前が並んでいる。俺の名前も普通よりは女の子っぽい、というか中性的でそういう勘違いをされがちな名前だからかまるで母と娘の二人暮らしみたいな光景でもあった。
首の角度を戻す。目の前の名前は間違いなく母◾️◾️の名前で、だから毎日見ている名前と顔でもあるはずだった。なのに表札に並ぶ名前を見ても俺の頭にはもやもやとした幻のような姿が映るだけだ。この人は、どんな顔をしていただろう。この人は、どんな声で俺の名前を呼んだだろう。この人は、俺に何を言っていただろう。
そして何より。
「このひとって、誰だっけ」
口に出してぎょっとする。この人、もなにもない。
この家にはそもそも俺がひとりで暮らしているのに 俺はいったい何を言っているんだろう。
目の前には大きく天馬とだけ書かれた表札。ひとり暮らしなのだから当然だけど、それは妙にシンプルで余白のあるものに感じられた。特に、下の方に。三人どころかつめれば四人分は名前が書けそうな余白が静かに存在している。
朝の空気を吸いに 外に出たはいいけど、いい加減ちょっと肌寒くなってきた気がする。もう7月も始まる頃だというのになかなか暖かくはなってくれないものだ。俺は自分の肩を抱いたまま玄関扉を引いて中に入る。風のない室内に戻ればこの身体の震えだって消えてくれるはず、と思ったからだ。
扉の鍵を閉めて、静かになった家をぐるりと見回す。静かになった?ううん、元から静かだった。流石に俺だって、ひとりごとを何度も大声で繰り返すような人間じゃない。昨日も一昨日もこの家はずっと静かだった、はずだ。
少しの違和感と物悲しい納得が胸に何度も響いている。何かが違うと思うのに、どうしようもなく納得してしまっていて。言い訳のしようもなくこれが正しい形なんだと俺は知ってしまっていた。
辻褄は合う。
辻褄が合う。
辻褄が合ってしまう。
なのに脳みそに変な感覚がこびりついて離れない。何かを失ってしまったような、まだ余韻に浸っていたかったような。
——とても、とても、幸せな夢を見ていた朝。
そんな朝の、目覚めみたいな気分だった。
三日目-日中
16
そこから外に出たのは大した理由があったわけじゃない。わざわざ出かけるまでもなく、俺は明日には日本を出ていくのに、と自分でも思う。
だけど今日は妙に家にいるのが嫌だった。一人で住むには広すぎるあの家が、怖かった。
多すぎる食器も不揃いのカトラリーも、俺の記憶にあるものとなにも変わらない。だけどそれらを見るたび、心の中にある空白に気づいてしまう。この上なく満たされているはずなのに、何かが足りないと乾いていく感覚に襲われる。風通しのいい室内が真昼の砂漠みたいだった。
痙攣する金色の秒針に急かされるように家から離れて、俺が足を止めたのは近所の小さな公園だった。滑り台があって、砂場があって。昔は俺も、こういう公園でよく遊んだ気がする。
砂場の白い粒に片手を突っ込んで軽く掻き回す。すぐに湿った黒い砂が露出して爪を汚した。そうそう、こうしているとあの子も同じように砂をいじって、二人で汚れた手を見て笑い合って——
「…だから、誰」
思った以上に棘のある声になってしまった。朝からずっとこんな調子だ。見えているはずなのに見えていなくて、わかっているはずなのにわかっていない。
ずっと、自分が自分じゃないみたいで。あるいは、世界が世界じゃないみたいで。肌がざわつく居心地の悪さが、朝から続いている。…いや。朝からじゃない。思えばずっとそうだった。数日前から、あの朝、朝刊を取りに出たところから。朝刊なんて一人暮らしになってから長らくとっていないはずなのに、その例えがぽんと出てくるあたり俺もいよいよだめかもしれない。
うりうりと砂場をかき回すうち固い感覚にあたる。思ったより深く掘り進めてしまっていたのか、底のコンクリートにたどり着いてしまったらしかった。
ひとつ息をついて立ちあがろうとした瞬間、視界に揺れる何かが入って顔を上げる。
「忘れたままでいいって言ったでしょ」
空中に浮かぶ高い声。柔らかく風に靡いた長髪。丸い目で不思議そうに小首を傾げた、あの子供が立っていた。
「こんなところに、居ていいの?」
少年は念を押すみたいに言葉を区切って言うけれど、俺の耳にはなにも入ってこない。
ただ、漠然と。『あ、埋まった』なんて思考だけで、俺の脳は止まっている。何がとは言えない、言葉にできる感覚でもない。ただ、俺はこの子を目にすると、自分の中の足りない何かが埋まるような感覚でいっぱいになるのだ。…流石に、自分でも危ないと思うけど。ただ純粋に、ようやく親を見つけられた迷子の子供のような気持ちになる。
年甲斐もなく鼻がつんと痛んで仕方なかったけど、恥ずかしいとかそういういたたまれなさが少しもない。
ただその子がその子として、当たり前みたいにそこにいる光景が嬉しかった。数日前に会った子でしかないし、そもそもここ最近毎日会っている子なのに。まるで十年ぶりに生き別れの兄弟にでも会ったみたいだ。
顔をあげたっきりうんともすんとも言わなくなってしまった俺に動揺したのか、少年がしゃがみこむ。顔を覗き込まれてほっぺたをぺたぺた触られたあたりで、ようやく俺ははっと気を取り戻した。
「え、あ、あれ?なんで?」
「なんでって。前に言った通り、よ?言いたくもないし言いたくないわけでもないから、言わないだけ」
なんでいるの?と訊きたかった問いにちょっと焦ったように返される。
どうやら『自分が初めに言っていた言葉は俺が独り言として呟いた『誰』への返答だったんだよ、だから好きで話しかけたとか思わないでね』と主張したいらしい。勘違いしていたわけじゃないけど、わざわざそう言われてしまうとなんだろう。ツ…ツンドラ?デレ?みたいな、そういう雰囲気を感じてしまう。
少年はやれやれと言ったふうに腕を組む。幼い見た目に合わないいつものポーズが今日は妙に演技臭く感じてしまった。
「…ま、まだ質問に答えてもらってないわよ、私」
質問。さっきいろいろ言っていたやつだろうか。ぼうっとしてて聞いてなかった、ごめんねと素直に謝ると呆気に取られたように少年が口をぱくぱくさせて、次いで少し照れたように咳払いをする。
まあ結果オーライ、とかうっかりしてたし、とかを頬の内側でぶつぶつ呟いているみたいだけど、結局何を訊かれていたんだろう。
「それで!私が聞きたかったのは、あれ。こんな公園で何してるのって話」
「ああ」
確かに173cmの男が自分の遊び場にでんとしゃがみ込んでる図は、子どもにとっては見慣れないものだったんだろう。う〜ん、こういうところだよなあ、俺。うんうんと頷いているとだんだん少年の目が怪訝そうになってくる。あらぬ誤解を受けそうだったので慌てて手をばたつかせた。
「散歩してたら通りかかっただけだよ、懐かしくなっちゃって」
笑いかけると少年がちょっとたじろいだ。別に本気で俺を不審者だと思ってるわけじゃないんだろうけど、それはそれとして不思議な反応だ。昔からある公園なんだから、俺くらいの歳のひとが昔遊んでたとしても不思議じゃないと思うんだけど。
「…散歩なんてしてるより、家にいたらいいじゃない」
跳ぶように立ちあがった少年の爪先が砂場に踏み込んで、俺の描いた模様を穴ごと踏みつける。その足の動きに合わせて穴はみるみる埋まって、少年が俺にそう訊くより先に露出していたコンクリート地はすっかり見えなくなっていた。
この子はそんなに俺と外で会うのが嫌なんだろうか。というより。
「そんなに俺に家にいてほしいの?」
「……」
質問に答えないまま少年が俺の隣に腰掛ける。地べただし砂が飛び散ってけっこう汚いと思うんだけど、払ったりしなくていいのかな。少年の着ている服はいつも布の量が多くてひらひらしているだけじゃなくて、その布のひとつひとつが光沢があって柔らかい。少なくとも、安物の子供服という感じではなかった。
少年に口を開く様子がないので俺は勝手に話を続ける。
「でも家にいたってつまんないし」
「つまんないの?」
「うん。ひとり暮らしだと家が静かでさあ」
それを聞いた瞬間の少年の顔は、俺の持つどんな言葉でも言い表せない複雑な表情だった。
しいていうなら、幸せに暮らしていけるはずだと引き取り先に受け渡した子猫が、道端で車に轢かれたまま放置されていたのを見てしまったこどものような。諦めと一緒に淡く抱いていた希望がたやすく崩れてしまったのを悟ったときの人間は、きっとこんな顔をするんだろう。
「ひとり、暮らし」
「明日にはまた旅に出るから、しばらく家は無人になるけどね」
一人で住むにも広い家なのにもったいないよねー、と俺は笑う。少年の震える声に、気づかないふりをして。
「そっちこそ帰らなくていいの?最近ずっと外で会うけど」
「——私は、いい。まだ帰れないの。やることがあるから」
別にやりたくもないけどね、とことさら焦ったようにその子は付け加える。虚勢も行きすぎると意地を通り越して強制されてるんじゃないかとさえ思えてきた。やりたいことがあるなら、素直にやりたいと言えばいいのに。
目の前の少年は確かに変な子だけど、やっぱり話してみると最初の印象ほどには逸脱している感じじゃない。女の子みたいな幼い外見を含めても、特別なことは何もない普通の子だ。
…そんな子が、自分のやりたいことをやりたくないとしか言えないのは。もしくは、やりたくないことをやりたいとしか言えないのは、どういう気持ちなんだろう。意地とかそういう以前に、すごく生きづらそうな気がする。不思議と妙にリアルな実感を持って、俺はそう思った。
「えい」
だから、というわけじゃないけど。俺は少年の小さな頭に手をのせて、その柔らかい髪をわしゃわしゃかき回した。
大それた理由があったわけじゃない。同情したわけでもない。ただそうしたかったから、そうしただけだった。もしくは——何日目かも忘れたいつか、懐かしい誰かにようやく頭を撫でられたのを思い出したからかもしれなかった。
容赦なく撫でたせいで少年の顔は長い髪で隠れてしまって、その顔がどんなものだったかはわからない。それでも隙間から見えた赤い顔は、あの朝の俺と同じようなそれに見えた。
少年の腕がゆっくり上がっていくのに気づいて俺はぱっと手をその頭から離す。危ない危ない、この子は意外と大胆な子なのだ。調子に乗っていじり続けていると突拍子もないことをしかねない、気がする。悪意のあるなしに関わらず。
「ご、ごめんごめん!冗談だよ、ごめ」
「——えいっ」
そして。彼は勢いのまま立ち上がって、あげていた両手をそのままぴんと上に伸ばして。地べたに座る俺の頭を撫で返した。撫でる、というより俺と同じようにかき回したという方が近いかもしれない。小さな両手でよくもまあ、という乱しっぷりだ。むしろ俺が撫でたのより乱暴なんじゃないだろうか。
よかった。これなら、大丈夫なんだ。そう呟いた少年の高い声が空気に溶ける。
「お返し、じゃなくて、仕返しなんだからね、これ」
厳しい言葉と裏腹にその声色は柔らかい。それでもやっぱり、その子の口角が上がることはなかった。
小さな手が伝えてくる一定のペースが心地よくて目を閉じる。もともと人がいない公園だ。彼と俺が口をつぐむとあたりはとても静かで、耳鳴りの間から風の音と髪がかき回される物音だけが小さく耳に入ってきた。
わしゃ、わしゃ。
わしゃ、わしゃ。
ちゃり、わしゃ。
……ちゃり?
唐突に、そして不自然に入ってきた鎖が擦れるような音に目を開けると、少年が俺の足元に目を向けたまま止まっている。視線の先にあるのは黒いシルエット。
「ぅにゃう」
少し汚れた黒猫が、俺の足に顔を擦り寄せていた。
17
自宅の玄関扉に鍵を差し込んで回すと、がちゃんと重い響きがこだまする。思った以上に目立ってしまった気がして俺は肩を跳ねさせるけど、後ろで猫を抱いている少年はその口から漏れたであろうため息のような声から察するにただ目の前の、俺の家を物珍しげに眺めているだけみたいだった。
…そう、いよいよ俺は部屋に招いてしまったのだ。名前も知らない、幼い子供を。近所の人に見られたら誤解されそうな光景ではあったし、だからこっそり隠れるみたいに大通りを避けて帰ってきたんだけど。
それにしたって今日はなんともあたりに人が少なかった。曜日感覚どころか日付の感覚まで狂いがちな俺だから、もし今日が休日だったらどうしようとちょっと心配していたのだ。具体的に今日が何日かなんて把握していないのだから。把握したら終わってしまう——何が?
