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    nicomi

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    nicomi

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    『飛び込み参加で娶った幼馴染♀はとんでもない純情◯◯でした!?』2

    ・雰囲気ファンタジー(十傑っぽい世界観)
    ・出×勝♀(かつき先天女体化)
    ・何でも許せる人向け

    pixivより再掲。
    珍しい全年齢回です。

    第二章  風の月



    1.


    「あー、そういえばソウイウことなーんにも教えてこなかったかもー」
    「光己さんんんんん!!!!!」

     翌朝の爆豪家の一角で、何より出久が探し求めたのは勝己の母親、光己の姿であった。
     四十は越えたろうに昔と変わらぬ瑞々しさを保っている爆豪光己は、猛然と駆け寄ってくる出久に気づくなり
    「あら若ダンナ様、昨夜はお楽しみ~?」
     と、中身も少女そのままでくふふと笑った。
     こっちはそれどころじゃない、頼むから来てくれと納屋の影に引っ張り込んで、かくかくしかじか昨日の顛末を─裸を見せあったことはちょっとゴニョゴニョと誤魔化しながら─説明すると、実にあっけらかんとした答えが返ってきたのだった。

    「多分勝己はそういう、男女のどーこーとか全然知らないと思うわぁ。
     だーってあの子ったらこーーんなちっさい時から剣、剣、体術でさぁ、あたし女親らしいことなんてほとんどしたことないんだよねェ」
    「か……かっちゃんはですね、恐らくですけどその、『共寝』を本当に『共に寝る』だけだと思っているんですよ!? つまりその、い、一緒にごろんと横になれば、その、」
    「赤ちゃん出来ると思ってんの? やだー、困った子ねぇ」
    「………光己さん~~~~!!!!」

     ごめんねぇ☆と愛らしく謝られても、愕然とくずおれた膝は容易に立て直せない。

     ──これは大変な女性を娶ってしまった。

     あんなに強くて賢くて美しくて何でも出来る神の末裔が、
     ソッチ方面はなにも、なんっっっっにも知らないなんて──…そんなのありかよ…?

     頼みの綱のはずの光己は、実はこの村の村長でもある。夫とともに村のあれこれに忙しく、
    「悪いんだけど暇がないんだよね。…ま、結婚したら娘は一人前、いつまでも母親が面倒見るって歳でもないしさ。
     そーゆーわけでよろしくね出久くん。…いろんなあれこれ、ダンナ様が教えてあげて?」
     それも結構楽しいかもよ? ──などと、無責任かつ色気たっぷりのアドバイスとウィンクを残し、するりと去っていってしまう。
     後には、昨夜結局一睡もできなかった出久がよろりと残された。
    (……まじか……)
     勝己は純情処女だった。ただの純情じゃない、性的なことは完膚なきまで徹頭徹尾すり抜けて今日まで生きてきた、本物の「汚れなき乙女」。
     そんな女性が「嫁」になり、何事も起こらないはずがない。
     そう、ここに来るまでに、事件は朝一番ですでに起こっていた。



     朝の陽射しが閨の窓から麗らかに降り注ぐ。光の色は春、大地が力を持ち動き始める幸福の季節である。
     とりあえず一睡もできずにはいたが、それでも、
     同じ寝台のなかでくうくう眠る想い人の寝顔は、出久に優しい癒やしをくれた。
    (……めちゃくちゃ可愛いな、ほんとに)
     勝己は十三歳から口布を付けるようになった。だから出久が憶えているのは、十二歳までの彼女の顔だ。すっかり美しく育ったけれど、寝顔はあの頃と変わらない。それどころかもっともっと昔、日だまりで並んで昼寝をしていた幼いころ。そんなあどけなささえ思い出す。
     桃の薄皮のような美しい産毛が、光さす頬に照り映える。
     指で、そっと触れてみる。やわらかにくすぐっても起きずに、むう…としかめる眉が本気でいとおしくて、
     産毛に触れるか触れないかのような、淡いくちづけをその頬に落とした。
     その瞬間弾かれたようにぱちりと目が開く。あ、お、おはよう……と声をかけるよりも早く
    「………てめえ、今、何した」
     寝乱れた金の前髪の向こう、赤い目がきっちり三白眼になって出久を睨み据える。寝起きからこの殺気、さすが戦闘民族──そんなこと考えてる間に部屋に立ち込める火のにおい。
    「…あ、あの、その、き、キス、を……」
    「ざっっっけんじゃねえバカ野郎がー!!」
     物理的に「熱い」拳で思いっきり左頬をぶん殴られ、人形のように出久は部屋の隅まで吹っ飛んだ。痛い、というより熱い、いややっぱり痛い。がんがんクラクラする頭に、勝己の高ぶった怒声がいやでも染みる。
    「ガ、ガキは昨夜作ったばっかじゃねえか! ンなことしたらまたすぐデキんぞ、いいのかよ、ああ!? 一人だって大変だっつうのに、双子なんか育てらんねーわ!」
     ったくこのスケベ、いくら新婚だからって──そこまで怒鳴ってから急に新妻らしく頬を染めて、「……メシは侍女にここまで運ばせる。その、…ゆ、昨夜は疲れただろうから」などと、口をもごもごさせる。
    (………たまったもんじゃないぞこれは……)
     混乱のなか、また一つわかったことがある。

     勝己は、キスするだけでも子どもができると思っている。……もうどうしたらいいんだ、これ。

     衝立の向こうでいつの間にか着替えを終えて新妻は、「剣の稽古は九の刻からだ。遅れんなよ、遅れたら教えねえからな!」と一気に言って足早に出ていってしまった。
     まだぶっ倒れたままのこちらにちらりとくれた一瞥は、昨日よりだいぶ甘酸っぱさを秘めて、初夜を終えた若い妻らしい華やぎと恥じらいに満ちていた──けど、でも、しかし。
     ……起き上がれたらまず真っ先に、光己さんの元へ飛んでいこう。
     この「結婚」、絶対に何かが間違っている。

     けれど、それを直接勝己に指摘することは、してはいけない気がした。
     あの目、あの眉、あのまなざしを、曇らせることだけはあっちゃいけない──かっちゃんを傷つけたくはない。
     間違いだらけのこの婚姻で、唯一絶対確かなことは、

     それでも僕はかっちゃんのことを、芯から愛しているということなんだから。


           *


    「右、左、右、左──そうだ、もうちょいテンポ早く──踏み込んで、右! いいぞ!」
     繰り出される剣にかろうじて付いていきながら、声に励まされ、また一歩前へ踏み込む。
     相手を務めてくれている赤い髪の男は、そんな出久の気合にニカッとお日様のように笑い、剣を払って「よし、もう一本!」と構え直した。
     出久と男──切島が剣を交えて稽古をする様子を、柵に座ってのんきに眺めているのは黄色の髪と、それからのっぽの男。黄色い男は「よっ緑谷、腰つきいいよぉ」「目もいいわぁ」「ちょっと切島押されてんじゃねえの~?」と賑やかに声援、もといヤジを飛ばして笑う。
    「台詞だけ切り取ると完全に酒場のスケベオヤジね」
    「うるせっつの! いいぞ緑谷、焦んな焦んな~!」
     のっぽの瀬呂を一発叩いて、黄色い髪の上鳴が邪気のない声援を送る。
     踏み込んだ一発をするっと躱され、横からやってきた刃に(…しまった!)と手をかざす。しゅるんッと飛び出た黒鞭に剣を瞬く間に絡め取られ、切島は両手を上げた。
    「あ、ご、ごめん切島くんッ…!」
    「…いやいや、反応が速えな。今のは俺の負け…かな?」
    「そんな──」
    「ん~、黒鞭だっけ、それって何本も同時に操れるわけじゃねーんでしょ? 今は切島の剣を奪えたけどさ、ほらこうやって」
     ひた、といつの間にやら忍び寄っていた上鳴と、さらには瀬呂の剣の切っ先が背中に当たる。
     息を飲む暇さえなかった。
     …速い。圧倒的だ。自分の力の無さが、改めて骨身にしみる。
    「何人かに同時に襲われちゃったらさ、応用きかねえじゃん? だからうーん、引き分けかなあ」
    「…いや、僕の負けだよ。練習でも、黒鞭は使わないって約束していたんだから…」
    「まあまあ、ンな固く考えんなって。使えるもんは使ったほうがいいぜ。そんで剣もうまくなりゃさらにいいだろ。ってことで休憩!」
     えー俺らまだ何もしてないと口をとがらせた上鳴に、「そんじゃ手合わせしますか」と瀬呂がするりと剣を向ける。そうこなくっちゃ、と何処か勝己にも似たいたずらっぽい笑みですぐ受けて立つ上鳴。早くも始まった剣戟の響きを背にしつつ、切島と、それから出久は先ほどの柵にやれやれと背を預けた。
    「黒鞭って便利だな。旅でも役立ててたのか?」
    「うん……」
     旅に危険はつきものだ。野盗に襲われたことも幾度となくある。
     オールマイトもグラントリノも、学問を究めただけでなく剣にも長けた男たちだった。数名に襲われても何ということなく叩きのめしてくれるから、出久の役目はもっぱら荷物を守ることと、それから
    「盗賊の脚に絡みついて転ばせたり、そのまま縛り上げたりとか、重宝はしたんだけどね…… 逆に黒鞭そればっかり使うようになっちゃって、剣のほうはからっきし」
     よくもまあ、昨日は立ち回りなどできたものだ。しかも勝己相手に。火事場の馬鹿力というのは恐ろしい。
    「なに、慣れだぜ慣れ。基本はできてんだ、上達もきっと速えよ。な?」
     ぽん、と肩に置かれた手は大きく温かい。切島という男の性質そのものが表れたような、包み込むような手のひらだった。
     軽い立ち合いを二、三度終えて、瀬呂と上鳴も「水ちょうだい~」とこちらにやってくる。
     三人は三人とも雄々しく、健やかで朗らかだ。
    (……みんなの方こそ、……)
     かっちゃんに、相応しい人たちだったのに。
     ともに笑い合いながら、ほんの少しの痛みが胸から拭えない。なぜ僕だったんだろう。なぜ、かれらじゃなかったんだろう──三家の息子たちの、かれらでは。

     切島、瀬呂、上鳴は出久の、そして勝己の学友であり、また同時に爆豪家を守り立てる三家の息子たちでもあった。
     幼い頃より勝己のいわゆる随身となり、剣の技を共に磨き、何かあれば命を賭けて勝己と爆豪家を守る役目を与えられた男たちだ。
     幼少期はかれらのことが、出久はひどく羨ましかった。いつでもかっちゃんと一緒にいられるなんて──…僕だって、そんな役目を司る家に生まれたかった。
     成長するにつれ出久から距離を置くようになった勝己と違い、かれらは学友として出久にいつまでも分け隔てなく接してくれた。街に行くと言ったときは随分心配して、最後まで見送ってくれたものだった。…勝己は、姿すら見せてくれなかったけれど。
     羨む気持ちもあれど、かれらの友人として居られることは喜びでもあった。だからこんな本音も、休憩の合間に尋ねてみたくなる。

