「ケイゴ、指輪作るか」
なんの予定もない土曜の昼だった。遅く起きて、モリヒトが作ったチャーハンを向かい合って食べていた。オイスターソースとウスターソースを両方使うのがキモなんだと炒飯の蘊蓄を一通り話したあとに、モリヒトは指輪を作ろう、と言った。
指輪?と思わず聞き返そうとして、せまいリビングの棚の上に置いてある卓上カレンダーが目に入って、ひとり納得した。モリヒトと友達以上の関係になってから、ちょうど十年くらい経つ時期だ。自信はないけど、たぶん。
「いいんじゃない」
モリヒトは区切りとかそういうのを大事にする人だから、モリヒトが今作るというなら、今がちょうど良いのだろう。なんのためにとか、どういう意味のとか、そんなことは聞かない。聞いたってその指輪がオレたちを証明する道具になることはないのだし、オレたちはオレたちを誰かに証明するつもりはない。ただ、モリヒトから言ってくれたことが嬉しかった。揃いの指輪を嵌めようと、思ってくれたことが嬉しかった。
そうしてオレとモリヒトはしばらくの間、雑誌を見たりネットを見たりお気に入りのアンティークショップに足を運んでみたりして、あれでもないこれでもないと互いの指に似合う輪っかを探した。指輪をこんなに真剣に選んだのは初めてだ。自室に置いてあるアクセサリーケースには今まで買い揃えたものがいくつも並んでいて、もちろんどれも気に入っているけれど、毎日身につけるとなると話は別だ。ましてやモリヒトの指にも同じものが嵌るのかと思うと、選定は難航した。
「もういっそ自分で作ればいいんじゃない?」
何度目かの休みに買い物帰りに立ち寄ったジュエリーショップを手ぶらで出たあと、オレは何の気無しにそう言った。
ショーケースに並ぶ指輪は、どれも美しく光り輝いていた。接客の行き届いた店員さんはオレたちにもごく当たり前に、素晴らしく高価な指輪を丁寧に勧めてくれたけれど、その眩しさはどうにもしっくりこなかった。それまで難しい顔をしていたモリヒトはオレの言葉を聞いてみるみるうちに目が輝いて、「アリだな」と呟いた。
こうなってからは早いのをオレは知っている。モリヒトは二人きりの家に帰っていつもの通り美味しい夕食、今日のメニューは八宝菜だ、を作って一緒に食べた後、美味しいコーヒーを飲みながら夢中でパソコンに向かった。
そんなのが何日間か続いた後に、リビングのソファで食後のコーヒーを飲むオレの前にモリヒトがやってきた。目を爛々とさせて差し出したのは、三つ折りの薄いパンフレットのようなもの。それには小さな彫金工房の案内が書かれていた。
「彫金制作、手作りの指輪作れます、当日持ち帰りも可」
広げた紙に並んだ文字列の中から、おそらくモリヒトが提示したい部分を声に出してみる。モリヒトは満足げに頷いてから隣に座って、「この工房で作らないか?」とやっぱり目をきらきらさせて言った。その顔がもう可愛くて、ノーの選択肢などない。そもそもオレ自身には大した拘りなんてなく、いやそれなりの拘りはあるけれど、それより大事なものもある。モリヒトが良いと言うのなら、銀座のど真ん中のハイブラだって山奥の工房だってどこだって行くよ。一緒にね。
最初にモリヒトが指輪を作ろう、と持ちかけた土曜日から、ずいぶん間が空いてしまった。けれどおかげで小旅行にはちょうど良い季節になって、暑くもなく寒くもない四季の移り変わりのほんの狭間に、オレたちは指輪を作りに来た。
新幹線に電車とバスを乗り継いで数時間かかる場所だ。どうせ行くならゆっくり観光もしようと、思ったより大掛かりな計画になって二人の休みを合わせるのに苦労した。社会人になってからはお互い仕事も忙しく、こうして旅行に来るのは本当に久しぶりだ。