ああそうだ、そんなふうだから今日はチケットの確認もしておかないととも思っていたのだ。もし今日がチケットの予約日だったらとんだことだった。明日旅立つためのパッキングでさえ終わっていないし、パスポートだってしまったままだから。今日だって本来はそういった準備でそこそこ忙しくしているはずだった。
「…随分広いのね」
ひとりなのに。
少年が抱いた猫をよりぎゅっと締め付けてしまったのか、猫は軽々とその腕の中を脱出してフローリングを駆ける。ああ、とちょっと悲しそうな顔をする割に少年の声は軽々しかった。彼自身なんとなくは予想していたのかもしれない、自分がこの猫に懐かれていないだろうことを。
話は少し遡る。
18
あの公園で。薄汚れて首輪もしていない、いかにも野良だとわかる黒猫に出会ってすぐ、少年はそれを抱き上げようとした。可愛がりたかったのか、それとも遠ざけたかったのかはなぜかわからないけど。
でもその目論見は、俺がいつまで待っても叶うことはなかった。なにせ少年は猫を抱くのがとても下手くそだったのだ。少年が抱きつこうと飛びかかった瞬間猫がするりと脇を抜けて、やっと掴んでからもいかにもぬいぐるみにするみたいな雑な抱き方をしているものだから猫はぎにゃあと金属質な悲鳴をあげていた。
見るに堪えなくて止めようと立ち上がった瞬間、俺はその猫の足元に滲む赤いものに気づいた。一瞬引っ掻かれた少年のものかと思ったが、それにしては場所が変だ。
暴れる猫を少年の手から取り上げて抱き上げてみると、猫は随分容易く動きを止めた。本来はそこまで荒々しい子でもないのかもしれない。
黒猫のはずなのに毛の一本一本はカラスのそれみたいに虹がかって煌めいていて、なんだか蝶の翅みたいだななんて場違いに思った。
昔猫を飼っていた経験こそないけれど、近所の野良猫とはそれなりに仲良くしていたのだ。記憶を探れば抱っこくらいならできる。
腕に猫を抱えながら手の感触で毛の中を探ってみると、猫の前足、そのうちの一本にさしかかったあたりで独特の感触が指先に伝わる。ちょっと粘りのある液体は皮膚の隙間からまだ新しい鉄の匂いを漂わせていて、その傷が深くもないがけして浅くもないものだとはっきり主張していた。
あ。
と、少年も猫の怪我にようやく気付いたのか、すこしバツが悪そうに視線を逸らした。確かにさっきまでの大立ち回りで傷が開いた面もあるだろうけど、多分怪我自体はもう少し前にしたものだろう。だから大丈夫だよ、とは伝えたけど少年の顔は浮かないままだった。
でもどうしよう。俺は猫を抱えたまま立ち尽くしてしまった。怪我に気付いてしまった以上このまま逃しておしまい、じゃさすがにあんまりだとは自分でも思う。
かといってこのあたりに病院があった覚えもペットショップがあった覚えもなかった。保健所に連絡するにしても同じだろう。せめて手当てをするとしたって道具も…ガーゼとかくらいはあるかもしれない、けど。
やけにつらつら思考が回る。昔にもこんなことがあったんだろうか。もう朧げな記憶で、幼い俺は同じくらいの歳の誰かとこんなふうに顔を見合わせて。腕の中でどんどん冷えていく猫の感触にべそをかきながら相手に声をかけていた、気がする。…なんでだろう?普通なら、猫と仲が良かった方の自分が対応をする方が自然だったはずだ。でもたしかその時は自分でも冷静じゃなかった自覚があって、だから◾️の◾️◾️に頼るしかなくて——。
くい、と服の裾を引っ張られて下を向く。先ほどまで俯いていた少年が、きっ、と丸い目で俺を見上げていた。その顔は不思議と随分と頼りがいがあって、俺の頭のどこかでもう一度何かが引っ掛かる。それを口に出す前にその子が言ったのは、『どこか室内で一度匿おう、何か必要なものがあれば自分が買ってくるから』といったことだったような気がする。この時の俺は少なからず動揺していて、相手の話も自分の言ったことも曖昧だった。だからうっかり口走ってしまったことの重大さにも、言った後にようやく気付いたのだった。
「——じゃあ、それは俺の家にしよう」
19
そして今。
少年と俺は、天馬家リビングと言っていいのかもわからない、とにかく食卓がある部屋の床に座り込んで二者顔を突き合わせていた。手当の済んだ猫は早々に俺たちの間を抜け出して、自分の前足に巻かれた包帯を珍しげにいじっていた。
ガーゼを引っ張り出してテープを探して、という段階からだったから随分時間のかかった治療ではあったけど猫は随分大人しくて理性的だった。あくまで素人の治療だから、明日にはきちんと病院に連れていくべきだとは思うけど。ひとまずは一息つけるわけだ。
部屋に流れていた緊張感のようなものが一気にほぐれていって、俺はあぐらのまま天井を仰ぐ。少年はなんというか、未だ落ち着かないふうに部屋を見渡していた。
他人の家に、まして名前も知らない男の家に来ているんだから当然だろう。いつもの堂々としたいっそ豪胆な様子はほとんどなくて、それこそ借りてきた猫みたいな落ち着かなさだ。
「ごめんなさい、結局あんまり力になれなくて」
ぽつりとしおらしく少年は言う。いよいよ珍しい様子に俺は思わずぱちぱち瞬きをしてしまった。
「え?ううん、すっごく助かったよ。俺ひとりだったらまだ公園でどうしようどうしようってしてたと思うし」
「そんなこと——」
咄嗟に身を乗り出したせいでバランスを崩したのか少年の言葉が唐突に止まる。その何かに引っ張られるような、あるいは止められるような様子はまるでリードを引かれた犬みたいで、たしか初日にも似たようなことがあったなと俺は思い出した。
強迫観念とか、思い込みとか。そういうものを人の体で再現しようとするときっとこういうふうだ。足枷をつけたまま育った犬が今も遠くへ走り出さないように、あるいは溺れた経験のある子供が大人になってからも水中で体を固まらせてしまうように。そういうものは一種のトラウマとも言えるのかもしれなかった。
なのになぜだろう。俺はその様子を、ただぼうっと見ることしかできなかった。そこに鏡があるな、と。ただ自分の鏡像を見ているだけの気分だった。
冷たい話だしおかしな話だ、俺はそんな経験一度だってしたことがないはずなのに。記憶の中では◾️◾️◾️も◾️◾️◾️も優しかったし、人好きをされる方だという自覚もあった。
恵まれた優しい記憶しか、俺の中にはないはずなのだ。そうでなくては辻褄が合わない。俺はそのためにここにいるんだから。そういうものはもうとっくの昔に、昔話にしかならないんだから。だからもう、これでいいのだ。これは誰にもわからなくていいことなのだ。もちろん俺にも。俺は思考を打ち切った。いつも通りに。
「…この子、どうするつもり?」
少年はしばらく喉の調子を確かめるみたいにしてから、躊躇うふうに猫を指差した。
「できるなら病院に連れて行ってあげたいけど、難しいかもなあ。俺、明日には日本も出ちゃうし」
部屋の隅にしまってあるバックパックを思い出しながら俺はこぼす。少年はそう、とだけ言って体育座りのような姿勢のまま猫を見ていた。彼にしては珍しいひどく無感情な視線だと思った。
「じゃあ今日は私が引き取るわ。この子の心当たり、あるから」
「え?それは助かるけど」
見るからに野良猫っぽかったのに、実は飼い猫だったんだろうか。少年の言葉は、飼い主に心当たりがあるにしても不思議な言い回しだった。でも俺自身にはこれ以上どうすることもできないのも事実で、結局明日以降の猫の処遇は少年に任せることにした。
猫は椅子から食卓を伝っていったのか高いところで座る俺たちを見下ろしている。部屋は十分に明るいはずなのにその瞳孔は丸く開いていて、人形に嵌め込まれるガラス玉のように妙な色合いを保っていた。
そのまま俺を伏せた目で監視するように見下してから、猫は徐に丸まって座り込む。俺に興味を無くしたのか、はじめから興味もなにもなかったのか。言葉が通じない相手だとどうも分かりづらい。言葉が通じる相手ならば分かるのか、心の奥まで嘘もなにもかもを突き抜けて理解できるかはまた別の話だけど。
20
俺はぎこちない空気の中でゆるく首を振って、あぐらから床に手をつく。目線を合わせるみたいに俺が少年の顔を覗き込むと、俯いていた彼の長い前髪の隙間から丸い瞳が見えた。
そこに初日の躊躇いと一緒に希望を漂わせていたあどけない輝きはなくて、どちらかといえば疲れ切った青年のような、考えすぎて知恵熱をだした子供のようなくたびれた鈍い反射光が蛍光灯のかたちをしているだけだった。なのにその奥に、今も小さな光が灯っている。なにか強い意志が、折れず消えないままそこにある。
俺が初日からずっと違和感と付き合ってきたように、この子もまたあの日からずっと何かと向き合ってきたのかもしれない、とこの時ようやく俺は思い至った。手遅れ、というにもずいぶん行きすぎてしまったとは自分でも思う。でもたとえ早々に気付いたところで、やっぱり俺にはどうしようもないのだから同じかもしれない。
俺は子供を救える大人じゃない。でも子供と一緒に悩める子供でもない。ああきっと、俺がここにいることは間違いなのだ。
今、これまでで一番あのおじさんが恋しかった。シニカルで、優しくて、なにより現実と向き合えるあの大人がここにいないことをいつよりも悔やんだ。大人なら、大人がいれば、なんて。かつてあんなに嫌だったはずの考えが浮かんで仕方なかった。
だけど今。戦い続けて疲れきった目の前の子供に、俺はもう一度、いつもみたいに繰り返すしかないのだ。いつかの約束を、いつもみたいに俺から繰り返すしかないのだ。
何もかもに気づかないふりをして。何もかもに鈍感であることを自分に強いて。それはなぜだろう、すごく、すごくやり慣れたことな気がしていた。誰かから教えてもらった生き方だったような気がした。どれもきっと、気のせいなんだろうけど。
「明日は、もしかしたら会えないかもしれないけど。帰ってきたらまた、一緒に遊んでくれる?」
俺と、と繋げると少年の顔が一瞬泣きそうに歪んだ。もしかしたらずっと、初めて会った日から俺が明日の約束を取り付けるたびにこの子は同じような顔をしていたのかもしれなかった。
「俺も君もお互いの顔しか知らないから、今度会った時にきちんと自己紹介からってことで」
少年は小さな手を膝の上から、俺の手の方に動かそうとして。今度は自分からその手を引いて、より一層小さく縮こまった。俺はそれにすこしの寂しさと、誰に向けるでもない憐みを覚えていた。
……もし、この世界が作りもので。俺も少年もただの役者 でしかないとして。なんで俺たちは、こんなふうに割り当てられてしまったんだろう。俺たちに、そしてお互いに何を望むにしたってミスキャストな気がした。
この数日は、いつだってひどく歪だった。すごく幸せでちょうどよくままならない、でも最後には幸せになるはずの日常を、壊れたテープで再生している。
辻褄を合わせようとする度テープは絡んで、音はどんどん歪んでいって、突っ込んだ鉛筆の芯は砕けて鉛の匂いだけを残す。こんな誰も幸せにならない夢物語を、誰がどうして望んだっていうんだろう。
初日と同じに少年は少し、というより相当長く考え込む。答えの是否を悩んでいる、というよりはどんな言葉なら言えるのかを考え込んでいる、言語に不慣れなひとみたいに。
考えて、考えて、考えて。
やっぱり少年は顔を上げない。
「そのくらい、自分で考えなさい」
小さな口から溢れた声は初めの俺と同じに、震えて頼りなさげに空気に消えた。それを聞いても、俺はちっとも笑えなかった。
四日目-朝
21
差し込む光が眩しくて目を開けると、なんの夢を見ていたのか忘れてしまった。いつものことだから気にはしなかったけど、なぜだかすごく寂しかった。
昨日はカーテンを閉め忘れてしまったらしい。部屋の時計はリビングのそれと同じに秒針から細かく痙攣するばっかりだったけど、窓から覗く朝焼けにしても薄暗い空を見るにまだ早朝みたいだ。昨日と打って変わって、清々しく雲ひとつない快晴だった。
寝転がったまま視線を窓からそばの床に移す。
寝床の脇には昨日荷物を詰めた黒くて大きなバックパック、それと貴重品用の小さなカバン。ふたつともやけに見慣れなくて、俺はまだ寝ぼけているらしかった。
あくびを噛み殺してもう一度布団に潜り込もうとして、でもやっぱり俺は身体を起こす。
せっかくの最終日に早く起きれたことは一周回って幸運だったかもしれない、でなくたって何かの巡り合わせだと思うことにしたのだ。猶予期間。あるいは、モラトリアムに似た何かを丁寧にも用意してもらえている感覚。
いつもの違和感と一緒に押し寄せるそれもきっと、今日を限りに消えるだろう。そう、今日は帰ってきてから——いや。
ここに来てから、四日目。そしていよいよ、日本を発つ日だった。
22
ポストを覗く。ポストの中身は空だった。
クローゼットを覗く。クローゼットの中身は空だった。
冷蔵庫を覗く。冷蔵庫の中身は空だった。
鏡を覗く。俺の瞳は虚だった。
昨日の夜、旅に出る支度として荷物をまとめきった結果として俺の家はほぼ空になった。もちろん家具は残っているし、いつもと違って複数人分のカトラリーはそのまま残っている。使用者はもうどこにもいないはずなのに。最初からどこにもいなかったはずなのに。
次に帰ってくるのは半年後かそこらなのだから、その分物を持ち出して残さないようにするのは当然ではある。あるけれど、やっぱり空っぽの部屋というのは何度見ても悲しいような虚しいような気分になるものだ。
ドーナツから穴だけを切り取ってそこにぽんと置いたような。確かにそこにあるものを切り出した結果のはずなのに、そこには何も残らない。そういうのには覚えがあった。ちょうど俺の記憶と同じだ。ただのありふれた虚だった。
朝食は唯一出していた食パンをそのまま齧るだけで済ませた。冷めるとかがまったく関係のない単純なそれは、いつでも変わらず同じ味。毎日変わらないはずのそれを今日は砂を噛むみたいにもぐもぐと明るく飲み込んだ。
いい朝だ。今日はとてもいい朝だった。とてもリアルで、目はぱっちりしていて、夢の痕跡なんてどこにもない。