    「みんなはその、……婿取りに参加してたの?」
     柄杓の水をぐいと飲みながら、切島は「いんや」と器用に首を振ってみせた。瀬呂や上鳴も同じく、「俺らはカッチャンの家来だからねぇ」と飄々と言う。
    「ガキの頃からずーっと従ってたから、自分らが『結婚相手』になるってのは正直考えんかったよね」
    「そーそー。俺らそれぞれにイイお相手もいますしね? あ、上鳴はついこないだフラれたんだっけ」
    「こっちからフッたんですうう!」
     「…そうか…」と出久は目を伏せる。
     もし三人のうち誰か一人でも婿取りに参加していれば、きっと自分に勝ち目はなかった。それどころか、割って入る気にもならなかっただろう。
     かれらと勝己の間には絆がある。
     それは色恋の感情ではないと三人ともが言うが、
    (……でもかっちゃんにとっては、やっぱり本当は僕なんかより、切島くんたちのほうがよかったじゃないのかな……)
     考えはいつの間にか口から漏れ出て、ぶつぶつ呟いてしまっていたようだ。「…まあまあ、だから難しく考えんなって」、切島が優しく背を叩いてくれる。
    「選ばれたのはおめーなんだ、緑谷。あのバクゴーが選んだんだぜ? そんだけでもう、戦の女神ネイナに祝福されんのは間違いねえから」
    「……ま、正直、鍛冶屋は無えよなぁと思ってた」
     ぽつりとこぼした瀬呂に、二人ともが深く頷く。
    「あいつ、脳筋通り越して全筋だもんな~ 爪の先まで筋肉ダルマだよ、ありゃ」
    「バクゴーの横に座れるような度量はねえよ。知恵も知識も、男としての技量も何もかも」
     そんなもの僕だって無いんだけど──呟くことさえ憚られ黙ってしまう出久を前に、三人は三人なりに、勝己のかつての婿候補に対してもっていた不満をぽろぽろ零す。
     どうも鍛冶屋の息子は、力に任せた卑怯な手腕で争奪戦をのし上がってきたらしい。神の末裔の一族に名を連ねようという覇気などなく、長になりたいという私欲と、美しい勝己を娶りたいという助平心の為せる業だったと聞いて、

    「……は?」

     出久も三人と同じく、眉根に深く皺を寄せる。
     あいつ──やっぱり、やっぱり、割り込んでよかった。とっちめてやれてせいせいした。…その後の結果は想像もしなかったものだったが。
    「まあ、どーせあいつのことなんてカッチャンが負かしてくれンの分かってたからさ、俺は心配してなかったけどね?」
    「なーに言ってんだか上鳴クン、最前列のがぶり寄りでカッチャン頑張れ頑張れ~って半泣きだったくせに」
    「は!? いつ俺がそんなことしました!? 何の月何の日何の刻、ベリーが何回実ぃつけたとき!?」
    「お、噂をすれば。バクゴー!」
    「悪ぃ。遅くなった」

     声にどきんと心臓が高鳴って、情けなくも身体が固まってしまった。
     動けない。すぐ後ろに、気配を感じるのに。

    「型は直したんか」
    「や、まだその段階じゃねえな。でも基礎と多少の応用は身についてるぜ、さすがこの村出身だわ」
    「抜かせ。昨日の型ひどかったろうが、見ちゃいられねえわ。あんなんじゃすぐ死ぬ」
    「へ~。そんなんでも峰打ちされちゃったのはさ、やっぱカッチャンが緑谷のこと──」
     言葉の最後は、フギャッと潰されたような音に紛れて聞こえなかった。思わず振り向くといつの間にやら上鳴は地面にひっくり返って伸びていて、
     そのすぐ横に立つ想い人が、外套マントを脱ぎ捨てながら出久に静かな瞳を向けていた。
    (…わ、……)
     青い長袖と共布の下穿きが、すらりと鍛えられた身体によく映える。飾り腰布とすね当ては白、耳飾りは真紅の勾玉。
     少ない色彩だからこそ、纏ったひとの金の髪と赤い目がよりいっそう際立って見えた。
    (……かっちゃん……)
     昨日まで勝己の顔の下半分を覆っていた口布は、今はない。それは彼女が結婚をした証であり、「娘」ではなくなった証拠だ──事実はどうあれ。
     切島も瀬呂もそんな勝己を、ほんの少し眩しげに見つめている。
     今や人妻となったかれらの姫は、しかし甘さなど微塵も感じさせぬ手付きで背中の太刀を抜き、柵を飛び越え出久の目の前に降り立った。
    「俺が相手する」
    「…手加減しろよ?」
     眉をつと上げる瀬呂を無視するように、勝己は二、三度太刀を払って

    「実戦で覚えろ。その方がまだるっこしくねえ」

     言うなりいきなり大きく踏み込み、全力に近い勢いで振り下ろしてきた刃に斬られなかったのは奇跡だった。すんでのところで左に転がって避け、土まみれになりながら起き上がったところへまた容赦のない太刀が降ってくる。
    「起きろ!」
     再び転がりかろうじて避け、なんとか膝をついたところに勝己はさらに走って飛び込んでくる。言われるまでもない、立たねば殺られる。中腰で太刀をなんとか受け止め、撥ね返して斬りつけたがそれすら片手剣で受け止められてしまった。
     かなりの力で押しているつもりだ。しかし勝己はぴくりともしない。涼やかな目のまま、
    「踏み込みが甘ぇ。女だからってなめてんのか」
    「…なめてなんかいない!」
    「じゃあ来い、もう息上がってんぞ!」
     ジャッ!と高く音を鳴らして剣と剣とが弾けて離れる。鬼神のように繰り出してくる乱れ打ちは、昨日も目の当たりにした勝己の得意技だった。
    「腰! 脚! 膝が硬ぇ! 右! 左! 死にてえのかてめえは、ああ!?」
     凄みのある笑みさえ浮かべながら、女神の化身は撃ち手を止めない。
     必死に躱し、払い、受けて流しながら、

    (──…どこかで見た…)

     手が六本も八本もあるような、青い肌の戦いの女神。旅をする途中のどこかの国で、壁に飾られていたまばゆい細密画。すべての手に大小あらゆる刀を持つ女神は、戦には決して負けないのだという。
     今目の前にいる青い衣の勝己が、あの絵と重なる。
     勝己の太刀は一本しかない。腕だって二本しかない。それは分かっているはずが、まるで幾本もの刀を縦横無尽に操るように、神のように勝己は強い。素早い。──美しい。

     ネイナ──この村の、戦の女神。
     偶像崇拝の風習のないこの村で、ネイナの姿は人々それぞれが心のなかに理想を思い描いている。

     僕のネイナはそのまま君だ──眼の前の、青い衣の、赤い目の君ただひとり。


     ──右に来るはずの太刀が、刹那に軌道を変え左の耳を切りつけてきた。いや、正確には耳のそばだ。しかし今まででいちばん深く、近く、剣と勝己に切り込まれた。
     彼女の太刀を受けた刃が、顔のそばでギリ…と音を立て震えている。
     勝己の目が、金の髪が、息がもう、すぐそばにある。
    「何考えてやがる」
     夢想するとは余裕じゃねえか。なめてくれたもんだな、クソデク。
    皆まで言わずとも怒りの色が、双眸からあふれて胸を突き刺す。勝己は本気だ。
     気を散らしていたわけじゃない。ただ、
    「…君が、……ネイナみたいだと」
     ほんの少し目を細めた勝己から、紅蓮の怒りがわずかに凪いだ。
     ふざけてんじゃねえよ、と声なき声で呟いて、
     さらにぐっと踏み込み、もはや限界まで反った腰でぎりぎり己を支える出久の耳元で、

    「俺以外、見んな」

     囁かれた瞬間に向こう脛をしたたか蹴られ、ウギャッ…!とうめいてしゃがみこんでしまった。脛を抱えながら無様にごろごろ転がって、目からは涙がにじんでくる。煙幕の張った目に映るのは、心配げにこちらに駆けてくる上鳴たちとそれから、
    「かつき様が勝ったー!!」
    「すごーいかつき様、だんな様のことも倒した~!」
    (……???)
     きゃあきゃあ大騒ぎする甲高い声の持ち主たちを、切島が必死で「こらこらこらぁ!」と叱っている。
    闘技練習場ここは危ねーから来んなって言われてんだろ、学校はどうしたんだよおめーら!」
    「せんせーが腰痛いっていうから今日はおやすみー!」
    「先生、昨日の試合でめちゃくちゃ興奮して、ぎっくり腰?になっちゃったんだって」
    「ださ~い」
    「かつき様ぁ、応援に来ましたー!」
     ワイワイきゃっきゃと柵の向こうで手をふる小さな子どもたちに、勝己は「ん」と片手を挙げる。それだけで、女の子も男の子も皆ほう…と憧れのため息をつき、次の瞬間「かつき様ぁ~~!」の大合唱と相成った。
    「相変わらず人気モンだね~カッチャンは」
    「羨ましいこって」
     出久に手を貸し起き上がらせながら、瀬呂は「村のチビどもはみーんな爆豪のファンでね」と教えてくれた。
    「ちなみに、百戦無敗の爆豪に唯一土をつけた相手だからって、緑谷のこともあいつらみーんな尊敬してっから」
    「…え??」
    「だんな様ー! 早く早く、戦い見せて~!」
     柵のあちこちから顔を覗かせながら、小さな目たちがきらきらに輝いてこちらを見つめている。
     「だんな様」、……って、……僕のことだよね?
     じわじわと首から耳の先まで赤く染まっていくさまに、勝己はにべもなく「…キッモ」と吐き捨てる。
    「よそ見すんじゃねーつったろが。行くぞ」
    「え──待っ、ちょ!」
     今度は突きで襲い来る切っ先を、後ろ走りで逃げながら薙ぎ払って躱す。目にも留まらぬほどの速度に、子どもらは一斉に色めきたってわああ…!と歓声をあげた。
    「かつき様ー! がんばってー!!」
    「かつき様ぁ!」
    「右! 左! 負けんな、だんな様ー!」
     俄に賑やかになった練習場で、たしかに出久は集中を欠いていた。子どもたちの声、きらきらの瞳に見つめられ、かっこ悪いところは見せたくないと色気が出るほど足さばきは悪くなる。それを見逃す勝己では当然なく、「集中しろボケ!」と何度も怒鳴られる。
     慣れぬ剣への疲れ、体力的な限界、集中力も途切れそうなそのときに、
     叫んだ子どもに罪はない。そんなことが起こるなんて、思いもしなかったのだから。