前日にそれぞれの部屋で荷造りしたのを結局リビングでもう一度ひっくり返して、モリヒトが二個のスーツケースを一つに纏め直している瞬間、このまま時が止まれば良いのにと思った。こういう些細な日常の一瞬がいつだってオレの胸をぎゅうと締め付けて、いつだって忘れないように目に焼き付けているはずなのに、十年も経てばそのどれもが風化してあらゆる思い出の中に溶けてしまう。
ああ、だから指輪が必要なのかも。
記憶に閉じ込めるにはあんまりたくさんある小さな思い出を、すぐ忘れてしまうくせにそれに縋っているのだから、そういうことの積み重ねがずっと指を締め付けているというのは、すごく安心で幸せなことなのかもしれない。オレが漸くこの旅行の意味をオレなりに飲み込んだときには、モリヒトはすっかり荷造りを終えて、四日間不在にする冷蔵庫の中身を整理していた。
モリヒトはレシピやマニュアルがあるものはすこぶる得意だけど、ゼロから作り出す創作物は実はそんなに得意じゃない。高校時代、美術だけはオレの方が褒められることが多かった。テストの点は良くなかったから、成績はもちろんモリヒトの方が上だったけど。その法則は指輪作りにも適用されたらしい。
優しそうなご夫婦が営む彫金工房を訪れたオレたちは、数時間掛けて小さな輪っかを作り上げた。サイズを決めるときに、互いの左手の薬指を差し出して計測したのが人生で一番照れた瞬間かもしれない。けれど出来上がった指輪を見てモリヒトは眉を顰めている。
「なんかオレのやつヘンじゃないか?」
ご夫婦の丁寧なレクチャーにより立派な指輪が仕上がったけれど、二つ並べてみたら確かにオレが作ったやつの方がつるりとしている。
「上手にできてるよ」
お世辞ではなく、本心だ。少しいびつだけれど、手作りならではの味があってすごく良いと思う。
モリヒトがオレの指輪を、オレがモリヒトの指輪をそれぞれ作ったから、モリヒトが眉を顰めて見つめているこの指輪はオレが嵌めるものだ。
「……作り直す」
「えっ!?これでいいよ!!」
「でも、」
こういう時に言い出したらきかないことも良く知ってる。けれどここは折れちゃいけない。オレはすでに、モリヒトが一生懸命作ったこの少しいびつな指輪に愛着が湧いている。
「モリヒト、一緒に作ったことに意味があるの!オレがこれがいいって言ってるんだからいいんだよ!わかった?」
「……ケイゴがそういうなら、まあ」
モリヒトの目をしっかり見据えて説得すれば、渋々頷いて納得した。それからモリヒトはオレが作った指輪を手に取り、光にかざしてまじまじと眺めた。
「ケイゴが作ったのは本当に綺麗だな」
そう呟いたモリヒトの瞳がどのショップで見た宝石よりもきらきらしていて、オレはこんなに綺麗なものをもらっていいのだろうかと、すこしだけ怖くなった。今脳裏に深く刻まれたこの瞬間は、指輪を見るたびに思い出すことができるのだろうか。だったらいいな、と思う。
モリヒトが作った指輪は、嵌めてみたら思いのほか指に馴染んだ。なんとなく、この先十年くらいはこの指にあるんだろうなあと漠然と思える、そんな馴染み方だった。
「モリヒトもしてみてよ」
催促したら、モリヒトは光にかざしていた指輪をすんなりと、左手の薬指に嵌めた。
「……綺麗だな」
モリヒトが自分の手を見つめて目を細める。細く長く、節の太い指にそれはよく似合っていた。
この指輪はなにひとつオレたちの証明にならないけど、ただ、オレたちが二人でいたことの証になればいい。先のことなんて何にもわからないけれど、指輪を見つめてひどく優しく笑うモリヒトが、その手をオレに伸ばしていることだけはほんとうだから。