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    kinuo_3

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    雑伊/現パロ

    焼肉地獄変 四角く切り取られた空は鈍色に塗りこめられている。アナログ時計の指す二時という時間を見ても決して昼には見えない。伊作の健やかな皮膚は血色もよく、ぬくいシーツの海と混じり、白桃のように柔らかなマットレスに沈んでいる。不意に犬が唸るようなぐう、という音がどこからか聞こえて、雑渡はゆっくりと身体を起こした。包帯の隙間の赤銅色が、蛍光灯の光を鈍く反射する。
    「おなか鳴いたね」
     可愛らしい言葉選びとは正反対の、静寂に溶けてしまいそうな掠れた低い声だった。伊作はゆるゆると目を開けて空っぽの胃を体の上から押さえた。
    「カップラーメンでも作ろうかな」
    「いや、焼き肉に行こう」
    「こんな時間に?」
    「こんな時間だから、おいしいんだよ」
     雑渡はそう言って、こともなげに笑った。
     
     大通りを一本渡ると繁華街に出る。昼と見紛うネオンライトの下で着飾った女や客引きの男がビルの前を行き来し、まるで熱帯魚の水槽のようだ。その中でTシャツにスウェットパンツの伊作だけが本物の人間だった。
     雑居ビルの二階に階段で上がり、べとついているような気がするガラスの引き戸を開けると、脂と炭の匂いの空気がむわりと頰を撫でる。客はまばらで、皆、世界の終わりか始まりのように黙々と肉を焼いていた。
     奥のテーブル席に案内され、向かい合って座る。雑渡はまずビールを頼み、それからキムチの盛り合わせを注文した。伊作はメニューを眺め、ロース、カルビ、ハラミ、と指でなぞってから、「あと、大盛りのごはんをお願いします」と店員に告げた。
     すぐに、七輪が運ばれてくる。赤く熾った炭が、ゆらゆらと影を揺らす。雑渡の顔の火傷の痕が、その赤い光に照らされて、普段よりも深く、濃く見える。伊作はそれから目を逸らすように、テーブルの上の水の入ったコップを眺めた。表面に結露した水滴が、一筋、テーブルへと流れ落ちていく。
     初めにビールが来て、酌をしようとする伊作を手で制し雑渡はそれを手酌で注いだ。が次々と狭いテーブルの面積を占めていき、最後に伊作の前に湯気の立つどんぶりに山盛りの白米が置かれる。こんな時間に食べるなど体に良くないと分かっているのに独特の香りの湯気は伊作の摂食中枢を的確に刺激し、胃を猛烈に働かせ始める。
     雑渡は肉を全くと言っていいほど食べなかった。届いた肉の皿からカルビを二枚トングでつまみ上げ、網の上に乗せる。じゅう、と肉の焼ける音が花火の散る音のように響いた。脂肪が溶けて炭の上に落ち、ぱっと小さな炎が上がる。雑渡はそれを見つめ、完璧なタイミングで肉を裏返した。香ばしい匂いが立ち上る。
    「ほら」
     焼けた肉は、伊作の皿の上に乗せられた。タレの焦げた、甘辛い匂い。伊作はそれを白米の上に一度乗せ、米にたっぷりと肉とタレを吸わせてから口に運んだ。肉は噛み応えがあり、噛めば噛むほど旨味のある肉汁がじわりと広がる。すかさず、真っ白なごはんをかきこむ。口の中で、肉と米が混ざり合い、完成された味がした。幸福とはこういう味のことかもしれない。
     雑渡はまた新しい肉を網に乗せながら、キムチをぽりぽりと齧っている。ビールを飲み、伊作が食べるのを見ている。煙の向こうのその目が、ひどく優しいことを伊作は知っていた。
    「雑渡さんも食べてくださいね」
    「うん」
     生返事と共に次々と、雑渡が焼いた肉が伊作の皿に運ばれてくる。ロースの肉々しい旨味。ハラミの詰まったような歯ごたえ。レバー、ミノと追加でオーダーする。こっそりと雑渡の方のキムチに箸を伸ばすと笑いながら皿を寄せてくれる。伊作は夢中で食べた。どんぶりの白米が、面白いように減っていく。

     ──雑渡さんの、焼けた皮膚は、どんな味がするのだろう。
    火傷の痕。引き攣れ、ケロイド状になった、あの部分。そこはきっと、他の皮膚とは違う。熱によってたんぱく質が一度変質している。網の上で焼かれ、余分な脂肪を落とし、旨味を凝縮させたこの肉の切れ端とどこか似ているのかもしれない。
     もし、あの皮膚をほんの少しだけ口に含んだなら。
     伊作は、カルビの脂身の、黒く焦げた部分を歯でそっと噛み切った。カリ、とした食感。苦い、よく言えば香ばしい味。
     彼の皮膚もこんなふうに香ばしくて苦いのだろうか。
    「……どうかしたかい」
     雑渡の声で、伊作は我に返った。いつの間にか、じっと雑渡の顔を見つめてしまっていたらしい。
    「いえ」
     伊作は首を振って、どんぶりに残った最後の一口をかきこんだ。
    「とても、美味しいです」
     そう言うと、雑渡は少しだけ目を細めて、「そう」とだけ答えて、新しい肉を一枚、網の真ん中にそっと置いた。
     七輪の中で炭が地獄のような赤く燃え、肉の表面がぶくぶくと泡立っている。
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