    「かつき様っ、ひもがほどけそう!」

     それは腰布にまとわせた胴締めのことだったのだが、出久の目には違う「ほどけそうな紐」が飛び込んできた。
     勝己の青い上衣は丈が短く、腹の中ほどまでしかない。裾を身に沿わせるため胸の真ん中には編み紐がかけてあり、きゅっと縛って──あったはずなのに、激しい動きにいつの間にやら緩んでいたようだ。
     しろい胸のわずかな谷間が、紐の隙間からちらりと覗く。
    (──おっ…)
     ぱい、と文字にして思い浮かべたら負けだ。何に負けるかはわからないがとにかく負けだ。
     「うらぁ!」とこちらに向かう剣を払って、そのままの勢いで切り返す。雑な手の振りから生まれた雑な攻めなど、勝己は難なくさらりと躱す。しかし、変に勢い余った出久の剣はなぜか勢い止まらず刃先を止めず、胸の谷間の紐にひっかかった。
    「あっ」
    「……あっ…!」
     ぶちっ…!と布の裂ける音とともに、出久の剣には黒い紐がまとわりついた。まるで黒鞭のようだ。でも僕のじゃなくて───

     紐の戒めははらりと解かれ、無防備にはだけた白い胸。ささやかな小山がふるりと揺れて、あともう少しで薄紅の、愛らしい突起が見えてしまいそうで──
     

     平和な村の平和な昼に、
    「おい、大丈夫か!?」と駆け寄ってくる切島たちの足音と、
     死ぬほど重い平手打ちの音、
     横ざまに吹っ飛んで倒れる大きな音とそれから、
     子どもたちの「かつき様強えー!」の大歓声が一緒くたになり、平和に響いた。


            *


     薬草入りのぬるい湯に、布と、それから足をひたす。泥や傷を洗い流すと、沁みはするが癒やされてもいく。
     横に置いた山積みの湿布は瀬呂からの差し入れだった。薬草のにおいは強くなく、これなら体中に貼りまくってもあまりバレなさそうだ。
    ……いや、もうすでに、かっちゃんにこてんぱんにされたことは村中周知の事実なのだけど。
    (……やれやれ、)
     ふう、と大きく息をつく。天井の高い茅葺きの屋根は、男ひとりのため息なんてすぐに飲み込み中空に消し去ってしまった。
     使用人の多い爆豪家だが、この一画には先ほどから誰も来る気配がなかった。ここはいわゆる控えの間で、爆豪家を訪れる客人の、そのまた随身が待つための部屋だ。農作業の忙しい季節、また昼すぎに村長を訪う客などいない。だから出久はここでゆっくりと傷の手当をしつつ、ため息をつくことができるのだった。
    「……あーーー……」
     初日とはいえ、なかなかに無様な結果に終わった今日だった。本当は午後も練習をするつもりだったが、切島たちに「やめとけ」と労りをもって止められた。
     ひとり爆豪家に戻って手当を始めてみると、まず長椅子に座った時点でドッと疲れが出て、しばらく何もできなかったほどだ。風呂ほどの温度があったはずの桶の湯がぬるま湯になるまで、ぐったりと動けなかった。
     素人には相当な量と質の稽古だった。勝己は最後、「また明後日」と背を向けた(羽織った外套の前をやけにしっかり、がっつり合わせながら、だ)。
     
      『か、かっちゃん、僕明日もやれるよ…!』
      『バカが。明日はテメエ、寝台から起き上がれもしねえわ』

     フンと言い捨てて去っていったのだが、まさにそのとおりの未来になりそうだ。今でさえ、傷を拭うのでもう精一杯で、この後寝所までは這っていかねばならないだろう。
     …なかなかに、情けない。
    「…もっと強くなんなきゃなあ」
    「充分お強いと思いますけれど」
    「ヒェッ!?」
     小動物のようにびくん!と跳ねて、外敵警戒状態で四方八方視線をめぐらせる。誰だ? どこだ? …かっちゃん? いや、彼女みたいな少年っぽい声じゃなく、もっと鈴が転がるように甘い──

    「急にごめんなさいませ、若旦那様」

     柱の影から現れたのは、黒髪の艶やかな女だった。憶えのないその顔に、ええと…としばしぼんやり見つめてしまう。
     身にまとう淡い黄色の服は、爆豪家の侍女の服装だ。水差しを手にもったまま、女は優美な仕草で頭を垂れた。
    「お湯をお取替えいたしますね」
    「……あ、……あ、ありがとう、ございます……」
     にこ、と微笑んだ唇は、紅でも差しているように赤い。桶に手を差し伸べるので慌てて足を抜くと、「ありがとう存じます」とまた丁寧な所作で礼をした。
     差し替えられた湯はほどよく熱く、風呂に入っているような心地のよさだった。
     思わずふう…と息をつくと、「失礼いたします」と侍女は何気なく出久の手から布を取って、湯に浸し、泥汚れの残る脛を拭き始めた。
    「ちょっ──あ、あ、あのいいです駄目ですそんなあの、き、汚いので…!」
     突然のことに素っ頓狂な声をあげてしまうと、彼女はまたも何でもないように「やらせてくださいませ」と微笑む。
    「これが私の仕事ですから」
    「いや、その───その──その………」
     引っこ抜こうとしたした足を心地よいやわさの手のひらに包まれて、思わずうっとりしてしまった。
     出久には真似のできない繊細な動きで、足を、甲を、毛だらけの脛をぬぐっていく。
     合間あいまにほんの少し力を入れて揉まれ、それがまた脳髄がしびれるほど心地よい。
     いつしか出久は長椅子に背をもたれさせ、「…すいません…」とそれでも一応は呟きつつ、侍女に足洗いを任せてしまっていた。
    「鍛錬、少しだけ拝見いたしました。驚きました。若旦那様はお強いんですね」
    「……いや全然ですよ、まだまだで……」
    「剣で身を立てていらしたわけでないのに、勝己様とあれだけ戦えるなんてご立派ですわ。それに、頭もよくていらっしゃるんでしょう? …凛々しいこと」
     しっとりとした声音で紡がれる賛美に、自惚れるなというのは難しい話だった。照れくさい、気恥ずかしい、けれどやっぱり嬉しいは嬉しい。
     すっかりきれいになった足を桶から抜いて、乾いた布で水気をとってくれようとする侍女に「も、もう大丈夫です…!」と断る理性はまだあった。仕事をさせてもらえず侍女は少し不満だったようだが、ぺこぺこと全力で感謝と謝罪を述べる出久に
    「よしてくださいませ」
     そう言って、くすっと笑ってくれた。
     改めて彼女を見ると、繊細に結い上げた黒髪といい切れ長の目元といい、口布で口元は見えないが、相当な美女ではないかと思えた。
     汚れた布を胸元に乗せて、きっちり折り目をつけて畳んでいたが、その胸はびっくりするほど豊かでぷるんと上を向いている。
    「あの、ありがとうございました、えっと……」
     桶と布を手に立ち上がった侍女は、出久を振り向き、瞳だけで艶然と微笑んだ。

    「ユカと申します。──どうぞお見知りおきを、若旦那様」





    2.


     勝己の予言どおり、初稽古の翌日出久はきっちり寝込んだ。
     慣れぬ痛みに身体の節々が悲鳴を上げて、熱まで出たのだから仕方ない。
     切島たちは心配して閨の近くまで見舞いに来て、「元気出せよー!」と果物の差し入れをくれた。瀬呂からは、さらに大量の湿布も。
     その次の日は気合と根性のみで立ち上がり、剣を杖がわりによろよろと練習場へ行った。三家の息子たちは驚いて、「だいじょぶか!?」「根性あんなぁ」と出久を褒めたりねぎらったりした。
     勝己はただ静かに剣を抜き、「立てるなら来い」と言うだけだった。──そしてまた、こてんぱんにされた。けれど翌日も、出久はやはり練習場に現れた。疲れてはいるが、以前よりその足取りはしっかりしていた。
    「緑谷おめー、体力あんなぁ…」
     口をすぼめてひたすらに感嘆する切島に、照れくさそうに出久は
    「体力だけはね……お師匠たちと一緒に、しょっちゅう山道巡ったりもしてたから。でも剣は全然だからさ、せっかくみんなが、それからかっちゃんが教えてくれるんだから、とにかく頑張んなきゃって…」
    「根性だけは認める。けど、実戦でやれなきゃ意味がねえ。今日は型だ。アホ面、てめーが教えとけ」
     アイヨ~と気楽な調子で手をあげた上鳴は、出久にひょいっと近寄って「奥方様に褒められてよかったじゃん、ダンナ様♡」と腕でつついてからかってきた。
    「ほ、褒め!? え、い、いつ!?」
    「今よ今」
    「…今僕褒められたの??」
    「『認める』っつったじゃん。あれめっちゃ褒めてんよ? 俺なんて言われたこといっぺんもねーもん」
    「そ、う、なの……?」
     ちらり、向こうに立つ勝己を見やる。今日は少年たちの指導の日なのか、彼女は切島らと一緒に子どもたちにきびきびと稽古をつけていた。
    青の上下に身を包み、背筋を伸ばして立つ後ろ姿が凛々しくまぶしい。

     初夜の日以来、勝己は閨には訪れなかった。嫌われたのかと思って気になって、部屋の世話に来てくれた老女の召使いに「かっちゃんは…」と尋ねると、皺を少しだけ笑ませてそっと窓の外を指した。
     夜空に浮かぶのは月。──ということはつまり、そういうことだ。
     真っ赤になってうつむく出久に、老女は「またお励みなさって…」と小さく言って、深々と頭を下げて出ていった。
     励むもなにも何もしていない。だから月のが来たのだが──なんというか──
    (……夫婦って……生々しい……)
     かっちゃんの、その、……月の障りまで知るなんて。それどころか多分召使いさんとか侍女さんとかも、みんな知っているのだろう、夫婦の何がどうなっているかを。
    (そういうの、…しんどいだろうな)
     名家に生まれ、幼いころから立場と責任がある少女。自由に暮らせたのはほんのひとときで、口布をつけるころから勝己は「かっちゃん」ではなくなっていった。
     遠くなっていくお互いの距離がつらくて、かなわぬ思いを抱え続けるのも苦しくて、僕は逃げるように街へ出たけれど、
    (…かっちゃんにはそんな自由もなかったんだ)
     そして、今も。
     障りのとき、女性は痛んだり苦しんだりすると聞くけれど、平然とした顔で立ちながら子どもを教えている。
    強いひとだ。…彼女に僕がしてあげられることなんて、本当に何かあるんだろうか。それともやっぱり何もないんだろうか。
    「おーい、そろそろ始めてい?」
    「あ、ご、ごめん! お願いします!」
     上鳴の声に現実に引き戻され、型の稽古をさっそく開始する。
     上鳴は出久と同じくらいの背格好のため、腕の長さ、足の幅の置き方がいちばん分かりやすい。だからこそ彼を指南役につけてくれたのだろう勝己に、改めて尊敬と感謝を深く感じる。
    (かっちゃんはすごいな…)
     日が高くなり始めたころ、「終了~!」と切島が言う。待っていたように練習場の外から母親たちが現れて、子どもらにも、それから勝己や切島たちにも飴湯や茶を配りはじめる。
     俺らも休も、と上鳴に言われ剣を置いた出久は、ひとり気配もなくそっと爆豪家の方へ戻っていく勝己を見とめて「…僕ちょっと、その、用足しに!」と言いおいて走り出した。

