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    9/1発行予定のシンキラ現パロ本のサンプルで、前半部分の高校生編を掲載しています。後半部分は大学生編でR-18描写も盛り込む予定です。
    文庫サイズ/~100P(予定)/~800円(予定)
    【!】金額、ページ数については、後半を書ききってないので目安になってます。
    申し訳ございませんが、予めご了承ください。

    部数アンケートをやってます。
    詳しくは、Xのアカウントをご覧ください。

    【シンキラ】恋の向こう側へ【サンプル】「シン、付き合ってくれない? 夏休みの間だけでいいから」
    茹だるような暑さの中、けたたましく鳴くセミの声すら世界から消えてしまったんじゃないかと思うぐらいに、その言葉だけが浮き彫りにされて、シンの耳に入った。
    え、と短い言葉にもなっていない音だけが口から転げ落ちた。
    午前中に終業式を終えて、殆どの者が下校した夏休みの前日。この学園に通う、高校二年のシン・アスカと、高校三年のキラ・ヤマトは学園の隅にある、道場練の裏手にいた。
    日陰に横並びで座ったシンを見ることもなく、目線の先にある青空を見るキラの表情は普段と代わり映えもしない。思わず、自分の聞き間違いじゃないかと思ってしまう。もしくは、連日の暑さでやられてしまったのか。とにもかくにも、自分の聞き間違いだ。そうに決まっている、とシンは口を開いた。
    「ごめん、キラさん、なんていった?」
    「だから、僕と付き合って」
    「……」
    どうやら、聞き間違いではなかったようだ。ということは。キラの方が暑さにやられてしまったのだろうか。そもそも、キラの性格や思考を踏まえれば、本来、暑さの厳しいこの時期に、屋外にいることがおかしいことだ。確かに、ここは周りの校舎や木々の影響で、学内でも日が当たる時間が短い場所だ。それ故に、多少は暑さが凌げる場所ではある。しかし、冷房の効いた部屋でゴロゴロしている方が、キラのイメージには合っている。酷暑と言われる、連日最高気温が体温に迫るような日に外にいるなんて彼のイメージには全くと似合わない。
    「暑さにやられました?」
    「なんで」
    ぶっきらぼうに返ってきた答えに、そりゃそうだよとシンは自分自身に突っ込みを入れた。暑かろうが、寒かろうが、もしかしたら罰ゲームだったらありうるかもしれないが。とにもかくにもキラの口からそんな言葉が出てくるわけはない。それに、キラは罰ゲームで人をからかうようなことをするような人でもなく、むしろ、そういったことを嫌う人間だ。
    そもそも、この場合の『付き合って』というのは、恋人同士のお付き合いのことを指しているのか。それとも、どこかに同行を依頼されているのか。後者だった場合は、恋人としてのお付き合いを浮かべていたシンのとんだ思い違いになる。そんな思い違い、恥ずかしすぎる。
    ふぅとゆっくり、シンは息を吐き出し、口を開いた。
    「あの、どこに……ですか」
    「そういう意味じゃないんだけど」
    おずおずと差し出した言葉に返ってきた返答に、シンはまたも、え、と声を上げ、キラを見る。
    そういう意味じゃない。ということは、思い違いだと思っていたものが正解であるとするならば、それもそれで驚きなわけで。驚きで停止してしまいそうな思考をなんとか稼働させるが、目の前のキラは、相変わらずシンの方を見ようともせずに、お茶が入った紙パックに刺したストローに口を付けて、悠長にお茶を飲んでいた。
    付き合う、ということは交際ということでいいのだろうか。好意を寄せあった者同士が、デートをして親睦を深めてという認識であるなら、どういった意図でキラはそんなことを言ってきたのだろう。
    「それは、恋愛的なお付き合い、って、ことで間違いないですか……?」
    本当に、キラは本気でそんなことを思っているのか。声にすれば、この問いが正しいのか、自信がなくなるのに比例して、どんどんと語尾が小さく尻すぼみになってしまう。
    そもそも、キラは『夏休みの間だけでいいから』と言った。それも疑問で、キラの考えていることが分からない。
    「恋愛的、か。……んー、まぁそんな感じというか」
    ずずっと、音を立ててお茶を飲み切ったキラは、歯切れの悪い返事をした。空になったパックを脇に置くと、自分を抱き締めるように体育座りをしたキラが、こてんと頭を膝の上に載せた。教室から見下ろすプールの水面が光を反射するみたいに、きらきらと輝くアメジストの双眸はシンを写す。
    「ダメ……かな」
    あまりの綺麗さに、シンの心臓はひと際大きく跳ねた。もしキラに恋していたとしたら、首振り人形のごとく、シンは首を上下に振っていただろう。だが、違う。自分はキラに恋なんてしてないし、恋をするなんて考えたこともなかった。
    たまたま、同じ学園に通い、偶然知り合って、放課後たまにこうやってなんとなしに横並びで座って、一緒にぼんやりしたり、ぽつりぽつりと話したりするだけの関係。先輩、後輩の意識も薄く、友達という意識もない。ただの知り合いと言ってもいい。いや、本当にただの知り合いレベルだ。知ってるのだって、顔と、名前と学年。それとなんとなくの性格と、好き嫌いぐらい。ただ、それだけだ。
    「……キラさんは、俺のことが好きなんですか?」