——幸せな夢は、だから終わるから幸せなのだ。夢がいつまでも現実と平行で続いてしまえば、いずれ誰でもふたつを比べだす。リアルな現実と、夢のような夢。現実だけを見つめていれば幸せでいられても、夢を見てしまえは現実は幸せでないことに気づいてしまう。
いつまでも続く夢があるなら、それはきっと悪夢というべきなのだ。どれだけそこが幸せでも、ううん幸せであればあるほど、本当の自分は幸せたり得ない。
不幸とは、現実と夢を並行させることである。夢を見ながら現実に向き合うから地獄を見る。しかしその前提で考えれば、ひとが幸せに生きる方法はなにも夢を終わらせるだけじゃない。現実を諦めればいいだけだ。なあなあで生きれば、あるいはなあなあで死ねばいいだけだ。
並行がだめなら片方にすればいいだけなのだから。
だから要は、夢から覚めるか、現実に冷めるか。
それだけで人は幸せになれる。
これは誰の思考だろう。少なくとも俺の思考ではないような気がする。がらんどうに跳ね返る自分の鼓動がたまたま信号になって、不規則な言葉を伝えているみたいな。俺とは別の自分が微睡む意識で唱えている寝言みたいな。
まったく今日はいい朝だった。
玄関扉を押し開いてああそうだ、とおもむろに俺はゆっくりと振り向く。家を出るなら言っておかなくちゃいけない言葉があるだろう。たとえ、どこからも返事が返ってくることがないとわかっていても。
「行ってきます」
がちゃん。
鍵を回す重い響きだけが周囲の空間を揺らす。それがどうにもありがたくって、なのにすごく寂しくて。俺は振り切るように、駅に向かって早足で歩き出した。
四日目-日中
23
チケットを取ったのは夕方の便だから、朝のうちに家を出て昼には電車に乗らないといけない。頭ではそう理解していたのに、俺は家を出てから最寄りの駅に行くまでに随分と遠回りを繰り返してしまっていた。
「…やっぱり、会えないかあ」
ドラッグストアの前。自宅のそばの細い道。昔遊んだ公園、広い車道と横断歩道。この四日間訪れたあらゆる場所を、この午前中俺は巡り歩いていたのだった。
思い出を辿るように、何かを手繰り寄せるように歩き回れば。きっとどこかで、あの少年にもう一度。なんて自分でも未練がましいとは思う。
そもそも昨日の別れ際、自分から明日は会えない、と言ってしまっているのだ。たとえあの子が今日も時間を持て余していたとして、俺に会いにくるわけもない。
あの猫はきちんと飼い主の元へ帰っていったのだろうか。あの少年は、飼い主や他の大人と仲良くやれているのだろうか。
いよいよ未練がましくなってきた思考が、夏めいてきた湿る空気と一緒に体にべたついて不快感だけを残していく。こんなことなら今日も少しの間だけど会おうと約束を取り付けておくんだった。
ところで。俺がその時歩いていた歩道は、アスファルトの車道との区別として一段高くなっていた。だけじゃなくてある程度の大きさのレンガが一面に敷かれている凹凸のある歩道でもあった。
もしキャリーケースを引いていたり自転車で通ったりしたら、間違いなく相当な振動と音をあたりに響かせるだろうなとわかるつくり。もしかしたらヒールのある靴で歩くだけだってそこかしこにひっかけて苦労するかもしれない。
とはいえ俺の履いている靴はピンヒールでもローラーシューズでもない。普通に、黒の歩きやすいスニーカーだった。夏場だからとサンダルも念のため持ってはいたけど、それも今はバックパックの中だ。
だから油断していたのかもしれない。あるいは安全性の上にあぐらをかいていた。そんなだからバチが当たったのだ。
すぐそばで渡ろうとしていた信号の青色がちかちかと点滅して思わず駆け出した俺の足が、そのレンガの隙間のひとつに引っ掛かった。
「え、うわあっ!?」
そんな間抜けな悲鳴と一緒に、俺はバランスを崩して倒れ込む。手をつくことをなぜか躊躇してしまって失敗した受け身のような姿勢になったせいで、体重ぶんと勢いのぶんの衝撃が体の側面にもろに伝わった。
要は俺は、天下の往来でめちゃくちゃ派手に転んだのだった。
低くうめきながら起きあがろうとして、ひどく晴れた空と目が合う。あたりに人が全くいない中で、晴れやかで清々しいはずのそれだけが今の俺の失態を静かに見下ろしている。頬についた砂の粒とはまったく関係なく、なんだか胸がざらついた。
仕切り直すように、あいたた、と今度はことさら明るく口にして散らばった荷物をかき集める。とはいえバックパックはきちんと閉めていたし、手荷物だってある程度はまとまっていた。もう一度出発するまではそこまで時間もかからないだろう、と俺は楽観的に立ち上がる。
しかし地面に落ちた貴重品を入れていたカバンを拾い上げようとした途端、カバンはその中身をぼどぼどといっそ清々しく落とした。…ジッパー、きちんと閉めたと思ってたんだけど。どうやらそれも衝撃で、もしくは歩いている間に少しずつ空いてしまっていたみたいだった。我ながら不用心だ。逆に転んでおいてよかったかもしれない。
落ちた中身を頭の中でチェックリストみたいに並べ直す。財布に、電話に、パスポート。他は最悪なくても大丈夫な色々。最初の二つはすぐに見つかった。道の凹凸が滑り止めの役割を果たしてくれたみたいで、あまり遠くには行っていなかった。幸運なことに。そもそもその凹凸こそが全部の元凶だったんだけど。
あとはパスポート、と地面を探っていた俺の手がぴたりと止まる。
薄い冊子状のパスポートはおそらく衝撃のせいでページを下にしたまま開いた状態で落ちていた。そこまではいいのだ。
問題は、それがどのページかということだった。
「……?」
普通に考えれば問題も何もあるわけがない。しかし今の俺にとっては大問題に思えてしまった。
自分でも理由は説明できない。
でもなぜか俺の中では、これを見たら終わってしまうという不思議な緊張感、あるいは強迫観念のようなものが腹の底からじくじく存在を主張しているのだ。
じくじく。じくじく。膿んだ傷跡を無理やり抉られてるみたいな、痛みと一緒に指先がどんどん冷えていく感覚。
目の前が暗くなって、呼吸が浅くなって、心臓が耳の裏に移動したんじゃないかってくらい鼓動がうるさい。
終わりの予感。
駄目だ、駄目、やめて、気づかないで。
頭のどこかで誰かが叫んでいる。いつか聞いたひどく枯れた悲鳴だったから、ああ自分の声だ、とすぐに察しがついた。いつだってだんまりだった癖にこういう時にだけ叫び出す自我が、実のところ俺はずっと苦手だった。
乾いた喉が痛んで、ちっとも量のない唾を無意味に飲み込む。
怖くて怖くてたまらない。こんな小さな動作に、何かの終わりを感じている自分が。そしてそれを信じさせる、世界が。
さっきまでの晴れやかな青空は、ひどく偽物じみた青色で俺を見下ろしている。俺の終わりを今か今かと待ち侘びている。
怖い。
怖い。
怖い。
自分が間違えていたことを知るのは、いつだってこんなにも怖いもので。終わりたくない、と思うのに。終わらせてほしい、とも思っている。
全身が震えて吐き気がする。内臓が全部ひっくり返って、脳はミキサーで思い切り掻き回された気分だった。
ひとが死ぬ時に見る走馬灯は、きっとこんな感じで。
その最後の瞬きで瞼の裏に映ったのは、◾️◾️◾️でもなく◾️◾️◾️でもなくて、あの小さな少年の顔だった。
「———、……」
震える手で砂がついたままパスポートを持ち上げると、それは顔写真と名前のページだった。今俺が一番見たくなかったページだった。
天馬、から続く二文字の漢字と下に綴られたアルファベットの読み仮名。そしてそのすぐ横に印刷された顔写真。
歳は十九歳くらいだろうか。幼い顔立ちの若い男の写真がそこにはあった。灰色の長髪を後ろで括って、向かって右から一本の長い三つ編みを垂らしている。青い四角の中で彩度の高い瞳が丸く開かれて、垂れた眉と一緒にとても明るい笑顔をこちらに向けていた。着ているパーカーは俺が初日着ていたものとはデザインの違う、濃い紫のそれ。インナーとして着ているTシャツと同じく、男の銀髪に不規則に混ざったメッシュと似た色だ。
俺はいつか表札にアルファベットで載っていた俺の名前を思い返した。パスポートに載る英字の名前と、文字数も子音も母音も何もかもが違う自分の名前を思い返した。
俺は自分の髪を見た。紫なんてどこにも入っていない、単色の、やけに綺麗に切り揃えられた髪を見た。
……どうでもいいことで思考を逸らすのも、もう限界だろう。つまりこれは、この写真の男である天馬七星のパスポートで。
俺とは別の人間のものだった。
24
小説なんかではよく、『信頼できない語り部』というものがあるらしい。名前だけ上がった人物の性別が違った、現代人だと思っていた登場人物たちが未来人だった、語り部こそがじつは全ての犯人だった、などなど。
そういう時その小説のフォーマットは、大抵の場合が一人称視点と呼ばれるものだ。
あるひとりの視点からしか読者に物事を見せずに物語を進めていく形式。だから読者が認識できるのはそのひとり、要は語り部自身が認識して尚且つきちんと語ったことだけになる。
作者はその語り部自体に細工をすることで、目の前の現実も、どころか語り部自身のことだっていくらでも誤魔化すことができるようになるのだ。
俺は昔そんなつくりの小説に会った時、読み終えてすぐに『騙された』なんて叫んだものだった。
結末から続く作者のあと語りも、本編ではらはらしながら一緒に物語を追っていたはずの語り部も、どころかただ語り部に恣意的に語られただけの被害者にすぎない登場人物も、誰もが誰も綺麗に騙された自分を笑っているみたいな気がした。あの時はただ、自分を手のひらの上で転がした全員が憎かった。
でも。
いざこうなってみると、意外にその心理は単純でもなかったのだなと思う。
もちろん悪意を持って騙そうとする語り部はいただろう。そんなやつらはきっと騙された読者に向けて、やりきったという達成感と少しのしてやったりを含めた笑顔を向けている。
だけど騙すつもりも、嘘をつくつもりもなかった語り部だって、あの世界には確かにいたのだ。
彼らはただ無知だった。世界に対して、あるいは自分に対して。何もわからなくて、何もわからないまま綴った言葉がたまたま真実と違っただけだった。読み終えた読者と一緒に結末に放り出された彼らは、きっと完結してからだってただ困惑し通しなだけなのだ。
自分はどっちだったのだろう。
世界の真実に気づかなかった自覚。
それに気づかないふりをしたくて目を逸らした自覚。
何も知らないままひどく残酷なことをした自覚。
全てを知りながら深みに踏み込み続けた自覚。
全てあるから、困ったものだけど。ひとつ言えるのは、そのどれもが俺のせいだということで。悪いのは俺だということで。
俺はきっと間違いなく、『信頼できない語り部』だったということだ。
25
それから数時間して。身体に砂をつけたままの俺が立っているのは、この四日間を過ごした天馬家の前だった。
日はとっくに傾き切っていて、あたりを寂寥感と一緒に赤く照らしている。湿気のこもる風のない屋外は息が詰まるほどに暑くって、したくもないため息を意識して繰り返した。そうしていないと呼吸を止めたくなってしまうから。溢れ出す罪悪感とか怒りとかに全身が埋め尽くされて、ただ今すぐ死んでしまいたくなってしまうから。
実のところ、俺が転んだ地点は駅に着くまでもないむしろ自宅に近い場所だった。だから起き上がってすぐその場から真っ直ぐ引き返してきた俺は、三十分もしないままここまで戻ってきてしまっていた。
それがなぜ、今もこうして家の前にいるのかというと単純で。つまりはそこから数時間にわたって、俺はただここに立ち尽くしていただけだという話だった。
数時間、沈んでいく日といっしょに表札に落ちる影をただ無感情に眺め続けて。永遠に静かな近所の空気をただ吸い込んで。一言も発することなく何をするでもなく、俺はずっとここで時間を浪費していた。飛行機のチケットの予約時刻もとっくの昔に過ぎているだろう。どうせ持っていたのは他人のパスポートなのだ、空港についたところで乗れなんてしなかっただろうけど。
俺はもう一度大きく息を吸い込んで、よし、と唇だけでつぶやく。
終わりの予感。
頭のどこかで叫んでいた声は今はずっとだんまりだったけど、きっとそれは俺がその声以上に叫び出したくてたまらなかったからだろうと予想がついた。
やめて。
やめないよ。
夢の時間は、これで終わりだ。
うるさい鼓動の勢いに任せてドアノブをつかむ。なぜか鍵の手応えがないそれを捻る瞬間、言いようのない後悔が胸を苛んだ。
気づかなきゃよかったのに、と何度も響きがこだまする。
実際そうなのだ。
これから自分が行うことは決して正しいことではない。誰も幸せにはならないし、誰の益も生まない。
ただ気づいてしまった、その事実が自分の喉に決して呑みくだせない棘を作り出しているだけなのだ。
そうだ。自分は、なにも正しいことがしたくてこうするんじゃない。そんな最もらしい理屈、『オレ』だったら唱えない。
ほんの少しの間でも、たった数日に満たない夢の中でも。一度その役をもらった以上——席を譲ってもらった以上、そこを裏切ってはいけないのだと自分は思うから。
扉を押すと、わずかに開いた隙間から暗い室内に斜陽が差しこんで縦の一本線をすうと引いた。
その一本線を辿った先で。リビングへ続く廊下の奥で。
そこでは小さな少年のシルエットが、図々しくもぽつんと存在していた。
合鍵など渡していないが、そんなことは関係ないのだろう。彼はそういう男だった。そういう『兄』だった。
ずかずかと人の大切な部分を笑顔で踏み荒らして、そのくせ悪意の一つも感じられない笑顔でこちらの幸せに微笑む男だった。
でもだからって、ここまでするとは思わなかったわ。
「帰ったわよ、七星 」
俺は、そう、言った。
この家の主である天馬六華 は。
目の前で少年の姿のまま『私』として在る天馬七星 に。そう言った。
---
1-0
——キラキラ輝ク小サなお星サま、あなたハどンな夢を見たイと願ウの?