    「かっちゃん!」

     木立の道で振り向いた勝己の顔色は少し青かった。──やっぱり。
    「かっちゃん、家に戻るんでしょ。送るよ」
    「…一人で歩ける」
    「でも送るよ。危ない道とかじゃないけど、その、……心配なんだ、君のこと」
    「…ひとの心配なんざしてる場合じゃねーだろが」
    「そうだけど! …だけど僕、……か、…かっちゃんの、…お、夫、でしょ?!」
     思いっきり舌を噛みながら言ったから、夫ではなく「ひょっと」のように聞こえた。耳まで真っ赤になる出久につられたのか、勝己も唇を噛んで頬を染める。
     木立を優しい風が吹く。風の月、大地を愛でるようにさわやかな風が山から吹き下ろし、麦を、草を、花を育てる季節だ。
     土のにおいのやわらかな風が、心の端をくすぐるように掠めていく。赤い顔のまま、若すぎる夫婦はなにも言えず、目も合わせられずただじっと立ち尽くす。
     もっと器用だったらいいのに──いたわりの言葉を、上手にかけられる男だったらよかったのに。結局、くるりと背を向けた勝己は「…キッモ」としか言ってくれなかった。
     そして歩き出す。気のせいか、ゆっくりと。
     え、…と見つめるしかできないでいると、少しだけ振り向いてこちらをちらり見た。
     追いかけて、…隣に並んで、いいの? …かっちゃん。
     疑問をぐっと飲み込んで声にせず、足早に勝己に追いついて、並んで歩き出す。そのまま黙って、近くもなく、けれど遠くもない距離を保ちながら、言葉もかわさず木立を歩いた。
     爆豪家までの道のりはたったの数瞬。
     ただ並んで、黙って歩くだけのその時間が甘くて、狂おしいほど幸福で、なるべくゆっくり歩きたかった。
     勝己が出久に合わせてくれたのか、それとも出久が勝己に合わせたのかは分からない。けれどわずかな距離の道を、若い夫婦は歩みを合わせてゆっくり、ゆっくり踏みしめていった。


    「無理するなって言ってんでしょうが、あんたはホントに…」
     娘の不調を予期してか、大玄関のすぐそばに待機していた光己は思案顔で勝己を迎え入れた。娘の方はフンと顎をそらし「…るせえババア」とずかずか奥へ行ってしまう。
    「ちゃんと寝なさいよ!」
    「うるせえ!」
    「──ありがとうね、若ダンナ様。二日目からはどうしてもしんどくなるのよねぇ、なのに平気な顔したがるんだから」
     具体的な話をされてもちょっとよくわからないが─二日目ってなんだろう─、とにかくやっぱり勝己は不調で、それを押して稽古に参加していたらしい。
     送り届けられてよかった。こんな、ささいなわずかなことだけど、それでも。
    「…それじゃ、僕はこれで…」
     ぺこりと下げた頭に、光己が「ねえ、いい機会だからさ」とくれた提案。
     これから数日、実家に里帰りしてきなさいよ。バタバタと婿入りしちゃってろくに引子さんに挨拶もできてないんでしょう、今日のぶんの稽古ももう終わったんでしょ、いいわよいいわよ行ってらっしゃいよ──口をはさむ隙もなく怒涛のように予定が決められ、気がついたら出久は門の外に立っていた。
     手には果物の籠盛りと酒瓶、その他祝いの品々。
     思えば婚礼の日以来延々爆豪家に居っぱなしで、ろくに母にも会えていなかった。
     親孝行しなきゃ──踏み出した一歩は、昔より少しはたくましくなったかもしれなかった。


            *


     村の東の奥、森に近い道を抜けると現れる、赤胴色の丸い屋根。
     洗濯物を干していた母は、出久の姿を見るなり目に涙をいっぱい溜めて駆け寄ってきた。
    「お母さん、遅くなっちゃってごめん……」
     泣いて声にならない母の肩を抱いて、久しぶりに入る家の中は昔のままの匂いと大きさ。
    (…こんなに低かったっけ、この棚)
     乾燥棚にはたくさんのきのこ。干しきのこは出久の大好物で、母がどれほど自分の帰りを待っていてくれたか沁み入るように感じて、手を握りながら「…ごめんね」と涙をこぼしてしまった。
    「謝んないで出久、おかあさん怒ってなんかいないから。…心配は、いっぱいしたけどね」
    「ごめん、…」
    「剣の稽古始めたって聞いたわ。怪我してない? …かっちゃんとは、うまくやってるの?」
    「──え、えっとその話はまた追い追いで……その前にこれ、これね、遠眼鏡っていって、オールマイトって人からもらったものなんだけど…!」
     それからはひとしきり話が弾んだ。忘れていたが母も出久同様おしゃべりで、話し出すと止まらない。四年の間に起こったことをお互い聞いて語って、笑ったり驚いたりしているうちにあっという間に外は夕暮れの色に染まっていた。
     夕飯は食べていくの?と問われ、今日は泊まるよと応えたときの母の嬉しそうな顔に胸が痛む。心配、かけちゃってるな。四年も不在にして、帰ってきたと思ったら戦いに飛び込んで、そのまま結婚しちゃったなんて。親孝行どころかとんでもなく心臓に負担をかける息子だ、僕は。
     しかし母は孝行されるより、息子を甘やかしたい気持ちが強いらしい。干しきのこの瓶をどれにしようか選り分けながら、
    「そういえば出久、木の上には行ってみたの?」と、思わず席を立ってしまうようなことを思い出させてくれる。
    「え──まだあるの、あの場所?」
    「もちろんよ。縄梯子もしっかりしてるわ。だって──」
    「行ってくる!」
     飛び出す背中に母の声はもう聞こえなかった。
     母は呆れ顔で、けれどやわらかに笑って、さてと…とスープの準備をするため鍋を火にかけた。


     庭の奥、森の手前にどっしりと大きな黒楠くろくすのきの木がある。枝ぶりのよい木は、見ぬ間にもっと背を伸ばしたようだ。
     裏側にある縄梯子を掴んで引いてみると、びくともしない手応えがあった。心が逸る。
     一歩、また一歩登っていく身体は昔より筋肉がついてきっと重くなったはずだ。けれど梯子はギッ、ギッと軽快な音を立て、人の訪いを喜ぶように軋む。
     あともう少し──土台に渡した木が見えて、胸がどきどきと高鳴った。台に手をかけ、よいしょと勢いをつけて登れば、
     そこは木の上の秘密の場所。土台から出久がひとりで作り上げた、小さなちいさな見晴らし台だった。
     幼い身体に合わせて作った場所だから、天井になる木が少し邪魔だ。けれど枝と枝の隙間から見下ろせる村の景色は変わりなくて、一瞬で心を少年のころに連れ戻してくれる。

    「わあ、……」

     夕暮れと宵闇の混ざり合う時間、向こうの山並みの麓の街の灯りがぽつりぽつりと増えていく。つい数日前まで居た場所が懐かしいような遠いような、せつない気持ちになるのが不思議だった。
    「…そうだ、忘れちゃいけない」
     かばんの中から出した革製表紙のノート。これも師匠から贈られた大切な品だ。
    「風の月、五日。天気は晴れ……」
     天候の記録と変化の様子は毎日つけること。気象学者にとって、記録は何より大切な習慣だ。あったことだけを書き留めればいい、ただそれだけなのに、走らせるペンがふと止まる。
     幼かったころ、この秘密の場所で、やはり出久は紙の切れ端に書き付けをしていた。それを横から覗き込んで、「キッモ」「絵へったくそ」「ユルドゥはそんな形じゃねえぞ」などと、やいやい言ってきた少女──
    (……かっちゃん、……)
     夕暮れ近くまで時を忘れて一緒にいて、ご飯よぉと呼ばれて慌てたことも何度もある。勝己は梯子も使わずに飛び降りていってしまうから、そのたびお母さんが「きゃあかっちゃんッ、お願いだから安全に降りてきて…!」と肝を冷やしていたっけな──…
     「でーじょーぶだわ、心配すんな」と少年より少年らしく言って、勝己は瞬く間に駆けていってしまう。その後ろ姿も、この場所からいつも見送っていた。
     赤いマントがひどくあざやかで、夕陽よりずっときれいだって、いつも思っていた。


    「気象学ねえ……」
     パンをちぎりながら、母は未だに半信半疑といったていで首をかすかに傾ける。
    「今年の麦の実りとか、明日のお天気も全部分かるっていうの? ……なんだか本当に魔法みたいねえ」
    「魔法じゃなくて、全て理論なんだよ。ちなみに三日後あたり午後から雨が来ると思うから、洗濯干すなら注意してね」
    「ほんとう?」
     でも出久が言うならきっと、と母はまだ少し不思議そうに、それでもうんと頷いてくれた。
     久しぶりの母の手料理にほっとする。爆豪家の豪華な食事も美味だったが、素朴なきのこの味わいが何より胃の腑に染み入った。安心は出久の口をなめらかに回し、夕飯を終えても話が止まらない。
     にこにこと相槌を打ちながら、母は「そんなに役に立つのなら、出久も村で『予報』をしたらいいじゃない」と何気なく口にした。
    「……え? …僕が?」
    「そりゃあそうよ、だって『予報』ができるのは村で出久だけでしょう? そんなに大げさでなくていいわ、だけど、雨が降るとか夏が暑そうだとか、そういうことって誰の役にも立つんじゃないかしら」
    「……でも……でも、あの、予報には、足りないものがあるんだ。観測台とか」
    「木の上のあれじゃ駄目なの?」
    「本格的にやるならあそこは狭すぎるから、新しく、もっと広いのを建てないと。かっちゃんちの庭にあるみたいな木の上に──」
     最後まで言えなかった言葉もすべて分かっていると言いたげに、母はふっくらと、それでいてどこかいたずらっぽい少女のように唇の端をあげた。