    「好きだよ」
    「恋愛的な意味で?」
    「そう言われると、困っちゃうなぁ」
    はぐらかすように笑うと、キラはまた向こうの空へと目線を投げた。これ以上は聞いてくれるなと、拒まれたようで、シンはますますわけが分からなくなっていた。
    自分に付き合って欲しいと頼んできたにも関わらず、恋愛感情はないと。これがどういったことなのか、シンには全く分からない。
    「恋愛感情がないのに、俺と付き合いたいんですか」
    「うん」
    「なんで……って聞いていいですか」
    「そりゃ、聞くよね」
    眉を八の字にしたキラは、少し考えこむような仕草を見せて、口を開いた。
    「思い出が、欲しいから?」
    思い切り、語尾についた疑問符にシンは、なぜアンタが聞くんだ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ノリツッコミしていては、身が持たない。
    「高校生活も、もう終わりだしさ。あんまり学生らしいことしてなかったし。恋人と過ごす夏休み、みたいなのもいいかなーって」
    だから、思い付きみたいに言って、ごめん、と軽口をたたくような軽さでキラは笑った。その笑顔にはどこか影があって、シンは何かが引っかかる。
    「本当に、それだけですか?」
    「……うん、それだけ。ごめん、忘れていいよ」
    すっと立ち上がったキラは変わらず笑みを湛えていた。じゃあ、とその場を立ち去ろうとするキラをそのまま行かせてはダメだ、とシンは咄嗟にキラの細い手首を掴んだ。
    元々、食も細くて、ほっそりしているとは思っていたが、手のひらに収まってしまうキラの手首は力を入れてしまったら、折れてしまいそうなほどだった。
    「……シン?」
    驚いて、瞳を丸くしたキラの瞳と目線がかち合う。ゆらゆらと揺れるアメジストに隠されているものは、シンに読み解くことは出来なかった。でも、このまま行かせてしまいたくない、行かせてしまったら、後で後悔してしまいそうで、シンは腹を括った。
    「夏休みの間だけですか?」
    「え?」
    自分が言ってきたことだろうと、思いつつも、キラの手首を掴んだまま、シンも立ち上がる。
    「付き合うの」
    「え……?」
    鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこれか。きょとんとするキラが少しだけおかしくて、シンは笑ってしまった。
    「付き合うの、夏休みだけでいいですか?」
    「う、うん」
    「自分が言いだしたのに、なんでそんな反応なんすか」
    再度、同じ問いを繰り返せば、キラは驚き、戸惑った様子で返事をする。こっちの方が言われて戸惑ってるのに。
    「だって、冗談って思ったでしょ」
    「そりゃ……でも、キラさんが本気なら、俺、付き合いますよ」
    至って真面目にシンが返せば、キラはぐっと押し黙ってしまう。まるでどうしていいか分からなくなって動けなくなってしまった子どものようだった。
    じっと、キラを見つめれば、キラもまたシンを見つめ返してくる。キラの唇は動くことが無く、けたたましく鳴くセミの声だけが耳に響く。
    「……いいの?」
    注意して耳を傾けていなければ聞こえないぐらいの声だった。それでも、その声はしっかりとシンの耳に届いて、シンはふわりと笑った。
    「いいですよ。あ、でも、お付き合い、っても何したらいいか分かんないっすけど」
    「なにそれ」
    シンが飄々と告げると、二人の間に横たわっていた空気が和らいで、固くなっていたキラの表情も和らいだ。クスクスと笑うキラに、シンは胸を撫でおろす。
    「じゃあ、よろしくね?」
    「はい」
    夏休み限定の、シンとキラのお付き合いがこうして始まった。



    キラと出会ったのは、高校生活一年目の終わりを迎える間際、桜の開花までもう少しという頃だ。
    剣道部に所属するシンは、一人残って自主練をしていると、壁の下部についた換気用の小さな摺りガラスの小窓に映った人影に驚いた。
    いつからそこにいたのだろうか。影は微動せずにいるが、擦りガラスに写るコントラストから、この学園の制服を着ている人物だということだけは分かった。
    道場練は学園内でも隅にあって、人気が少ないところだった。ましてや、建物内ではなく、その外ともなれば、ますます、だ。
    なんでこんなところに、と思いながら汗を拭うと、なんとなく足先が外へと向いた。上履きを突っかけるように履いたシンは、ぐるりと道場練の外壁をなぞって、影の主がいる場所に静かに近寄る。この角を曲がれば、先ほど影の主がいたところだ。
    隠れてこそこそするような真似をする必要なんて、多分無い。だけれど、堂々と出て行く理由もなくて、息を殺すようにして、シンは影の主へ近寄っていく。角からそっと様子をうかがって、何もなければ、戻ればいい。
    学内の生徒であるなら、別に不審者ということでもない。ただ、わざわざこんな人気のないところにいるのには何か訳があるはずで。もし何かあってここを訪れたものの、動けなくなってしまっていたりしたらと考えたら、心配が先立ってしまったのだ。
    角からそっと顔を覗かせれば、そこにいたのは、コーヒーのような深い茶色の髪に、制服を着ていても分かるぐらい線が細い男子生徒だった。