——私、私でいたくない。
ただ。『私』じゃなくても幸せになりたかったって、そんなことを夢見ただけだった。
精一杯媚を売って、色々なものを押さえつけて生きてきたけど。そう愛らしくあったことだけに私の価値があったわけじゃないんだって、証明してほしかった。
たとえそれが、私を丸ごと否定することにつながっても。私自身の手で私を絞め殺すことになったとしても。
——あの幸福は、
自分が自分であるというただそれだけで。
——当たり前にもらえるはずのものだったんだって、信じたかった。
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26
「おかえり」
おかえりなさい、六華。
少年の姿のまま七星は少し息を飲んで目を泳がせた後、諦めたように吐息をこぼした。
「どのくらい覚えてた?」
「全部忘れてたわよ。あんたのことも、ここが夢の中だってことも」
思えば最初から違和感だらけの『変な子』だった。
俺は——私は、この男の髪が今とは違う形で翻るのを見た記憶がある。この男の足がどれだけ力強く地面を蹴るのかを知っている。そして。
この男がどうやって、どれだけ間抜けにへらりと笑うのかを、ずっと昔から知っていた。
子供が大人みたいに思えるから、じゃなくて。男の子が女の子みたいに思えるから、でもなくて。
そこにいるはずもない人間の面影を、全く違う他人から全く違う形で感じているから、異様で不気味な人間に思える。
その理屈で言えば七星だって、私に対してずっと違和感だらけだっただろう。
『そこじゃない』どころの話じゃなかった。
私は私じゃなくてオレだったし。
俺は俺じゃなくて私だったのだ。
もってまわった言い方にも限度があるだろう、流石に。
「…にしたって、アンタが『私』を演るなんてね」
目の前に在るのは細くぱらつく紫混じりの銀髪。艶のある黒い靴から繋がるニーハイソックスで覆われた足に、ひらひらした布がいっぱいの舞台衣装みたいな子供服。自分よりも彩度の高い瞳に、高く空気に溶ける響きの声。
そしてなにより、人形のように動かない表情。
こんなものを私は知らない。そんな未来はどこにもなかったはずだった。
第一この男にそんな器用なことができるものかというのも思考の妨げになっていた。
やりたいことしかやらないで。やろうと思ったことに躊躇しないで。それがどれだけ愚かなことでも、最後には明るく終われてしまう男が私の知る天馬七星だった。
「最初から役者 だとは言われてたから。頑張るぞーって、気合い入れてたもん」
七星はうんうんと腕を組んで、ことさらもったいぶったふうに口にする。そのいっそ滑稽な振る舞いは、きっとこの男の無意識の気遣いなんだろうと今の私は察することができた。
「役者 ね。随分馬鹿にしてくれるじゃないあの人形、この六華ちゃんを…」
「ん?あ、違う違う。六華はまんま、むしろ…観客?監督?みたいな感じだって」
なんともふわふわした口ぶりだ。きっと七星本人もあまり深くは理解していないのだろうが、もしそれが正しいのなら。
七星はこの夢の中の脇役で。
私は信頼できない語り部であり主役であり——監督、だったのだろう。
「でもオレもね、ほんとに『私』を演ろうってなったのは直前だったよ」
初めて七星を見た時、私が衝動的に声に出した『六華』という名前。それを聞いて七星は今までにないほど肝を冷やし、逃げ出したいほど恐怖したのだという。
「父さんがいて、母さんがいて、六華が『俺』で。」
「そんな中に『オレ』がいたら——たぶん、思い出しちゃうなあって。頭いいもん、六華」
——自分の存在こそが、弟に全てを思い出させてしまうものなのだと。否が応にも理解してしまった。
ノンプレイヤーキャラクターたちはまだいい。あれらは全て何から何まで天馬六華に都合のいいようにしか動かない、アバターのようなものだった。
だからこそ夢から目覚め始めた二日目以降は辻褄合わせとして消されていったのだ。十九歳の私の家にお父さんはいなかったし、私の夢の中にお母さんがいるわけもない。
思えば毎朝少しずつ目を覚ましていく私にこそ、俺はずっと裏切られ続けていたのだろう。
しかしプレイヤブルの面々は話が違う。夢を続けたい主に対してその存在からして一石を投じ得る、都合がいいだけにはなりきれない人間たちだ。あのおじさんも、そして七星も同様に。
初日の私。違和感を覚えながらも少しずつ夢に適応しようと無意識に必死だった頃の『俺』。
自分の名前すら曖昧なままだからこそ夢を見られていたあの私が、万が一にも『俺』の脆弱さに気づいてしまったら。『私』の不在に気づいたら。
この夢はそこで終わってしまうのだと。七星はあの瞬間、気づいてしまったのだ。
ぱらりと落ちる前髪の隙間から覗く七星の瞳は昨日と変わらない。かつて希望を信じた少年の目であり、今は現実を知った青年の目。なのに今でも光を見つめただ輝いている、意志の強い目。
これなら役者 の仕事のうちだもんね、ぎりぎりセーフだったみたいでよかった、なんて他人事のようにこぼして七星は明るく肩をすくめる。その首には見えない何かが重々しく鎮座しているらしく、七星の動きに合わせてじゃらりと鎖を擦らせた。
『枷』。あの二日目の悪夢を思い出す。見覚えのある光景だったのは当然だ、なにしろ私は第三者として彼らを見ていたのだから。
この世界の役者として私が呼んでしまった七星が、あの趣味の悪い人形としていた問答を。私はただ暗闇の向こうで、微睡む意識でぼんやりと見続けていたのだから。
「それが『枷』?」
「これは見た目だけだけどね」
見えない枷。人形の不興を買った七星が与えられたそれは、形だけの拘束ではなく行動に対する制限だったらしい。
「というか、たぶんもともと作ってたルール?だったんじゃないかな」
『天馬六華に直接夢について話さないこと』
『天馬六華に自分から関わらないこと』
ひとまずはこのふたつ。七星は小さな握り拳から親指と人差し指を二本広げる。聞けば二日目に出会った『おじさん』——私が幼少出会い、そしてつい最近再開した栗花落四麻というらしいあの男にも同じルールを課せられていたようだった。私が彼らと会話をできたのは、話しかけたそのほとんどが私からだったから。
とはいえいくつかは文字通りグレーゾーンだったのだろう。白い陸地から黒いアスファルトにつま先のかかるぎりぎりのライン。
私が自分で気づいて、目を覚まそうと動くその瞬間まで。彼らはずっと、そのルールに縛られていた。
それでここからはオレだけのルール、と広げた指が一本増える。三本目は中指。またの名を、お兄さん指。
「やりたいことを、一切やらないこと」
いとも軽い調子で締めくくられたそれに、私は思わず目を見張る。随分漠然としていて、漠然としているが故に厄介だ。具体的に何かを制限するものでないからこそ、その気になれば全てを禁止できる。一見軽い条件に聞こえるものでありながらそれは息をするなと言っているのと同義でさえあった。
——言いたいわけでも
——言いたくないわけでもないから、
——言わないだけ。
アンタのせいじゃない。
七星の顔はいつまでも笑みの形をとらない。当たり前だった。この男はいつも義務感で笑っているわけじゃない、『笑いたいから』笑っていたのだ。どれだけ長く空虚だったとしても、10年の空白はそれを忘れさせるものではない。
笑顔を戒められ。自分を捨てて。
この男は、どこまで——どこまで追いかけてくれば、気が済むのだろう。人生のぜんぶを否定されてるような、自分を誰かにまったく捧げてしまうような目にあったってその目から希望が消えないなら。いったいいつになったら、諦めてくれるのだろう。
「——馬鹿。ほんとう、馬鹿」
「六華だって馬鹿だよ。オレより賢いのに馬鹿だよ」
抑えきれない震えと共に言葉を落とすと珍しくも言葉が返ってきた。ああそうか、七星がその罵倒を受け入れたいと思う限り、七星は咄嗟にだって言葉を返さないといけないのだ。ここにきてようやく、目の前の少年に課されたものの重みに現実味が増す。
それだけのものを課せられていながら、おじさんも七星もどうしてああも『俺』に優しかったのだろう。
夢から覚めず。
現実に冷めた私に、優しかったのだろう。
「えっと——そうだ、目を覚まそうとしちゃったんだから」
少し考えてそんな言葉が付け加えられる。咄嗟に出たらしい啖呵は、だからといってただの思いつきというわけでもないらしかった。
「ね、幸せだったでしょ?ここ」
ううん。こたえなくたっていいよ。父さんがいて。母さんがいて。六華が、六華だった。それは、すごく幸せなことだよねと彩度の高い紫の瞳が虚空を見上げる。ひどく軽々しく返答を求めないその語りは、七星の愛のかたちと残酷なくらいよく似ていて。
どういうことだ、とその目を見つめた私は——絶句した。そのあまりにまっすぐで、なのに虚ろな希望の輝きに、言葉が出なかった。
なんということはない、この男は。
とっくの昔に、冷めきっていたのだ。
「勝手に追いかけてはきちゃったけど。六華にとって、現実よりもここの方が幸せな場所だとしたら、今でもオレは止めないよ」
勝手に踏み込んで、ごめんね。
勝手に願って、ごめんね。
勝手に迎えにきちゃって——ごめんなさい。
自分から動いちゃって、ごめんなさい。
今度は間違えないよ。六華の好きにしていいんだよ。
「だから六華、何がしたいか教えて!オレにはそういうの、わからないんだ」
七星の目から希望は消えていない。だけどその言葉に、未来を夢見る能天気な男の面影もなかった。
——私の目の前にいるのは。
間違えることに怯え、幸せを壊すのを恐れた、ただの小さな子どもだった。
27
目に滲むものがあるのは、硬く握りしめてしまった拳が痛いからだ。熱いものが込み上げてきて呑みくだせなくて、ままならなくなったぜんぶが怒りになって全身を満たしていて、容量を超えたそれが溢れて止まらなくなってしまっただけ。
悔しかった。
結局のところ、七星も私も『こう』なのだ。
遠ざかれば寂しい。ひとりは惨めだ。別れるのは悲痛だし、出会えないのは空虚だ。だけど一緒にいたところで、私たちはどこかでズレて傷つけ合うことになる。悲しませたくなんてなくて、ただ愛したいだけなのに、いつだってこう終わるのだ。
私は、静かに目を伏せる。
そして眠りに落ちるみたいに、全てを諦めるみたいに拳をほどきかけて——。
いや、と虚空を睨んだ。
勝手に終わらせて、たまるものか。
私たちが終わっただなんて、見限らせてやるものか。
私はもう、ただ愛でられるのを待つだけの人形じゃない。自分で考えて足掻いて生きる、今ここで息をする人間だ。綺麗な人形劇が見たいなら他をあたれ。
私は、私は、私はねえ——!
