「わたしをかたちづくるもの」-------
9/13 / ワンドロライ / 『訓練』『サバイバル』
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茹だるように暑かった。水をたらふく飲みたかったがそれは許されない。装備に限りがあったからだ。
水も食料も全て現地調達。それがサバイバル訓練というやつなので。
「へばってるな」
その時、なぜサタケが隣にいたのかイサミはよく覚えていない。渡された食事を持て余しぼんやりとするイサミに声をかけてくれた心優しい仲間は他にもいたはずなのに、イサミが覚えているのはその時のサタケのことばかりだった。
イサミは何か、サタケに対して返事をしたはずだった。サタケはそれに対して「ああ」とも「ウン」とも言えないような相槌を打った。そんな記憶がある。
「食え」
「ッス、でも、なんか、」
腹が減ってるはずだった。しかし不思議と空腹は感じない。1日歩き詰めで、それも20kg程度の荷物を背負っての行軍だったのにだ。
同期たちはゾンビよりも死に近いような顔をしてわずかな食料を口に含めど飲み込めていないような有様で、ケロリとした顔で物を食う先輩たちを光のない目で見つめていた。イサミはそれすらできずに渡された物を見つめるだけだった。これではいけないのは分かっていた。雷のような指導が落ちてきても仕方ない。だからサタケの声がけもそれに準じたものだろうとイサミは考えていた。
「気持ちは分かる。いいから口に含め」
「ぅ」
「手を動かせ。人は物を食わないと生きていけないんだ。お前は腹をすかせているはずなんだ」
サタケの声に押されるようにイサミはのろのろと腕を上げる。力の入らない手は渡された食料をすぐに取り落としそうになるが、それでも何とか口に運んだ。味は、するようなしないような。水分が足りないせいか、それとも口で呼吸をしすぎたのか、カサついて皮膚が浮き上がった唇に何かが引っかかるような感覚が煩わしかった。
数度噛んだ。それでも他の同期たちと同じく、イサミだってそれを飲み込むことができない。じわじわと腹の底が消化するものを欲して蠢いているのが分かるのに、どうしてもそれができない。ひどく喉が渇くからか、それとも頭のどこかが既に機能を停止しているせいか。
「噛め。噛むと唾液が出てくる。それでしのげ」
噛んだ。普段に比べればよほど弱い力で、口の中の物を砕く。じわじわと乾ききったと思った己の体から水分がにじみ出てくるのがわかった。潤すほどではないけれど、確かにそれは体が欲していたものだった。
「食わないと、歩けないぞ」
そうだ。まだ日程は残っている。訓練は続くのだ。
耐えなければいけない。耐えて、しのいで、ーーーーでも、それはなぜだろう。
どうして、そうまでしなければいけないのだろう。
「歩いて、進んで、その先に我々を待っている人が居る」
待ってないかもよ。誰も、居ないかもしれないのに。
「忘れられてないってのは救いになる。支援しに来た人間が死に体じゃ、誰だって不安になる。だから食えなくても、食わなければ」
噛み砕く。細かくすりつぶされてどろどろの液状になるまで。それをゆっくり嚥下する。
「最後まで立っていられるように、ちゃんと食べろ」
導くような優しい声だった。耳朶を震わせる音に導かれるように、イサミは目を開けた。
日が昇ったばかりの、まだ薄暗い朝の匂いがした。
海鳥の鳴く声すら遠かった。ぼやけた視界に入った薄汚れたシーツがイサミに現実を教えてくれた。
◇
「よぉ、Bro。いい朝だな」
「まったくだ」
固くてまずいハードブレッドを一袋。それがその日の朝食だった。これ一つで十分カロリーが賄えるらしいアメリカの軍備食は、もう何回だってイサミの腹を満たした。
甲板にもたれかかって、イサミは外を見ていた。一時間もしないうちに出撃になる。陸は今や瓦礫の山だった。細くたなびく煙の元に何があるか、誰だって知っている。
イサミは声の主に視線を向けた。頬にべたりとガーゼを張られたスミスがすすけた金髪を揺らしていた。スミスも片手にイサミと同じハードブレッドの袋を持っている。イサミは何を言う訳でもなく、己の隣の甲板を軽く叩いて着席を促した。
「モルヒネ、無くなったってさ」
「そうか」
「もう怪我はできないな」
「もともと怪我なんかしないだろ」
「違いない」
俺のバディは優秀だから。スミスが茶化すのをイサミは口角を上げるだけで返した。
「……どうした、早く食えよ」
「イサミこそ。早く食べなよ」
「その前にお前が来たんだろ」
「俺は、……腹減ってないし。これをおやつにしてやろうと思っただけだよ」
スミスが手の中のパックを遊ばせ、遠くを見ていた。
イサミは、ハードブレッドのパックとスミスと、自分の手と、瓦礫だけになってしまった遠くの景色を見た。
幸いなことにあの奥にはまだ、存命の町があるらしい。
自分たちがここで粘れば、それだけ助かる命があるんだそうだ。
「食えよ、スミス」
「腹減ってない」
「いいから、食え」
パックの封を切った。なまっちろいハードブレッドだった。臭いもほとんどないくせに、口に含むとびっくりするぐらい不味いのだ。食いたくない気持ちは身にしみてわかっていた。
「食わないと、戦えないだろ」
口に含む。噛み切る。何度も何度も咀嚼して、しみ出た唾液でごまかして、飲み込む。
一口で食べるのではなく、少しずつゆっくりと。体に染み込ませるように。
最後まで、立っていられるように。
スミスはイサミを見た。全然おいしくないブレッドを不味いものを食っているって表情を隠しもしないで食べるイサミを見た。
それで少しだけ笑って、イサミの隣で同じようにパックの封を切った。齧って、笑う。
「あーー、こんなのじゃなくて、分厚い肉が食いたいよ!」
「おれも。米が食いたい」
「これが終わったら、腹いっぱい食べよう」
「おう」
さわさわと海からの風がイサミの頬を撫でた。
あの頃とは何もかも違う。朝に見た夢は、もう遠い。残ってほしかった音はもう影も形もない。イサミの中でひっそりと息をするだけだ。
イサミはハードブレッドの最後のひと欠片を口に投げ込んだ。口に含んで、砕いて、飲み込んだ。