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    付き合ったり別れたりドタバタする面倒くさいアルセノになる予定のもの

    「……お前、よく飽きないな。これで何回目だ?」
     困惑、苛立ち、うんざり、少しだけ心配。偏った比率で入り混じった感情は合計すると十割が負の色をしていたが、そんな心境を態度に表しても、差し向かいの男は懲りた様子もなくいけしゃあしゃあと応じた。
    「俺に聞かずとも、君も覚えているだろう。そんな質問しかないならさっそく本題に入るが」
     セノが言ったのは「もういい加減にしろ」という意味だったが、アルハイゼンはそれを察した上で「しない」と返してきたようだった。これまで少なからず彼と言葉を交わしてきた経験からセノはそう解釈した。
     セノの正面にはテーブルを挟んでアルハイゼンが座っている。必要以上に堂々とした男を横から茶化すように、酒場のテーブルの上では焼きたてのフィッシュロールが楽しげに湯気を立てていた。
     花の香気をまとった白い目隠しに惹かれて、セノは膝の上にあった両手を持ち上げてカトラリーを掴んだ。視界の上半分で微動だにしない男を睨み、下半分で皿を見ながら、一口分を切り取って口に運ぶ。焼いた魚を特別好んでいるわけでもなかったが、質疑応答の機会を放棄して噛みしめるフィッシュロールはかなり美味かった。これから言われることの返事をするためなんかに飲み込むには惜しいくらいに。
    「では改めて提案だ。セノ、付き合おう」

     この奇怪な面談の発端は、かつての騒動が遠い昔に思えるほど平穏なある日のことだった。
     スメール国内を巻き込んだ大事件からいくらか時は過ぎ、その中心にあった教令院もようやく落ち着きを取り戻し始めてきたころである。院内では以前のように朝から晩まで学者や学生がひっきりなしに行き交い、自身の研究についてやそれ以外の噂話について止めどなくひそひそと話し合っては頭を抱え合う。忙しなくも見慣れた光景を横目に、いつもの大マハマトラの衣装を纏ったセノはまっすぐ廊下を進んで会議室を目指した。
     以前から変わらず取り戻された日常もあれば、以前とは変えなければならないこともある。その最たる例が六大学院の賢者の席だ。先の騒動で大賢者を含む複数の賢者が罷免された影響は大きく、その空席を埋めることは急務だが、同時に事が事であったので人選には細心の注意を払う必要があった。推挙される候補者たちはこれまでよりも数段入念かつ慎重な審議の対象となり、その事前調査にはセノたちマハマトラも協力を仰がれた。尽力の甲斐あってすでにおおかたの調べはついているが、今日はその調査結果をもとにした議論の場に召集されたので、こうして早朝から会議室に向けて足を急がせている。
     扉を開いて中に入ると、広い会議室の席はもうあらかた埋まっていた。ざっと見渡すと、楕円形の机を囲むように配置された席の端に、最近よく見る顔がいることに気がつく。
     セノの入室に気が付いた人事担当者が上座の椅子を引いて招いたが、セノは辞して扉に近い下座の席についた。大マハマトラという役職は教令院組織の中でも上のほうに位置するが、院内の人事に影響力を持つ立場ではない。あくまで今日は招かれたから来ただけで、上座から意見するつもりはなかった。
     おそらく隣の席の男もそのつもりだろう。書記官というそれらしい肩書を持つくせに、机の上には筆記用具のひとつも置かないまま、上役が揃う会議室の中で憚ることなく持ち込んだ本を開いている。まあ出席しただけましかもしれない、半分呆れながらセノが見上げると、男ことアルハイゼンもちらりと見下ろしてきた。目が合う。セノが反射で「おはよう」と短く挨拶するとアルハイゼンも小さく会釈を返してきた。私語を交わす場でもなし、二人のやり取りはそれで終わった。
     おとなしく席についているとすぐにまた扉が開き、最後のひとりが入室してきて会議が始まった。
    「――今回から推薦される候補者には、従来の規定に加えて新たに複数の条件を追加することを提案します。お手元の資料をご覧ください……」