「…じゃあ、最後にひとつ訊くわ」
「え」
「何?アンタが先に答えなくていいって言ったんでしょ。だから応えないの、文句ある?あるわけないわよね、アンタに」
雑に結んでいた髪を解いて、舞う桃色の中私は七星を見下ろす。
人を勝手に終わらせるな、未来を勝手に見限るな。
「うん。ない、けど」
「あっそ。じゃあ私から訊くわ、答えなかったら許さないから」
自分を勝手に諦めてんじゃねえよ、馬鹿七星。
「——帰ったら、何がしたい?」
そんな一言を聞いて、ぽかん、と。
七星は今まで見たこともないような間抜け面をした。呼吸の仕方を忘れたみたいにその全身は硬直していて、丸い瞳だけが驚愕と一緒にがたがたと震えている。それは、獣に気圧されたような姿だった。
「答えなさいよ」
「え、ええ?えーっと、えっと、それよりいいの?帰ったらって、それ」
「こ、た、え、ろ」
私がくっと睨みつけると、あーだかうーだかうめいて七星の動きが止まる。それからゆっくり、ようやくやり方を思い出したように息を吸い込んでは吐き出して。口を開いては閉じて、眉をしかめて目をつむった。この男がらしくもなく考えこむ光景は痛快でもあったけど、私はあくまで冷たく見つめるままだ。
天馬七星。自分の幸せを、相手に丸ごとあげることしか考えていない身勝手な男。そいつが何より望んだはずの未来がなんだったのかなんて、自分自身の口で言わせなければ意味がない。
「…ぜんぶ」
秒針が何度も震えて、きっと長針だって何度も回転したくらいの長い沈黙のあとにそうして出てきた七星の答えは、なんとも幼稚なものだった。
「ぜんぶ…うん、全部、したい。やり直すんじゃなくて、大人とか、子供とかじゃなくて。今の六華と今のオレで」
楽しいことも、嫌なことも。
嬉しいことも、悲しいことも。
できること、全部したい。
そう、私の兄は。ひとつを選べず彷徨い続けて、希望なんか追って足を踏み外して、こんなところにまで落ちてきた大馬鹿者は。うまくはにかめもしないまま神妙な顔をした。
「そう。じゃあ帰らなきゃね」
私はなんてこともないように告げる。七星への答えを、もしくは幸せな夢の終わりを。
あの幸せは美しい景色だった。今まで見た夢の中でも、きっとこれから見れる夢の中でもいちばん綺麗で、幸福な——だけど。
だからこそ、夢にしなくちゃいけない。
ここにいちゃ、いけない。
「天馬六華は、私だから。私がいなくちゃ、叶わないものね?その願い」
顔を上げた七星は、ひどく眩しそうに目を細めた。ちょうど初めて会ったあの日と同じように。まだ私が俺で、オレが私になると決意したらしいあの瞬間と、同じように。
「だから。しょうがないから、帰ってあげる」
アンタたちのために、帰ってあげる。
私は両手をパーにして頭の横に掲げる、それは降参のポーズだった。ある種負けを認めたような格好ではあるが、その実私の中身は清々しいままだ。
ようやく拳を解けた私の手のひらは、ふやけて白ばんだ皮膚が生まれたての赤子みたいだった。
「——いいの?」
夕日に透ける長い銀髪で七星の顔は見えなくなる。
けれどきっと、あの日頭を撫でられた『少年』と同じように。
頬をあつく赤らめて、期待に目を輝かせた、あどけない顔をしているのだろう。
「ええ」
そう。
私は『私』で、もうとっくの昔に俺じゃないんだ。
幼い自分が、泣きながら作った私。誰よりも愛らしくてみんなから愛される美しい自分。
その価値を私が認めてあげなくて、いったい誰に認めてもらおうというのだ。
「アンタたちが私を愛するよりもっと、私は私を愛してあげる。それで私が私を愛するくらいには、私はアンタたちのことも愛してあげるわ」
私の啖呵は次第に、ただでさえ赤い部屋をさらに燃やすような情熱的な響きを帯びる。そこに照れを覚えるようなやわな精神で、『可愛い』を演じられるわけもない。
寝ぼけてんなよ、役者 ども。私を愛せ、私を見ろ、可愛い私を愛しなさい。
「いつまでも夢見てる暇、私にもアンタらにもないんだから。アンタらは安心して、私のことだけ愛してなさい」
そう尊大に言い切って、私はとびきり愛らしく笑うのだった。
28
ともあれ。
そういうふうに目的を合わせ話し合った私たちは、互いに持つ情報を洗いざらい吐き出しきったあと、揃って首を捻ることになった。
「……起きれないね?」
「起きれないわね」
私は肩をすくめる。…というより、自分でも拍子抜けだった。ここは普通、私も七星も目覚めてハッピーエンドというオチではないのだろうか。
「六華の夢だから、てっきり六華が気づいたら目が覚めるんだと思ってたんだけど」
「生憎。そういう兆候はないわ」
「ほっぺつねる?」
「やったら殺す」
緩くスラーがかかり出した声をことさらきつく私は睨む。顔に傷がついたらどうするのだ。
普段であれば伺いもなく私の頬をつねる七星とそれに大声で怒鳴る私の場面だが、七星はそっかー、と珍しくあっさりと主張を収めた。
なるほど。私が事実にたどり着いた時点で夢について話さないこと、自ら話しかけないことというルールは消失したとはいえ、未だ枷の方は解けないままらしい。
七星はまだ。
やりたいことをできないまま。
私はひとつ咳払いをして、話を本筋に戻す。
夢だと気づいたうえで続く夢、いわゆる明晰夢。初めて見るそれからの目覚め方なんて、私には到底思い付かなかった。頬をつねるのはもちろん、一般的に言われる高いところから飛び降りる方法だって意味はないだろう。私はまだ戦っていた最中、本来なら死ぬだろう高さから既に飛び降り済だ。それでもあの夢は微塵も揺らがなかった。
どころか、いま私の手元にあのリモコンはない。つまりは例え今それを試したところで受け止めてくれる人形はいないのだ。やるにしたって全てをやり切ったあと、最後の手段にでもとっておくべきだろう。
いっそ目覚める、というよりただ帰るという意識でいた方がいいのかもしれない。物理的に、道を探すような。わかりやすい目標だ。しかしそれにしたって、夢から現実への帰り道などどうやって辿ればいいのだ。
「道があるなら簡単なんだけどなー」
歩けばいいだけだから。七星の口角が上がらないせいで本気か冗談かわかりづらいが、本気だったとしても現実性はないだろう。かたや子供の体格の七星、かたやか弱い六華ちゃんだ。流石に徒歩で街をくまなく回るというのは無理がある。
そもそもただ誘拐されているのとは話が違う。明確な道があるという確証もない。出口があるのかすら怪しかった。もしも道が用意されていないとすれば、たとえ世界の隅々まで回ったってどこからも帰ることはできないだろう。
すでに舞台の幕は上がっている。脇役も主役も、劇が続く限り舞台からは降りられない。現実には戻れない。結局私たちは、今この時でさえ舞台で踊らされている役者でしかないのだ。
これが本当に劇だったなら、あるいは小説だったなら、ここからみるみる解決編、不思議パワーのハッピーエンドに持っていっただろう。
しかしこれは現実なのだ。こうして今なお頭を悩ませている私たちにとっては紛れもなく。
「皮肉で情のない、ただの現実だものね」
「え?」
と。そこで七星は、鎖の音を響かせながら心底意外そうに首を傾げた。
「夢でしょ、ここ。現実じゃないよ」
それはあまりにあんまりな言い草で、私は咄嗟に出てくる色々な感情をぐっと飲み込んで拳を握る。言葉のあやというものをここまできてもこの男は理解していないらしい。
さっきまでの頼りがいのある『私』はどこへ行ってしまったのだ。…いや、むしろ今まで必死にルールに抵触しないよう振る舞っていた知能のツケが今来たというところだろうか。知恵熱を出した子供、という私のたとえはある種合っていたことになる。合っていたから何だ。
しかし言葉を飲み込んだことで思考はむしろ静かになり、ひどく冷静な頭が引っ掛かりを訴えた。
「……夢?」
そうだ、ここは夢なのだ。だからこそやりようは、もっと道理から外れたところにあるんじゃないだろうか。
舞台ならば監督がいる。その監督が私でしかない以上、打つ手は私に対するものしかないと考えていた。
しかしそも、おとなしく舞台だと認識すること自体私たちらしくない。
用意された環境で生きることのままならなさをあれだけ知っていたはずの私たちが、わざわざ言われたままの条件下で戦うなんて無謀にも程がある。自分に相応しい、手慣れた場所を用意すべきだ。
そうしてたどり着いたのはグレーもグレー、どころか真っ黒なひとつの手段。けれど私は、『それ』を思いついた瞬間言いようもなく高揚してしまっていた。
なんだ。こんな簡単な話だったんじゃないの。
「七星。アンタ、私のためならなんだってするわよね?」
「う——」
ん、と答えそうになった七星の首がまたがくりと後ろに引かれて無様にひっくり返る。もうちょっとやれると思ったのにい。そんなぼやきは七星にしては珍しく少しの不満がこもったものだった。ああそうだ。まずはこいつに、知恵を授けてやらないといけないだろう。馬鹿正直な子供を働かせるには、悪知恵を仕込むのが一番だ。
「アンタはね。馬鹿みてーに正攻法でいくから、馬鹿を見るのよ」
床に倒れ込んだまま、七星がぱちぱち瞬きをする。その反応も予想通りだった。わざと要点を避けて、困惑させて戸惑わせる。その上で埋め込んだ価値観こそ、強固な暗示になっていくのだから。
ゲームでも現実でも、いつだって真正面から戦う人間ほど動きを見切ることは容易い。パンチ、キック、必殺コマンド。それだけじゃCPU相手ならまだしも、現実の人間 とは戦えない。
絡め手フェイントハッタリ上等、嘘さえつかなきゃ戦略だ。
見えない枷。七星にあの人形が与えた、全てへの制限。今もずっとこいつの首元に重々しく鎮座しているだろう無骨な拘束。私は、七星の方を。それがあるらしい細い首を指差して。
「どこにもないじゃない、枷なんて 」
見えないんだから。なんてひどくどうでもよさげに、意識して冷たく、そう言い放った。
いつだって夢を終わらせるのは、現実を突きつける大人の無情な一言なのだ。その残酷な事実が今、私と七星の味方になる。
「枷?ルール?そんなの見えない、聞いてない。だから知らない。あるわけない」
私は夢を否定する。私は現実を舞台上で披露する。勝つためだったらなんでもやるのが私の流儀だ。
「生憎だけどね、私はそんな身勝手でアンフェアなものに縛られるほど——聞き分けのいいガキじゃないの」
大の字のままの七星の間抜け面がじわじわと緩む。見覚えのあるはにかむようなそれになっていく。相変わらず騙されやすくて結構なことだ。それを先に利用したのはあの人形の方、ならば私がいいように使ったって文句は言えない。
はらわたが煮えくりかえるような怒りと、培ってきた誇りが全身を満たす。今や私たちはこの部屋の中で戦意とともにお互いを見つめていた。
「そ、っか。うん。……うん、そうだね。見えないものが、あるわけない !」
そして。
そして七星はようやく——紅潮した頬で、得意げに微笑む。ばねのように起き上がったその首元から、鎖の擦れる音はもうしない。
「やりたいことを目一杯やって」
七星が笑う。
「邪魔なものは全部ぶっ壊す」
私が笑う。
「それで——帰るわよ、一緒に」
私たちは、ひどく無邪気に。そして小さな部屋でかつてそうあったように。
ただの無垢な子供のように——とても邪悪に、笑うのだった。
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七星の枷 を解いて、ここまででようやく準備段階に入った私の策。その本質は、夢の根幹を突き崩そうという単純なものだった。
ティンクが説明したように、ここが舞台であるならばその全権を握るのは監督である天馬六華だ。
しかし例えば。
これがゲーム だったならどうだろう、と私は考えたのだった。
ゲームにはバグがつきもので、だからこそ開発者も管理者も予想のつかない挙動をする。ゲームの全権を握るのはむしろシステムのほうなのだ。だからこそプレイヤーは、コンマ数秒数フレームの隙をついて技を差し込みゲームの支配権を握る。
どころか特定の操作によって、システムそのものに故意の歪みを生じさせることさえある。それはデータの破壊と紙一重の行為ではあるのだが。
システム本来の挙動に髪一本の隙もないのだとしても。予想外のコマンドを繰り返せば、それはサーバーに歪みを生む。
夢がシステムだとするならば、ここでいうサーバーは。
「ティンク、だね!」
七星は久々に動かしたらしい頬をむにむにと揉みながらすっぱりと断定する。
そう、おそらくあの人形は今も私たちの舞台を楽しんでいるだろう。
あの無機質な硝子の目で。高みから見下ろして、見下して、管理している。あの人形はそういう性格なのだと、私たちはすでに知っていた。
一度管理下に置いたものを放っておかない、それは手元のアクセサリーを眺める少女のように。依存と執着、とかそういった形容が最も似合うだろうか。もしくは、虐待 か。
家庭内暴力。しかしあの人形は、家庭内どころか同じ舞台にさえ上がらない性質だろう。舞台を観客席から、あるいは天井の上から鑑賞し、気まぐれに手を突っ込んでは金属質の笑い声を上げる。主が家庭内どころか舞台上にさえいないのだから、これはただの暴力 でしかないのだ。
あれがいるのはこの舞台の内側ではない。文字通りの第三者視点を、神の視点を貫いている。外側からこちらを覗き込んでいる。
そしてそれはつまり、覗き穴 がこの世界にもあるということだ。
出口はなくとも、外側に通ずる穴がある。そこに賭けよう、と私たちは思い立ったのだった。
「ん?でも夢 に穴なんてあったっけ。マンホールとか、排水孔とか?」
「言葉のあやよ。穴というより要は監視所」
「かんしじょ」
「あるいは夢の元凶。……いえ」
悪夢の深淵、かしら。
私は脳裏に映る男の残像に苦々しげに笑った。
『——おじさん実はそろそろ欲望渦巻く悪夢の深淵に、この身を捧げないといけなくて』
子どもに言えない場所。
『俺』 に言えない場所。
十九歳だか成人だかは関係なく、あの探偵は向かうべき場所を口に出して言うわけにはいかなかった。天馬六華に夢について言わないこと、というルールを律儀に守っていたからだ。目的地についての沈黙を、あの男は強いられていた。
そしてそれは逆説的にいえば。
『その場所こそが夢の元凶だ』という紛れもない証明である。
あの日カーナビが示した行き先は遊園地。
私たちの夢のはじまりを、高らかに示した眩しい場所。なるほどそれは納得だ。遊園地、街中、デパート——多くの場所で夢を見た私たちではあるが、しかし夢のおわりにここまで相応しい地も他にはあるまい。
夢の国は、すなわち現実へ帰る場所なのだから。
これから私たちは、システム管理者へご挨拶に行く。手荷物にはめいっぱいのバグウイルス、訪問手段は後日記載。ああこれではわかりづらい。もっと子供にもわかる、簡単な言い方をしよう。
つまりこれから六華ちゃんたちは。
クソ人形へカチコミに行きます。
四日目-深夜
30
そしてそこから数時間。
私たちの様子をある程度抜粋すると、こういう感じだ。