    男子生徒は、ただぼんやりと視線を空に投げている。よく見ると、瞳の色は藤の花びらを落としたような紫色をしていた。光の反射によっては、宝石のように見える瞳が綺麗で、重力に逆らうことができないように、シンは目を奪われてしまう。綺麗すぎて、幾らでも見ていられると思った時、ざぁと風が強く吹いた。
    シンの黒髪が風で煽られて、頬擽るぐらいには強い風で、その風にはっとして、シンは一歩後ろへと足を下げる。下げたと同時に足元に落ちていた小枝を踏んでしまったようで、ぱきっと乾いた音が響いてしまった。まずい、と思った時には遅く、音に気付いた男子生徒の目線が空から、シンの方へと移る。
    「だれ?」
    「あ」
    声をかけられてしまっては仕方ないと、シンは後ろに戻した足を、再び前に出して、男子生徒の声がした方に歩み出た。それが、シンとキラの出会いだった。

    なんとなしに、その日は挨拶と自己紹介をして、別れた。のぞき見するようにしてキラを見ていたのは、ばつが悪くて、できれば、もう顔を合わせたくないと思っていたのに、別れ際に「またね」と言われて、困惑した。それから数日後、シンが一人で自主練をしていると、擦りガラスの向こうにキラは現れた。
    野良猫みたいだ、と思った。ふらりと現れては、満足したらいなくなる。何にも縛られずに、自由なひと。掴みどころもなくて、わからないところもあったが、また、なんとなく足先が向いてしまった。キラの横に座って、ぽつぽつと話すのは心地が良くて、気付けば半年近く、キラとの緩やかな時間は続いていた。
    そんな彼が、何故付き合いたいと言ったのか。本心が全く分からなかった。ただ、あの時、そのままあの腕を離しては、無理と言ってはいけない。そう思ったのだ。
    かと、言って自分に何ができるのか。付き合って欲しいと言われても、シン自身も、恋愛経験値は高くない。むしろ、しても淡い片思いぐらいで、誰かと付き合ったことなんて、人生で一度もなかった。それなのに、何故、同性のキラと期間限定とはいえど、付き合うなんて選択をしてしまったのだろうか。付き合うといっても、キスや、その先もあるのか。いや、それは流石に期間限定だからないだろうなどと考えている間に、シンの夏休みは始まってしまった。
    とはいえ、シンは剣道部に在籍しており、夏休みは部活一色だった。強豪校というわけではないが、部員は皆、士気が高く部活には力が入っている。その為、平日はほぼ練習、土日は交流試合といった具合で、デートどころでなかった。それはキラも了承済みで、部活が終わって、人気が無くなった時間帯を見計らったように、道場練の裏手に現れて、オレンジ色の光に辺りが包まれるまで、ただ隣にいるだけの時間を過ごしてという日々を繰り返していた。
    今まで一緒に過ごした日々と、あまり変わらないような気がしていたが、一つだけ変わったことがある。メッセージアプリでやり取りをするようになったのだ。
    『おはよう』
    『おやすみなさい』
    始めは、そんな些細なやり取りだったが、時折、キラからぽつぽつと写真も届いた。道端のひまわりだったり、物陰で眠る猫だったり。些細な交流ではあったが、今まで見せてもらえなかったキラの一面を見せてもらえるようで、シンはこそばゆさを感じていた。
    その内、シンも写真を送るようになった。交流試合で訪れた先で見かけた景色や、美味しかったと感じた料理。写真と共に『綺麗だったから見せたくて』や『今度一緒にキラさんと食べたいな』と、メッセージをつけて送った。
    メッセージでのやり取りが増えてからというもの、美しいものや、美味しいもの。心が震える瞬間に思い出すのはキラのことだった。少しでも何か一緒に共有したくて、シンのスマートフォンのフォトアルバムにはどんどん写真が増えていった。
    写真を送る度に、キラはそれに対して、『いいね』と返ってきて、そこから会話が広がる。
    今までだって、会話らしい会話がなかったわけじゃない。それでも、以前より圧倒的に増えた会話に、シンはキラのことをもっと、もっと知りたいと思うようになっていた。
    そんな欲が大きくなっていた時、お盆休みの学園完全閉鎖期間がやってきた。この期間だけは、教職員も休暇に入るため、校舎含めて学園が閉鎖される。その為、部活動も完全に休みで、シンもその期間だけ何も予定を入れていなかった。これはキラを遊び――デートに誘うチャンスじゃないかと、シンは思った。
    キラに、何かを求められたわけではないが、『付き合う』ということであれば、やはり『デート』は必須だろうし、それにキラと同じ時間を共有できること、キラのことをもっと知れたら嬉しい、と思った。
    部活を終えて、帰宅するとベッドにダイブして、スマートフォンのメッセージアプリを起動させた。
    『キラさん、お盆は部活休みなんですけど、予定空いてますか』
    そんなメッセージを打ち込んだが、打ち込んでから、そういえば、キラが高校三年生で、受験生ではないかということに気付いた。
    キラの進路や成績については詳しく聞いたことがないが、シンたちが通っている学園は、卒業後の進路は、専門学校や大学への進学が圧倒的で、就職というのは滅多に耳にしたことがない。そうなると今までしていた連絡も、受験勉強の邪魔だったのかもしれないと、シンは頭を抱えた。
