花になった貴方【最終回】松「目を覚ましておくれよ…お願いだ…。」目を開けない貴方に、僕はもう一度キスをする。
もし、夢で暖かで心地の良い空間を見つけたらどう思う?ここにいれば幸せな気持ちになれるし、辛いことや苦しいこともない、得るものもなければ失うものもない。私ならずっとここにいたいと思ってしまうな。何もなくてもこんなに心地よくて、幸せなら良いじゃない。ずっとここにいても、良いよね。審「松井…。」松井…?何を言ってるんだろう。ここに来てから無意識に何か言葉を発してるんだけれど、何を言ってるのかよく分からない。松井ってなんだっけ。いいや、今私とても幸せだから。私を囲むこの花たちを見てると愛おしくてたまらなくて、この上ない多幸感に包まれるの。松「駄目だよ。」審「え…?」誰だろう、綺麗な人だなあ。この人を見てると、花を見てるときと同じ気持ちになる。どうしてだろう。審「ねえ、貴方も一緒にここにいよう。この場所はね、とても暖かくて幸せな気持ちになれるんだよ。」松「…。」どうしたんだろう。彼は私の目をまっすぐに見つめたまま返事をしてくれない。彼の目からは今にも涙がこぼれ落ちそうで、とても辛そうに見える。松「貴方はここにいるべき人じゃない。」どうしてそんなことを言うの?松「よく聞いてくれ。」そういうと彼は大きく息を吸い込んで深呼吸をして言う。松「僕は松井江。松井興長の持ち刀だ。そして今は…貴方の、主の刀だ。」突然のことに立ち尽くす私に構わず彼は続けた。松「貴方はこの場所が暖かくて心地が良いと言ったね。よく見てごらん、貴方は本当にそう思っているのかい?」そんなこと言われても、貴方の方こそよく見てよ。ここは暖かい光が差していて、愛おしい花々に囲まれていて…。審「あれ…?」振り返るとそこは私の知っている景色ではなかった。花々はバラバラに切り刻まれており、血のように真っ赤な液体が一帯を染めていた。
再び主にキスをした後、気付くと僕はどこかも分からない場所にいた。暗くて冷たい。足元には僕が先ほど切った真っ赤な菊の花が散らばっており、なんとも残酷な光景である。甘い香りはもうしない。残るのは主の匂いだけ。ここにいるんだ、主は。審「松井…。」松「…っ!」間違いない、やっぱりここにいる。早く本丸に帰らなきゃ、一緒に。僕は声のする方向に向かってただひたすらに走った。主は思っていたより早くに見つかった。そこには、切り刻まれた菊の花を愛おしそうに愛でる主の姿があった。何をしている…?やめてくれ。それは貴方を蝕んでいた呪物だ。それ以上触れてはいけない。松「駄目だよ。」審「え…?」主は僕の顔を見た。しかし、どことなくぼんやりとしており、僕を認識してはいるけれど、僕が僕だということに気付いていない。そんな表情を浮かべる主の顔を見た瞬間、様々な感情が込み上げてきて泣きそうになった。審「ねえ、貴方も一緒にここにいよう。この場所はね、とても暖かくて幸せな気持ちになれるんだよ。」いったい何を言っているんだ?ここは暗くて冷たい、バラバラに切り刻まれた菊の花が散らばっており、見渡す限り真っ赤な液体が広がっている。このような場所のどこが暖かくて幸せだと言うんだ。松「貴方はここにいるべき人じゃない。」主はただ不思議そうに、無知で無垢な幼子のように僕を見つめていた。ああ、これも呪いのせいか。主はもうとっくにこの花に身体を、心を奪われているんだ。貴方は幻覚を見ている。お願いだ、僕を見てくれ、主。僕は溢れそうなほどに溜まった涙を拭い、深呼吸をして言った。松「僕は松井江。松井興長の持ち刀だ。そして今は…。」言うんだ。僕は…貴方の…。松「主の刀だ!」目を覚ましてくれ、主。松「貴方はこの場所が暖かくて心地が良いと言ったね。よく見てごらん、貴方は本当にそう思っているのかい?」審「あれ…?」そう言うと主は、身体中の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
ああ、本当に夢だったんだ。この人は、そうだ。どうして忘れかけてしまっていたんだろう。決して忘れちゃいけないのに。審「松井…松井江。」松「ああ、そうだよ。」彼は優しく微笑んで、まっすぐに私を見つめてくる。そんな彼に心が苦しくなった。彼への想いが溢れると同時に涙が溢れる。審「松井、ごめんなさい。私、松井のこと、忘れかけて…。」松「いいんだ、貴方が無事なら、これで良いんだ。」そうして私たちは潰れてしまいそうなほどに強い力で抱き合い、共に泣いた。泣き疲れた私たちは、赤子のように眠りこけた。
目を開けるとそこは自室で、鳥のさえずりが聞こえてくる。窓の外からは、暖かな光が差し込んでいた。重い体を起こすと、膝の上では松井が眠っていた。審「松井、朝だよ。」松「主…?…っ!主!!」彼は飛び起きてすぐに私の体を抱きしめた。松「本当にすまなかった、僕があげた花のせいで主がこんな目に遭うなんて思ってもいなかった。僕が悪かった、本当にすまない。僕が…僕が…。」審「もう謝らないで。私、本当に嬉しかったんだよ。花の種類だとか、呪いだとかどうだって良い。貴方が私にくれたものは全て貴方の想いが詰まっているから、だから、本当に幸せな気持ちになったんだよ。貴方がくれたものだから、愛おしく思えて、だから良いんだよ。本当にありがとう。」そう言って、私たちは共に抱きしめあった。私は疲れてしまったせいか、もう一度眠りについた。
私があの後眠りについてから、もう一度目を覚ますことはなかった。確かに彼は、あの花を全て対処してくれたのだが、その頃にはもう私の身体はあの花に生気をほぼ全て吸い尽くされていたのだ。最後に残っていた力が、あの日目を覚まして、彼と抱き合った時に尽きてしまったらしい。実は眠りにつく前に、私は薄々と自身の最期に気付いていた。審「もし生まれ変わったら、来世は戦いのない世界で幸せに生きてね。」この時、彼は初めて私に声を荒げて言った。松「冗談言わないで、何度生まれ変わっても僕は絶対貴方の元に還るんだ。」私は思わず吹き出してしまった。いや、笑うところではないのだが、半分冗談で言ったことに対してあまりにも大真面目に返してきたため、おかしくなってしまった。審「ふふっ、ありがとうね。」私はあの日、鯰尾に言われてからちゃんと「ありがとう」をたくさん言うようにした。彼にかけた最後の言葉は、涙のいらない別れにふさわしいものだったかな。
季節は秋になった。山も紅葉してきて、動物たちが冬の準備をしている。部屋にある花瓶に、もう赤い菊の花は無い。私の部屋には今、たくさんのキンモクセイが飾られている。ここには、私と彼が愛し合った思い出が、確かにありました。