     各席に配布された資料に沿って、人事担当者と各学派からの代表者が意見を交わし合う。会議室の隅でそれを聞きながら、セノは時折目の端にアルハイゼンの横姿を映した。体格のいい男だから真横に座っていれば嫌でも視界に入る。アルハイゼンは一度素早く資料に目を通して以降、腕を組んでじっと議論を聞いていた。さすがに本は読んでいないものの、意見する気も議事録をとる気もなさそうだ。室内の誰もそれを咎めようとしないところから、今日のアルハイゼンは書記官としてではなく元代理賢者として呼ばれたのだろう。代わりに秘書らしき若者が人事担当者の横で必死にペンを走らせていた。
     注意深く各人の意見を聞き、咎めるべき偏りや逸脱がないかを見極めながら、セノは少しだけよそ事に思いを馳せた。アルハイゼンがここにいるのは元代理賢者として、そしてかつての混迷を晴らした立役者としての功績を買われてのことなのだろう。そう考えるのは、おそらくセノが呼ばれた理由も同じだからだ。
     大マハマトラとして不審な者が賢者に推挙されないように監督せよというのなら、事前調査の時点でもう役割は果たしている。どちらかというと前大賢者をその手でひっ捕らえた張本人として、この会議の正当性を象徴する保証人――というかそういう類の人心を戒めるための監視装置みたいなもの――にされたのだろう。だとしても己の役回りに異論はない。結果として重要な議論がつつがなく前に進むならそれでよかった。
     セノは置物らしくおとなしく座して議論の成り行きを見守った。さんざん論じても果てしなく議題は湧き続け、きりのない会議が次回持ち越しでお開きになるころにはすっかり昼になっていた。
     座りっぱなしで凝り固まった体を軽く伸ばしながら立ち上がると、さっさと会議室を出ていこうとした背中を「セノ」と低い声が呼び止めた。物珍しさを感じつつ振り返ると、同じく立ち上がったアルハイゼンが見下ろしてきていた。
    「この後の予定は?」
     その言葉がセノの午後の業務内容を聞き出そうとしているわけではないことは察しがついた。一般的にはありふれた、しかしこの男にしては少々控えめな問いかけに、セノは首を傾げつつ答える。
    「急ぎの仕事はない。昼食をとるつもりだ」
    「そうか。なら行こう」
     アルハイゼンは言い終わらないうちに歩き出した。気安い同僚みたいに誘われたことに驚いたが、それよりも断られるなどとは微塵も想定していない様子に気が抜けて、セノはやれやれとその後ろへ続いた。

     スメールシティの住人の多くは、コーヒーを飲みながらの休憩や酒を伴う夜の食事を重視する。そのため昼食はあまりのんびりせず仕事の片手間で食べることがほとんどだ。昼時の酒場は賑わっているものの、店内で空席をみつけることはそう難しくなかった。
     普段ならセノも御多分にもれずシャワルマサンドあたりを買って手早く済ませるが、今日は先導していたアルハイゼンが当然のように席を確保したので自然と外食することになった。幸い急ぎの仕事もない。アルハイゼンは無論定刻通り――教令院内で推奨されている昼休憩の時間帯に倣って――休みをとるのだろうが、その間であれば付き合える。
     せっかく携行性を気にする必要もないのだからいつもと違うメニューにしよう。そう思いたって、メニューの一番上にあったフィッシュロールに決めた。どちらかといえば肉料理のほうが好みだが、偶の機会だから変わったことがしてみたくて。
     机上に置いてあるメニューから顔を上げると、アルハイゼンが店主のいるカウンターに向けて手を挙げていた。ちょうど持ち帰りの注文をする客が途切れたタイミングで、店主も応じるように手を挙げ返すと「ご注文は?」と声を張った。従業員の少ない酒場だから、席まで注文を取りに来るのを待つよりもこうして大声でやり取りしたほうが早い。
    「セノ、シャワルマサンドでいいか?」
     振り返ったアルハイゼンに、セノはふいと首を横に振った。
    「フィッシュロールにする」
    「珍しいな」
    「たまにはな」
     短いやり取りを終えると、アルハイゼンが店主に向けて「シャワルマサンドとフィッシュロールを」といつもの調子で注文した。景気よく応じる店主の半分くらいの声量しかなかったが、独特の響きを持つ低い声はよく通った。
    「……なんだ、シャワルマが好きなのかと思っていた」
