「明日から1週間程、九州に出張になりました」
ザっと中華鍋を振りながら、なんでもない事のように、隣で調理風景を眺めていた日車さんに告げる。
「そうか、気をつけてな」
こちらを一瞥することも無く、中華鍋の中で踊る食材たちを見ながら日車さんは言った。
(少しくらい寂しがってくれても良くないですか)
思わず心の中で愚痴を零すが、勿論顔には出さない。
「……土産は何が良いですか。」
「何でも良い。君が無事に帰って来てくれたら」
そう告げる日車さんの顔が、ほんの一瞬、見間違いかもしれないが、少し寂しげな色を浮かべた気がした。
「そうですか。では、任務が終わったら何か買ってきますね」
日車さんは何も答えなかったが、それでも良いと思った。
ただ、この人が無事を願ってくれるのであれば、私は必ず生きて帰ってこれる。
そう思えたからだ。
「お待たせしました、リクエストの炒飯です」
コト、とテーブルに皿を置く。
日車さんは静かに手を合わせてから、レンゲを手に取り炒飯を掬い取った。そしてそれを口に含むと、満足気な表情を浮かべる。どうやら口にあったようだ。
「美味いな」
そう言ってまた一口、二口と食べ進めていく日車さんを見て、思わず笑みがこぼれる。この人のこういうところが好きなんだと思いながら私も炒飯を口に運んだ。
食事を終えた後は、いつものように日車さんと酒を飲み交わしていた。
「この酒は美味いな」
「そうでしょう。私のお気に入りなんです」
そう言ってグラスを傾けると、日車さんはまた一口酒を飲む。そして、ふぅっと息を吐いた後、静かに口を開いた。
「明日は早いんだろう、そろそろお開きにしよう」
「そうですね」
時計を見ると、日付が変わりそうな時間だった。私は立ち上がり、テーブルの上の空いた食器類を片付け始める。その様子を見た日車さんが口を開く。
「片付けは良い、明日やっておく」
「いえ、このくらいやらせて下さい」
私がそう告げると、日車さんはそれ以上何も言わずただ頷いた。
「それではお先に失礼します。お休みなさい」
「ああ、お休み」
そう言って日車さんと別れ自室に戻った私は、明日の出張への準備をした後眠りについた。
◇◇◇
翌日。新幹線に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。外には木々が生い茂っており、緑が目に眩しいくらいだ。
(早く終わらせて帰りたい)
そんなことを考えていると、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して画面を見ると、メッセージアプリから通知が来ていた。差出人は日車さんだ。
『怪我するなよ』
ただ一言、そう書かれていた。相変わらず不器用な人だと思いながら返信をしようと文字を打ち込んでいると、またメッセージが送られてきた。
『気をつけろよ』
きっと今頃眉間に皺を寄せてあの仏頂面をしているんだろうと思うとおかしくて笑ってしまった。私はありがとうございます、気をつけますとだけ打ち込んで送信ボタンをタップするとスマホをポケットに仕舞った。
それからは短い様で長い1週間の始まりだった。
1日目は問題なく終了した。
2日目、3日目と、日にちが進むにつれて少しずつ疲労が蓄積されていく。
疲労はまだ良い。
不満なのは、連絡の一つもくれない事だ。
こちらから電話しても構わないのは構わないのだけれど。
「ちょっとは寂しいとか思ってくれたりしませんかね…あの人は」
ぼそりと呟いた言葉は誰の耳に届くこともなく、喧騒に吸い込まれるように消えていった。
普段は常にそばに居る様にしているからか、どこか落ち着かなくて気が滅入る。
ちゃんとご飯は食べているか、またスーツを着たまま風呂に入ったりしてないか、きちんと睡眠は取っているのか。
日車さんは自分を二の次三の次にする傾向があるから、そういう心配ばかりしてしまう。
自罰的と言うか、自分に優しく出来ないと言うか。
普段は誰よりも理知的、理性的に物事を判断するのに自身の事になると急にネジが外れたように無茶をする。
その割に自分の感情には疎い人だから、なかなか本心を掴ませてくれないけれど。
『ちゃんと食事は取っていますか』
そうメッセージを送れば、きっと『問題ない』と返ってくるのだろう。
あの人はそういう人だ。
たった1週間会えないだけなのに、寂しい。
こんな事今まで思った事は一度もなかったのに、あの人を知ってからというもの、どんどん自分が変えられていく。
元から労働はクソ、残業はクソだと思っていたし、1週間出張に行くなんて事は今まで何度もあった。
その時は何とも思わなかったのに。
たった1週間会えないだけでこんなにもあの人の事を考えてしまうなんて、自分が自分でなくなった様な気がする。
早く帰りたい。日車さんに会いたくて仕方がない。
……なんて、言えるわけもない。