    何故、今の今まで気付かなかったのかと、自身を心の中で罵った。反省と、後悔をしたところで、今までのことがなくなるわけではない。迷惑、かな。そう思うと、打ち込んだメッセージを送ることがなかなか出来なかった。
    「迷惑……だよな」
    先ほどまでの、うきうきとした気分はどこへやら。もし、シンが犬だったら、先ほどまでパタパタとさせていたしっぽは、急にしゅんと下がってしまっていただろう。それぐらい分かりやすく、シンは落ち込んだ。そこに、ピコピコと軽やかな通知音と共に、キラとのメッセージ欄にキラからのメッセージが表示された。
    『今、話せるかな?』
    通話のお誘いだった。そんなことは初めてで、どうしたんだろうと思いながら、シンは『OK』と犬のスタンプを送った。すると、すぐに再び軽やかな音が鳴り響き、キラからの着信を知らせた。
    「はい!」
    「あ、シン。ごめんね。今。大丈夫?」
    初めてのキラとの通話。肉声ではなく、機械を通してのキラの声。耳にあてたスマートフォンから聞こえてくる声がいつもより距離感が近いような感じがして、耳元で聞こえるキラの声にそわそわとしてしまう。
    「だ、大丈夫です!」
    「よかった」
    ほっとしたのか、キラは息を吐き出したのが電話越しでも分かった。
    「あのね、明日から学校も完全閉鎖期間に入るでしょ。だから、シンがもしよければ、会いたいなって思ったんだけど、どうかな」
    「えっ」
    「あ、ごめん。急だったよね、ごめんね」
    「いやいや、そうじゃなくて!」
    先ほどまで、どうしようか悩んでいたことを、キラから提案されて、シンは驚いた。だって、まさか、キラからそんなお誘いがもらえるなんて思ってもいなかった。
    付き合って、と言い出したのはキラだったし、積極的にメッセージをくれることもあった。だけど、それ以上をキラに求められたこともなく、初めてキラから求められたことに、驚いたと同時に嬉しくて、シンは思わず破顔した。
    「誘ってもらえたの、嬉しくて……すみません」
    「え」
    素直に言葉にすれば、今度はキラが驚いたようで、短く声を上げた後、二人は無言になった。素直に言っただけなのに、こそばゆくて、恥ずかしい。なんだこれはと思いながらも、いつもよりとくんとくんと早くなる鼓動に、のせるようにしてシンは口を開いた。
    「……あと、それに、俺もキラさんに予定どうかな……って聞こうとしてたんです」
    「ほんと?」
    言ってから、恥ずかしいし、言わなくてもよかったのかもと思ったが、電話越しに聞こえる、弾んだキラの声に、シンの心臓はとくんと強く跳ねた。子供みたいな舌足らずな声で、素直に喜んだ声で、きっと、今、電話の向こうではキラが紫色の瞳を輝かせているんだろうなと思ったら、溜まらなくなる。
    「……はい。でも、キラさん受験生で、勉強忙しいんじゃないかなって」
    「それぐらい、大丈夫だよ」
    嬉しいけど、心配性だなぁ、とキラの笑う声がシンの耳を擽る。ころころとした笑い声が溜まらなくなって、鼓動がうるさくなっていく。
    あれ? と、シンは思ったが、自分に問う前に、キラの声が耳に入ってくる。
    「明日さ、お祭りあるの知ってる?」
    「あぁ、神社の?」
    「そう。それで、どうかなって」
    年に一度行われる、この地域で行われるお祭りには神社の参道から続く商店街に沢山の露店が出揃う。わたあめ、りんご飴、たこ焼き、やきそば、射的に、金魚すくい。お祭りの定番が出揃って、シンも小さな頃から両親に連れられて、毎年訪れていたお祭りだ。
    「行きたいです!」
    「じゃあ、明日。夜六時に、商店街の入り口でどうかな?」
    「はい、分かりました」
    「ありがと。じゃあ、また明日」
    そういうと、あっさりと電話は切れてしまった。だが、そんなこと気にもならなかった。明日は、キラと会える。そう思うと、シンの心は浮足立っていた。



    からんころん。
    誰かの下駄の音が響いていく。遠くにはお囃子も聞こえて、空が少しずつ紅くなって、ぬるい風が頬を掠めていく。幾分か、日中よりは気温も下がり、過ごしやすくなってきた時間帯。
    普段であれば、商店街から帰路に着く人たちが多い中、今日は逆。多くの人たちが、商店街に吸い込まれるように入っていく。足を踏み入れる人々は、みんな笑顔で、楽しそうだった。
    そんな人たちを見送りながら、シンもまた、そわそわと落ち着きなく、キラを待っていた。
    昨日、祭りに誘われた時は、嬉しさでいっぱいだったが、学外で約束をして会うというのは初めてのことだと気付いた途端、嬉しさ以上に緊張が上回ってしまった。
    キラと共に出かけるなら、少しでもおしゃれな恰好をしていきたい。センスがいいと、思われたいと、欲が出てしまった。いつもは制服か、胴着姿しか見せていないわけで、何を着ていけばいいのか。いつも通りのティーシャツにパンツじゃ、味気ないし。けれど、手持ちの服では。
    うんうんと唸っていると、妹のマユが参考書を貸してほしいと、シンの部屋を訪れた。
    参考書を手渡してやると、マユは心配そうにシンを見つめて、口を開いた。
    「お兄ちゃんの唸り声、廊下まで聞こえたけどどうしたの?」