     続いた声はさらに小さな、正面に座るセノ以外には拾えっこない音量だった。アルハイゼンは時折こんなふうに、相手が聞いても聞かなくても構わないみたいな態度で言葉をこぼすことがある。理性を煮詰めたような男が単に「言いたくなったから言った」とばかりに口を滑らせるのはなんとなく面白くて、耳のいいセノは機会があるたびに人知れず拾っている。
    「まあ好きだが、今日はちょっと気分を変えたかった」
     不満そうに聞こえた響きを宥めるように返すと、アルハイゼンの視線がセノの目を捉える。
    「君も食べ飽きることがあるのか? 前は一週間連続で食べていたのに」
     その期間には覚えがあった。たいして昔でもない記憶を懐かしむでもなく想起しながら、セノは被っていた頭飾りを外した。遮るものがなくなると、店内に注ぐ昼時の日差しがステンドグラス越しでも眩しく感じる。
    「あのころは選ぶのが面倒だっただけだ。片手でいけるメニューは少ないし」
    「次から食事選びで横着するのはやめたほうがいい。好みの味でも惰性で食べ続けると美味さを感じにくくなりやすいからな」
    「そういうお前だってシャワルマサンドばっかりだっただろう」
    「俺は毎回好きで選んでいる」
     セノは返事の代わりに肩をすくめた。そのまま追撃を受ける前に、机上にあった水差しを取って二つのグラスに水を注ぐ。ひとつをアルハイゼンの前に置けば、「どうも」と軽い礼が降ってきた。
     普段なにを選ぶかを覚えてしまうくらいには、セノとアルハイゼンは何度も一緒に昼食をとったことがあった。どちらかがそうしようと言い出したのではなく、業務上の都合、成り行きによって。
     少し前まで、短期間ではあるがアルハイゼンは代理賢者としてかなりの激務にあたっていた。同じくセノも揺らぐ教令院を立て直すために普段の倍は奔走していたが、中でも二人を悩ませたのは新しく公布する教令についてだった。過ちを繰り返させないためにも、安定した組織運営のためにも、草案作りは大マハマトラと代理賢者が入念に協議して草神へ奏上することになったのだが、忙しい同士の二人はろくに時間が合わない。その結果、あの時期のセノとアルハイゼンは連日昼休憩の時間をつぶして味の濃いシャワルマサンドを頬張りながら話し合わざるをえなかった。もっとも、外勤が多いセノは定刻通りに昼休憩が取れる日すら稀だったので、本当に連日会えたのは一週間が最長だったのだが。
     彼が書記官に戻った今となっては、二人が揃って執務室に拘束されることもない。業務上の必要がなくなればもう一緒に昼食をとる機会はそうそうないと思っていた。だから今日こうして誘われたことに、セノは内心少し喜んでいた。
     たまたま前の会議で居合わせたついでではあるが、人付き合い嫌いを公言するアルハイゼンに気安く声をかけられればちょっとした達成感じみた感慨が湧く。他の友人と卓を囲むときほど雑談に花が咲くことこそないものの、こうして顔を合わせることを望まれたのには変わりない。セノの中にぼんやり芽生えていたこの男への親近感を肯定されたような気がして、空きっ腹がわくわくしていた。
     とはいえそれを素直に「誘ってくれて嬉しいよ」と伝える気にはならない。理由はセノの気位や照れくささではなく、相手が相手だからだ。
    「ところで、食べ終わったら少しいいか。話がある」
     そうだろうな。平静な顔で言うアルハイゼンに、セノは一口水を飲んでから頷いた。食事を共にする程度の親しさは否定されないだろうが、この男がそのためだけにセノに声をかけてくるとは思わなかった。教令院内では話しにくいことか、はたまた。どうせ後でわかるのだからいちいち案じることも身構えることもない、セノは考え込むのを打ち切ってもう一口水を飲んだ。話が長くなるようなら食後にコーヒーでも欲しいな、そんな方向へ意識を傾けながら。
     しばしの後に席まで運ばれてきた皿を受け取ると、セノはカトラリーをとり、アルハイゼンは手でそのままシャワルマサンドの包みを掴んで、それぞれ好きに食べ始めた。
     しっかり火の通った魚にナイフを通すと、あふれた湯気の中であっさりした脂の匂いとスメールローズの香りが混ざってふわりと立ち上る。香辛料とも違う食べ物らしくない華やかさに鼻をくすぐられて一瞬怯むが、口に入れるとその効力が存分に発揮された。花そのものに味わいはないものの、香りが魚特有の生臭さを打ち消していて食べやすい。時間に追われずゆっくり昼食をとれる心地よさもあいまって、セノはしみじみと魚肉を噛みしめた。