『大人オブ大人』なんて言われている自分が、たった1週間会えないだけでこんなにも心を掻き乱されているなんて知られたら、きっと笑われてしまうだろう。
『え〜?七海が寂しがってるのマジウケる』
目隠しをした軽率な先輩ならそう言って爆笑するだろう、と想像してイラッとする。
「はぁ……」
1人溜息を吐いてから、再び窓の外を眺めると大分街に近づいていた。この出張ももうすぐ終わりを告げる。早く日車さんに会いたかった。あの人の声を聴きたいし、触りたいし、勿論それ以上もしたい。
そんな事を考えながら私は目を閉じた。
「ただいま戻りました」
出張から戻ったその日、真夜中にも関わらず私は真っ先に日車さんの元へ向かった。
日車さんは自室で本を読んでいた。
「ああ、おかえり」
本から視線を外し、私を見ると日車さんは言った。そして再び視線を本に落とすと読書を再開した。私はそんな日車さんの隣に座る。
「……怪我はしていないか?」
「はい、問題ありません」
私がそう答えるも日車さんは相変わらず本から目を離さず、ページを捲る音だけが部屋に響く。
「そうか」
(それだけですか)
そう思ったが口には出さなかった。日車さんはこういう人だ。私は気にせず言葉を続けた。
「貴方が心配で、早く帰りたくて仕方ありませんでしたよ」
「それは悪かったな」
日車さんは相変わらず本から視線を逸らさずに言った。淡々とした口調からは感情が読み取れず、本当に悪いと思っているのかすら怪しいところだ。でもそんな所もこの人の魅力の一つだと思ってしまうあたり、自分はもう手遅れなのだろうと実感する。
「……寂しかったですか?」
「いや別に」
ふぅ、と手に持っていた煙草を灰皿に押し付けながら日車さんが答えた。
「そうですか」
私は短くそう答えると、日車さんの腰に腕を回して抱き着いた。すると日車さんは少し驚いた様に身体を跳ねさせたが、特に抵抗することもなくされるがままになっている。
そのまましばらく日車さんの匂いを堪能した後、ふと気が付いた。
「……煙草、変えました?」
日車さん愛用の煙草とは違う匂いが鼻を掠める。
「い、いや…?変えてないが?」
明らかに動揺している日車さん。これは何か隠しているな、と直感的に思った。
「そうですか?少し違う気がするのですが……」
私が更に追求しようとしたら、日車さんが慌てて話題を変えるように口を開いた。
「そ、それより!出張はどうだった?何か問題はなかったか?」
明らかに話題を逸らそうとしているが、私はあえてそれに乗っかることにした。
「……特に問題はありませんでした」
私が答えると日車さんは少しほっとしたような表情を見せた後「そうか」と言って再び本を読み始めた。しかし、そのページを捲る手はどこかぎこちない。
(これは絶対何かあったな)
そう思いながらも敢えてそれには触れずに話を進める。
「私がいない間、きちんと食事を摂っていましたか?睡眠もしっかりと取っていましたか?」
私がそう尋ねると、日車さんは気まずそうに目を逸らした。図星だな。
「答えてください」
少し強めの口調で言うと、観念したのか小さな声で答えた。
「……食べてたぞ、ちゃんと……」
嘘だな。これは絶対食べてないやつだ。この人は自分の事に関しては無頓着すぎるから困る。私は思わず溜息が出そうになるのをぐっと堪えて言葉を続けた。
「そうですか……では睡眠は?どのくらい寝ましたか?」
「……………」
胸元のポケットから煙草を取り出し、火をつける日車さん。
誤魔化そうとしていますね。
「正直に答えてください」
ジロリと日車さんを見ると、観念したように口を開いた。
「1日2時間……いや、3時間くらいか」
「それは睡眠とは言いません。」
「……」
日車さんはバツが悪そうに目を逸らして黙り込む。
私は日車さんが持っている本を取り上げて机の上に置くと、両手でその頬を挟み込むように押さえた。
「日車さん、こっちを向いてください」
私がそう言うと、渋々といった様子で日車さんがこちらを向いた。その目の下にはうっすらと隈が見える。
「やっぱり寝ていないんじゃないですか……」
はぁと溜息混じりに呟くと、日車さんはバツが悪そうにモゴモゴと口を動かしている。
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです。隈ができてますし、顔色も悪いですよ。呪力の乱れもあります」
私が指摘すると日車さんはぐっと押し黙った。どうやら自覚はあったようだ。まったくこの人は本当に……。
「貴方が大丈夫と言った時は大抵大丈夫ではないんですよ。自覚が無いんですか?」
私が少し責めるように言うと、日車さんは小さな声で呟いた。
「……すまん」
しゅんと落ち込む様子を見せる日車さん。その姿はまるで叱られた子犬のようで可愛らしい……ではなくて! 私はもう一度溜息を吐くと今度は優しく諭すように語りかけた。
「はぁ……別に謝って欲しいわけではないんです。ただ心配しているだけですから……」