    「…奥方様にお願いしてみたら? 『若旦那様』」



           *


     きのこの土産とともに爆豪家に戻って二日。久しぶりに勝己が、練習場に姿を現した。
    「バクゴー、緑谷ずいぶんよくなってきたぜ」
    「…ふん」
     相変わらずの愛想なしだが、顔色は先日よりぐんと良い。よかった、とほっとするのもつかの間、何の説明もなくすぐ剣で斬りつけられてまたも激しい稽古がはじまる。
     一度目の休憩ではぜえぜえと伸びてしまってだけだった。二度目の休み、ようやく出久はよろよろしつつも「かっちゃん、あの…」と青い背中を呼び止めて、お願いがあるんだけど、と切り出した。
    「…観測台?」
     話をすべて聞き終えて、やはり勝己も引子同様わずかに首をひねる。
    「ンな大掛かりなもんがねーと出来ねえんか、予報ってやつは」
    「一概にそうでもないけど……精度っていうか、広い範囲で長めの予報を立てるには、やっぱり見晴らしのいい場所が欲しいかなって…」
    「裏庭なら好きに使やいい。表のでけえ木ンとこに建ててえんなら、オヤジとババアの許可もねえと難しいかもだけど」
    「…やった! ありがとう、かっちゃん!」
     思わず抱きつこうとして、手を広げたすんでのところで思いとどまった。ぎゅうっとしてしまったら、きっとまた「公衆の面前でガキ作る気かてめーは!」とぶっ飛ばされてしまうだろう。大きく開いた手を不自然にじわじわ折りたたんでいく出久の前で勝己は、うっすらと耳を赤くし、眉根に皺を寄せながら「……、……クソが」とやけに小さく、小さく呟いた。
     それは出久の粗相を罵るというより、むしろ、ギュッとしなかった勇気をそしるような、「意気地なしが」とても言いたそうな響きだった。──…え、…なんで?
     三、四日会わなかった、ただそれだけで、目の前の勝己がもっと綺麗になったように感じるのもなぜだろう。四年も遭わないでいたころのほうがまだ我慢が効いた。
     ごく、と飲んだ唾の音が聞こえたみたいに、青い衣の肩がひくりと震える。並の女よりは逞しいけれど、男にくらべればほっそりとしなやかなその肩。
     青い衣をまとわない、しろい身体も僕は知っている。──僕だけが、知っている。

    「……あの、……かっちゃん、……その、今夜は…………ね、…閨に、………き、来ます、か…?」
    「………………行っちゃ悪ぃんか」

     脳髄が爆発しそうな感覚というものを、今この日この時この瞬間、生まれて初めて知った。
     ごくっ、と今度こそ大きな音を立てて鳴る喉に、勝己の唇が尖る。怒っているのかと思ったが、どうにも気恥ずかしそうな、赤く染まった頬が気になって仕方ない。
    「…かっ、」
     ちゃん、と上ずりながら呼ぼうとした名は、

    「おーい、ばくご~! ミドリヤもー!」

     聞き覚えのある明るく弾ける声に、思い切り良く遮られた。
     柵の向こう、ぶんぶんと手を振っているのは「…芦戸さん?」。
     桃色の肌、同じ色の服にとりどりの布を巻きつけて、芦戸三奈は相変わらずとんでもなく目立つ姿である。
    「ンだよ黒目、でけえ声出すな!」
    「そっちだってデカイ声じゃん~」
     怒っているようでちっとも怒っていない三奈は、出久に向かっても「やっほー☆」とにこやかに手を振った。
    「ミドリヤぁ、こないだのカッコよかったよ~ そうだ、結婚おめでとね~! シンコン生活うまく行ってんのー??」
    「だからデケえ声出すんじゃねっつの!!!」
    「あ、芦戸さん、どこに行くの…!?」
     三奈もまた出久の、勝己の学友だ。だから年の頃は十八、九。なのに彼女は小さな子どもを四、五人も引き連れていて、しかもまだ口布をしている。
     ということは未婚。だのになぜ子持ち、しかも複数、いつの間に?──うずまく疑問を出久の顔から読み取って、三奈は「あはは、違うよォ。これは親戚の子ども~」とあっけらかんと笑った。
    「ちょっと暑いからさ、水浴びに連れて行こうと思って」
    「湖か?」
    「ううん、川。もっと大きい子たちは先に行ってんだ。私はチビたち連れて……」
    「──芦戸さん、どっちの川!?」
     駆け寄ってきた出久に気圧されて、三奈も、それから子どもたちもびっくりと目を見開く。
    「…え、あの、西の森の向こうの…」
    「上流近くだね? ──かっちゃんごめん、時間もらう!」
     走り去る出久を、三奈と、それから子どもたちも事態を飲み込めずおろおろ見守る。
    「…黒目、とりあえずここにいろ」と言った勝己も、正直何がなんだかさっぱり分からなかった。体力もほとんどないはずの出久が、突如弾かれたように走っていった理由。

     それはほどなくして、泣きじゃくるずぶ濡れの少女をおんぶして、よろめきながら戻ってきたもじゃもじゃ頭を見たことで得心がいった。

    「……川が増水してたんか…」
    「うん、危ないとこだった……ごめん、上鳴くん、ありがとう…」
    「任しとけ!」
     びしょ濡れの少女を出久から受け取り、ひょいと背負って上鳴は村へ走っていった。他の子どもたちは三奈が抱きしめたが、全員震え、青ざめて言葉もない。
    「…あの子、水はそんなに飲んでないし、きっと大丈夫だと思うよ」と言いながらへたり込んでいる出久のほうが、よっぽど大丈夫ではなさそうだった。
    「なんで増水してるって分かったんだ?」
    「そうよ、どゆこと? …魔法?」
     乾いた布を出久の背に押し当ててやりながら、切島も瀬呂も狐につままれたような顔をしている。
     風の月のこの時期、まだ川はさほど水の量が増していない。雨の月なら警戒もするが、普通なら子どもだけで遊びにいっても何も事故など起こらないはずだった。
     くたびれた顔で、ぐちゃぐちゃの濡れた頭のままで、出久は遠くの空を見上げる。同じように勝己も振り仰ぐと、先刻まで抜けるように真っ青だった空がゆっくりと灰色の雲に覆われはじめていた。

    「雨が来るんだ。…というか、もう来ている。もっと上流の、西の方に」

     言葉につられでもしたように、ぽつり、小さな雨粒が天から舞い落ちる。
     曇りゆく空は『予報』のとおりだった。…お母さんの庭にも、もうじき、薄灰色の雨雲がやってくる。
    「山ではもう雨が降ったから、下流のここでも水が増えている。増水すると、身体の小さい子がはまり込んだら頭まで入っちゃう深さの場所もあるから……」
     だから心配で走っていった。川に着くとすでに悲劇は起こっていて、溺れゆく少女を前に大泣きする子どもたちがいた。飛び込んで担ぎ上げ、なだめながら少女たちを連れて戻る、その間わずかに数瞬。
     勝己たちも走って後を追ってきたが、出久がいなければとても間に合わなかっただろう。
    「ミドリヤ、ありがと、ありがとねえ……!」
     ひぃん、と泣きながら抱きつく三奈にあわあわ慌てる、出久の目の前に勝己が立つ。
     調子のんなこのクソデクが──怒鳴られでもするのかと思ったが、その目は静かに出久を見つめる。
     肩に雨が落ち、滲んで濃い青の染みがゆっくり広がる。

    「何日ありゃいい」
    「……え?」
    「何日ありゃ、お前の言う『観測台』が作れんだよ。
     人手は何人必要で資材はどんくらい、金はどれだけ要る?
     ──村の命を救う場所になる。すぐに動く。指示しろ、デク」

     雨粒は大きくなっていくのに、そばかすの顔にはぱああっ…!と晴れ渡るような明るい笑顔が浮かんだ。
    「す、すぐ計算するよ、設計書も…!」
    「急げよ。雨の月までには作っちまいてえから」
    「うん! ──あれっ…?」
     勢いよく立ち上がろうとした腰から、へなへなと力が抜けてふたたび座り込んでしまう。「あれ? あれ…?」と気ばかり焦るが、どうやら今になってようやく、疲れと衝撃とその他もろもろで出久の腰は休息を思い出してしまったらしい。
     瀬呂と切島に両脇を抱えられ、英雄はへろへろの締まらぬ姿で村へと帰還した。
     先に帰った上鳴が、あることないこと大仰にたっぷり宣伝してくれたおかげか為か、村は勇者の凱旋のような熱狂で出久を迎え入れた。
    「出久様…!」
     溺れかけた少女の両親が、出久の前に飛び出してきて額づいた。「やっ、ちょっ、いいですよそんな…!」、抱えられながらも慌てて起こそうとしても、夫婦は二人とも泣きながら礼を言い続け、顔を上げようとしない。
     村人たちも口々に、爆豪家の若い婿を褒めそやした。やれ勝己は見る目がさすがだの、これなら爆豪家も村も安泰だの──くすぐったくてどうにも居心地が悪い。
     大粒になってきた雨に打たれても、人々の熱狂は止みそうにない。出久ら一行を囲う人垣はますます増えていく。
    「あの、皆さん、雨ですからどうか中に…」
    「出久様、この雨っていつ止みますか?」
     無邪気な少女の問いかけ。母親はこれっ…!と娘を窘めたが、周囲は皆出久の言葉に興味津々で耳を大きくさせる。
     みどりの瞳が天を向く。言葉にならぬほど小さなつぶやきを聞き取れたものはいなかった。暫しののち、口をひらいた青年の目に宿る聡さの光に、村人たちはしんと黙り込む。

    「…多分夕方には止みます、空が白いから。だけどおそらく気温が下がりますから、お年寄りは冷え込みに気をつけて」

     そう言って、ぺこ、と不器用に下げた頭には、先刻よりもっと大きなうねりのような、ため息と称賛が寄せられた。出久様、出久様、もっと教えてください出久様…──!
    「あ~もうほらどいてどいて、とりあえず運んでやらねえと!」
     上鳴が先導して、人波をかき分けるのも一苦労しながら一行はようやく爆豪家の門をくぐった。人々は門や生け垣を取り囲み、もう少しでも英雄の姿を見ようと首を伸ばす。
     やや後ろから勝己はじっと、黙ったままかれらを見つめていた。 
     気配を消していたわけではない。が、誰もが出久に注目しすぎて、勝己には注意を払っていない。だから聞こえた。周りの声が。

    「出久様って学者様みたい…」
    「学者様なんじゃないの? 難しい勉強なさってきたんでしょ」
    「…素敵よね……思ってたより、ずっと素敵」
    「剣の練習してるんでしょ? …ね、今度こっそり見に行かない?」

    「ヒョロそうな野郎だな」
    「うまくやりやがって、何が『天気予報』だ」
    「どうせ当てずっぽうだろ」
    「剣の練習してるらしいじゃないか。…なあ、そのうち…」

