父の日三歩進んで二歩戻り、十歩進んでは九歩戻る。このままではいけないと、意を決して五十歩進み。百歩戻ろうとして、何をしているのかと立ち止まり。
そういう親子関係だった。しかもぐるぐるしてるのは親ばかりで、気がつけば子は育つ。そういうものさ、と。在りし日の母は言っていたが、それを成程と、分かったフリをして飲み込むには、水木はまだ若かったし、幼かった。
幼い親だったと思う。
若いと呼ぶにも未熟で、半端で。いつも目玉が居なければ立ち行かなかった。親子にとって、確かに『親』は必要だっただろうが、それは果たして水木じゃなくても良かったのだと、今でも思う。
親子が、今日この家を出て行くと話を聞いた今でさえ。
「そうか」
「……はい」
「ん」
言葉が出なくて煙草を一口。こうして何度、煙と共に声にできなかった何かを飲み込んだだろう。
言葉は、苦手だ。
何をどう言っても、嘘になる気がした。嘘とは言わないまでも。お為ごかし、と。誰かに言われる気がする。
「元気でやんなさい」
「……はい」
「いつだって、帰って来て良いから」
「……はい」
何をどう言っても、嘘にしかならない気がした。
親子は多分、帰って来ない。そんな分かりきった事を、ぐるぐるしているのはやはり水木だけだ。
ああ、やはり。幼いのは、自分だけ。
目玉とは大違いだ。かの目玉は、大事な事は二人でと、要らぬ気を利かせて、今この場には居ないけど。
「……では」
「ん」
「月が沈んだら出発します」
「……ん」
煙の様な輪郭の無い静寂が、部屋の中にぽっかりと浮かんでいる。先にそれを割ったのも、子の方だった。
「あの、」
「ん」
自分よりずっと大人びた幼子が、少し子供じみた表情を伏せながらかりりと頬を掻いた。小さい頃は幾度も見ていたその表情。これは、子が水木にお願いをする時のクセだった。遠慮しがちの子の願いは、いつもいつも、とてもささやかなものだったけど。
もじもじと少し言い出しづらそうに、身の置きどころが無さそうに、されどもやはり嬉しそうに。子は水木にやはりささやかな願いを切り出す。
「お願いが、あって……」
*
「あんときのありゃぁお前の入れ知恵か」
「ワシは何にも言うておらんよ、疑り深い」
月夜にぷかりと煙が浮かぶ。男一人と目玉が一つ。
親子が出て行ってはや数年。案の定、鬼太郎はこの間一度も帰ってこなかったが、意外にも目玉は何度か良い酒が手に入ったと顔を見せに来ていた。
話を聞く限り、元気にやっている様だ。亭主元気で留守がいいとは言うが、子に関してはどうなのだろう。
別れ際の子の声は、まだ声変わりもしていない、あどけないものだったが、今でもそうなのだろうか。聞きたい、と思う反面、あのままの記憶を仕舞って置きたい気持ちもどこかある。
「お前は要らん気ばかり回すからな」
「おや、要らんとは。気遣いせんなら、酒は要らんかったかのう」
「馬鹿、そう言うのは気遣いじゃなくて手土産ってんだよ。煙草の駄賃だろ」
「よう言う」
煙草を吹かしながら目玉が笑うと、ぷわりと変わった形の煙が浮いた。妖怪め、と嘯きながら、水木も笑う。子育てが終わった友人同士でこんな風に飲むのは、決して悪くない、水木の楽しみの一つだ。
今日は親子が出て行ったのと同じ、六月の第二日曜日。
子はあの日、記念日なのでと言って、何を頼むのかと思えば、煙草を吸ってみたいと、一口煙草をねだった。断る理由はひとつも無く、一口で盛大に噎せる様を、子と水木の二人で笑った。
笑って、もう一つ、我儘を聞いてもらえるならと切り出した一言。
その一言を、鼓膜の奥底、頭の中の蝸牛の尻尾に、大事に大事に抱えている。
出会いと別れに、と目玉の友人と小さな盃を交わした。この先鬼太郎が帰って来ようと来なかろうと、水木にとってもこの日は記念日だ。
幼くて、拙くて、それでも必死に過ごした日々が、たった一言で救われてしまったあの日。
思い出すのは、恥ずかしそうにはにかみながら、お前たまにはそんな顔見せろよと言いたくなるほど甘えた表情で、あの日幼子が口にしたちいさな願い。
『おとうさんと、呼んでも良いですか』