     二口目を切りながらふと顔を上げると、ちょうどシャワルマを齧っていたアルハイゼンがごくんと飲み込むところだった。ちらっと目に映った彼の一口分の断面の大きさは、何度見てもある種の面白みがある。アルハイゼンは体格に比べるとあまり口が大きくない。いつも淡々と小さな動きでしゃべる口が、具沢山のサンドをこぼさないよういつもより一段大きく開く仕草を見ると、やけにこの男が生き物めいて感じられる気がした。もとよりまぎれもなく生き物なのだが、これも親近感の一環である。
    「どうした?」
    「いや」
     お前が大口開けて食べるのが面白くて見ていたとも言えず、セノは追及を避けるように首を振って二口目を頬張った。鼻を抜ける香りを堪能しながら付け合わせのレモンに目を落とす。少し悩むが、この味なら酸味を足さずともいいだろう。
     今度はセノが飲み込むタイミングで、アルハイゼンと再び目が合う。向かい合って食事をする機会は幾度もあったが、そのときはいつも手元の資料を見ていたから視線を交わすことは多くなかった。首を傾ぐと、アルハイゼンは具があふれかけたシャワルマを軽く持ち直して整えながら言った。
    「美味いか?」
     想定外の質問に少し迷って、しかし迷う必要なんてない問いだったので頷く。
    「美味い」
    「そうか」
     いったいなんの質疑応答だと訝りつつ、セノは手と口を速めた。一口分の大きさが違うから当然だが、アルハイゼンに合わせようとすると少し急いで食べる必要がある。無理に気をつかうこともないものの、あまり人を待たせるのは好きではない。
     休みなく、しかしじゅうぶんに味わって最後の一切れまで食べ終えると、半歩先に食べ終えていたアルハイゼンが口元を拭ってから店主へ向けて「コーヒーを二つ」と声をかけた。嬉しいことに、昼間なら酒場でもコーヒーが飲める。
     ほどなくして二人の席にコーヒーが届くと、アルハイゼンはすぐ手に取った。なみなみと注がれたカップを片手で事もなげに持ち上げて口元に寄せ、静かにひっそりと、一度だけ息を吹きかけてから慎重に口をつける。意外と猫舌らしい。眺めながらセノも手に取ると、真似て一度だけ息を吹きかけてから啜った。まだ熱いがセノの舌が屈するほどではなかった。
     互いにコーヒーで腹を落ち着けると、アルハイゼンが飲みかけのカップを机上に戻した。話が切り出されるタイミングを察してセノもカップを置く。見上げると、いつも通りの鋭利な仏頂面が見下ろしてきていた。
    「さて、まず結論として提案する。セノ、付き合おう」
    「は?」
     音が耳に入った途端、反射でセノは眉を寄せた。言葉を咀嚼しようとして口の中があまりにも苦いことに気が付く。いつも飲むコーヒーの後味とは思えない焦げ臭い苦さに、たまらずグラスに残っていた水を含んだ。
     完全に予想外の事態だった。ことさらゆっくりと水を飲みこむ動作の間に、セノはどうするべきかと大急ぎで思考を巡らせた。最初は「なんだって?」「寝ぼけているのか?」と率直な感想が口をつきそうになった。付き合おうという提案が交際の申し込み以外の意味で用いられるとは考えにくいが、アルハイゼンがセノにそれを言うのはあまりにも不自然だ。友人としての親近感は芽生えつつあるものの、二人の間には交際に至るようなきっかけも妥当性も特にない。少なくともセノはそう思っている。そしてそれが問題だった。セノはそう思っているが、アルハイゼンがどう思っているかはわからない。
     この衝動や不合理とは無縁そうな男がわざわざ言うからには、なにかしらの思惑があるはずだ。実は知らぬ間にセノに懸想していたというのが常識的な発想ではあるものの、それにしては腕組みして見下ろしてくる態度が居丈高すぎる――いろんな意味で。情を乞おうという姿勢がかけらも感じられない。そもそもアルハイゼンという男は、セノが親しみの表れとして雑談や軽いジョークを振ってもそっぽを向くようなやつなのだから、セノを好いているともセノに好かれたがっているとも思えない。すでにアルハイゼンの常態の振る舞いを知っているから冷たくされようといちいち鼻白んだりしないが、それを自分に対する常態であると認識するくらいには、もうとっくに彼からの歩み寄りを想定していなかった。