     苛立ち、怒り、それにねじ伏せきれない殺気とで、そわっと背中の産毛が逆立つのを自分でも感じた。漏れ出た剣呑な気配のためか、ようやく男たちが勝己の存在に気づく。慌てて道を開けてへつらいの笑顔を見せる奴らには一瞥もくれない。女たちの顔も見たくもなかった。足早に歩いて戸をくぐり、「すぐに閉めろ」と門番に申し付ける。
     大玄関のほうでは光己と、それに勝も大騒ぎで出久を迎え出ていた。担架に乗せられた出久は「そんな、大げさです、大丈夫です…!」を連発して、無理に起きようとしてへなへな崩れては光己に「寝てなさいってもう、婿殿はぁ!」と叱られている。
     侍女らは騒ぎを遠巻きにして見ていた。噂はとっくに彼女たちの耳にも入っているのだろう、昨日や一昨日までとはまるでちがった目の色で出久を見つめている。
     心のもやを意識もできず、だから言葉にして吐き出すことさえままならず、痛むようなむかつくようなひたすらに胸を蝕む黒い感情を抱えながらひとり、
     まっすぐ、勝己は閨へと向かった。


           *


    「あれまあまあ、こんなに上手に腰が抜けるもんかねぇしかし」
     籠に乗せられ爆豪家へ急ぎやって来た長老は、客用の寝台にべったりへたばった出久の腰に手を当てて呆れ返った。よっぽど無理したんだねェと言われ、当の本人は恥じ入るしかない。
     確かに、きつい稽古の直後猛烈に山道を走り、川へ飛び込み泳いで子どもを救っておぶって帰ってきたのだ。同じことをさせれば体力自慢の切島だってへとへとになるだろう。それにしても見事なまでに立てなくなってしまった足腰を、長老はいつものあの不思議な力でふんわりと癒やしてくれた。
    「子どもらのことはありがとうさん。
     …けどね、何でもは、そう焦りなさんな。あんたにゃまだ先がある。ゆっくりでいいんだよ、ゆっくりで」
     噛んで含めるように言って、長老はぽんぽんと腰を叩いてくれた。
     夕餉を召し上がっていってくださいなと光己が誘い、「じゃあ呼ばれようかね、たまには」と応えたものだから、屋敷は饗応の支度ににわかに忙しくなる。
     出久はひとり寝台で、ようやく動き始めた腰をおそるおそる伸ばしたり縮めたりしながら、今日一日の疲れをほぐす。
     …なんだか大騒ぎになっちゃったけど、それでも、少しは役に立ててよかった。
     人を救う力がもし僕にもあるのなら、それは剣術ではなく、この身についた知識や技量なのかもしれなかった。
     ──扉が軽く二、三度叩かれた。はい? と返事をすると、

    「あ、えっ……と、…ユカさん?」
    「憶えていてくださったんですね。嬉しゅうございます、若旦那様」

     あの日と同じ出で立ちの、美貌のユカがにっこりと微笑みながら、水挿しに手桶をもって再び出久の前に現れた。
    「光己様に申し遣って参りました。お身体、お拭きいたします」
    「───は!? え!? …いやあの、だ、大丈夫です僕ひとりでできます、もう動けますし…!」
     とんでもないことをさらりと言われ、全力で壁際まで後退して首を振った。「身体を拭く」? 未婚女性が、こんな男の身体に触れる??
     いくらその、き、既婚者相手だからって、そんなことみだりに若い女性がしちゃいけない、させちゃいけない。
     ぶるぶるぶるぶる横に首を振り続ける出久に、ユカは「……それじゃ、お御足だけでも」としゃがみ、湯を桶にとぽとぽ注ぎ始めた。
    「い、いや、…でも…」
    「ご遠慮なさらないでくださいませ。私、そういうお仕事だって申し上げましたでしょう?」
     上目遣いの黒い瞳は、有無を言わさぬ力があった。
     私に恥をかかせないで。
     なぜかそう言われているようにも感じて、仕方なく、恐る恐る、背徳感を感じながらもそっと右足を出さざるを得ない。
     ユカは満足げに目を細めて男の足を受け取り、湯で濡らした布で丁寧に拭き始めた。たゆんと大きな胸の上あたりに足を捧げもつものだから、目のやり場に困ってとりあえず目をぎゅっと瞑る。
     ──…と、
    (…あ、…ん、……わあ……)
     先日もそうだったが、この侍女の手はなぜか気が遠くなるほど心地よい。やんわりと拭われ、穏やかに揉まれ、ひょっとすると眠りに引きずりこまれてしまいそうになる。
     あたりにはふんわりと香油の香りが満ち始めていた。
     これはなんだろう。レネの実のように爽やかに酸っぱく、上品なにおいだ。いつの間に焚かれた香りなのだろう。
     香りのもとを鼻でたどる。足元のほう、もっと言うならば、ユカの手から漂ってくる気がする。
    (……え?)
     目を開くと飛び込んでくる、艶のある黒髪と豊かな胸──じゃなくて、出久の右足を包むユカの手。淡くやさしく揉む指から、香りの源がふわりと風に乗りやってくる。なめらかに足裏を撫でるのは、湯の湿り気だけじゃない。
     芳しいオイルが指先から直に滴って、出久のごつごつとした右足を幾度も、幾度もしっとり刺激していた。

    「ユカさんって、……もしかして、『油香ゆか』さん?」
    「お察しのよろしいこと」

     侍女はくすりと瞳を三日月のように笑ませた。その瞬間、レネの実に似た香りが一段と部屋中に広がった。爽やかに甘く、ほんの少しの成熟を感じる。
     大人の香りだ。
     女のにおいだ。
     心臓が、大きく一度波打った。
    「若旦那様のお御足、とてもご丈夫。…ちょっと、多めにいたしますね」
     ぬるり、それまでより格段にたっぷりの香油が足を包んだ。指からにじむ油の量も、それから匂いも思いのままに調節できるとみえる。
     レネの実の香りに混じって、何かの花のにおいがし始めた。なんだろう、これはええと、……夜に咲く紫色の……
     ぎゅっと強めに押された足裏は痛くて、同時にその十倍気持ちがよくて、思わずため息を漏らしてしまう。
     どうしてかそわそわと下半身が落ち着かなくなってくる。花のかおりが、濃密になる。
    「あの──あの、えっと、油香さんはその、かっちゃ、……勝己様の足とかも、揉んであげたりするんですか…?」
     何か非常に気まずいものを感じて、つとめて明るく話題を振った。何か喋らなくちゃいけない、何か──ところでどうしてこの部屋には、周囲に誰の気配も感じないのだろう? まるで人払いでもされたみたいに、どうしてか油香と出久が、二人っきりになることが望まれでもしているみたいに。
     足を揉む手は止めぬまま、ふ、と油香はまつげを伏せた。
    「勝己様は火を操るお方だから、私の力とは相性がよろしくないんです」
    「…相性?」
    「ええ。…何度か揉ませていただこうとしたんですけれど、いつも、『てめえの指が燃えたらどうすんだ、危ねえから俺に近寄ンな!』……って」
     お優しいですよね、と侍女は小さく付け足した。温度のない口ぶりだった。
    「お役に立ちたいけどそばにも寄らせていただけなくて、わたし、寂しくて」
    「はあ、……」
    「この力を見込まれて爆豪家で雇って頂いているのに、このままじゃ私、何もできない女になってしまいますでしょう。それが悲しくて、虚しくて仕方ないんです」
    「…それは、…うん、…大変ですね…」
    「そう思っていただけます? …やっぱりお優しいんですね、出久様って。
     ……勝己様の代わりに、どうぞ出久様が使ってくださいませ、私のこと」
    「はあ、────…ふぇ?」

     さらりと凄いことを言われた。「使う」って、……え、…「使う」、って?

     油香はおそろしく美しく、またおそろしく賢くもあった。きょとんとした出久の顔色から、今はこれ以上迫るべき時ではないと察し、あっさり手を離し湯で足を拭って揉み療治を終わらせてくれた。
     しかし去り際、あの悩ましげな微笑みを浮かべながら

    「いつでもお呼びいただければ参ります。朝でも、…夜でも」

     わざとのように胸を、尻をふるりと揺らし、薄黄色の裾を翻して足音も立てずに去っていった。
    (……………は、………?)
     驚きすぎると人は、言葉どころか思考を忘れる。
     何だったんだ、今の。
     何だったんだユカさん、いや、油香さん。
    (…「使う」…?)
     彼女の言葉が胸で燻り続ける。まるで火種だ。
     僕の気のせいじゃなければ今のは──いわゆる、「迫られた」みたいに見えたのだけど──…そんなわけない、そんなこと今までの人生で一度だってなかったし。

     ──だからってこれからも無いとは限らない。

     …てことはつまりやっぱりあれは、いやそんな、でもしかし、うーん………
     廊下を渡り離れへと進む道すがら、延々ブツブツもごもご口の中で分析を続けていた出久は予想だにしなかった。
     ようやくたどり着いた寝所の中に、もっと強烈な火種が待っていたことを。

    「ただい──わっ!?」

     閨の扉を開けた瞬間、真っ黒い物体が顔面目がけて飛んできた。危うく避けたが頬を少しかすめて、重たい何かは外の地面にドサッ…!と落ちる。
    「な……え、…ら、ランプ!?」
     灯こそ付いてはいなかったが、だからといって危なくないわけではない。むしろ普通に凶器だ。そんなものを投げつけてくる相手も、中にいるはずなのもただ一人。
    「な、…何するの、かっちゃん!」
    「──外したか。クソが」
    「あっ、あ、危ないでしょ、ぶつかったらどうすんのさ、どうしてそんな──」
    「入るんじゃねえ!!!」
     ブン!と今度は桶が飛んできた。避けきれなくて横っ面に当たり、痛みに思わずうずくまる。
     勝己は閨の真ん中で、紅蓮の炎を背負いながら仁王立ちしている。見間違いじゃない、本物の炎だ。本気で熱い。揉まれたオイルがまだ残る足が、炙られるようにじりりと熱い。
    「よその女のニオイぷんぷんさせて閨に来るたぁいい度胸だな」
    「───え、……あっ!!」
     焦げるほどの熱のなか、全身の血がザッと音を立てて垂直落下していった。
     熱がこもればこもるほど、足からレネの香りが匂い立つ。香りは熱によって増幅し、舞い上がり、立ち込めるものだから──そんな理論的なこと言ってる場合じゃない、ない、全然ない、まったくもって今じゃない!
    「こ、──これはちが──違わないけど違う、違うんだよ、かっちゃん…!」
    「シね、クソッタレの浮気野郎!!!!!」
     どえらい勢いで飛んできた水差しがまともに腹にぶち当たり、「フゴッ…!」と間抜けな声を漏らしながら出久はその場に横ざまに倒れた。力いっぱい閉められた扉のせいで、寝所の建物全体が揺れる。
     ひっくり返った水差しからこぼれた水で、床も、壁も、それからひっくり返った出久もびしょびしょに濡れそぼってゆく。
     どれだけそこに倒れていただろう、手を貸してくれたのは意外な人物だった。