すると日車さんは小さくこくりと首を縦に振った。どうやら反省はしているようだし、これ以上責めるのは可哀想だろうと思い話を切り上げることにした。
「まぁとにかく、今後はしっかり食事と睡眠を摂って下さいね」
私がそう言って微笑むと日車さんも少しだけ表情を緩めて答えた。
「……わかった」
その答えに満足して私は手を離すと、再び日車さんの隣に座った。そしてふぅっと息を吐くと隣にある温かい体温。
「ああ、やっぱり日車さんのそばは落ち着きます」
私がそう呟くと日車さんは何も言わずに私の頭をくしゃりと撫でた。その優しい手付きに思わず笑みが溢れる。
「ふふ……もっと撫でてください……」
そう言って私は日車さんの胸元に顔を埋めた。すると頭上から微かな笑い声が聞こえた後、また優しく頭を撫でてくれる感触が伝わってくる。
ぐりぐりと頭を押し付けると、日車さんは少し困ったような声で「おい……」と言ったが決して私を引き剥がそうとはしなかった。
こつ、と胸元の煙草の箱が私の頭に当たった。
やっぱり煙草を変えている。
いつもはソフトタイプなのに。
これは確実に何かあったやつだ。
浮気じゃない事はわかっている。
だけど、ほんの少しの不安と苛立ちが顔を出す。
「……煙草、変えましたよね?」
私がそう尋ねると、日車さんは少し動揺した様子を見せたが、すぐに何事も無かったかのように答えた。
「いや、変えてないが」
嘘つけ。さっきあからさまに反応してたくせに……。でもここで問い詰めても仕方がないのでそれ以上追及はしなかった。だがやはり気になるものは気になるもので、私はある事を思いついた。
「では、その煙草一本貰ってもよろしいですか?」
「いや、それは…」
言い淀む日車さん。やはり何かある。私は確信した。
「いいじゃないですか、一本くらい」
「ちょっと待ってろ、持ってくるから」
「いえ、この胸元のやつで大丈夫です」
「これは……」
日車さんが言い終わる前に私は煙草の箱を胸元から取り上げて、箱を眺める。
蒼い箱。いつも吸っているものでは無い箱だ。
「これは……KENT、ですか」
「あ、ああ」
KENT。それは日車さんが普段吸っている銘柄とは異なっていた。
「普段吸わない銘柄をなぜ?」
そう尋ねると、日車さんは目を逸らした。
そして暫く沈黙が続いた後、ぼそりと呟くように言った。
「君の…名前と同じだったから…」
その一言を聞いて、私は思わず固まってしまった。そしてじわじわと顔に熱が集まるのを感じる。
「……っ、そ、そうですか……っ」
私が動揺していると日車さんは早口で言葉を続けた。
「べ、別に深い意味はないぞ?たまたま目に付いたのがその銘柄だったというだけで……他意はない。だから勘違いするな」
日車さんはそう言って煙草の箱を奪い返してしまった。
「……」
「な、何だ……そんな目で見るな」
日車さんは居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。私はそんな日車さんの姿を見るとクスリと笑みをこぼした。ああ、本当にこの人は不器用で愛おしい人だ。そう思いながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……いえ、別に何も言っていませんが?」
私がそう言うと日車さんは「そ、そうか」とだけ言って黙り込んでしまった。そして再び沈黙が訪れる。
私はそんな日車さんをじっと見つめていたが、暫くすると耐えきれなくなったのか日車さんは口を開いた。
「もういいだろう?返してくれないか」
そう言って手を差し出す日車さん。しかし、私はそれを無視するように煙草の箱を自分の胸ポケットへと仕舞った。
「貴方のケントはここに居るでしょう」
そう言って日車さんの手を取ると、自分の胸に触れさせる。すると日車さんは少し驚いたような表情を見せた後、小さく溜息を吐く。
「全く……君という奴は」
呆れたように言う日車さんだが、その表情はどこか嬉しそうだったのは私の見間違いではないだろう。
私は日車の手を自分の頬に当てながら微笑んだ。
「貴方のケントは寂しい思いをしながらもきちんと仕事をこなして帰ってきたんですが。…ご褒美を下さいませんか」
私がそう言うと日車さんは少し考えた後、口を開いた。
「何がいい」
私の言葉に少しだけ口角を上げて聞き返してくる日車さん。私はそんな日車さんにそっと顔を近づけて囁いた。
「貴方が欲しい、と言ったらどうしますか?」
私の言葉に日車さんは一瞬目を丸くした後、ふっと小さく吹き出した。
そして私の肩に手を置き、ぐっと引き寄せてくる。
「悪い子だ。」
そう言って微笑む日車さん。その表情を見て私は心の中で思った。
ああ、この人を好きになって良かった、と。
「では悪い子の私にはお仕置きですか?」
私が冗談めかして言うと、日車さんは不敵な笑みを浮かべた。
「さて、な。仕置きか褒美かは君次第だ」