幻惑の母 ラテラルタウンの町外れには、メジャーランクスタジアム一つ分ほどの大きさがある墓地が広がっていた。一見荒涼で誰の手も入っていないようだが、墓石は規則正しく並べられ、銘碑が遠目からでも確認出来るほど綺麗に保たれている。それにも関わらず、どの墓前にも花や供物が置かれていない。墓参りのシーズンでないとはいえ、普段は全体の二割くらいは参拝者がいてもおかしくはないらしい。町のジムリーダーであるオニオンが、そう教えてくれた。
「せ、セイボリーさん、ありがとうございます……。でも、気をつけてくださいね……、この辺は……」
「ええ。強大な気配が渦巻いていますね」
オニオンのように姿を消して透明化したゴーストポケモンを視認することは出来ないが、サイキッカーの端くれであるおかげで何らかのエネルギーは感じ取れる。おそらくオニオンも自身も既に目をつけられて囲まれているのだろう。
ゴーストポケモンの退治を依頼されていたのは、本来オニオンとチャンピオンであるマサルだった。昨日マサルの許に依頼が入った際に丁度セイボリーが居合わせており、チャンピオンの仕事が山積みで手が離せないから代わりに行ってくれと頼まれたのだ。しかしセイボリーはリーグスタッフから依頼を受けた直後のマサルが
「墓地のゴーストポケモンかぁ……」
と渋面を作っていたのを見逃してはいない。
「まあ……ビジーということにしておいて差し上げますよ」
「ご、ごめん……今度お礼するから……!」
エスパーはゴーストに対して相性が良くない。あまり気は進まなかったのだが、肝心のチャンピオンがいい年をしてオバケを怖がっているのだから仕方がない。ジムチャレンジャー時代はどうやって一人旅をしていたのか。
マサルが来ると思っていたオニオンは、セイボリーがジムを訪れたので大層驚き、全身を強張らせていた。誰だって面識のある方が一緒に行動しやすくはあるだろうし、加えて彼は極度の人見知りだ。ジムリーダーの新任式以外で顔を合わせたことがないセイボリーに対し、完全に萎縮してしまっていた。
だがジムリーダーとしての芯の強さはあるのか、マサルが来れない事情と依頼解決に協力する旨を話すと、向こうの方から(戦々恐々としながらではあるが)よろしくと握手を求めてきた。道場にもオニオンと同じような年齢の門下生はいたものの、彼らとは性格が真逆だ。対応に苦慮しつつ、少しずつ言を交わして町外れの墓地までやってきた。
依頼内容は退治であるが、出来ることなら穏便に済ませたい。セイボリーはいつでもモンスターボールからポケモンを繰り出せるよう、主力のヤドランが入ったボールに意識を集中させる。それと同時に墓地全体の草木が一斉にざわめきだした。
草木の中か、或いは墓石やセイボリー達の影に身を潜めているのか。未だに彼の者達は見えないが、セイボリーは手遅れにならない内にヤドランを出しておく。背中合わせになるように立ったオニオンも、ダークボールからシャンデラを出していた。
突如空の色が赤くなり、白かった雲が闇色に染まる。まだ昼間であるはずなのに太陽が覆われてしまったせいで、辺りが暗くなった。
“……おいで……”
「なっ……?!」
聞こえるはずのない声が耳に入り、セイボリーはその方角に目を向ける。先程通りすぎてきた木々の間に赤い螺旋状の渦が生じていた。
“おいで……セイボリー”
声はこの異空間から聞こえているらしい。名を呼ぶ懐かしい響きは、既に亡くなった母のものだった。渦の中心に美しい金色の髪を伸ばした女性が現れ、セイボリーを迎えようと両腕を広げている。
“此方に来れば、永遠の安らぎが得られるわ。もう心無い謗りに苦悩することもないの。さあ……私と共に……――――”
母は儚い笑みを浮かべて、息子に白い手を伸ばす。渦の中心に向かって吹く強い風に背中を押され、セイボリーは一歩、ニ歩と足を進める。まるで見えない糸に手繰り寄せられるようだった。
「だ、ダメです、そっちは……!!」
オニオンの声がやけに遠く聞こえる。セイボリーにとっての牢獄同然だった屋敷で、唯一愛情をくれた母。彼女の姿を眼前に出されれば、たとえ一瞬であろうと心奪われて当然だった。