    そう聞かれると、素直に、明日、祭りに出かけるから服どうしようかなと思って、と返すと、途端に妹の目が見たことないぐらいに輝いて、「デート!?」と食いつかれてしまった。
    あまりの勢いに、シンは「そんなところ」と返すしかできずにいたが、流石年頃の女の子とあって、それならば、とシンのコーディネートを買って出てくれたのだ。
    そんなこんなで、シンは今、去年、買ってもらっていた薄墨色に麻の葉模様の甚平に、紅い鼻緒の下駄と、お祭りにはぴったりな服装でいる。マユに言われるまで、すっかり存在を忘れていた甚平だったが、ゆったりとした作りもあって、さらりと着れるし、よかったのかもしれない。
    張り切りすぎ、と思われないといいなと思いながら、シンは手に持っていた、スマートフォンに目線を落とした。時刻はもう、間もなく約束の六時。そろそろキラが来てもおかしくないなと思った時だった。
    「こんばんは、シン」
    「キラさ……!」
    耳に入ったキラの声に、ぱっとシンが顔を上げると、そこには生成色に格子柄の浴衣に、紺色の帯を締めた、キラの姿があった。
    「ごめん、待ったかな?」
    シンはぶんぶんと首を横に振って、待っていないとジェスチャーをする。
    キラの出で立ちは、すっとした美しさが見て取れて、制服の時とは違う雰囲気に驚き、声が出なかった。
    キラはふわりとよかった、と笑みを零す。その笑みに、シンはまたほわりと、見とれてしまいそうになっていた。
    「キラさん、あの、素敵ですね」
    「あ……ありがとう。きょうだい、に、着ていったらって言われて」
    「キラさん、兄弟いるんですね。うちと一緒だ」
    「そうなの?」
    「はい、ウチのは妹なんですけど。ちなみに、俺も妹に、これ着ていけばって言ってもらったんです」
    シンに褒められて、恥ずかしがった素振りを見せていたキラは、それを聞くと、「一緒だね」と目を細めて笑った。
    「キラさんのとこは? お兄さん?お姉さん?」
    「なんで、僕が弟ポジなの?」
    「だってキラさん、絶対、妹とか弟いるって感じじゃないですもん」
    「そんなことないよ」
    唇を尖らせて、むくれてしまうところを見ても、絶対にこの人は末っ子だと、シンは思ってしまう。
    「それで、答えは?」
    「……お姉ちゃん」
    「ですよね」
    悔しそうな視線を投げられつつ、シンはそれを軽く受け流して、「ほら、いきましょ」と声をかけた。デート、と気構えをしていたが、なんら何時もと変わらない、キラとのやり取りに安心感を覚えた。それと同時に、また一つ、キラのことを知れた喜びに、シンの胸はじわりと温かくなっていた。



    「ほんと、ごめん、シン」
    神社の隅のベンチにシンとキラはいた。ベンチに座るキラと、薄っすらと額に汗をかいたシンがその向かいに立っていた。
    「大丈夫ですから。ほら、ラムネ買ってきましたから、これ飲んでください。さっぱりするだろうから」
    ぽんっと栓を押し込むと、からんと瓶にガラス玉が落ちた。少しの間、栓を押し込んだままにしておくと、吹き出さないよと、小さい頃に父に教えてもらったっけ、と思い出して、教えてもらったとおりにする。恐る恐る手のひらを蓋から外せば、教えてもらったとおり、しゅわしゅわと、瓶の中で炭酸が跳ねていた。
    青い顔をしたキラに手渡すと、キラはそれに口を付けて、ゆっくりと喉に流し込んでいく。こくり、こくりと上下する喉を見て、飲み物を口に出来るぐらいではあると、少しだけ安心できた。
    「すみません、キラさん……俺、はしゃぎすぎちゃって、キラさんのこと振り回しましたよね」
    「そんなことないよ。僕が、楽しくて、自分のペース崩しただけ」
    からん、とガラス玉の音がキラの膝の上で響いた。そのガラス玉を見つめるように目線を落としたキラの表情が、痛ましくて、シンはどう声をかけたものかと、思案する。
    沿道の屋台をゆっくりと見て回り、それぞれ食べたいものを購入して、射的やスーパーボールすくいを楽しんでいた。一緒になって、笑って、楽しんでいたはずだったのだが、ヨーヨー釣りを二人で楽しんで、水色と黄色の水風船を手に、立ち上がったときだった。キラが、ふらりと後ろに倒れそうになって、たたらを踏んだのだ。
    見れば、顔が真っ青になっていて、シンはすぐさま、キラの腰を支えた。ふらふらと足元がおぼつかず、帰宅しようにも、まずは一旦どこかで休もうと、救護所へ連れて行こうとしたが、キラがそれを頑なに拒み、人気の少ない神社のベンチで休むことにした。
    「多分、人酔いしたんだと思う」
    キラは覇気のない声で言った。確かに、沿道の屋台はどこも人で溢れかえっていたし、シン自身も楽しんでいて気付けていなかったが、人でごった返していて、むわりとした熱気や、人込み特有の騒がしさが酷かったと、振り返ってみれば思う。
    それに自分も祭りの空気にあてられて、楽しくて、舞い上がって。キラの様子がおかしいのに気付いてやれなかった。
    「俺も、キラさんの様子ちゃんと見てなかったから」
    「母親じゃないんだから、見てなくても」
    「そうじゃなくて……。付き合ってる人のこと、気遣えてなかったのはいや、じゃないですか……。大切にできていないっていうか……」