「わ、は———あはっ、あははははははは!たのしーーーーーー!、あはははは!」
「おーっほっほっほ!遅い遅ーい!もっとスピードあげなさいよ七星!」
「あは、ひははちょっと待ってえ!上行っちゃおう、上!」
「上?上に道なんて——きゃあ!?何よこれアンタこんな器用なことできるの!?チートじゃない、私には及ばないけど!」
「前は失敗したけどね!今度は上手くいってよかったー!」
「ぶっつけ本番じゃないの、聞き捨てならねー!あはは、おほほほほほほ!」
…我ながら、相当頭が沸騰してたのだと思う。
説明すると。いま私たちは、かつてあの探偵が乗っていた紫のワゴンで無人の車道をかっ飛ばしていた。カーナビから漏れる無機質な案内音声が示し続ける遊園地への道を、カチコミのために。
言い訳をさせてほしい。車に乗るのなんて随分久しぶりだったし、当然ながら車で宙を進むのだって生涯画面の中でしか体験していなかったから、ハメを外してしまったのだ。もしくは、タガが外れたというか。本来は一度だって体験してはいけないことなのだろうけど、それはそれ。夢の中に現実のルールを持ち込むなんてナンセンスな輩、今の私たちはお呼びじゃないのだ。
車。
そう、その車は天馬家のすぐそばの駐車場にこれみよがしに停められていたものであり。すでにここを去ったらしいおじさん——栗花落四麻が、唯一この世界に残したお役立ちアイテムだった。
チートコマンドの破壊力はだからここで随分と盛られたことになる。意外性という面でも満点だ。
どこの世界に笑って車を運転しながら空を駆け回る子供がいるのだ、と私は運転席の七星を見やる。
車を目にしてにわかに浮き足だった私がしかし己が教習など一度も受けたことがない事実に肩を落としたのと、いつのまにか数枚の紙を手にした七星が運転席を陣取りに行くのとは同時だった。
運転席の脇に乗せられた数枚の紙。国際免許、といかめしく書いてある書類の上ではきちんと天馬七星が運転免許を持つ満18歳以上の成人男性だと表明されていた。
なんとこの男、ちゃっかり現実で免許を取得していたらしい。え、マジで?という感じである。この夢の中では何度も突拍子のない目にはあってきたけれど、実は一番の突拍子のない事実はこれだったのかもしれない。
そして七星は夢の中での、無から有の物の出し方も私より妙に手慣れていた。この数日間帰る家もないままどうやって生きていたのかと思っていたが。もしかしたら、こんなふうに紙幣でもなんでも出して宿泊施設にでもいたのかもしれなかった。つくりものの、誰もいないフロントを通過して。それならばたとえ子供の姿だろうと七星は誰に怪しまれることもなかっただろうし、もちろん何日だってこの街にいられただろう。私がここを離れない限り。
それと同じにおそらく、七星が出した分のお金はきっちり現実の彼の所持金と同額なのだろうなという予想もついた。
夢の中でさえ運転にあたってわざわざ自分の持っているのと全く同じ免許を調達してきたのと同じように、その辺りは意外と律儀な男だ。おそらくは怒られたくないから、というだけなんだろうが。自分の言動で誰かが怒ること、不快になることを何より疎むこの男らしい道理の通し方だった。
そしてそれは、あの飄々としているわりに小心者な探偵のおじさんらしいやり方でもあった。
「おじさんとはね、ここでは二回しか話せてないんだ」
積み木を手で転がして、短い足でアクセルを踏んだまま七星は呟く。スピードとは対照的に、随分静かな声だった。
「一回目は、六華の言う『一日目』の夜」
どこで過ごそうか、いっそ天馬家の前で野宿でもしようかと適当に作りものの街をぶらついていた七星の後ろから、あの軽妙な声がかけられたのだという。
そして七星は、おじさんからある程度の身の振り方を学んだ。要は探偵のテクニックだ。目標に対しどこまで離れたところに拠点を構えればいいか。日中の尾行中はどんなところに隠れていればいいか。
二日目以降、万が一私が待ち合わせ場所にまっすぐ来なかったとしても、それでも確実に会えるように、と。枷によって自分から行動を起こすことのできない七星にとって、それはあまりに有効すぎるアドバイスだった。
その邂逅からあの探偵が組み立てたであろう推理がいったいどこまで結末、あるいは真実に肉薄していたのかはわからない。
けれど確実にあの男は、二日目に私と出会った時点で『ここ』を予見していた。私と七星が手を組んで大元に殴り込む、なんていう前代未聞の事態を推理しきった。
自分に課せられたルールと七星との短い会話、そして私との邂逅によって世界の仕組みを丸ごと全て把握した、というのは言い過ぎにしても。
あの男のひょうきんぶったシニカルな言動の裏にある探偵らしい冷えた脳は、明確にここへの道のりを導き出した。
だからこそあの日。栗花落四麻はわざわざこの車内で煙草を吸いながら待機し、かつ私本人にカーナビを操作させたのだ。
昔と同じく注意しに声をかけてくるだろう私に。
この車と、遊園地への道のりを示す存在を強く刻みつけるために。
何もかも偶然の産物で片付けられるライン。あの男はそこに全てを賭け、そして勝った。
そうだったとして、それだけ頭の回る男があんな柔らかで馬鹿げたルールにいつまでも縛られていたとも考えづらい。おそらく私と出会ったあの時点で、彼はもはや自らに課せられたルールさえほぼ解いてしまっていただろう。私がしたのと同じように、自らに現実を突きつける形で。大人のよくやる処世術として。
「それで二回目は、『二日目』の夜」
おじさんにできることはしたからね。
栗花落四麻は、それだけの行動をしておきながら。
連日で自分に会いにワゴンの扉を叩いた七星に向かって車の鍵を渡した上で、そう残して去っていったそうだ。
全てを推理しておきながら、全ての枷を解きながらもあえて最後まで口をつぐんだ。その思考を今の私なら理解できる。
それでは意味がない と悟ってしまったのだ、あの男は。
道理もわからない子供に全て暴露するのは簡単だ。流石に『俺』だって、一から全てをきちんと説明されてしまえば自らの終わりを受け入れざるを得なくなるだろう。
しかしそうして得た答えは、あくまで与えられたものでしかない。私が自ら選び取ったものではない。ただ詰め込まれ丸め込まれただけの考えなど月日と共に色褪せて、忘れてしまえば人は何度でも同じことを繰り返す。
妄想に囚われた子供を救うのは、なるほど随分ヒーローらしい素敵な大義名分だ。そんな誰にも誇れる名誉な偉業をなすだけの力も理由も、きっとあの男にはあった。
でも。フィクションならまだしも現実でそんなことをしてしまえば、どこかでガタがくるものなのだ。
他人に踏み荒らされた心は、それが良いかたちであろうと悪いかたちであろうとそのかたちにならされ二度と元に戻らない。
もしもそこまで踏み込んでしまえば、あの男は私の根幹になってしまう。私どころか、もしかしたら七星の根幹にも組み込まれてしまう。本当に目を覚ましたわけでもないのに、なまじっか他人にもたれかかって立てているが故に、私たちは己が自立できたのだと勘違いしてしまう。
夢を見たままの私たちが、一人で立てなくなる。あの男はその事態こそを恐れたのだろう。
だからあの男は名誉を捨てた。一生で一度だってないだろう絶好のチャンスを、煙草の煙と一緒に燻らせて現実に溶かして消した。
『やりたいことを一切しなかった』男と、
『できることだけを精一杯した』男。
その内実は似ているようで全然違って、しかし難易度としては互いに比べられないほどの特殊性を持つ。
自己満足は気持ちいい。悪を打破するのは爽快だ。可哀想な人間を救うのは気分がいい。だから人はいつだって、必要以上に人を救いたがる。手を突っ込んでかき回したがる。ちょうど目の前の七星のように。
それでもあの男は、真に全てを見抜く探偵だったからこそ全てを見過ごした。
するのは、できることだけ。
ただそれだけと、堪えた。
それは夢との向き合い方を、現実への向き合い方を痛いほどに知り。なのにその上で希望を目指せるあの男だからこそできた決断で。
こうなってから思えば、この世界の中で一番大人だった人物はあのおじさん——栗花落四麻だったのだろう。
栗花落四麻は。
だから間違いなく、この世界のヒーローだったのだ。
31
『目的地周辺に到着しました。案内を終了します』
そう残し自動音声は沈黙した。つまりは遊園地のすぐ近くまで問題なく運転ができたということで、本来ならこのあたりでそのシルエットが見えてきてもいい距離のはずだった。
しかしそれに反した周囲の景色に、走る車の中で私と七星は沈黙する。
未だ車窓を過ぎる景色はただのビル街だ。遊園地の影も形も、どころか光もない。深夜の、耳が痛くなるほど音のない街並みだった。
「道は合ってるのよね、七星」
「合ってるから案内が終わったんだと思うけど、うーん」
「やけに自信なさげじゃない、珍しい」
「ペーパードライバーだからね」
聞き捨てならない言葉だった。こいつ、ペーパーのくせにあれだけ自信満々に運転席に乗ったのか。今更ながらこの男に私の命が預けられていた事実に寒気がする。
腹が立ったのでその頬をちぎってやろうかと思ったが、いまだ運転中の人間に絡めばそれこそ私の命が危ない。スーパー理性的な六華ちゃんのおかげで七星のほっぺはしばらくの間延命された。
ため息をついた私が視線をカーナビに戻し、もう一度その画面を操作しようとしたその時。
変化は突然訪れた。
確かに数秒前まで、ここはなんの変哲もないビルの集合でしかなかった。静かな灰色の街。その印象に相違なかったはずだ。
しかし今この瞬間、それが切り替わった。黒いアスファルトはチェス盤じみた床に。真四角のビルは洒落た西洋建築に。暗闇をかき消すぎらぎらした蛍光色の電飾、永遠に掠れた音楽を流し続けるスピーカー。そばを通るジェットコースターの線路は低くうなりをあげている。
すっかり空の高い位置を陣取る月が夜の深さを示しているのに、星のひとつも見えないほどに眩しい世界。
確かにここは遊園地だった。
「……相変わらず、デタラメね」
「あはっ、さっすがー!」
思わず開けた車窓の隙間を人工的な甘ったるい空気が通り抜ける。前も後ろも右も左もコミカルな風船が至る所に舞うこの空間は、どう形容したって夢の国としか言いようがない。
吹き込んだ紙テープの一本が七星の頭に落ちる。アクセルへ伸ばした足をさらに踏みながら七星はぷるぷると頭を振ったが、それでより髪に絡まってしまったのかテープはただ宙で踊るだけの結果となった。
「それで、どこまで走ろ」
続きかけた七星の言葉が、静止されたように唐突に止まる。私が怪訝に思い隣を見やった次の瞬間、小さな体躯は俊敏に下側へずり落ちた。
「ちょっと、七星前!前見なさいよこの———」
「黙って!」
短い手がハンドルを勢いよく回す。面舵いっぱいというにもいっぱいすぎるほどの回転に伴って、当然の結果として車体もスピンしながらモノクロの床を滑っていく。回転と振動で狭まる視界に映ったのは、ブレーキをベタ踏みする七星の足と。
車が先ほどの進路で進んでいたら通過していたであろう位置にちょこんと鎮座する、あの日の小さな黒猫だった。
唐突にドリフトを切った車はあたりのオブジェクトを蹴散らしながら減速する。擦れたゴムの焼ける匂いと、遊園地の甘い空気が車内で混じった。
そうして完全に動きを止めた車の中で、シートベルトに拘束されたままの私と七星の荒い息が響く。
「こ、——ろしちゃうかと、思ったぁ……」
冷や汗をかいたままの七星の手のひらで、薄く発光していた積み木がその光を静かに消す。私が収まらない鼓動のまま見れば、窓の外には瓦礫ではなく子供じみた原色の積み木が散らばるばかりだ。建物や噴水に当たったにしては衝撃が小さいと思ったが、直前で七星の魔法が発動したらしい。
殺しちゃうかと思った。
それは猫だけではなく、同乗者である私のことも含めた言葉だろう。
弟を運転席に乗せるまいとハンドルを握ったペーパードライバーは、しかし命を背負う覚悟だけは一人前のようだった。
「あ、ごめんね六華怒鳴っちゃって。舌噛んじゃうから口閉じててって言いたかったんだけど」
「そこは不問でいいわよ」
そこまで言ってたら間に合うわけもなし。
早く言え、とは少し思ったけれど、猫の黒いシルエットは床に綺麗に同化してしまっていた。おそらく七星が気づいたのもほとんど直前だったのだろう。わざわざ命と舌を慮ってもらった人間に対してそこまでの無茶を強いるほど、私は理不尽な人間ではない。
と、そこでひとつ私の耳に音が届く。
「にゃおん」
先ほどの猫、つまりは三日目に出会ったのと同じ猫。それが周囲に散らばる積み木に包帯の巻かれた足で踏み込んでいた。
私が車窓をより開いて覗き込むように見下ろすと、猫のほうもこちらをちらりと見やる。
これだけ眩しい遊園地の中にあってもこの猫の硝子玉じみた目は瞳孔を丸く開いていた。猫の目というよりは、人の目のような目玉だ。人を見下ろすような、見下すような。
虐待するような。
「あ、ティンクだ」
私の後ろから顔を覗かせた七星が、同じく窓の外を覗き込む。
ティンクだ。
つまりはこの黒猫はティンクであり、あの日出会った黒猫もティンクであり、七星はあの時点でそれを知っていたということで。知った上で、あの日何も言わずに連れて帰りここまでそれを私に言わなかったということで。
私は大きく息を吸い込んで、先ほど飲み込んだ言葉を改めて強く脳に刻んだ。
早く言え。
32
「無粋だワ」
猫の口は動かない。艶のある黒い毛を微動だにさせないまま、ただそれだけを『ティンク』は周囲の空気に響かせた。もとよりあの人形の発声は、声帯を通すようなものではなかったのだろう。猫に宿ったところでそれは変わらない。
車から降りた私と七星は、積み木の散らばる地面に両足をつけた。べこべこになった車を背に黒猫と向き合って、精一杯に顎を引いて敵を見据える。
いよいよここが最終ステージだった。
「無粋、無礼、とテも不愉快。普通曲がリ角デ女ノ子が待っテいタら、ちゃンとぶツかってあゲるものよ。テンプレート。ご存ジ?」
それは恋愛脳じみた言い草だった。覚えのあるロマンチックなシチュエーション。しかし冗談にしてはやけに悲痛な響きに、私は言葉が出なかった。
「車にぶつかったら死んじゃうよ?」
「『死んデもいイワ』は『愛しテいルワ』でシょう?」
重苦しい空気に気づかないよう、一般常識をなぞって聞き返した七星にアイ・ラヴ・ユウ、とティンクは笑う。たとえ夏目漱石を知らなくたって、その声を聴けば誰しもがそれと気づくだろう。金属音に混ざる、悲痛な求愛信号に気づくだろう。
いっそぶつかってくれれば。真正面から向き合ってくれれば、それだけでいいのに——そう叫ぶような響きは、ひどく虚で寂しかった。いつか自分でも唱えたことだったから、余計に。
「……無駄話は、どうでもいいわ。本題に入りましょう」
「あラ、何の話がしタいのかシら。どんな夢を見たイのかシら。キラキラ輝ク小サなお星サま、あなたハどンな夢を見たイと願ウの?」
「いらない」
もう私に夢はいらない。奇跡もいらない。
「あなたの愛を、私は受け取らない」
クーリングオフ。ご存じ?