     それならば別に企みがありそうだが、セノと交際すべきという結論に至る物事がこの世にありうるのか思い当たらなかった。セノを篭絡してその立場を利用するような悪巧みなら考えつくが、教令院ひいてはスメールの平穏を取り戻そうと力を尽くした男がいまさら、しかもこんな不確かなやり方で悪事を働こうとするだろうか。その油断こそが狙いという可能性もあるが、そこまで疑い出したらきりがない。
     もし万が一、そういう裏側の事情などなにもなく、アルハイゼンが本当にセノとの何の変哲もない交際関係を望んでいた場合。切り出し方はともかく人からの告白に対して「寝ぼけているのか?」はよくないのではないだろうか。いくら相手が相手でも人道にもとる気がする。
     どうしたって一瞬では考えがまとまりそうになかった。なんとか足りていない情報を集めるべくセノはすっと挙手した。調査の基本は聞き込みだ。
    「確認してもいいか」
    「構わないが少し待ってくれ。これから三分間、俺の提案内容について説明する。質疑応答はそのあとで」
    「学会か……?」
    「慣れた形式のほうが君も理解しやすいだろう。始めるぞ」
     アルハイゼンは小さく持ち運びやすそうな懐中時計を取り出してセノの前に置くと、片手を差し出すようなポーズで話し始めた。よどみない、というか流れを止めようとしたセノの鼻先に飛沫を飛ばして牽制する急流のような口調。淡々とした声で早口にしゃべられると口をはさみにくいことを理解したやり方なのは明らかだった。
     ぴったり三分間のスピーチで、アルハイゼンは予告通り提案内容とやらを話しきった。曰く、付き合うとは交際関係を結ぶことを指していること。二人とも現在交際相手やその候補はいない――以前流れでそういう話をしたことがあるので知っている――から悪影響を及ぼす恐れはないこと。また関係を締結した暁には、円満に維持できるようお互い負担が生じないよう努め、他に同関係の相手はつくらない――つまり浮気しないこと。事務的に説明する口調があまりにも堂に入っているせいで、最後まで聞き終えるころには酒場の机が演台に見えるような気がしてきた。
    「以上だ。続いて質疑応答に移ろう、どうぞ」
     再び腕を組み直すと、アルハイゼンは臆するところなどないとばかりにセノを見下ろしてきた。この男が壇上で自身の研究について発表しているところを見たことはないが、その際の質疑応答でもこのくらい堂々とやってのけたのだろうと想像がつく。多くの学者は自身の発表について質問されることを避けたがるが、アルハイゼンにとってはたいした問題ではないのかもしれない。
     それならば遠慮なく、セノは不審がる心境を隠さず口を開いた。
    「提案内容はともかく、まず意図がわからない。どうして急にこんなことを言い出した?」
    「意外だな。君は論文で序章を重視するのか」
    「今の話は論文じゃない」
    「その通りだ。比喩が伝わらなかったか?」
     皮肉じみた返しはアルハイゼンのお得意に聞こえるが、先の想定とは違っていて肩透かしを食らった。答えるに値しない質問ならこの返しもありうるだろうが、今それをしてもセノを説得できないことはわかっているだろう。
     挑発に乗ってやる義理もないのでセノはそれ以上返事をせずに口を閉じた。どうしてまどろっこしい物言いをしてくるのかは知らないが、話を逸らそうとするなら応じないまで。かなり奇妙な状況だが、発端を持ち込んだのは向こうだ。折れてやる道理はない。
     アルハイゼンの言い出した「提案」への動揺がないわけではなかった。三分間の発表では恋愛めいた話は出てこなかったが、口ぶりからして交際関係が恋仲を指していることは疑いようがない。理解はできた、しかしどうしても動機に見当がつかなくてセノは困っていた。
     数秒間の睨み合いを経て、先に目を伏せたのはアルハイゼンだった。薄く吸った息を短く吐いて、観念したように、または飽き飽きしたように薄く唇が開く。
    「俺が君と付き合いたいと思うのはそんなにおかしいか?」
