おやすみ、と優しく囁く声に微笑み返し、俺は目の前の大好きな人に軽いキスをする。キスを返してもらったら、明かりを消して同じベッドに潜り込み、眠りに就く。これが、ファウストとの「最高に恋人らしい」夜のルーティーンだ。時々手を繋いだり、抱きしめ合ったり。お互いの存在を感じながら眠りに落ちる瞬間は、とてつもなくあたたかくて、幸せだ。
朝になると、早起きのファウストは俺を起こさないようにベッドから出てしまう。そして台所で朝食を作り始め、その匂いで俺は起きる。ファウストの家に住まわせてもらっている以上家事全般は俺の仕事だと思っていたし、最初はそうしようとしていたのだが、結局ファウストの方が早起きが得意だった。今の俺はなすすべもなくそれに甘えてしまっている。
「おはようございます、ファウスト」
「おはよう。朝食が出来ているよ。顔を洗ってきなさい」
お玉を片手に振り向くエプロン姿の恋人が、朝日を浴びて眩しい。これは朝ごはんにつられた空腹がなせる業だけではないと思う。
ご飯、俺が朝食用に作り置きしているおひたしに、ファウストが毎朝作ってくれるみそ汁と卵焼き、焼き鮭。完璧すぎる和風朝食に思わず箸がすすむ。そんな俺を、ファウストは慈愛がこもっていると言ってもいいような優しいまなざしで見つめていた。
朝食を食べ終えて食器を片付け、仕事に出かける準備をしている俺に、ファウストがお弁当を差し出してくれる。もちろん手作りだ。
「わあ、いつもありがとうございます」
「気を付けていってらっしゃい」
お弁当を傾けたり、ましてやひっくり返したりなんて言語道断。包みをしっかり持って出社し、仕事と格闘する。そうした中で耳に届く昼休みを告げるチャイムは、まさに福音だ。
いそいそとファウストが持たせてくれたお弁当を開ける。わざわざお弁当用に作ってくれたのであろう唐揚げをほおばると、じゅわっとおいしくて自然と顔が綻ぶ。職場にいながらにして家庭の薫りがするようなお弁当に舌鼓を打っていると、少し離れた席から同僚たちの会話が聞こえてきた。
「山田さん、お母さんにお弁当作ってもらってるの?」
「いいなあ」
「おい、おふくろさんにいい加減楽させてやりなよ」
いずれも冗談のようなたわいのない会話だ。しかし、その言葉がちくちくと俺には突き刺さる。
なぜなら、俺だって「家族にお弁当を作ってもらっている」という点では山田さんと同じだからだ。いろいろ事情があるから一概には言えないが、社会人たるもの、やっぱりお弁当も自分で作るべきだとは分かっている。分かっているものの、俺はついファウストに甘えてしまっている。それに加えて俺はファウストが所有する一軒家に住んでいる身。作家業に勤しむファウストの力になれるよう、進んで家事をやらないといけないのだ。
だが、ファウストは俺が出勤している間にほぼすべての家事を終わらせてしまう。俺がこうしておいしいお弁当を食べている間にも、彼は買い物へ行ったりしているのだろう。それで本当に作家業が成り立っているのかはなはだ心配ではあるが、世にはファウストの作品が多数出回っているし、ドラマで見るように編集が家まで来て原稿を催促するなんていうこともない。もちろん締め切りが近づけば俺が主に家事を担当し、ファウストは部屋にこもりきりになるものの、それ以外はほとんどファウストに家のことを任せてしまっている。これでは、ファウストが俺の親みたいだ。
(明日から、もっと家事を任せてもらえるように頼んでみよう)
俺は、山田さんたちの会話を背にこれで何度目かになる決意を固めた。今までなんどかこの状況に危機感を抱き、これでは駄目なやつになってしまうとファウストに訴えたのだが、彼の返事はいつも「僕がしたいからやっているだけだ」で終わってしまう。ならばと隙を見て家事を見つけては先に片付けるのが俺の日課になっていた。
帰宅すると、夕飯のいい香りが玄関先から既に漂っている。この匂いは、俺が大好きな肉じゃがだ。思わず顔を緩ませ、家のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり、晶」
わざわざ玄関まで迎えに出てくれたファウストは、俺の顔を見ると柔らかく微笑んだ。
「夕飯はできてるよ」
「今日は肉じゃがですか?」
「あたりだ」
喜ぶ俺を見て笑みを深め、ファウストは台所へと戻っていく。いそいそと着替えた俺は、さっそく食卓に着いた。ファウストの言葉通り、テーブルには肉じゃがを始めとした色とりどりのおかずが乗っている。これだけ作るのには、並々ならぬ労力がいるはずだ。やっぱりファウストだけに任せてしまうのは申し訳ない。
「ファウスト」
いただきますをする前に、さっそく本題に切り込む。箸を置いた俺の様子に、ファウストもなにか真剣なものを感じ取ったようだった。
「やっぱり、俺も夕飯を作ります」
「きみは外で仕事をしているだろう。家にいる僕が作った方がいい」
しかし、返事は前の時と変わりはない。確かにファウストが作った方が時間自体は早い。それでも、俺はファウストの負担になりたくないのだ。
「それはそうなんですけど……」
「以前にもきみは同じことを言っていたな。何か気にしているのか?」
ファウストに促され、俺は会社で聞いた話、そして自分が常々思っていることを打ち明けた。ファウストの負担を減らしたい、と話を締めくくると、彼はなぜだか笑っていた。
「気にしなくていい。君の世話をするのは嫌いじゃないよ」
「世話って……俺は子猫じゃありませんよ」
思わず口を尖らせる俺の頭を宥めるように撫でて、ファウストは柔らかく笑う。
「本当に、僕が好きでやっているんだ。でなければ、料理を毎日作ったりしないよ。ネロにレシピまで聞いて」
ネロはファウストと俺の友人で、料理人だ。わざわざそこまでして料理を学んでくれていたなんて知らなかった。その気持ちがとても嬉しくて、思わず頬が緩む。じっとその瞳を見つめると、彼は照れくさそうに視線をそむけてしまった。
「それに、その山田さんという人は母親に作ってもらってるんだろう。でも、僕はきみの恋人だ。きみを甘やかす権利がある」
甘やかす権利。なんだか刺激的な単語に思わず目を見張るが、ファウストの表情は変わらない。
「だから、きみも気を遣わなくていい」
微笑むファウストがなぜだかとっても幸せそうに見えて。俺は、ついついうなずいてしまっていた。
「食事が冷めてしまうよ」
俺がうなずいたのを見てから、ファウストは俺の箸を手にとって握らせてきた。なんだか本格的にお世話をされてしまっている気がするが、目の前の恋人の笑顔には逆らえない。だって、それだけ俺もファウストのことが好きなんだ。
「……はい、いただきます!」
おわり