    付き合う、と口にすれば、気恥ずかしくて、シンはもごもごと言い淀んだ。でも、明らかにそれは本心で、仮でも、なんでも、彼氏、というポジションにいるなら、相手を思って、気遣いたかったと思った。それと同時に、それができていなかった自分を、シンは恥じた。
    「だから、その、ごめんなさい」
    しっかりとした反省する気持ちもあったが、素直に言葉にするのがどうにも羞恥心が勝って、シンはキラの顔が見れなかった。謝罪をしているのに、顔を見ないでというのも、よくないとは思うが、こんなことなら『お付き合いしている人』とか余計なことを言わずに、キラを気遣えていなかったと言えばよかったと、シンは悔いた。
    「……シンは優しいね」
    柔らかい声が耳に入って、シンはそっとキラを見た。キラの眼差しもまた柔らかく、シンを見つめていた。
    薄暗い中で見る、キラの瞳は夜空に浮かぶ星のように輝いている。綺麗だ、とシンは初めてキラと出会った時と同じく、目が離せなくなっていた。もっと、近くで見たい、と吸い寄せられるようにキラの顔を覗き込む。
    距離感を詰めたシンに、キラはそっとシンの肩を押し返す。
    「……シン、その」
    ぱっと顔をそむけたキラの髪の隙間から、紅くなった耳が目に入る。それにはっとして、シンは自分が今何をしようとしたか、気付いた。
    「んあっ、俺! その!」
    シンは慌てて、後ろに飛びのいた。口元を押さえて、自分の行動に驚愕するも、キラのつやっぽい唇から目が離せなくなっている自分にまた驚いた。
    「ご、ごめんなさい!」
    「う、うん……」
    沈黙の後、気まずい空気が二人の間を流れる。自分がなぜキラに触れたいと思ったのか。近づきたいと思ったのか。理由も分からず、衝動的に動こうとした自分に恥ずかしさと、嫌悪感を覚える。あのまま衝動的にキラに触れていたら、キラのことを傷つけていたかもしれないと思うと、自分を殴りたくなった。
    「シン」
    キラの顔を見れずにいると、キラはシンの手首を掴んで、引っ張った。
    「座って」
    恐る恐るキラの顔を見るが、キラは先ほどのような柔らかい、小さい子どもを見守るような目でシンを見ていた。シンはおずおずと、キラに促されるまま、キラの隣に腰かけた。
    「僕、お腹空いてきたから、さっき買ったの食べない?」
    さっきまでのことを無かったことのようにしてキラはふるまい、シンに尋ねる。あぁ、また気を使わせてしまったなと悔しくなりながらも、シンはこくりと頷いた。
    「じゃあ、食べよ。ほら」
    何故、キラに触れたく――キスしたいと思ったのだろう。
    キラは、先ほどのことなどなかったことのように、ビニール袋からたこ焼きを取り出して、頬張っている。シンの視線の先は、キラの薄い唇に向けられていた。
    もし、あの唇に触れていたら、その訳が分かったのだろうか。いつもより強い心臓の音が、シンの身体を叩いていた。



    お祭りの日以降、部活の休暇期間中にキラと会えたのは、結局、あの夜だけだった。避けられた、ということではないと思う。あの後、二人で買ったものを突いて、心配だからとキラを途中まで送って、メッセージのやり取りもした。キラからは至って、いつも通りの雰囲気で、シンもまたいつも通りに返信をした。もう一度ぐらい遊べたら、とも思ったが、また不意にキラに触れたくなったら、傷つけてしまいそうで、声をかけることは出来なかった。
    結局、あれからキラに何故触れたかったのか、触れたくなったのかを考えるも、シンには明確な答えが出せずにいる。
    ただ、キラの温かさに触れていると、ふわふわとして、心地よくなってしまう。キラに自分のことを褒められたり、温かい言葉をかけてもらったりすると、きゅうと喉の下が苦しくなって、泣きたくなる。嬉しかったり、プラスだったりの気持ちのはずなのに、なんでこんなにも胸が痛いのか、シンには分からなかった。
    そんなことを考えながらも、夏休みの宿題もこの期間で片付けてしまわないと後がつらいと、夏休みの宿題を集中して片付けようと取り組み、気付けばあっという間に休暇期間は終わり、また部活が始まってしまった。
    部活動再開初日、シンは気もそぞろになってしまって、他の部員から心配されてしまう始末。
    よくないな、と思いながらも、今日の練習後にキラが顔を出してくれるのか、心配と不安で、それが表に出てしまっている。こういう時にこそ、集中だろうと気を改めるも、中々切り替えが上手くいかずで、ボロボロなまま。自分の集中力の散漫さに悔しくなって、一人、居残って素振りをしていると、いつものように擦りガラスの向こうにキラの姿が現れた。
    こちら側に背を向けて、座っている姿がぼんやりと見えるだけなのに、久し振りに見るキラの姿が嬉しくて、じわりと温かいものが胸に溢れてくる。
    板の上を、足を滑らせるように歩いて、キラが座っている方へ近付いていく。ガラスの向こうのキラは、シンが近づいてくるのも気付いていないようで、微動だせずに、ただそこに座っている。
    シンはその場に膝をつくと、ガラスに触れる。
    「キラさん」
    ぽつりと零れ落ちた音に、ガラスの向こうのキラは気付いていない様子だった。
    こんなに近くにいるのに。ちくりと胸が痛い。
    「キラさん、好きです」
    胸の内から自然に零れ落ちた言葉に、シンははっとした。
    ――好き。