     あくまで平坦な声で吐き出されたその問いに、セノはぐっと喉を詰まらせた。いままでの態度を考えたらおかしいんじゃないか。そう思うものの、それでは少し言い様が相応しくない気がした。無遠慮に言ったところでアルハイゼンが傷付くとも激昂するとも思わないが、無闇な言葉を口にしたくはない。
     どこかセノの知らないところにきっかけがあったなら教えてほしい。そのほうが話がわかりやすくなる。だが振る舞いを見る限り本人は言いたくないようだ。言い渋る相手に追及することは慣れているけれど、珍しく言葉を控えたがっているアルハイゼンを見ていると無理強いするのも過剰な気がした。腹の底の見透かせない男だが、味方に必要な情報の共有を惜しむほど悪辣ではない、おそらく。
     そこでセノは眉間の険を少し和らげたが、アルハイゼンは先の台詞を言ったときの苦そうな表情が抜けないままだった。いつもの無表情と比べてわずかな違いではあるけれど、普段があまりにも整然としているせいで少しの油断が読み取れてしまう。
     まさか敗色を察してしょげているのだろうか。考えてみて、強い違和感がセノの思考を遮った。――そんなわけあるか、アルハイゼンだぞ。今このとき、勝敗あらため提案の可否を握っているのはまさしくセノのほうなのに、道理を介さない無意識にこれまでの経験を振りかざされて小さな苦笑が浮かんだ。
     その発露を隠すように口の前で両手を組むと、セノは机に肘をついてアルハイゼンを見上げた。アルハイゼンも、もう湯気の立たなくなったコーヒーを見るのをやめてセノと目を合わせる。人と目を合わせることに抵抗はないが、こんなに真正面から向き合い続けるとだんだん肩が凝ってきた。ずっと首を上向けているせいかもしれない。
    「質問を変える。どうして今言ったんだ?」
     追及をやめたのは情けではない。ひとつの疑問にばかり囚われていては前に進めないからだ。追加の質問に、アルハイゼンはまたしれっと事もなげな態度に戻って応じた。
    「俺は代理賢者の任を解かれ、君も賢者候補の調査業務がひと段落ついたところだろう。かなり節目のタイミングだったと思うが」
    「それはそうだが業務の話じゃない。どうしてこの場で言ったのか、だ」
     セノが確かめたいのは計画性の有無だ。たまたま昼食が一緒になったから思いつきで言ったのか、そうでもないのか。真剣さの軽重で扱いを変えるつもりはないが気にはなった。
     アルハイゼンは少し腰を浮かせて座り直すと、机の上に両肘をついた。長い指を組んで、その上に顎を乗せる。セノのポーズを真似たような格好だった。
    「言うならこういうシチュエーションが相応しいと思っていた。現状、君は俺を恋愛対象として認識していないだろう。それなのに豪華なディナーに誘われて花束を渡しながら言われたらどう思う」
     思わず目を伏せて想像してしまって、砂を含んだ空気を吸ったときのように喉がざらつく心地がした。華美で雰囲気のあるレストランで、異国の貴族風のスーツを着て花束を持つアルハイゼン。あまりに現実味が薄くて、他人の写真に目の前の顔だけを貼りつけたような出来の悪い想像図になった。実際は上背もあるし似合わないこともないだろうが、既知の人物像とかけ離れすぎている。それがもしもセノの前に現れたとしたら。
    「……すごく困るな」
    「そうだろう。だからこうして何気ない昼時を選んだんだ」
    「……そうか、ありがとう」
     つい感謝の言葉を口走ったのは、想像上の雑な切り貼りの怪物から救ってくれた礼も含んでいた。勝手に怪物にした詫びは一旦置いておいて。
     困難を減らしてくれたことはありがたいが、それでも今のセノとて困っていた。「その気はないから結構」と断ることもできるし、それが一番楽な道のように思える。しかしアルハイゼンが語った緩やかな提案を突っぱねなければならない積極的な理由も思い浮かばない。おそらくセノがそう思えるように整えて話を持ってきたのだろう。そのくらい何事にも周到な男だ。だからこそ、事のきっかけについてなんて当然想定される質問には頑なに答えようとしないのが余計に引っかかるが。