私はひどく高飛車にそう言った。
それを聞いているのか聞いていないのか、あらそう、とティンクの声を響かせる黒猫は、転がる積み木の隙間を器用に抜ける。そうして歩んだ先で、黒猫はその足元で媚びるように七星を見上げた。
「そウ。そウ。けれド愛に、なンの違イがアるの?みんナ同じじャなイ。みんナ特別、みんナ大好き」
「…、……」
「ネえ、ナナセ?どれカを受け取って、どれカを受け取らナい。あナたはそうイうのが、嫌だっタのヨね?」
私は少し眉をあげる。ティンクが勝手に言っているだけのおためごかしという訳ではなさそうだった。ここでそう持ち出してくる以上、七星がそういう人間だというのは紛れもない事実なのだろう。
「願イを叶えたイって愛は。誰カの人生ニ幸せをアげたいトいう愛ハ、そンなに悪いコとかシら。受け取っテもらエないノは悲しイの。見テもらエないノは寂しイの。聞いテもらエないのは苦しイの。あナたはそレを、否定でキる?」
ティンクは言った。夢見る少女みたいに、そして天の神のように。上目遣いに、見下している。彼女のよくするやり口だ。口を挟もうとした私に、七星のアイコンタクトが届く。だいじょうぶ。七星は随分落ち着いた様子で、私に向かって緩く目を細めた。
「——うん。オレは、それを否定できないよ。それじゃなくて、どんな愛でも。多分オレは否定できない」
そういうのは、いつかのどこかで通り過ぎちゃった。
七星は穏やかにそう告げる。自分の歪みを、ありのままを、少しずつ受け入れて大人になった精神で、遠い過去に静かに微笑む。
「とっくの昔に見過ごしちゃってたんだ。たぶん、すごく大事な何かを。だからオレは今までずっと、それでこれからもずっと、こんなふうだと思うよ」
あまりに絶望的で先の見えない、闇のような生涯を語っているのに。七星の語調は変わらない。全てを諦めて、なのに希望を信じる彼のままだった。
悲しくても、寂しくても、苦しくても。
天馬七星はきっと、永遠にそのままだ。
まともになれる機会などはとうに過ぎ、未来のどこにも猶予がなくても。
それでも、笑顔で未来に向き合う男だ。
「でも。それは、六華には関係ないことだよね」
七星は断ずる。矛盾を突く。お前の相手は自分じゃないぞと言い放つ。そしてゆっくり、私の方を指差した。
「今ティンクが話してるのは、オレじゃなくて六華なんだから。六華を納得させたいなら、きちんと正直に話さないと駄目だよ」
六華は嘘が嫌いだから。笑う七星と笑わない黒猫は、相対の姿勢から変わらない。視線は交わっているのに、立ち位置は全く違うまま変わらない。
それは明確な叱責だった。
「ティンクの愛は『それ』じゃないって、ちゃんと自分で言わなくちゃ」
「またそれを言うのね。意地悪は嫌いよ、嫌い、大嫌い」
金属音の重なりが加速する。ヒートアップしていく語調と裏腹に、ティンクの目はとても静かなままだった。その目がようやく私を見る。私を敵対者とするように向かい合う。これでようやく、私たちはきちんと話し合うかたちになったのだ。
「自分で言いたくないなら、当ててあげましょうか?」
私は腕を組んで、顎でティンクの方を示す。半分はハッタリだが、半分は確信だ。ティンクが秘めていたかった、黙っていたかったエゴの部分。人間らしい情の部分こそ私の突くべき場所だった。
願いを叶えたいのは本当だろう。でもティンクのそれは、相手に幸せをあげたいわけじゃない。相手の現実に幸せをあげたいわけじゃない。
アンタは。
「自分のことを、価値のある存在だと思ってほしいだけよ」
愛されたいから。
愛される資格を、欲しがった。
がらんどうだとばれたくなくて、必死に愛に媚びていた。
猫の瞳孔がより丸くなり、奇妙な色合いを強くする。びりびりと肌を刺激する殺気は嫉妬だろうか。憤怒だろうか。何も知らないくせに——。そんな身勝手な怒りが自分に向いているのを感じた。私はそこまでを我が事のように想定できていた自分が、いっそおかしいくらいに虚しかった。
「知っタふうナこトを言ウのね」
「知ってるわよ」
だって私がそうだから。
「愛されないのは寂しい。愛さないのは苦しい。愛を渡すのは気持ちが良くて、愛を受け取れるのは心地が良い。そのくらい、私だって分かってるの」
だから私だって結局、ティンクを否定できる立場にはいないのだ。
アンタは確実に悪趣味で、正当なんかじゃなくて、歪んで捻れて壊れきっているけれど。
それが間違ってるなんて、私は言えない。
だから結局はエゴなのだ。身勝手に向けられた愛を、身勝手に拒絶しているだけ。とても自然で正しい、愛への向き合い方だ。現実でよくあるありふれた処世術だ。
「こコなら、心変ワりはしなイのよ」
「ええ、そうなんでしょうね」
私は言う。
「誰カが誰カを嫌いになルなンて、絶対になイのよ」
「うん、そうなんだろうね」
七星は言う。
でも。
心変わりがあるから、人は人を好きになれるのだ。
好きな人を嫌いになるように、嫌いな人を好きになれる。心は変わるから心でいられるし、心がなくては愛は受動でしかない。
出会いは別れを生むけれど。別れは出会いを呼んでくる。二度と別れない関係は、二度と出会えない関係でもあるのだ。そんなものは、子供部屋に閉じこもっていたころと変わらない。変われない。
現実の愛は、軽くない。甘ったるい割に鉄臭くて、べたべたしているのにすぐに蒸発する、リアルで醜い形をしているかもしれない。
それでも私たちは、きちんと心変わりをしたいのだ。
きちんと変わっていきたいのだ。
眩しイのね、と黒猫は苛立ったように、それでも声色だけは夢見る少女のままで尻尾を振った。
「眩しクって、痛々しクて、見てラれナい。ゼったい、絶対に後悔スる時がくルわ」
「その時は、きちんと後から悔やむわ。今度こそ」
悔やんで反省する。未来をよりよくするために。先をよりよくするために。今度こそ。
そして私たちは、ラスボスと向き合う。
人形のようで、神様のようで、何にも似ていない。
ただ告白 を精一杯してくれただけの女の子に、精一杯真摯に向き合った。
高飛車な態度も、常識をなぞる冷たさもすでにない。低く頭を下げた姿勢になって、私たちはある言葉を口にする。
「———ごめんなさい。私たちは、あなたとは幸せになれません」
愛してくれて、ありがとうございました。
それはラブコメによくあるテンプレ通りの。
告白の断り文句だった。
33
告白というのは、実はとても勇気がいることだ。
罪の告白でも、好意の告白でも、あるいは告発でも。
相手が自分を受け入れてくれるか。相手は自分を許してくれるか。自分は相手に認められる存在か。それがいとも容易く白日の元に晒される行為だ。だからあるいは人生を賭けた勝負とも言えるのかもしれなかった。自分の命を差し出して、相手の愛を受け取るための。
ハイリスクハイリターン。しかしてそれは等価交換。
相手の人生をもらうのだから、自分の人生も差し出さなければならない。きっとそれはすごく正しいことだった。
そして自分の人生を差し出した以上、受け取ってもらえなければ相手の人生ももらえない。
だからひとは告白を断るとき、ごめんなさい、というのだ。ひどく身勝手に向けられた好意に応えられない、そんな当たり前のことを謝罪する。相手の誠意に報いるために。あなたの人生をもらえなくてごめんなさい。あなたの勇気を踏み躙ってごめんなさい。身勝手なわたしでごめんなさい。
恋物語の終わりは、全て謝罪でけじめがつく。
……それはきっと理想論なのだろうし、物語の中でしか通用しない理屈だろう。現実はそう甘くはない。いくら謝罪を尽くしたところで怒りは消えず、踏み荒らされた傷はいつまでも残る。しかしそれはあくまで現実ならばという話だ。
ここは夢見るネバーランド、物語の文脈に縛られた小さな箱庭。
そんな夢物語の中にしか居場所がない彼女 は、物語の理屈に従う以外の選択肢を最初から持っていない。リンゴが木から落ちるように、彼女たちは当然の法則として物語の文脈を受け入れざるを得ない。自分たちがそういう法則で生かされていることを知っている以上、無視することはできないのだ。
ここにきてようやく、私たちはティンクに“詰み”状態を仕掛け終えたのだった。
ティンクの宿る黒猫は、それからしばらく無言になった。コースターはいまだ空気を読まずに低く唸りを上げていて、無人のメリーゴーランドも音楽に合わせて上下している。風が吹いて、雲が過ぎて、月の位置が少し変わって。そしてようやく、黒猫は口を開いた。今度こそ、口を開いた。
「——横断歩道」
「え?」
「横断歩道を、渡レばイいわ」
渡っタ先が、夢ノ出口。地獄の門。
現実ノ入り口。
未だ金属音を残す声は、ぽつりとそうこぼした。
「告白を断らレたんダもの。サヨナラの時間ダわ」
みんな同じこと言うんだから失礼しちゃう、とティンクは拗ねたように目線を逸らした。もしも未だ人形の姿のままだったら、彼女はきっと自分の前髪を引っ張っていたのだろうとわかる声だった。
「他のやつらは、どうなったの?」
「ほとンど出ていっタわヨ。あナたたチはビリから二番目」
二番目。ならばまだ夢に囚われた人間がいるということだろうか。ふと、誰よりも元から夢を離れたがった男のことを思い出した。誰よりも現実で生きることを望んだ、灰色で赤い男を思い出した。もしも『ビリ』があの男なら。現実にあれだけ戻りたがった男が、わざわざ夢に付き合ってやっている理由とは。
「——じゃあもうこの車、オレたちにはいらないね!」
七星はポケットから車の鍵を取り出す。そして目の前でようやく喋り出した黒猫の足元に、ひどく大事なもののようにその鍵を置いた。珍しく、物の価値に報いる仕草だった。
「……後片付ケくラい、自分でしテちょウだい」
「え?オレはてっきり、ティンクも順番待ちだと思ったんだけど」
おまけのおまけの汽車ポッポ。節をつけて歌われたそれは、子供のよくある数え歌だ。
『遊び終わったら、次の子に譲りましょう』
『次の子はずっと待っているから』。
ああ、そういうこと。ここまで予見してたわけだ。私は背後の凹んだ車体を見る。ところどころ塗装が剥げた紫のそこに、ちかちかと星のような輝きを見た。
それは万華鏡じみた魔法の名残。万華跳の残りかす。
「これはね、『会いたい人に会える車』だったんだよ」
「……」
七星が魔法を使えたのだ。たとえ大人の姿のあの探偵だって、魔法が使えないというわけではない。おおかた使った万華鏡は後部座席にでも隠しておいたのだろう。アスファルトの上で妙に目を引いた車のトリックは、これだったのだ。
全く最後まで抜かりのない男だった。
「もうべこべこだし、そもそも魔法が残ってるかどうかだってわからないけど」
「ま、修理には私の人形を使えばいいわ。どうせアンタが持ってるんでしょ?」
床の積み木の中に散らばる、見覚えのある数々のオブジェクト。いくつかにはひびや汚れこそ残っているが、その全てがこの車と同じようにきらきらと輝いている。
『大事なもの』の成れの果て、その山はどこか玩具箱のようだった。
目の前の少女の、真に求めた人間が誰だったのかは知らない。かつての人かもしれないし、これからの人なのかもしれない。そこまで知る義理はないし、そこは流石に不可侵領域なのだろう。
だから私たちは、知ったようなことを偉そうに言う。
「待ち合わせに何十年も遅刻してくる男なら、ぶん殴って引っ張ってくればいいし」
「待ち合わせすらしてくれないつれない子には、無理やり約束を取り付けちゃえばいいんだよ」
デリカシーのない大人のように。あるいは、ただ恋話をする友達のように。私たちは知ったふうに言い放った。
「……フ、フフ」
そして。
そして逆鱗を踏み荒らされた、少女の自我を残した人形は。かつて幸福の象徴で、今は不幸の象徴とさえ思われた彼女は。
「クフフふふフフフフフ!」
ひどく満ち足りた声で憎たらしげに、けれどとても嬉しそうに、照れたように笑った。
黒猫は私たちの前から去っていく。目の前を横切って、去っていく。
「知っテいル?そウいうノを——大きナお世話っテいウのよ」
「知ってるわよ。その上であえて言ってあげる」
——お幸せに。
いってらっしゃい。
かつて恋をした女の子。
五日目-夜明け
34
今だからこそ言える、昔の話。
横断歩道というと、横じまのうちの白い線だけを踏む遊びを『俺』はかつてしたことがあった。踏んでいいのは白線だけで、はみ出すとアウト。アスファルトの黒地をサメがすむ海にしたり煮えたマグマにしたり、いろいろと語って遊んだものだった。