    その言葉の意味は、友愛とは違う。自分は、キラを一人の人として、恋してしまっているんだと、からん、とあの祭りの日、瓶の中に落ちたガラス玉のように、恋に落ちてしまったんだと、気付いてしまった。
    だから、自分はあの時、キラに触れたかった。唇を重ねたいと思ってしまったのだ。触れて、自分だけを見て欲しいと、幼稚でもあるが、心の底で願ってしまったことを行動に移してしまったのだ。
    いささか、自分の鈍さに呆れはするが、それでも、この胸の中にある想いの正体に気付いてしまった今、シンの心臓はとくとくと、優しく跳ねていた。
    シンは立ち上がると、道場練を出て、キラのいるところへ向かう。キラが来ている時は、いつも歩いているところで、道場練から数十秒のところなのに、早くキラの顔が見たいと、シンは足を急がせる。
    「キラさん!」
    角を曲がったところで、声をかけると、キラはシンの声に驚いて、びくりと身体を跳ねあがらせて、瞳を丸くして、シンを見た。
    「びっくりした……。シン、どうしたの?」
    すぐに、いつもの優しい瞳でふわりと笑うとキラは尋ねた。その笑顔に、またシンの鼓動は強くなった。
    可愛い。
    そう思うけど、声に出して言うことではないだろうし、同性のましてや、男が可愛いなんて言われてというのは偏見かもしれないが、あまり嬉しくない言葉だろう。その言葉を飲み込んで、キラの近くへ行き、いつものようにシンは横並びに座った。
    「シン?」
    「えっ、と……その」
    好き、という自分の気持ちは分かったものの、それを告白するのか、それともしないのかまでは考えが及んでいなかった。
    「大丈夫?」
    さらりと、顔に掛った髪を細い指先で梳かれて、キラが顔を覗き込んでくる。眉を八の字にしたキラが、肩が触れあいそうな距離にいて、今度はシンが驚いた。
    覗き込まれたキラの瞳が近くにあって、どきんと大きく心臓が跳ねる。不思議なほどにシンを魅了する紫色の瞳。今、キラの瞳には自分しか映っていないんだと思うと、シンはぞくりと腰から背中に震えが駆け上がるのが分かった。
    「シン……」
    どうしたの、とキラの言葉が途中で止まる。シンが、アスファルトについたキラの手の上に、シンの手のひらが重ねられたからだ。
    キラも男で、小さくはないのに、シンの手のひらにキラの手が隠されてしまう。自分の手が汗ばんでいるような気もして、不快感を与えていないか、心配ではあったが、手のひらから伝わってくる、キラの温度に、シンの心臓はうるさいぐらいに高鳴っていた。
    「キラさん、俺……」
    一瞬だった。シンが見とれてしまうアメジストの瞳を瞼で隠して、シンの顔に自分の顔を近づけ、ふにゃりと、押し当てられたのはキラの薄い唇だった。それが自分の唇に押し当てられている。柔らか良くて、熱くて、一瞬のことに驚いた。
    すぐに離れていく熱が寂しくて、シンはキラの唇を追いかけて、押し付ける。小さく、何度もちゅ、ちゅっと唇を押し付けて、足りなくて、キラの唇を食んで、舌を押し入れて、キラを欲した。心の中で、キラの名前を何度も呼んで、溢れ出てくる愛しさを伝えるように、シンはキスをする。
    キラも、シンの舌に自身の舌を絡めて、鼻を鳴らして、シンに応えようとしていた。
    その内、息が苦しくなって、そっと唇が離れる。キラの口の端からは収まりきらなかった唾液で濡れていて、二人の唇の間にも銀糸の糸がとろりと張って、切れた。
    「キラさん……、俺」
    好きです、と言葉にしようとした。だが、キラの人差し指がとん、とシンの唇に押し当てられ、言葉を封じられた。
    「シン、ごめんね」
    呼吸ができなかったせいか、瞳を潤ませたキラが、悲しげに笑って告げる。
    「キラさん?」
    すっと立ち上がったキラは、今にも振り出しそうな雨のように、泣きだしてしまいそうな表情をしていた。その表情を見たシンは、ぞっとした。間違えた、と。
    何をどう間違えたかは分からない。でも、今の行為は、明らかに間違いだったのだ。キラが受け入れてくれたような気がして、また、自分は何かを見落としてしまったのだ。
    「ごめんっ、キラさんっ」
    慌てて謝るも、キラはきゅっと唇を噛んで、くるりとシンに背を向けると、脱兎の如く走り去ってしまった。それをシンは見送ることしかできずに、ただ茫然と、その場に張り付けられたようにいるしかできなかった。



    やってしまった。
    一度ならず、二度も。その日、キラが逃げていくのを、シンは見送った後、どう帰宅したか、覚えていない。気付いたら、ベッドの上にくたくたになった身体を投げ出していた。
    母や妹に、夕飯だと呼ばれたが、どうにも食欲も湧かないので、具合が悪いからと、シャワーを軽く浴びて、布団に早々と潜り込んだ。
    「キラさん……」
    クーラーの効いた冷えた部屋で、心まで冷えて、風邪をひいてしまいそうだった。
    あったかくて、おおきくて、やさしい人。
    そんな人が逃げ出すぐらい嫌なことを、自分はしてしまったんだ。キラへの想いを自覚して、すぐにあんなことをして。確かにキスはキラからされたが、その後、歯止めが利かなくなって、キラのことを蹂躙するように求めてしまったのは自分だ。