渦と地面の境界でセイボリーは足を止め、改めて母の幻影と向き合う。彼女は息子に“生きて”幸せになるよう望んでいた。だからこそ生まれたばかりの時に降ってきたねがいぼしを持ち続けるよう言い聞かせ、御守りに出来るよう手製の小袋まで作ってくれたのだ。黄泉の国へ誘(いざな)おうとする“あれ”は、姿形や声が母であっても、ポケモンが作り出した偽りにすぎない。
「バッドテイスト……悪趣味ですね。未熟なワタクシでしたら……間違いなく囚われていたでしょう」
微笑を浮かべたセイボリーはモンスターボールからフーディンを出し、同時にサイコキネシスを指示する。サイコパワーを纏った渦は母の幻影もろとも赤い渦を掻き消した。
サイコキネシスの余波を受けて周囲の木々が大きく湾曲し、あの世へのゲートを作ったポケモンがようやく正体を現す。渦を作っていたのはゲンガーであり、複数匹ずついるゴースとゴーストがその姿を隠していたようだ。
渦はキョダイゲンガーの口内であり、サイコキネシスを真正面から食らって大ダメージを受けたのか、口を押さえてばたばたと悶えていた。リーダーが攻撃されて怒ったゴースとゴースト達の敵意が、一斉にセイボリーに集中する。
この数はフーディン一匹で相手にしきれない。ヤドキングに加勢してもらって、オニオンの近くにいるヤドランには彼のガードに回ってもらうか。
振り返る直前、黒い塊のような攻撃がいくつも飛んできて、セイボリーに襲いかかるゴース達の動きを止める。シャドーボールだ。ゴーストタイプのポケモンは同じゴースト技に弱く、当たったゴース達は苦しそうな鳴き声を出してよろける。
技を出したのはオニオンのシャンデラだった。彼が常につけている仮面の下の双眸が妖しく光り、まだノーダメージでいるゴース達を威嚇する。睨めつけられた彼らはゲンガーと仲間を引き連れて墓地の奥に引き上げていった。
やはりこの子も、幼いとはいえジムリーダーを任せられているだけの実力を備えている。ゲンガー達の姿が再び見えなくなると、ゴーストポケモンが戦慄するヴァイオレットの眼光は面の内側に隠れた。
「セイボリーさん……大丈夫ですか……?」
「……この依頼をしたのは、確か母子でしたね」
「あ、はい……」
すっかり元の内気な性格に戻ったオニオンが、ヤドランと共に近づいてきて安否を問う。彼の無事に安堵しつつ、セイボリーは先刻までゲートがあった場所に向き直る。
依頼主は、ラテラルタウンで店を営むシングルマザーの女性だった。一人息子と共に亡くなった夫の墓参りに来ていると、子供が突然死んだはずの夫に呼ばれたと言い出したのだ。そして駆け出す彼を追いかけて見たものは、やはりゴーストポケモン達が作り出した幻影だった。
このままでは、あの世に連れて行かれてしまう。呆けた様子の息子を抱きかかえるようにしてその場から離れ、命を取られる事態は避けられたらしい。
「このミッションに当ったのが、ワタクシで良かったです。あなたのように“みやぶる”の使い手ならまだしも……マサルのような子供は感受性が高く、容易に心の奥底に入り込まれるでしょう」
セイボリーは静かに瞼を閉じる。脳裏に浮かんできたのは、幻と分かっているはずである母親の姿だった。大人であるセイボリーでさえ惑わされるのだから、マサルがここに赴くのは危険でしかない。
「そう、ですね……可能性は、あったかもしれません……」
オニオンはセイボリーの言葉に同意を示し、仲間のポケモン達に辺りを調査させる。ここはガラル粒子が集まるパワースポットではない。それなのにどうしてゲンガーがキョダイマックスしたのか、原因を探っているようだった。
彼も己も、ジムリーダーである以上は頂点に立つマサルを守護しなければならない。マサルを迎えに来るのは一体誰になるのか想像がつなかいが、確実に純朴な心を抉る存在ではあるのだろう。悲しみとも怒りともつかない、しかし消えない澱を溜め込むのは、自分だけでいい。オニオンは立ち尽くすセイボリーに対し、心配そうに振り返りはしたものの、かける言葉が見つからずに俯いていた。