    「…え、おい、緑谷か?」

     夜警用の松明をもった瀬呂が、半信半疑のようすで近づいてくる。
     閨の外で、いちおうは若旦那の立場の人間が、びしょ濡れのずたぼろでひっくり返っていたらそりゃ誰だって疑うだろう、正気かと。
     瀬呂はとにかく機転の効く男で、さまざまな情況から「とりあえず何かがあった」ことだけは察してくれた。肩を貸して立たせ、人気の少ない夜警の休憩所に出久を案内してくれる。
    「…で? どったのよ」
    「…うぅ……実は…」
     貸してくれた服に着替えながら、この一刻にあったことをぽつり、ぽつりと語ってみる。
     聡い男はふんふんと、余計な口を差し挟まずに、ただ黙って話を聞いてくれた。

    「……それで、かっちゃんのことまた怒らせちゃって……僕、そんなことばっかりなんだ。ちっとも、何も上手にできない。成り行きでかっちゃんの旦那様になっちゃったけど、ほんとに、こんなんじゃ、ふさわしくないどころかかっちゃんを傷つけてばっかりで、どうしたらいいか……」

    「…難儀だねえ、ホントにさ。ま、飲めよ」
     出久の目の前にカップが差し出される。飴湯だ。素直にひとくち飲むと、優しい甘さが胃を、からだを、心をふわりと温めていった。
    「『自分はふさわしくない』って、緑谷は思うんだな」
    「…だって、そうじゃない? 剣もまだまだだし、…かっちゃんの気持ちも考えないで、バカなこともやっちゃうし」
    「爆豪が傷ついたって思うの?」
    「…? だってあんな怒ってたから、………え、傷ついてないの?」
    「いや? 傷ついただろ。でもさぁ、なんで傷ついたんだと思う?」
     ──『なんで』? 
     思わぬ問いに目が覚めるようだった。なんで傷つくのかって、…それは、傷ついたからに決まってる。

    (だから、それが、『なんで』?)

     深淵のような質問に、口に手を当てて黙り込む。『なんで』? なんで、勝己は怒るんだろう。泣くんだろう。頬を赤らめたり、傷ついた表情で涙ぐむのは、何故なんだろう──…?
    「緑谷が本当にマジでふさわしくない野郎なら、そもそも閨に近寄れもしねえし、バカなことやろうが浮気しようが、別に爆豪は怒りも傷つきもしねえと思うけどね」
     飴湯を一口こくりと飲んで、瀬呂はふう、と息を吐く。
     力と情熱の切島、明るさと惹きつける力の上鳴に比べ、この男はともすると地味なだけの佇まいに見える。
     けれど穏やかな聡明さは、他の誰にも持ち得ない彼の武器と魅力であった。
    「稽古、きついだろ」
     唐突に変わった話にへどもどと頷くと、
    「ホントによくやってると思うぜ緑谷は。みんな褒めてる。俺も凄ぇと思ってる。
     ……んでね、ついでといっちゃあなんだけど、
     わざときつくしてる爆豪の気持ちも、分かってやって欲しいんだよね」
    「かっちゃんの、……気持ち?」
    「お前のやってる稽古って、普通のやつの三倍くらい速くて重くてキツイ内容だって気がついてた?」
    「──え、え、そうなの?!」
    「そーなのよねー。……でもそれって、あいつなりの優しさだと思うんだよなぁ。
     緑谷があいつに勝ったのって、結構まあ、言っちまえば偶然みてーなところもあっただろ?」
     どきりとする。ここにも一人、あの試合の事実を知る者がいた。
     観念して重々しく頷くと、「ンな困った顔すんなって。いいんだよ、責めてるわけじゃねえから」、朗らかに笑って、大きな手で背をやさしく叩いてくれる瀬呂。
    「あれな、見るやつが見れば、どうも強さだけで勝ったわけじゃねえって気づいちまう試合だった。俺が気づいたくらいだからね?
     …でもそれじゃ、爆豪は嫌なんだよ。
     偶然じゃなくて、自分が弱えからでもなくて、緑谷が強ぇから負けたんだって──誰にも文句なんか言わせたくねえって、あいつ思ってんだよ。きっとね」
     随分焦って鍛えようとするから、無理すんなと三人でこっそり諌めることもあるのだという。出久をじゃない、勝己をだ。
    「緑谷が戻ってきてからさ、あいつってば焦ったり怒ったり怒鳴ったり、まあー忙しいったらねえのよ。どうどう、落ち着けっていうこっちも大変よ? ここ数年は笑うのも泣くのも忘れて、ひたすら剣ばっかりやってたのにな。
     …お前が居ない間の爆豪と、今の爆豪と、どっちがホントのあいつなのかね」
     俺にはちっともわからんけども、と、瀬呂はまた一口飴湯を飲んだ。
     怒る勝己。怒鳴る勝己。戦う勝己。何にでも懸命な、勝己。
     しろい肌を出久に見せて、間違いだらけだったとしても、それでも、「捧げた」気持ちに嘘いつわりはひとかけらもなかった、あの、勝己。
     それほど勝己が必死な理由を──出久のために動く理由を、
     はっきりと言葉にしていいかわからなくて、何も言えず、頬ばかり熱くなる。
     そわ、と足が震えはじめる。ぎゅっと拳を握って耐える。けれど動く、動いてしまう。
     ──僕、帰りたい。……実家にじゃない。あの部屋へ。

     かっちゃんが、もしかすると今も、一人ぼっちで怒って寝ないままでいるかもしれない、あの部屋へ。

     出久の貧乏ゆすりには何も触れず、カップを手の中でいじりながら瀬呂は言う。
    「まあ、さ──稽古ばっかじゃ色気もねえし、たまにゃデートにでも連れてってやったら?」
    「で、で、デート!?!?」
    「そうそ。上鳴も言ってたぜ? 水辺とか花畑とかいいんじゃねえかって。うちの姫さんそーゆー知識は皆無なもんで、ひとつエスコート頼むわ、ダンナ様」
     僕だってそんなの分からない──だけど、だけど、
    「……か、…かっちゃん、……喜んでくれるかな…?」
    「そりゃもちろん。愛するダンナ様の誘いだもんよ」、のっぽの男はしゃらりと笑って、それからふと思い出したように「高ぇところも好きなはずだぜ」と付け足した。

    「木の上とか高台とか、よく登っちゃ黙ーって何刻も遠くを見てたからさ。
     ……瀬呂クンが思うにありゃ、街の方を見てたんじゃねえかなあなんて、──おっと、憶測でモノ言っちゃあいけねーよな?」

     ナイショな、と人差し指を立て片目を瞑る仕草に、そういえば村でいちばんモテるのは瀬呂くんだった、と妙なところで記憶の回路がつながった。
     地味めな顔立ちの伊達男は、よいしょと立ち上がって「そろそろ二度目の見回り行くわ」と帽子を手に取る。
     つられて立ち上がる出久より、ずっと高い背の、逞しい若い男。
     そのまなざしはいつも静かで、透き通るようにこちらを見つめる。目だけでなく心の奥まで、読み取るように鋭く、やさしく。

    「…あいつを頼んだぜ。緑谷にだから、頼めんだ」

     穏やかな表情のその下に、もの言わず横たわる淡い影。
     切島にも、そして上鳴にも、同じ影が浮かぶときがあることを出久は知っている。
     かつて自分も目のなかに、心のなかに、同じようにそれを飼っていた。
     勝己を見つめるそのときに、一瞬だけ濃く滲んでしまう、影。

    「……瀬呂くん。瀬呂くんはもしかして、かっちゃんのことを──」
     
     しい、と今度は人差し指を出久の口の前に立て、やさしい男は静かに微笑む。

    「それは言いっこナシって、俺ら三人、決めてんだ」
     だから、言わないでくれ、お前も。

     ドォ…ンと遠くで太鼓が鳴った。見張りの交代の合図だ。帽子を頭にひょいと乗せ、いつもの飄々とした笑顔で瀬呂は「んじゃ、行きますか」と戸を開ける。

    「俺は見回り、緑谷は──もっぺん閨に行ってあげてくんないすかね? 怒ったまんまじゃ寝れねえんだ、俺らの姫さんはね」


           *


     ねやは周囲の闇に飲まれ、しんと静まり返っていた。
     入り口に灯された明かりがなければ、そこに在ることすら分からないほど気配がない。
     …もしかしてあの後、怒って母屋のほうに帰ってしまって、寝台はがらんと冷えているのだろうか。
    「……かっちゃん?」
     虫の音より微かに呼んで、そっと、戸を開けてみる。意外なほどするりと開いた戸の向こうも、やはり色のない闇に沈んでいた。
     わずかな月と星の明かりに目も慣れて、次第に部屋の中が見えてくる。
     奥の寝台の上、乗せられた上掛けが膨らんでいる。──ほっと小さく息を吐いた。
     けれど膨らみは寝台のいちばん端、これ以上寄れないくらいぎりぎりの壁際で背を向けている。
     寝息は聞こえない。…起きているんだろう、多分。
     かっちゃん、ともう一度呼ぼうとして、ふと、目の端をかすめた光に振り向く。
     テーブルの上、小さな手桶が置いてあった。中には布と、何やら光る瓶が雑に投げ込まれている。瓶は天窓の星あかりを受け、わずかにとろりと内から輝いた。
     香油の瓶だ。

    「───……!」

     瓶を掴んで、「…かっちゃん!」と、本当はもっと小さい声にするはずが我慢しきれず呼んでしまった。
     寝台の上、布団のなかの勝己は身じろぎもしない。
     だけど、居る。そこに居る。僕の、──僕のかっちゃんが、ここにいる。
    「かっちゃん、これ、…この香油、僕のため? かっちゃんが用意してくれたの? …心配してくれたの、僕を? 
     ………ありがとう、…すごく嬉しい!」
    「──調子乗ってんじゃねえわ、クソデク」
     がばっと上掛けを蹴飛ばすように、勝己が姿を現した。
     差し込む月光がちょうど髪に触れ、金よりむしろ白に近く淡く光る。
     常より吊った目尻は怒っている証拠だ。
     けれどそれより、こすり過ぎて腫れた目元に、愛おしさが加速度で膨れ上がる。
     ぐっと唇を噛んだのは、抱き潰してしまうのを耐えるためだった。けれど勝己は「…言い訳もできねえんか、クソが」と都合悪く解釈し、悪態をついた。
    「デレデレしやがって──誰にでもヘラヘラにこにこお愛想ばっかで、侍女連中にゃすっかり人気者だわ。村の女もみんなてめえに夢中でよ、……モテてよかったなぁ、これで選び放題じゃねえか」
     わっとまくしたてられ圧倒されながら、気になる言葉に引っかかる。