     さてどうするべきか、苦労がないならいっそ協力してもいいのではないか。今まで考えたこともなかったがいざとなれば適応できる自信はある。親近感の補整によって甘めに揺れる天秤を心の中で眺めていると、肘をおろしたアルハイゼンが片手を伸ばしてきた。セノに触れようとはせず、ただ目前の机上を人差し指の先でこつ、と軽く叩く。気を引こうとするような仕草が妙に印象深くて、セノはぱっと顔を上げた。
    「質疑応答の時間だが、もうひとつ俺から補足してもいいか」
     頷いて返すと、またアルハイゼンと目が合う。腕を前に伸ばしているので少し背が丸まって、視線の段差が緩和されていた。そのせいか、今までよりもさらに見られている感覚が強くなる。目に握力があるのなら、セノの顔はぎゅっとひと掴みにされていたかもしれない。
    「俺は、これが最良の判断だと思っている」
     平静な声だった。そして、会議室でセノを呼び止めたときよりも、店主に注文を伝えたときよりも、突拍子もない提案をしたときよりも、ずっと小さい声だった。正面に座るセノ以外には拾えっこない音量は、しかし今度は明確にこちらへ向けられていた。
     仕草だとか視線だとか声音だとか、積み重なった珍しさは興味を引いたが、それで感情が押し流されたのではない。愛想も色目も見せない男にほだされることはないけれど、そんな男が飾りなくこぼした言葉は、指先で叩くようにセノの胸をこつんと打った。
    「そうか、わかった。なら付き合ってもいい」
     そう口にしたとき、セノはもうすでに決断を飲み込んでいた。ほんのかすかに目を瞠ったアルハイゼンを眺めながら、自身の脳内年表に今日の年と日付と「アルハイゼンとの交際開始」と刻み込むくらいには。
     それからいくらも経たないうちに、その年表がぐちゃぐちゃにひっかきまわされることも知らずに。

     そんな経緯で交際が開始した直後、セノはひとりで教令院へ戻るべくスロープを上っていた。あのあと喧嘩をしたわけでもなんでもなく、ただ昼休憩の時間が終わるから仕事に戻るために。
     アルハイゼンはまだ酒場に残っている。「君は仕事に戻るのか?」「ああ」「そうか。ではまた」という簡潔な会話の後に、冷めたコーヒーに口をつけて本を読み始めたから置いてきた。
     なりたての交際相手にそうもそっけなくされるとは予想していなかったから、言われた直後はさすがのセノも面食らった。付き合い始めたからには食い下がって一緒に戻ろうと誘うべきか、むしろ堂々と休憩し続けようとする怠惰を咎めるべきか。考えて、自分は交際相手という冠が付いた相手にどう対応すればいいかを知らないことに気がついた。
     これまでのセノならば確実に放っておくが、付き合ったからには態度を変えたほうがいいのか? 具体的にどうすればいい? 俺から言い出すべきなのか? アルハイゼンは呆れるほど相変わらずなのに?
     昼には重い決断をひとつしたばかりなのにもう次の壁が立ち塞がってきた。前途が思いやられるが、休憩明けの会議の時間も迫っていたのでセノは早々に「放っておく」ことを選んで、今日のところはその場を立ち去った。
     陽気に賑わう街並みを尻目に、足を急がせて坂道を進む。セノの丈夫な首は昼中誰かを見上げていたくらいで音を上げはしないが、正面から誰もいなくなると前を向く角度に少し迷った。
     たしかにアルハイゼンは他の友人たちとは毛色の違う存在だ。無論アルハイゼンに限らず誰しも誰かと完全に同じになることはないし、セノがこれまで一人ひとりと過ごしてきた時間も築いてきた関係もそれぞれ異なるが、その中でも極端な例であることは疑う余地がない。だから一等変わり者のアルハイゼンとの関係がとびきり変わったものになるのは、さほど不思議なことではないのかもしれなかった。
     そう思えばあの男との交際関係もそれに準じた接し方も、すぐに切り替えられるほど単純なものではないのも道理だ。追い追い、時間をかけて模索して慣らしていくのなら、今はまだまあこんなものでいいのかもしれない。教令院の門扉をくぐりながらセノはそう結論づけて思考を打ち切った。
     そしてその日の仕事を終えた後で気がついた。追い追い。今日のところは。そのうち。いつか。そのときはいつ訪れる?



    (そのうちつづく)
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