    期間限定のお付き合いで、キラはシンのことを『好き』とは言ったが、『恋愛的な好き』ではないとも言った。だから、あくまで仮の、ごっこ遊びのようなお付き合いだったわけで。それなのに、自分が本気になって、がっついて。キラのことを傷つけた。じわりと胸が痛くて、苦しくなる。そんな資格もないくせに。
    それなのに、今もあの柔らかな唇に、上手く息継ぎできなくて、口の端から漏れた吐息の熱さ、口の中で絡め合った舌の感触。それらを思い出すと、興奮して、ふるりと震えてしまう。
    小さな口でシンを受け止めて、肩を震わせて、それでもってシンが唇や舌を食もうとすると、大胆に押し付けてきて。
    「えっちだった……」
    違う、とシンは首を振る。そうじゃない。確かに気持ち良かった。好きな人とのキスがあんな気持ちイイものだなんて、知らなかった。でも、あのキスは、キラを傷つけたのだ。
    謝らないと。そう思って、スマートフォンのメッセージアプリを開いて、謝罪の言葉を並べてみたけれど、送信ボタンをタップ出来なかった。
    ごめんなさい、傷つけました。
    そんな言葉を並べたところで、これは、キラを想ってのことじゃない。ただ、自分が楽になりたいだけなのかもしれない。謝ったところで、キラはシンのことを許してくれるかもしれない。でも、キラの傷が癒えるわけでもないだろう。
    どうしたらいいのか分からない。だけど、このままではよくない。シンは書いては消してを繰り返し、いつの間にか意識を手放していた。
    布団もかけずに、クーラーが効いた冷えた部屋で寝落ちてしまったシンは案の定、風邪をひいてしまった。
    夏風邪ということもあって、治りは悪く、部員に移すわけにもいかない。部活にも顔を出せずに、キラに連絡を取ることもできず、夏休みも残りわずかになったところで、シンはようやく部活に復帰した。
    復帰できたものの、周りの部員に心配されて、残って自主練しようとするも止められ、キラが来る時間まで、残ることもできなかった。キラのことが気がかりで、なんとか残ろうとしようとするものの、同級生の部員が心配してくれる気持ちも無碍には出来ず、結局、キラに連絡する胆も無く、顔を合わせることもできず、夏休み最終日の八月三十一日を迎えてしまった。
    やっと、自主練をしても咎められず、むしろ、そんなに一人で自主練したいなんて、熱心だななんて笑われるぐらいで。「お先にー!」と返っていく部員たちを見送った後、いつもキラが座っていた辺りの擦りガラスを見る。だが、そこにキラの姿は無く、胸がずくりと痛む。
    「キラさん……」
    自然と足先が、いつもキラと横並びに座っていたそこに向かう。周りに人の気配もなく、蝉の鳴き声だけが、響いている。
    曲がり角を曲がれば、いつもそこにキラの笑顔があった。いつの間にか、自分の中で大きくなっていた存在。
    『シン』
    シンが曲がってくると、必ずシンの方を向いて、柔らかい声でシンの名前を呼んでくれた。
    「キラさん」
    だけど、そこにキラの姿はなかった。いてくれたら、と思ったけれど、いるわけないよな、と自嘲気味に、期待してしまった自分を鼻で笑ってしまう。どこまでも自分勝手な自分に嫌気がさしてくる。
    ふと、キラがいつも座っていた位置に、一枚の紙と、その紙が飛ばないように石が置かれているのが、シンの目に入った。一歩、一歩と、歩いて、その紙のところまで歩き、手を伸ばして、紙を拾い上げる。
    二つ折りにされた紙を広げると、そこには『ごめんね』とだけが書いてあった。誰に宛てられたものなのかも、誰が送ったのかも、分からない手紙。だけれど、シンには誰が、誰に宛てた手紙なのかすぐに分かった。
    「……キラさん」
    キラが書いた字をシンは見たことが無かったが、それでもキラの字だとシンには直感的に感じた。手紙を持つ指に力が入る。
    自分が傷つけたのに、なぜ、謝るのだろう。キラが謝ることなんて、一つもないのに。ただのごっこ遊びだったのに、自分が本気になって、傷つけたのに。こんなことなら。
    「ちゃんと、好きって言えばよかった」
    言えなかった言葉を口にすれば、苦しさで胸が押し潰されそうだった。苦しくて、悲しくて。
    スマートフォンを取り出して、メッセージアプリからキラとのメッセージ欄を開いて、通話アイコンをタップする。
    何度かコール音が鳴り、プッと小さい音が鳴り、出てくれたと安堵して「キラさん!」と呼ぶも、通話が切れる。驚いて、もう一度掛けるが、小さな電信音の後、通話が切れた。
    「クソっ」
    メッセージ画面に戻ったアプリに、シンはメッセージを打ち込む。
    『キラさん、会って話がしたいです』
    祈るような気持ちで、既読マークが付くのを待つも、付かない。手元にスマートフォンを置いていない可能性もあるが、嫌な予感が拭えないのだ。
    なぜ、キラはここにこんな手紙を置いていったのか。どうして、『ごめんね』なんて書いたのか。
    「頼むっ、頼む……!」
    もう一度、通話アイコンをタップする。だが、やはり先ほどと同じで、通話が切れる。通話が切れて、鳴るプーッ、プーッという電子音が鳴り、シンは項垂れる。
    「キラさんっ……」
    もう会えないような、そんな気がしてしまう。こんな悪い予感、外れてくれと、願ったが、その予感は見事に的中するのであった。
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