    「選ぶ、って……何を?」
    「──…知らねえんか?」

     今度は勝己のほうが虚を突かれた顔をした。
     むぅと口を曲げて、「…そのうち嫌でも分かるわ」とだけ吐き捨てる。ついでに「……嫌、じゃねえかもな。…お前スケベだし」などというから、ついに我慢の限界がきた。
     寝台に香油の瓶を放って、ぐっと身を乗り出し身体を近づける。勝己は驚いてひっぱたこうと手を上げたが、一瞬の十分の一の刹那、躊躇したように動きを止めた。

    「た、確かにその、…す、すけべなのは認めるけども!
     ……でも僕がそういうこと思うのは、か、かっちゃんだけなんだよ…!?」

     息もかかるほどそばにいて、互いの鼓動がする。においがする。
     油香のオイルの香りはもう消えて、ただ愚直な、少し汗ばんだ匂いの出久。
     湯浴み後のほのかな泡と、花めいた香りと、同じように少し汗ばむ勝己。
     目の前にいるのは男だ。そして、女だ。ごくり、唾を飲んだのはきっと出久だけじゃない。
    「……かっちゃん、」
    「……寄んなボケ、…浮気モン、…」
    「浮気なんかしない。するわけない。僕が好きなのはかっちゃんだけだ」
    「……どーだか」
     ふいとそらした目、尖った唇。怒っているというよりむしろ拗ねて──妬いているほのかな紅色に、たまらず出久は唇を重ねた。
    「ンっ……ん、…っ…!」
     突然抱きすくめられ、胸のなかで勝己がもがく。ああ、やっぱり、思ったよりずっと細くてちいさい。しっかりした体つきなのに、抱きしめるとなんてやわらかなんだろう──
     夢中で合わせる唇の、合間あいまに勝己は「やっ、…」と焦るように声を漏らす。息が愛しい。声まで舐めたい。

    「…かっちゃん、かっちゃん…!」
    「…やめろ! ガキが、」
    「できないよ」

     見つめ合う。
     距離などない。
     赤い瞳のすぐそばで、みどりの瞳が覗き込む。
     かさついた男の唇がそっと、額に触れる。…こどもができてしまう、また。微かな怯えと甘苦しさが、胸をおののかせる。
     だけどデクは言う、「キスじゃ子どもはできない」と。
     そんなはずない、そんなはずがない。このあいだの初夜はきっとタイミングが悪くて、だから月のが来てしまっただけだ。今のキスならきっと出来てしまう。そうだろ?といくら聞いても、みどりの目は頑なに「違う」としか言ってくれなかった。
    「キスじゃ子どもはできないんだ。…こうやって、どんなに優しく触っても、それだけじゃ子どもはできない」
     髪が指に触れる。触れるたび、梳かれるたび、身体の奥が芯から潤んでどうにかなってしまいそうだ。こんなに腹が熱いのに──初夜のときだってそうだったのに、──…どうして?
     胸の中で疑問が、雪の大地を踏みまわって遊ぶ子どもらのように跳ね回る。無垢な雪原は踏み荒らされて、足跡だらけで、もうぐちゃぐちゃだ。
     抱きしめながらデクが囁く。…こんなにくっついて黙って居ても、それでも、子どもは出来ないなんて。
    「かっちゃん。…夫婦はね、…その、……ま、…まぐわって、初めて子ができるんだ」
    「まぐわ、…?」
    「動物の交尾、見たことあるでしょ」
    「…あるけど、あれは動物だろ」
    「人間も動物なんだよ。同じなんだ。
    その、……僕の…チ…を、こないだ、み、見たでしょ? あの、なんていうか硬いのを、…君のなかに、その……」
    「…俺のどこに入れんだよ。入れるとこなんかねえだろ」
     なぜかデクは真っ赤の大汗をかきながら、ぐああ…!とくせっ毛を掻きむしった。
     交尾を思い出せとしきりに言うから、去年の春に見た馬同士のを思い描いたが、やっぱりどうしてもあんなでかい穴は自分にはない。
    「あ、あるよ‼ いや最初から大きいわけじゃなくて、まず場所は前の穴とうしろの穴があるでしょ、そのあいだにもういっこ穴があって──
     …それから入れるには、そ、その真ん中のところを舐め、ちがう、よく触っ……と、とにかく濡らしてや、柔らかくなるようにしてですね……!」
     必死のデクにだんだんつられて、真剣に勝己も考えるようにはなってきた。
     デクは何かを自分に伝えようとしている。何か、とても大切な、勝己がまったく知らなかった何かを。
     月と星あかりの下、寝台の上で延々、延々ふたりはああでもないこうでもないを繰り返した。滝のような汗を背にびっしょりかいた出久に、最終的に勝己が出した結論は無慈悲なものだった。

    「……………どんなことしたって入るわけねえだろ、あんなデケえもんが」

     ぐうっ…!と前かがみになる出久に、
    「さっきからずっと思っとンだけど、なんで屈むんだ? 腹痛ぇんか」
    「いやこれはそのちょっと違くて、君にデカいとか言われちゃうと妙にクるといいますか思い出して高ぶってしまうといいますか……!」
    「は?」
     天窓からゆっくり月が消えていく。今は何刻なのだろう。
     夢中になって話してしまった、出久相手に。…そんなこと、もう、何年ぶりだろう。
     見上げる窓には星のきらめき。春から夏へ星座はうつりゆく。どんなに季節がめぐっても、隣にいる幼馴染との関係は一生変えられないと思っていた。
     けれど今、夜中の寝台の上にふたりは並んで、一緒に星を見上げている。
    「……きれいだね」
    「…ん、」
    「………あのさ。…なんか、いっぱい言っちゃってごめんね。よく分かんなかったよね。
     …僕、焦ったりしないから。君が受け入れられるようになるまで、時間かけて、いくらだって待つから」
     そっと、手に手が重ねられた。
     ──ガキができる。反射的にそう思ってしまうが、どうもそうではないらしい。
     確かに動物も、触れ合うだけでは子ができない。大事なところを見せあっても、キスまでしても、それでもそれだけじゃ子は為せない。
     「まぐわい」という大切なこと。それは、今の勝己が行うにはまだ早いと出久は判断したらしい。…確かに、悔しいが今は新しい知識で頭がいっぱいで、この上さらに新たなことをしろと言われてもとてもうまくやれそうにない。
     ムカつくが正直に小さく言うと、「そうだよね」と出久は優しく頷いて、重ねた手をぎゅっと握った。
     温かかった。とても、すごく。
    「大事なことだから、ゆっくり、一緒に、していこう。
     僕がそういうことしたいのは、本当に心の底から、君ひとりだけだよ」
     手を捧げもたれ、ちゅ、と淡く口付けられた。
     抵抗しない勝己を見つめて、もう少し、出久がそばに寄る。──体温を感じる。
     不意に、ひどく怖くて逃げたくなった。…なんでだ? デクなんざちっとも怖くねえ。俺のが強えし、実は寝台の下に護身用の剣だって隠してある。
    (…今のは、そういう「恐い」じゃねえ)
     怖いのに触れたい。怖いのに知りたい。怖いのにそばに居たい。出久の、そばに居たい。
     肩を抱かれた。…何も言えない。
     そっと、頬に唇が寄せられる。……ガキは、できない。だけどひどく腹が熱くなるのはどうしてだろう。腹というよりもっと奥の、ずっと下が、濡れたようにじわりと熱を孕んでしまうのを、どうして今まで誰も教えてくれなかったんだろう。
    「…かっちゃん、」
     顎に触れられ、出久のほうを向かされる。重ねられる唇。…かさついてて、…少し大きくて、

    (……食われ、そう…)
     また、じゅん…と奥が熱く濡れた。

    「……キスしてもガキはできねえの?」
    「…できないね」
    「…じゃ、…する意味って、なに?」
    「キスは、…好き、って気持ちを伝えるのに、すごく大事なことなんだ」
    「お前、…おれを、……好きなんか?」
    「だからこうしてここにいるんだ。……好きだよ、かっちゃん」
     唇を重ね合い、合間につむぐ言葉は甘い。吐息と一緒にキスをして、ちゅ、ちゅ…と淡い音ばかり高鳴る。
     抱き寄せられた腰が、もっと、もっとそばに寄りたいと出久に引き寄せられていく。
     手が熱い。目が熱い。口が、息が、鼓動が熱い。
     「…好きだ」、出久の、ことばが、熱い。──欲しい。もっと、…いっぱい、…欲しい。

    「好きだ、…君がすき、大好き。
     …香油用意しててくれて嬉しかった。僕のこと思ってくれて嬉しい。君のぜんぶが可愛い、……めちゃくちゃに、君のことだけがこんなに、こんなに……!」
    「───……もう、…よせ、…やだ…!」

     くらむ目を閉じ、無理に手のひらで夫の胸を押す。
     離れたくないと腹の底が叫んでいた。だけどもう怖い、なんだか分からないけど、だけど怖い。今は、もう、無理だ。
     「…ごめん、」と出久は謝るけれど、何も謝ってほしくなんてなくて、ただぐちゃぐちゃの頭で勝己は首を振るしかできなかった。
     風の月の夜明けは早い。今は夜明け前のいちばん暗い時間。星も窓から見えなくなって、暗闇のなかに逃げ込むように上掛けのなかに潜り込んだ。
     鼓動が早い。走ったわけでも、戦ったわけでもまるでない。キスして触れて、ただそれだけで、何がこんなに心を逸らせるのかひとつも、かけらも分からない─── 

     それが、こわい。

     「…僕、別で寝ようか?」と遠慮がちな声が背中でする。言葉で何も返せないから、わずかに、けれど幾度も首を横に振り続けた。
     赤ん坊みたいなサインをけれど出久は分かってくれて、「…ありがとう」と寝台の横が軋む。
     背中に出久の熱を感じる。
     振り向いて抱きついて、もう一度キスをしたらどんなふうになるだろう。
    (…………いや、)
     唇を噛み、自分を抱きしめて勝己は目を固く閉じた。
     キスだけであれほど甘く苦しいなら、抱かれて眠るなんて、きっと息さえできない。


     村の娘たちも侍女も皆、今日の出来事で出久を見る目の色を変えていた。
     女なんていやらしい。自分は違うと思っていたのに、
     今出久を見る自分の目の色だって、きっと今までとは違ってしまっている。
     それがせつなくて、寂しくて悔しくて、
     けれど甘くて、今夜はもう、眠れそうにない。





    【つづく】
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