ひとりで?……どうだっただろう。誰かが隣にいたような気がする。今もしている。けれどそれが誰だったのか、私は今になっても思い出せていない。
記憶の底で埃を被った、昔々の思い出話だ。
あれから。
車の前で座り込んで動かなくなった猫を置いて、私たちは歩き出した。最後に見た猫の瞳は、普通と何も変わらない縦長の瞳孔で。ただ突然意識が戻ってきたと言わんばかりにきょろきょろとあたりを見回していた。あの黒猫もまた、ようやっと夢から覚めたのだろう。
歩くうち遊園地の喧騒は遠ざかり、そしてある一歩を踏み出した瞬間に周囲は元通り灰色の街になった。入場の門も退場の門もなく。夢のように儚く、夢の遊園地は消えていった。きっともう、二度と行くことはない。
並んで歩く子供の身体の七星の歩幅と、今の私の歩幅はあまり変わらない。小さくて狭いそれのままだ。けれど私たちはゆっくりと、誰に急かされることもなく歩いていた。
思えば、私が七星のことを見下ろしながら歩くのはこれが初めてだ。そして最後なのだろう。貴重な一瞬ではあったけれど、私は何も口に出せない。言えることなど、もう何もなかった。後悔はある。未練もある。気を緩めればすぐ、現実と向き合う恐怖が湧き上がる。何かあれば張り詰めていたものがぷつんと切れてしまいそうで、私はただ地面を睨んでいた。
黙りこくる私に、七星は思い出したかのように話を振る。
「横断歩道といえばさ。よく遊んでたよねー、六華」
「……よく、覚えてたわね。アンタが」
「オレがガーッて一気に渡っちゃうから、いつも六華はつまんなそうでさ。七星とはやんない〜って」
そんな記憶はない。おそらく、幼い私は怒るだけ怒って忘れてしまったのだろう。子供の記憶力などそんなものだ。かつて隣を歩いてくれた人間の顔を思い出せないくらいには、朧げで儚いものだ。
「そう、だったかしら。それで一人で遊んでたわけね、私」
「え?ううん、一人で遊ぶのも寂しいでしょ。だから二人で遊んでたよ」
「——二人?」
聞き返す傍らで、私の記憶はどんどん温度感をもっていく。遠い記憶。淡く優しい思い出の中で、首が痛くなるほどに見上げていたシルエットは。
そういえば大人のものだったと、私は気づいた。
「母さんとだよ」
忘れちゃったの?と、七星は不思議そうに私を見上げた。
そうだ。
その時、私の隣には母がいた。
母と私は並んで歩いていた。
「あ……」
子供の歩幅で白線だけを踏もうとすると、自然と大股になってしまう。その時の私はひらひらとしたスカートで、何の気も使わずに、ひどく子供らしい無様な格好をしていたと思う。今考えても恥ずかしい。黒歴史とも言える光景だ。隣を歩く母もさぞ恥ずかしかったことだろう。
「——あ、」
それを思い出して、同時に私はそんなことをして怒られなかったのかとも思った。隣にいた母親に、恥ずかしいと叱責されなかったのかと。
「う、あ」
しかして。
記憶にあったのは、ただおかしそうに優しく笑う母の顔だけだった。
その時私の母親は恥ずかしげもなく、頬を紅潮させて。
心底嬉しげに笑っていた。
愛らしく媚びていない頃の私に。あの頃、母はちゃんと笑いかけていたのだった。
なんという話でもない。こんなものはただの思い出話で、昔の話で、二度と起こり得ない優しい記憶だ。懐古というにも意味のないただの感傷だ。思い出したってなんの得にもならない、傷つくだけの昔話だ。
「六華?どうし」
丸い目で私を見上げる七星の顔を掴んで覆う。七星はしばらくじたばたもがいていたけれど、少しして急に大人しくなった。私が鼻を啜る音は、七星の無駄に良い耳に届いてしまったらしい。
「……………いま、こっちみたら、ころすから」
「はあい」
よくわかんないけど、わかったよ。と、七星は顔を覆われたまま能天気に笑った。物事をなあなあのままで終わらせてくれる兄の姿勢がこれだけありがたいのは、きっと最初で最後だろう。
滲む視界に横断歩道と信号が映る。はじめは無人かと思ったこちら側の歩道には、しかし一人の子供がいた。
——それはなんの変哲もない子どもだった。
乱れた長髪を片手で押さえて、捲れそうなふわふわした服はそのまま風の勢いに任せている。女の子、でいいんだろうか。そう断定するには妙な違和感があり言い切れない。しかし少なくとも、たとえ複数人で見たとしてもその子どもを男の子だという意見も女の子だという意見も揃うことはないだろう。しいていうなら、『かわいい』であれば揃うかもしれない。いや。もちろん揃う。
天馬六華は、たとえ幼い姿であっても満場一致で、世界で一番可愛いのだから。
目の前にいるのは天馬六華だった。
それは私の幼い姿で。
けれどきっと『わたし』ではない天馬六華だった。
「…、…———」
子どもは押しボタンに手をかけたまま、私を見ていた。ずっと無視されていた恨みを訴えるように、きつくこちらを睨んでいた。
そのまま子どもの薄い唇は何事かをかたどる。その声は空間を震わせることもなく溶けていったけれど、今の私には子どもが何を言いたかったのかなんてすぐに理解できた。
「……そっか。やっぱり、そうよね」
目の前にいるのは。
紛れもなく『ぼく』の天馬六華だった。
天馬六華が昔産んだ幼い自我。生まれてすぐ、かたちをとる前に潰され消えた『ぼく』。
——アンタだって、大人になりたかったわよね。
結局はそうなのだ。私が生んだ『俺』、そのはじめの一歩は彼だった。彼がいたから俺はいたのだし、俺がいたのは彼が生まれたからだ。私が彼を生んだからだ。私のせいで、私が悪かった。
だから私は七星の顔を覆っていた手を外して、両手を広げて立ち止まった。
ようやく拘束が解かれた七星は一度ぷるぷると頭を振って、そうして幼い天馬六華の姿を視界に入れて目を驚愕に見開いた。それから私の顔と一度交互に目線を入れ替え首を捻ったものの、自分には分からないことだと悟ったのか銀髪はすうと大人しくなった。
そんな様子を呆れたように見た『ぼく』は、しかし怯えるように目を伏せる。親に叱られる瞬間の子供のように、しおらしく消えようとする。
だから私はそんな彼に、精一杯柔らかく笑みを向けた。
きっと母親のように、笑った。
「安心しなさい。アンタも一緒に、帰るから」
顔をあげたちいさな子どもは、私の声を聞いて一度目を瞬かせて。同時にその顔を、泣き出しそうに歪めて。そしてその細い足で躊躇うように二、三度地面を踏んで。
——突然私の胸に飛び込んで、溶けて消えた。
あとにはなにも残らなかった。
「……消えちゃった!六華六華、ねえ六華が消えちゃったよ六華ー!なんでなんで、どうしてどうやってどっちがどっちーっ!?」
「あー……説明、…いや、秘密。秘密にするわ、面倒だから」
「えーっ!!」
不満げな七星の声がおかしくて、私は抑えきれなかった笑い声をあげる。諦めろ。秘密のひとつやふたつ抱えてこそ、ひとの魅力は出るというものだ。
叫んだ七星はしかし、私と並んで横断歩道に向き合って口を結ぶ。
目の前の広い車道も黒いアスファルトも、見た目はなにも変わらない。よくある普通の横断歩道だ。けれどそこに流れる空気は、すべての終わりを否が応にも私たちに理解させる。
ここを渡った先が、夢の出口。地獄の門。現実の入り口。
とっくの昔に押されていたらしい押しボタンの表示は消え、信号には青いシルエットが光っていた。私たちを止めるものは、ひきとめてくれるものは、これで誰もいなくなった。
それでも怖気付いてたたらを踏む私の視界に、小さな手のひらが差し出される。七星は少し怯えた風に、それでもきっ、と丸い目で私を見上げていた。その顔は不思議と随分と頼りがいがあって、そして随分と見覚えもあった。それはきっと、兄の顔だ。
私は差し出された手のひらに手を乗せる。大きさの全く違うふたつの手が、それでも強く組み合わさって結ばれた。
私は大きく息を吸い込む。七星も大きく息を吸い込む。
私たちは、手を繋いだままで。色々なものを抱えたままで。
色々な歪みを抱えたままで、それでも。
「せ、え、の——」
はじめのいっぽを、ようやっと踏み出した。
〼
〼
目を開けると、そこは見慣れた公園のベンチだった。
朝焼けの光に照らされるのは原色の遊具。誰も乗せていないブランコは静かな空気の中でゆらゆらと揺れている。笹がくくりつけられた柱の頂点で時計は正常に動いていて、それが指すのは朝にしたって早すぎる時刻。
それは七月七日の早朝だった。
私はあたりを見渡そうとして、肩の違和感に視線を落とす。目に入ったのは紫混じりの銀色のつむじと、十九歳の——いいや、今日で二十歳になるらしい男の随分とあどけない寝顔。
青年の体躯の天馬七星が、当たり前のように私の隣を陣取って、肩に寄りかかって寝息をたてていた。
起きている時からは想像もできないほど静かに。けれどへらりと弧の形を描く口からむにゃむにゃとかたちすらとれていない寝言をこぼして。
その手は私の手をしっかりと掴んでいて、そして意外なことに私の手も七星の手をしっかりと掴んでいた。指を絡めて、手のひらがふやけてしまいそうなほどにぴったり合わせて、もう二度と離さないと言わんばかりに。
「———、………」
それを認識して私は、けれどあっさりと指を抜く。まだ寝ているままの七星の拘束は案外すぐに解けて、マメのできた硬い手のひらを明け方の空気に晒した。
手を繋いだままではできないことがあるからだ。
私は自由になった両手を見下ろす。怪我のひとつもなく、細くて繊細で、けれど確かに男のそれである私の指を。
その指でまずは七星の頬をつねった。表情筋がきちんと駆動するほっぺたは随分硬い。そのまま私の薄い頬をつねった。きちんと痛みが脳に刺さる。それこそが、私たちの帰還の証明だった。
「……ふ、ふふ」
私が漏らしたのは、小さな笑い声。過度な装飾の一切ない、素朴な私の笑い声。そして一度、あーあ、と肩に乗せられた頭に対抗するように体重を預ける。望んだ帰還は呆気なく。虚しくて、静かで、冷たくて。
なのになによりも満ち足りたものだった。
肩の七星がほんの少し身じろぎする。この男も目覚めが近いらしい。
起きた第一声には何を浴びせてやろうと回り出した私の思考は、しかし唐突に止まる。ベンチに座ったままでも見える角度の車道に、見慣れた紫の車を発見したからだった。
そのワゴンはまるで交通事故にでも遭ったかのようにぼろぼろで、その前で肩を落とす男と合わせてどうにも滑稽に思わせる光景だ。どこか見覚えがあるようなその男は、記憶の中よりはすこし老いた印象を受けた。
私はベンチに腰かけたまま少し考えて、七星の身体を両手で肩から起こす。立ち上がる、重みに慣れてしまった自分の身体はいまや寂しいほどに軽い。
そしてベンチと向き合うように身体の向きを変えて、私は七星の寝顔と相対した。ぐぐ、と腰を曲げてそれに顔の高さを合わせると、ちょうど覗き込むような姿勢になる。
「——起きてるでしょ、七星」
すると七星の瞼は二、三度震えて。
それから諦めたように瞳を晒した。
「……ばれちゃった」
「大根役者」
「へへ」
私が柔らかく飛ばした酷評に、けれど啖呵は返ってこない。当然だった。この男はもうその必要をなくしていて、したくもない喧嘩なんてしなくてよくて。
なによりこの男は、やりたいことしかやらない男だからだ。
「起きたんなら立てるわね?私あのおじさんにひとこと言いに行くから。着いてきなさい」
「手は貸してくれないの?」
「引っ張ってくなんてごめんよ。アンタは一人で立てるでしょ」
「あはっ、きびしー!」
言う割に随分明るく、跳ぶように七星は立ち上がる。立ち上がるというか、その勢いで数歩私より先に歩き出したのだからそれは助走じみていた。
跳ぶための。あるいは、飛び越すための。
「じゃあさ、オレが引っ張ろうか?」
「それもごめんよ。私は一人で歩けるもの」
そう。
私たちは、ひとりで生きていけるのだ。
引っ張られなくても立ち上がれる。自分できちんと、道を歩ける。ものを食べられる。言葉を話せる。人と会って、別れて、関われる。嫌われ、疎まれ、傷付ける。
そして何より。
自分と他人を、愛することができる。
「じゃあさ。なんの意味もないけど、手を繋ごうか」
「ええ。なんの意味もないなら、繋いであげる」
差し出された七星の手に、私は自分の手を重ねる。
七星はその光景を見て、随分嬉しそうに笑った。百年越しに願いが叶った人間みたいな、満たされた面だった。
私もきっと、同じ顔だった。
それは必須でも、必死でも、必要でもないけれど。
生きるのに全く必要なくて、何の意味もなくて、何の得もなくて、どころか損しかしないことだけれど。
——私たちは、ひとを愛することにした。